50
重苦しい雨雲から、蜘蛛の糸のごとく無数の雫が滴り落ちる。
雨が降り出してから三日。地上に降り注ぐ血と雨が乾かぬ戦場は、言葉どおり泥沼と化していた。馬の足も、歩兵らの身体も泥にまみれ、敵味方共に戦う者の顔には疲労の色が濃い。
それでもシャルム軍の反撃は激しく、戦いの前線は少しずつユスター側へ押し戻されつつあった。
「ユスター軍は疲弊している! 一気に攻めて国境まで押し返すぞ!」
叫ぶのはベルリオーズ家騎士隊長クロードである。騎士らが呼応して声を上げる。
けれど、足元の悪さや全身が濡れそぼっていく不快感、そして寒さに、全体の士気はいまひとつ上がらない。
「嫌な雨だな」
クロードのそばにいたベルトランが、剣にまとわりつく雨を振り払いながらつぶやく。
「しかたがない。悪条件は敵も同じだ」
淡々とした口調でクロードは答えた。ちらとベルトランがクロードへ視線をやる。クロードもまたベルトランを見返した。
「なんだ?」
「いや、おまえは立派だな」
しみじみとベルトランが言うと、クロードが苦笑する。
「おれを褒めるなんて、どういう風の吹きまわしだ?」
「騎士隊長の座は、おれには務まらない」
クロードはかすかに笑った。
「たしかにおまえが騎士隊長になったら、厳しすぎて騎士らが根を上げるだろうな」
「ああ、その呑気で楽観的なところが、おまえの美徳かもしれないと今頃気づいた」
「喧嘩を売っているのか?」
敵兵を叩き斬りながら、クロードは片眉をひそめる。
「褒めたつもりだが」
「そうは聞こえなかったが」
軽口を叩きあう二人からやや離れたところで、リオネルは剣を振るっている。話しているうちに、ベルトランとのあいだに距離が生じていた。
ベルトランは馬の腹を蹴った。リオネルのもとへ行くつもりだ。
「しっかりお守りしろよ」
クロードの言葉に、ベルトランは視線だけで応える。それから返礼とばかりに、
「死ぬなよ」
と去り際に言う。死ぬわけないだろう、と答えるクロードの声は、もはやベルトランの耳には届いていなかった。
クロードと別れてすぐのこと。猛烈な勢いでリオネルのほうへ近づく一騎があった。
ベルトランは馬の足を速める。
ぶつかるのではないかというほどの速さで馬を駆けてきた相手は、すれ違いざまにリオネルへ斬撃を仕掛ける。
それを剣で受け止めたリオネルだが、相手の攻撃には腕力に加えて突進してきた勢いが加わっていた。
激しい衝撃を受けて、リオネルの身体が馬から突き落とされる。
「リオネル!」
リオネルと敵のあいだに、ベルトランが馬を滑り込ませる。たちまち二本の剣がぶつかりあった。
「もう少しだったのに、惜しかった」
口端を吊り上げていたのは、ザシャ・ベルネットだ。ザシャは余裕の体だが、ベルトランは違う。地面に落ちたリオネルに敵兵が群がるのを、目の端で捕らえていたからだ。
「リオネル、無事か!」
叫ぶが、返事はない。剣の交わる音ばかりが響いていた。
状況を確認したいが、ザシャから目を離せば最後だ。
「また会ったな、赤毛の用心棒」
「しつこい男だな」
鼻で笑ってからザシャは馬の手綱を引く。
「貴様の相手もしてやりたいところだが、今日はリオネル・ベルリオーズの命を奪いにきたのだ」
そう言って、ザシャは手綱を引き素早くベルトランから離れると、リオネルの居場所を探す。
ベルトランもまたリオネルの姿を探したが、どういうことか見当たらない。
嫌な予感がベルトランの脳裏に過ぎったとき、ザシャに注意を促すユスター兵の叫び声が上がる。
はっと二人が振り返ると、群がる敵兵を切り倒したリオネルが、愛馬ヴァレリーに飛び乗るところだった。ザシャは舌打ちし、ベルトランがほっと息を吐く。
剣を振り上げ、ザシャは馬に跨ったばかりのリオネルに斬りかかった。ベルトランが短剣を引き抜いたが、リオネルがザシャの攻撃を刎ね返すほうが早い。
激しい撃ち合いがはじまった。
「ああ、高貴な王子様が泥まみれだな」
ザシャは揶揄したが、たしかにリオネルの衣服はひどい有様だ。が、本人は気にするふうではない。返答の代わりに振るう長剣は、普段より激しかった。
その攻撃を撃ち返しながら、ザシャは口端を吊り上げる。この笑い方は、彼の癖のようなものらしい。
「貴様の大切な家臣は死んだか」
リオネルの眼光が鋭くなる。と、容赦ない攻撃をザシャへ仕掛けた。危うくそれを受け流したザシャに、隙を与えぬ速さで続けざまに剣先を突きつける。
攻撃の激しさに、ザシャは口をつぐんで手綱をわずかに引いた。それでもリオネルへの反撃の手は緩めない。
