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雨音が鼓膜を打つ。
その音を心地よく感じた。
自分が呼吸をしている――そのことを、アベルは強く意識する。息を吸って、そして吐くというとても単純で当たり前のことが、とても大変な作業であるように感じられた。
幾度か呼吸を繰り返していると、次第に疲労を覚えはじめる。
暑いのか、痛いのか、苦しいのか……わからない。なにかとても不快な状態だということだけはたしかだ。
その不快感を、柔らかな雨音だけが、わずかばかり和らげてくれた。
無意識に手を伸ばす。
伸ばした先は、寝台の傍らに据えられた小卓だ。なにか掴もうとした瞬間、大きな音を立てて落ちた物がある。音から察するに、地面に転がったのは銀杯のようだ。
手を伸ばしたその動作だけで疲れ果て、アベルは動けなくなった。
「気がつかれましたか」
驚いた様子で尋ねてくる声に、聞き覚えはない。
アベルはうっすらと瞼を開いた。
「水がほしかったのですね」
のぞき込んできたのは三十代ほどと思しき見知らぬ男だ。ここはどこだろう。
男は飾り気のない黄土色の衣服をまとっている。携えているのは護身用の短剣のみ。その雰囲気は兵士には見えない。
どうぞ、と男がなにかを口元に近づける。アベルは助けを借りながらそれを一気に飲み干した。
「ああ、意識が戻ってよかったです。私は医師のデュカスです。お付きの方もおられますよ」
そう言って男は背後を振り返る。男の後ろからゆっくりと顔を出したのは、長身だが面立ちにはわずかに幼さの残る青年。
彼は小さくアベルの名を呼んだ。
じっとその顔を見つめていると、相手はやや居心地の悪そうな面持ちになる。
「ジュスト……さん?」
声に出したつもりが、音にはならなかった。
それでも青年はうなずく。そして寝台へ寄ると、大丈夫かと尋ねた。その様子はひどく遠慮がちだ。
「その、おれがここにいるのは、交代でアベルの周辺を警護するようリオネル様に言いつけられていて……だから……いや、そのまえに、お帰り――というべきか」
もごもごと話すジュストは少年に逆戻りしたかのようだ。
頭脳明晰で頭の回転が早く、実年齢よりも年上にさえ感じられるジュストが、このように戸惑うのは珍しい。
けれど今のアベルは、漠然と違和感を覚えても、なにがそれを生じさせているのかわからなかった。力なく見つめることしかできないでいると、ジュストは視線をうつむける。
沈黙が流れる。その間に医師デュカスが部屋を出て、しばらくして再び戻ってきた。
「診察をしましょう」
医師デュカスの視線を受けると、ジュストは顔を上げる。ジュストはまっすぐにアベルを見つめていた。
「アベルが怪我から回復したら、言いたいことがある。聞いてくれないか」
小さくアベルはうなずいてみせる。するとジュストは肩を撫で下ろしたようだった。
「ありがとう。――アベルが少しでも早く元気になるよう、祈っているから」
朦朧とした意識のなかでアベルは夢を見ているのだろうかと思った。
このように穏やかに語りかけるジュストを、かつて見たことがあっただろうか。けれどそれ以上なにか考えようとすると、身体の痛みが思考を邪魔する。
ジュストが部屋を出ていく。
「失礼します」
デュカスがアベルのひたいに手を置いた。ジュストが部屋を出ていった意味にもアベルは考えが及ばす、医師のなすがままに任せていた。
傷口に当てていた布を交換すると、デュカスは言った。
「傷はふさがってきています。けれど、急に動いたりすれば簡単に開きますので、起き上がらないでください。熱は高いですが、炎症が収まればそれに伴って下がっていくはずです。もしなにか食べられるようでしたら、なにか召し上がり、あとはとにかく安静にしていることです」
デュカスの言葉を理解するまでにしばしの時間がかかる。
傷口……熱……炎症……。
――そうか、自分は戦場で斬られたのだったか。
リオネルのもとを離れ、ユスター国境へ向かい、戦いに加わってあの男に斬られ……その後の記憶がない。
いや、リオネルと話したような気もするが、なにを話したのか……それとも彼の瞳に見つめられたのは夢だっただろうか。
たしかに、これまでの経緯は夢の断片のように思い出される。あるいは、これまでのことすべてが夢のなかの出来事だったような気さえした。
「なにか食べられそうですか」
しばし目を閉ざして考えてみたが、食べられそうにない。アベルは首を横に振る。
「スープでもかまいません。ほんの少し、召し上がってみませんか」
再び問われて答えられずにいると、デュカスは笑顔を見せる。
「残してもかまいませんから、なにか持ってきましょう。といってもここは戦地ですので、材料は限られますが」
そう言いながらデュカスは立ちあがり、扉の外へ声をかける。ジュストの返事が聞こえてきた。二人はなにかを話し、それから扉のまえからだれかの立ち去る足音がする。
デュカスは戻ってこない。かわりに入室した者がいるようだが、アベルは確かめなかった。目を開けることがしんどかったからだ。
食事を待っているあいだ、アベルは目を閉じていた。
意識が飛びそうになる。
けれど、頭痛と傷口の痛みで目が覚め、しばらくすると再び意識は混濁する。それを繰り返しているうちに、扉の外から硬い足音が近づいてきた。
デュカスのものではなさそうだ。
扉を叩く音がする。室内にあった気配が動き、扉を開けて対応した。聞こえてきたのはジュストと、そしてリオネルの声だ。
