49
長い廊下は静寂に包まれている。
その廊下を、兵士の後ろに女中が従って歩いていた。彼女は緊張した面持ちで沈黙している。
最上階の奥の一室へ辿りつくと、兵士が女中を振り返った。
「大丈夫か?」
「は、はい」
「そんなに硬くならずとも平気だ。公爵様はお優しい方だから」
「はい……」
わかっている。この館の主は心優しい。けれど緊張するなというのは無理な話だ。ベルリオーズ公爵は、王都の別邸に勤めていた一女中のエレンにとって、雲の上の存在なのだから。
兵士が扉を叩く。
なかから返事があって扉を開くと、兵士は一礼してエレンだけを室内へ通した。
おずおずとエレンはベルリオーズ公爵クレティアンの寝室へと足を踏み入れる。
イシャスを連れてくるためにここを訪れたことは幾度かあるが、エレンひとりだけが呼ばれたのは初めてのこと。
なにか粗相でもあっただろうか。
それとも重大な仕事を言いつけられるのだろうか。
不安な気持ちで室内へ視線を向ければ、暖炉の火が燃えていることに気づく。まだ十月だが、雨が降って肌寒いからだろう。特に病身には応えるはずだ。
「こちらへ」
暖炉の脇に立つオリヴィエに呼ばれて、エレンはぎこちない動きで足を進める。
暖炉のすぐそばに据えられた長椅子に腰かけているのは、他でもないクレティアンだ。体調が悪いというのに、寝ていなくていいのだろうか。
エレンは指示されたとおりにそばへ寄ると、ドレスの裾をつまんで礼をとった。
「よく来てくれた」
クレティアンの口調や雰囲気は、思ったよりもしっかりしていて元気そうだ。けれど、顔色は優れない。無理をしているのだろうか。
すぐに咳きこむ様子からすると、病状は良くないようだ。気丈に振る舞っているのは、家臣や使用人に弱々しい姿を見せたくないからかもしれないと、エレンは思った。
「イシャスは元気にしているか」
「は……はい」
答えてから、クレティアンの沈黙を受けて、エレンはぽつりぽつりと言葉を続ける。
「……風邪などは引いていませんが、アベルが突然いなくなり、リオネル様まで戦場に赴かれたので、このところ寂しそうにしています」
「そうか」
クレティアンはうなずいたが、説明するまえからすべて知っていたようにも見受けられた。
「近頃、私の体調もよくなってきている。またイシャスをここへ遊びに連れてきなさい。天気がいい日は、少し外へ出て遊んでもいい」
そう言うクレティアンを、オリヴィエが渋い表情でちらと見やる。イシャスと遊ぶのはまだ無理だと言いたかったのかもしれないが、結局声には出さなかった。
ここに呼ばれたのはイシャスの話をするためだったのだろうか――と疑問に思っていると、
「エレン、という名だったな」
突然名を呼ばれて心臓が跳ねる。
「はい」
「今日そなたをここへ呼んだのは、尋ねたいことがあったからだ」
やはり別件だったのだ。
「だが、尋ねるまえに話しておきたいことがある」
エレンは小さく首を傾げた。
「ユスター国境にいるリオネルから手紙が届いた」
戦場にいるリオネルからの手紙――気にならないはずがない。
エレンは知らず、ごくりと唾を呑む。なにが書かれていたのだろうか。
けれどクレティアンはなかなか次の言葉を発しない。躊躇っているようでもあった。
ようやく発せられたクレティンの言葉は、驚くべきものだった。
「館を去ったはずのアベルが現れたそうだ」
思わずエレンは瞳を見開きクレティアンを見つめる。
――まさか。
もうリオネルのもとには戻らないと言っていたのに。
「アベルは――、アベルは元気なのですか」
問われてクレティアンは眉をひそめる。
「戦場で味方を守り、深手を負ったということだ。動くことはおろか、高熱が続いていて危険な状態だと書かれていた」
エレンは両手で口元を覆った。
「命は助かるだろうと医師は言っているそうだが、万が一のことも考え、そなたには伝えておこうと思った」
アベルになにかあれば、イシャスにそれを伝えるのはエレンの役目だ。クレティアンが今の時点でアベルの状況を伝えてきたのは、深い配慮といえよう。
「アベルはどうして……」