沈黙のうちに何合か打ち合い、決着がつかぬまま互いに剣を休めて呼吸を整える。
「葬式はもう済んだのか? 死に際には、あの綺麗な顔が苦痛に歪んでいたことだろう」
挑発するザシャへ、リオネルは静かな――けれど冷たい眼差しを注ぐ。
その様子に、ザシャは皮肉めいた表情を作った。
「そうか、まだ死んでいないのか」
渾身の力をもってリオネルが剣を叩きつける。それをザシャは受け止めたのだから、彼の怪力はすさまじい。
わずかに息を切らしながらも、ザシャは口端を吊り上げた。
「死の淵にいるといったところか。なんなら、おれがあの細首をかっ切って、らくにさせてやるぞ」
瞬間、リオネルの紫色の双眸が鋭さを増す。
「おまえなどに二度と触れさせるものか」
そう言いながらリオネルが叩き入れた斬撃は、同じく仕掛けられたザシャの攻撃を跳ね返し、相手の二の腕をわずかに掠る。
鮮血が散ったが、動じぬ様子でザシャは次なる一撃を振り下ろした。
「レオン王子のほうは元気か? エーヴェルバインで捕らえたときに二人とも殺しておくべきだったな。二つの首を並べて貴様のもとへ送ってやれば、その優雅な顔が悔しさと哀しみに染まるのを見られただろうに」
ザシャは挑発を続けるが、リオネルの剣が乱れることはない。すでに何合打ち合ったかわからない。
激しく剣を交えたのち、二人は馬ごとわずかに距離を置いた。
「シャルムに攻め入ったのは、おまえの計略か」
「そんなことはどうでもいい。おまえが知るべきは、自分がもうすぐ死ぬということだけだ」
「モーリッツ・ヘルゲルとおまえで、シャルム侵攻を計画したというところか」
ザシャは鼻で笑う。
「ああ、ひとつ教えてやろう。おれはおまえを殺すためにここまできた。おれに怪我を負わせ、ローブルグとの交渉を滅茶苦茶にした憎きリオネル・ベルリオーズを殺すためにな」
「そんなに悔しかったのか?」
薄くリオネルが笑ってみせると、ザシャは初めて苛立ちを露わにする。感情の揺らぎは、荒くなった攻撃に如実に現れていた。
ザシャは激しくリオネルを攻め立てる。一方的に攻撃を加えているようにも見えるが、それこそがリオネルの狙っていた状況だ。ザシャは、エーヴェルバインでいかにして自らがリオネルに負けたか、苛立ちのなかで失念しているようだった。
傍らで見守るベルトランには、このときリオネルの戦略がはっきりと見えていた。
「もうすぐこちらへ大規模の援軍が駆けつける。シャルム軍に勝ち目はないぞ」
「そうか。だがどちらにしろ、おまえが戦いの行く末を見ることはないだろう」
「なんだと!」
ザシャが眉をひそめたときだ。リオネルがさっと剣を引いた。ザシャの斬撃がリオネルの胸元をかすめる。剣先がリオネルの服を裂き、一直線に朱色が滲む。
ベルトランがリオネルの名を叫ぶ。
――だが、ほぼ同時にリオネルの長剣がひらめいた。
リオネルを仕留め損ねたザシャは、次なる一手を繰りだそうとしたその隙をつかれた。
ザシャの動きが止まる。
ゆっくりとザシャは視線を下へ向ける。
自らの脇腹に、リオネルの長剣が深く突き刺さっているのを知ると、ザシャは顔を歪めた。リオネルが長剣を引き抜く動きで傷を深くしようとするが、その瞬間ザシャは大きく右手を振り下ろす。
素早く剣を引き抜き、寸でのところでリオネルはザシャの攻撃を避けた。
脇腹から激しく血を流しながらの反撃だったが、彼の力もそこまでだった。意味のない叫び声を上げて馬上に伏すと、興奮した馬が嘶きを上げて走り去る。
彼の最期を確認する間もなく、ザシャの斬られるのを目の当たりにして激したユスター兵がどっとリオネルへ押し寄せた。
「リオネル、城へ戻れ!」
ベルトランが馬を進めてリオネルをかばう。リオネルはザシャによって胸元を斬られて血を滴らせていたからだ。
「平気だ、傷は浅い。戦える」
「馬鹿を言うな。おまえは先に城に戻って手当てを受けろ!」
怒鳴られたが、リオネルはその場から動かない。次々に襲いかかってくる敵兵を、鮮やかな手並みで倒していく。
「リオネル!」
ベルトランの怒号が飛ぶ。
「頼む、ベルトラン。戦いたいんだ」
「小さな怪我を甘く見ると、痛い目に遭うぞ」
「戦いに勝ちたい」
「ならば早く戻って手当てを受けろ! おまえになにかあったときが、おれたちにとっては戦いに負けるということだ」
「早く終わらせたいんだ」
ベルトランの目が完全に据わったとき――さらさらと降りそそぐ雨音の果てに、地鳴りが生じた。
