48
日が暮れると、空は漆黒の闇に沈んだ。
厚い雲に覆われて、星も月も見えない。
深い闇からは相変わらず雨粒が滴り、血に濡れた地面やシャルム軍営の天幕、そして古城の壁を濡らした。
雨音が響きわたる。
雨は一日降り続いた。
「アベルの容体はどうだ?」
剣を磨きながら尋ねたのはディルクである。
その日、リオネル、ベルトラン、ディルク、マチアス、そしてレオンという気心の知れた五人のみで集まった場所は、レオンの寝室だった。
リオネルの部屋にはアベルがいるので、同じくらい広いレオンの部屋に集まったというわけである。
「意識を取り戻す頻度が増えているし、今日はスープも何口か飲んだようだよ」
答えたのはリオネルだ。
「そうか、食事もできたのか。それはよかった」
この日ばかりはレオンも本を置いて、仲間との会話に加わっている。本当によかった、と喜ぶレオンは心底嬉しそうだ。
「いつ見舞いには行けるんだ?」
早く会いにいきたいらしいディルクは、連日のように同じ質問をリオネルに繰り返す。
「もう少し落ちついてからかな」
そして、連日のように同じ返答を受けるのだった。
「かなり落ち着いてきてるじゃないか」
「熱はまだ高いし、動けば傷口が開くかもしれない。静かに休ませてやりたいんだ」
リオネルが申し訳なさそうに答えると、レオンがすかさずディルクを見やる。
「やはり、おまえがうるさいから入れてもらえないのだ」
普段茶化されている返礼とばかりに、レオンは喜々として言った。
そういうわけじゃなくて、と言いかけるリオネルを無視して、ディルクは研いでいる途中の長剣の先を、レオンのほうへ突きつける。
「今のおれを怒らせると怖いぞ」
子供じみた脅しに、マチアスが表情を曇らせた。
「いくらなんでも王子殿下に剣を向けるなどあってはならないことです、ディルク様。場合によっては不敬罪で首を斬られます」
「ああ、こんなことで首を刎ねられるのはごめんだ」
そう言ってすぐにディルクは剣を下ろした。
「こんなこととはなんだ、人に剣先を向けておいて」
レオンはぶつぶつ言っていたが、ディルクは珍しくやり返さない。代わりにリオネルへ質問を重ねる。
「熱が下がる気配はないのか?」
やや考える顔つきになってからリオネルは答えた。
「当初よりは下がっているはずだ。安静にしていれば、時間はかかっても少しずつよくなっていくと思う」
「傷も痛むだろうに、高熱が続くとしんどいだろうね」
「ああ」
リオネルは声の調子を落とす。
「代わってやりたい」
「いや、それは困るよ。リオネル、おまえが大怪我を負ったとなったら、国中が大騒ぎになる」
「心配しなくても、代われないから」
かすかにリオネルは笑う。憂いの含んだ笑みだ。
「今、私たちがアベル殿のためにできることは、戦いに勝ち、安心させてあげることくらいですね」
マチアスの言葉に、皆が深くうなずいた。
「アベルはなぜ戦場に現れたのだろうな」
レオンのつぶやきに、リオネルは瞼を伏せる。
「リオネルやベルリオーズ家のため以外にないだろう」
と言ったのはディルクだ。
「いや、それはそうなんだが、せめて戦いに加わっていることがわかっていたら、これほどひどいことにはならなかったのかもしれないと思うのだ」
「……ああ、それは、おれも読みが甘かったと思っているよ」
ディルクは声の調子を落とす。
「アベルがいなくなったことが衝撃的すぎて、そこまでのことが見抜けなかった。少し考えればわかることだったんだ。アベルがリオネルの危機に駆けつけないわけがないんだから」
「私も同じです」
苦い調子でマチアスが言う。
「今回はだれもが見誤りました」
「フランソワ殿は、アベルが怪我をする数日前から、存在を知っていたようだ。だが彼はアベルのことを知らなかったし、慌ただしくしていたせいで、話す機会を逸したと言っていた」
後悔するふうなリオネルに、ベルトランが低く告げる。
「済んだことは仕方がない。いや、今回のことはすべてアベル自身が望んだ結果だ。おれは家臣としてわかる。命をかけてもいいと思えるほどの主に巡り合えることは、幸せなことだ。今回はそれを実行したまで」
「命をかける側は幸せでも、おれたちはちっとも幸せじゃない」
やや拗ねたように言うディルクに、マチアスが「すみません」と謝る。マチアスも家臣として、ベルトランやアベルの気持ちはよくわかるらしい。