「リオネルや騎士らのために戦ったのだろう。戦地に援軍は駆けつけているが、状況は厳しいそうだ」
うつむき、エレンはきゅっと唇を引き結ぶ。
「そなたには辛い話だな」
「……いいえ、公爵様」
エレンは顔を上げた。
「大切な人たちの苦しみを、なにも知らないでいるより、わたしは知っていたいと思います」
はっきりと告げるエレンに、クレティアンは口元を緩める。かすかだが、入室してから初めて見せる笑みだった。
「アベルは本当に多くの者に愛されているのだな」
「イシャスにとっても、わたしにとっても、本当に大切な存在です」
「――リオネルにとっても、か?」
はっとしてエレンは公爵を見つめた。
〝家臣〟として、という解釈でよいのだろうか。
けれど不思議と、そうではない気がした。
「そなたは王都の別邸にいたのだったな」
薪の爆ぜる音が、静かな部屋に響く。
「リオネルが、アベルとイシャスを連れ帰ったときから、そなたはずっと二人を見てきたのだろう」
これから聞かれるかもしれないことを想像すれば、エレンはなんと答えればよいかわからなくなる。
「そなたに聞くのは卑怯かもしれない。そなたが私に逆らえないことを承知で、尋ねるのだから。だが、私は親として知らねばならない。リオネルがあの者に執着する理由を」
「…………」
「教えてくれないか。三年前、なにがあったのか」
エレンは視線をクレティアンから外す。
どうすればいいのだろう。
すべてを伝えれば、アベルやリオネルを裏切ることになる。たとえ、クレティアンがすべてわかっていて、確証を得たいだけなのだとしてもだ。
長い沈黙の末に、エレンは口を開いた。
「申しあげることはできません」
驚くオリヴィエの視線を、ひしひしと感じる。エレンは顔を上げられなかった。怖い。
命に背けば、解雇されるかもしれない。
指先も足も震えている。それでも……。
「……言えない、か」
クレティアンがつぶやく。
エレン、と厳しく名を呼んだのはオリヴィエだ。けれど公爵は執事を制した。
「よいのだ、オリヴィエ。無理強いはしたくない。言えないのはわかった。だが、言えない理由を教えてくれないか?」
穏やかに問われると、エレンはわずかに力が抜ける。クレティアンに気を害した様子はなかった。
ゆっくりと顔を上げれば、疲労の色を浮かべたクレティアンがこちらを見つめていた。
ひどく心が痛んだ。
「……すべてを秘密にするようにと、リオネル様から命じられています」
「なるほど」
重たい静寂が降り落ちる。再び薪が爆ぜて、エレンはびくりと肩を震わせた。
「板挟みに遭わせて、すまないな。そなたはなにも言わなくていい。代わりに私の話を聞いてはくれないか」
エレンはクレティアンへ視線を向ける。
「三年前、リオネルがサン・オーヴァンの街で助けたのは、少年ではなく少女だったと――そう私は考えている」
自分が話しているわけではないのに、冷たい汗がエレンの背中を流れる。
「少女は生まれたばかりの赤ん坊を抱いていた――あるいは腹に宿していたのかもしれない。リオネルは少女と赤ん坊を館に連れて帰り、気にかけ、守り、そうしているうちに少女へ想いを寄せるようになった」
「…………」
「少女は救ってもらったことに恩義を感じ、家臣としてリオネルに仕えることを決意する。そして、リオネルもそれを受け入れた。かくして、二人のあいだには余人が入り込めぬほどの固い絆が生まれた」
視線を逸らしたくとも、すべてを見透かすクレティアンの瞳から逃れられない。
時折咳きこみながらも、クレティアンはエレンへひたと眼差しを向けている。
「これはすべて私の憶測だ。息子のことを案じていると、つまらぬことばかり考えてしまうものだ」
話し終えると、ひどく疲れた様子でクレティアンは沈黙した。エレンに自らの話したことが事実かどうか問うこともなく。
クレティアンの苦悩を思えば、エレンはこのままでいいのだろうかと自らに問いかけずにはおれなかった。
「……すまなかったな。話ができてよかった。イシャスのもとに戻ってやりなさい」
そう言ってクレティアンはエレンに退室を促す。あっさり解放されそうだが、エレンはやり切れない思いだった。