それはかつてユスター軍がシャルム陣形の右翼へ大軍で押し寄せてきたときのごとき轟音である。
ユスター兵も、シャルム兵も、皆しばし動きを止めてその音に耳を澄ます。
地響きは確実にこちらへ近づいている。
先程ザシャは援軍が駆けつけると言っていた。一方、シャルム軍に加わりそうな諸侯で、地響きを生じさせるほどの兵力がある者はもはや残ってはいない。
――敵軍が押し寄せてきている。
リオネルとベルトランは話すのをやめ、緊張を走らせつつ地鳴りへ注意を向ける。
音は北西部から近づいていた。
徐々に近づく地鳴りは、やがてシャルム、ユスター両軍の戦場へ突入し、新たな勢力として戦いに加わる。
リオネルやベルトランのすぐそばにも新たな兵士らが姿を現した。彼らはユスター人のように見受けられたが――。
「シャルムの援軍だ!」
どこからか声が上がる。たしかに加わった兵士らはユスター兵と戦っている。
が、いったい……。
「――ローブルグか」
リオネルがつぶやく。シャルムとユスター国境の北にはフリートヘルムの治めるあのローブルグがある。
二人は顔を見合わせた。
「ローブルグだ! ローブルグ兵だぞッ!」
敵か味方かわからぬ叫び声が生じる。その叫び声の先から、リオネルとベルトランのまえへ一騎が進み出た。
現れたのは、肩幅が広く、青く澄んだ瞳が鋭利な印象を与える騎士。
その風貌には見覚えがあった。
「リオネル・ベルリオーズ殿ですね」
「エーリヒ殿……でしたか?」
記憶の淵から呼び起こした名をつぶやけば、相手はわずかに驚きの色を浮かべた。
「覚えておられましたか」
「エーヴェルバインの王宮で」
そう、エーヴェルバインの王宮で催された夜会で、両者は一度だけ会ったことがある。
直接言葉を交わしたわけではないが、フリートヘルムがシャルムとの交渉に応じると宣言した際に、エーリヒが難色を示して意義を申し立てたことは印象に残っている。
「エーリヒ・ハイゼンと申します。この度は、国王陛下ではなく、ヒュッター殿の名代として参じました」
「なるほど」
すぐにリオネルはエーリヒの言うこと――つまりフリートヘルムの意図を理解した。
「深く感謝します」
ちらとリオネルの怪我に視線をやって、エーリヒは片眉を上げた。
「我らが加わることで、戦いに余裕も生まれるでしょう。リオネル殿には、軍営にお戻りいただき手当てを受けられますよう」
「軍営に戻らないなら、おまえを担いででもおれが連れていくぞ」
エーリヒとベルトランの二人に言われ、リオネルは小さく息を吐く。
ローブルグの軍勢が加わったため、戦いはシャルム側に有利になりつつある。リオネルひとりが抜けたところで、大きく戦況を左右することはないと思われた。
「では、お言葉に甘えていったん戻らせていただきます」
「今日一日くらいは養生しておけ」
横から口を出すベルトランに、そういうわけには――と言いかけたところ、再びエーリヒから告げられる。
「ヒュッター殿から、リオネル殿をお守りするよう申しつけられています。お休みくださいますようお願いします」
無愛想というか、素っ気ないとうか、エーリヒは単調な口ぶりだ。立場上、リオネルになにかあっては困るようだった。
リオネルとベルトランは顔を見合わせ、そしてついにリオネルがうなずく。
「それでは今日一日だけ休ませていただきます」
ヒュッターの名代として駆けつけたエーリヒの立場へ、配慮しないわけにはいかなかった。
「そうしていただけると幸いです」
怪我人は大人しくしていてくれとでも言いたげな、エーリヒの態度だ。歴史的な敵国であるシャルムに対して、好意的な感情を抱いていないのだろう。両国の同盟についても、まだ納得がいっていないようだった。
これまで壮絶な戦いを繰り広げてきた敵国同士である。憎しみを捨て切ることができないのも、いたしかたのないことだ。
それでもこうしてシャルムの危機に駆けつけてきてくれたことは、ありがたい。
「よろしくお願いします」
そう告げてから、リオネルは馬首を巡らせた。軍営まで警護するつもりらしいベルトランもすぐ横に並ぶ。
「仇を討ったな」
まっすぐまえを向いたままベルトランが言うと、リオネルもまた視線を動かさずに答える。
「死んだかどうかはわからない」
「まず助からないだろう」
「やつを殺したところでアベルの怪我が治るわけじゃない」
「それでもザシャを討ちたかったんだろう?」
「もちろん――それくらいしなければ気がすまない」
「ザシャを討ったと知れば皆安心するだろう」
二人は戦場を抜け、古城へ戻っていった。