「主という立場も切ないものだね」
ディルクの視線を受けてリオネルはかすかに口元を緩めた。
「切ないけれど、それで大切な人がそばにいてくれるならば、それも悪くない」
「どういうことだ?」
尋ねたディルク自身が、すぐに思い至った表情になってリオネルをまじまじと見やる。
「まさかアベルは回復したら、おまえのもとに戻るのか?」
「熱に浮かされながらの約束だけれど」
「そうか!」
ディルクの表情がぱっと明るくなった。
「よかったなあ、リオネル」
「まだわからないよ。意識がはっきりしたら、再び去ると言い出すかもしれない」
「そのときはおれの家臣にならないか誘っておくよ」
軽い調子のディルクに、レオンが冷ややかな眼差しを向けた。
「どういう関係があるのだ」
「冗談だよ、アベルが戻ってきてくれたらおれも嬉しいからね」
「ありがとう」
リオネルは照れくさそうに笑う。その表情をまえに、ディルクがおかしそうな面持ちになった。
「振られた恋人とよりを戻したかのような雰囲気だな」
「男同士だぞ、気持ち悪いことを言うな」
レオンが真っ先に口を挟めば、今度はディルクがここぞとばかりに先程の反撃に出る。
「ああ、そうだった、レオン殿下には素敵な恋人がローブルグにいるんだったな。恋文は書いたのか? 『早くお会いしたいです、国王陛下……』とかさ」
次の瞬間には、レオンの手には抜き放たれた長剣が握られていた。
「殺してやる。ディルク、今度こそ貴様を殺してやる」
まあまあ、とレオンを止めに入るのはリオネルとマチアスだ。
「ディルクは冗談が好きなんだ。本気にしないでやってほしい」
「主人の無礼をお許しください、殿下」
大切な友人らになだめられて、不承不承レオンは振り上げた長剣を下ろす。その様子を涼しげに傍観しているのは、無双の用心棒ベルトランだ。
「今度言ったら、その口を糸で縫いつけてやる」
「そうしたらうるさくなくなって、アベルに会わせてもらえるかもしれないね」
「ディルク様……」
呆れた様子で名をつぶやくのはマチアスだ。まるで子供の喧嘩のようだ。
「こんなときにアベルがいれば、和やかな気持ちにもなれるのだが」
レオンが愚痴をこぼす。
「やはり我々にはアベル殿が必要ですね」
「あたりまえだ。そんなことは始めからわかってる。な、リオネル」
ディルクに話を振られてリオネルは微笑した。
「早くアベルの元気な姿を見たい」
「そのためには、ザシャ・ベルネットなどにやられるなよ」
脅すような台詞はベルトランだ。
「やられるもなにも、彼は最近おれのまえに姿を現さない」
「これまでリオネルが優勢だったからね、躊躇っているのかもしれない」
「けれど敵は狡猾です。どうかお気を付け下さい」
ディルクやマチアスに言われて、リオネルはうなずきを返す。話が途切れると、窓を打つ雨の音が大きく響いて聞こえた。
――明日も雨だろうか。
雨のなかでの戦いは消耗が激しい。それは敵も味方も同様だが。
口に手をあててレオンが欠伸をした。
「さあ、そろそろ寝よう。明日も厳しい一日が待っている」
「そうだね」
「おまえは今夜も床に布団を敷いて寝るのか?」
「もちろん」
リオネルの寝室では、寝台をアベルが使っている。そのため、リオネルとベルトランは寝台のそば――床に布団を敷いて寝ていた。
「普段ならまだしも、連日の戦いで疲れが取れないんじゃないか?」
「平気だ。離れた場所で寝ているほうが、アベルのことが心配で、よほど疲労が溜まる」
リオネルの返答を聞いたディルクは、「はいはい」と苦笑した。
「愚問だったね。聞いたおれが馬鹿だった」
「おれはなにかおかしなことを言ったか」
「いえいえ、なにも」
二人が会話をしているところへレオンが苦情をこぼす。
「なんでもいいが、早く出ていってくれないか。ここはおれの寝室だ。おまえたちがいなくならないと眠れない」
「なんならおれが添い寝してやろうか? いや、フリートヘルム陛下のほうがよかっただろうけど」
ディルクがそう言った次の瞬間には、レオンは長剣を鞘走らせている。
わあ、と叫びながらディルクが逃げ回った。
「逃げるくらいなら、はじめから言わなければいいのに……」
呆れるマチアスに、
「ああして友好を深めているんだよ」
と、リオネルが笑いながら言う。今度は止める気もなさそうだ。
「友好は深まっているのか?」
ベルトランのつぶやきに答える者はなかった。