うっすらと瞳を開けば、リオネルがジュストと入れ違いに入室したところだった。長身の用心棒の姿もある。
途端にアベルの脳裏に記憶がよみがえる。
そう、たしかにリオネルはこの部屋にいたことがある。
彼はアベルの手を取り、自らの左腕が動かせるようになったのだと伝えたのだ。そのときの喜びは、たしかに記憶に残っている。
けれど幸か不幸か、リオネルに口移しで水を与えられたことについては、まったく思い出さなかった。
今、足早に寝台へ歩み寄ってくるリオネルは、ひたいから頬、唇、濃い茶色の髪の先、指の先まで雨に濡れそぼっていた。
これほどまで濡れているというのに、一部には返り血の色が残っている。直前まで戦っていたようだった。
「アベル」
駆け寄ってきたリオネルの額や頬には、濡れた髪が張り付き、雫を滴らせている。
見慣れぬその姿に、アベルは高熱に浮かされていながらも心臓が跳ねる。それだけで熱が上がったような気がした。
「こんな姿ですまない。――意識を取りもどしたと聞いて、戻ってきた」
そう言いながらリオネルは寝台の傍らにしゃがみこむ。
リオネルとベルトランは、戦場から急遽駆けつけてくれたらしい。それなのに、ろくに返事もできないことがアベルは悔しい。
力をふりしぼって声を発する。
――ごめんなさい、と。
けれど、ようやく発せられた声はひどく弱々しかった。
「無理して話さなくてもいい」
リオネルは眉を下げる。
「それに、アベルが謝ることなんて、なにひとつない」
深く美しい紫色の瞳を見つめていると、アベルは涙が溢れそうになる。それがなぜなのかわからない。
「きみが助けたフランソワ殿は無事だ。ディルクやレオン、マチアスも無傷だよ。皆、アベルが元気になるのを待っている」
アベルは目を細めた。
「おれはすぐに戦場に戻らなければならない。なにもしてあげられなくて、すまない」
アベルのひたいに触れようとリオネルは手を伸ばすが、途中で止める。自らの手がひどく汚れていることに思い至ったようだ。
「こんな手ではきみに触れられないね」
残念そうにリオネルは微笑した。
「戦いが終わったら、もう少しましな格好で会いにくるから」
リオネルが再び去ってしまう。そのことを寂しく思う自分自身に気づいたとき、アベルは自身の気持ちにどう向き合えばよいかわからなくなる。
リオネルが立ち上がり、踵を返そうとする。気づけば、そのリオネルの手をアベルは掴んでいた。どこにそんな力があったのか、自分でもわからない。
驚く瞳がこちらを振り返る。
「アベル?」
脱力しそうになる手に、必死で力を込める。
「……おれの手は汚れている」
それでもアベルは手を放さなかった。
――行かないでほしい。
別れを告げたはずなのに、アベルは今だれよりもこの人を求めている。
そう、リオネルが戦場に戻らなければならないことはわかっている。それでも、そばにいてほしい。この人と共にいたい。
主としてとか、異性としてとか、そんなことはどうでもよかった。
アベルが欲している存在は、リオネルだけだ。
高熱で鈍った思考が、自らの過去や、リオネルの社会的地位、決意したはずの別れを考えずにいさせてくれているのかもしれない。けれど、だからこそわかる。
――リオネルといっしょにいたい。
この人が好きなのだ。好きで、好きで、どうしようもないくらいに。
熱で潤んだ瞳を、アベルはリオネルへ向けた。
「残ったらどうだ」
ぼそりと提案したのはベルトランだ。
リオネルが難しい顔つきでアベルを見つめる。そしてゆっくりと再びしゃがみ込んで、アベルと目線を合わせた。
「おれは、アベルのために戦う」
二人の視線が間近でからみあい、見つめあう。
「シャルムのためでも、領民のためでも、父上のためでもない。ただきみを守るためだけに、おれは戦いたい。そして必ず勝つ」
間近で見るリオネルの瞳は、普段よりも強い光をたたえ、深く輝いて見える。
「この戦いに勝利したら、アベル……もう一度おれのところへ戻ってきてくれないか? ――もう二度と、きみを女性として愛しているなどとは言わないから」
ずるい、とアベルは思った。
この状態で言われたら、冷静な判断ができないではないか。
もはや互いの立場など考えられないのだ。ただ、リオネルと共にいたい。その思いだけがアベルの意識を繋ぎ止めているこの状態で。
ゆっくりとアベルは頷く。
……と同時に、〝二度と女性として愛しているなどとは言わない〟――その言葉が、アベルの胸の奥深いところへ落ちて、冷たい音を立てた。
アベルの細い指先を握り返して、リオネルは双眸を閉ざす。そして、ありがとう、とつぶやいた。
「ありがとう」
いま一度同じ言葉を繰り返すと、リオネルは立ち上がる。今度はアベルも、彼の手を繋ぎとめることはなかった。
「おれはシャルム一――いや、世界一の幸せ者だ。きみがそばにいてくれる、ただそれだけで」
そう言って最後にかすかにアベルに笑いかけると、リオネルは来たとき同様、足早に去っていく。ベルトランもまた振り返ることなく後を追った。
二人の後ろ姿はまぎれもなく戦場へ向かう男たちのもので、アベルでさえわずかに気後れする。その姿を瞼に焼き付けながら、アベルは疲労感に襲われて意識を手放しかける。
アベルを再び覚醒させたのは、デュカスが運んできたスープの香り。
高熱で味がしないはずなのに、不思議なほどおいしい。それはベルリオーズ邸を出て以来失っていた味覚が、再びよみがえった瞬間だった。