双眸をつぶる。
そして、エレンは口を開いた。
「三年前、リオネル様は――」
けれどすぐに言葉を止めたのは、クレティアンが片手を上げてエレンを制したからだ。
「そなたを、リオネルの命に背かせるわけにはいかない」
エレンは瞳を見開く。
「アベルとも友人なのだろう」
ゆっくりとエレンがうなずくと、クレティアンはかすかに視線を伏せる。それから、すっと憂いをまとった。
「なにより、実のところ私は怖いのだ」
暖炉の火が揺らめくと、室内の陰も大きく揺れた。
「私はリオネルの父親として、真実を知らねばならない。だからこそそなたをここへ呼んだ。けれど結局のところまだ確証を得ていない、だから平静でいられる。だが、もし事実と確信したら、私はリオネルの想いを認めるどころか、アベルをここから追い出すかもしれない」
はっとエレンは表情を硬くした。
その様子をまえにして、クレティアンは静かに告げる。
「むろん、どうするかは、そのときになってみなければわからない。だがリオネルはいずれベルリオーズ家の当主になる。本人が幸福ならそれでいい、というわけにはいかない。……だからこそ、私は怖いのだ」
「けれど、リオネル様は――」
言いかけたところで、はっとしてエレンは口を手で覆った。
口走りそうになったのは、けっして告げてはならない事実だ。口にすれば、二人をかばうつもりが、逆に引き離すことになってしまう。
「二人を思うそなたの気持ちはわかった。だから、そなたはもうなにも話さなくていい」
「…………」
「イシャスが待っているだろう。戻りなさい」
再びドレスの裾をつまんでから、エレンは扉へ向かう。
もはやどうすればよいのか――なにが正しいのか、あるいは間違っているのかわからない。
扉を出て、待っていた兵士と共に廊下を歩きだす。
リオネルが想いを寄せている相手だから――そんな理由でアベルが追い出されるなんて。
歩きながら、エレンは心のなかで思う。
人を好きになるのは、いけないことなのだろうか。
互いを思いやる二人が共にいてはならないのだろうか。
立場とか、常識とか、正しさとか、そんなものにどのような意味があるというのだろう。
そこまで考えたとき、エレンは不意に思い至る。
――ああ、そうか。
そうだったのか。
気づけばエレンは足を止めていた。
「どうした?」
傍らを歩んでいた兵士が、怪訝そうに尋ねる。けれどエレンは答えなかった。代わりにひとりつぶやく。
「だから……」
――だから、アベルは館を出て行ったのか。
長い廊下の途中で立ちすくみ、エレンは泣き出してしまいそうになる。
館を出て行かねばならなかった、アベルの気持ち。
アベルを失ったリオネルの気持ち。
そうか……そういうことだったのか。
――――アベルはリオネルの気持ちに、気づいたのだ。
なんということだろう、二人の思いは察するに余りある。
けれどアベルはリオネルのもとへ戻ってきた。壮絶な戦いに参加するという形で。深手を負ったのは、なぜなのか。なぜそのように無茶な戦い方をしたのだろう。
怪我や熱と戦っているアベルのことを思えば、もはや涙は止められそうになかった。
「大丈夫か、具合でも悪いのか」
驚いた様子で兵士が尋ねてくるが、エレンはただ目元を両手で覆う。
かわいそうなアベル。
かわいそうな、リオネル様。
三年前の出会いから、エレンは二人の様子をそばで見続けている。
共に心に傷を抱えていながら、いっしょにいるときの二人は互いを思いやり、求めあい、ときには喧嘩しつつも、とても幸福そうだった。それがなぜ、このようなことに。
「座って休むか?」
兵士の気遣いを、首を横に振ることで謝絶し、エレンは再び歩きだす。
涙を手の甲でぬぐい、ぐっと顎を引く。
いつまでも泣いてなどいられない。イシャスのもとに戻るまでに、涙の跡は消しておかなければ。
どんなに哀しいことがあっても、イシャスのまえで涙は見せたくなかった。
アベルとリオネルのために自分ができることはなにもない。けれど、今の自分に与えられた役割は、イシャスの面倒をしっかり見ることなのだと、エレンは思った。