45
シャルム軍営を包む夜空に、煙が立ち上っていく。煙に混ざるのは、肉と野菜を煮込む香りだ。夕餉の準備だろう。
一日の戦いを終えた戦士たちは、安堵と疲労の色を混ぜ合わせていた。
司令部となっている古城の窓からは、照明の光が漏れている。
その橙色の光の向こう側、騎士らからは遠く見えない場所に、ひとりの少女の手をしっかりと握る若者の姿がある。
「今日の戦いが終わったよ」
寝台の傍らに腰かけ、語りかけたのはリオネルだ。
少女の頬は赤く上気し、震える唇からは苦しげな呼吸が漏れている。リオネルの語りかけが聞こえているふうではなかった。
「アベルもよく頑張っているね」
手を握っていないほうの手で、リオネルはアベルのひたいに触れる。わずかに表情を険しくしてから手を放した。
「……熱はどうだ」
遠慮がちに尋ねたのは、部屋の影と一体化するごとく控えていたベルトランだ。
「相変わらずだよ」
「そうか」
それきり、赤毛の用心棒は再び黙り込む。
深い静寂が訪れれば、アベルがなにかうわごとを言う。なんと言ったのかは聞き取れなかった。
「アベル?」
問いかけてみるが、返事はない。落胆の面持ちでリオネルは浅く息を吐いた。
「……ずっときみに会いたかった、アベル」
相手に語りかけるというよりは、独り言を言うかのようである。
「別れも告げずに去って行ったきみに、再び会うことを夢見ていた」
これほど早くその日が訪れるとは思ってもみなかった。――けれど。
「けれど、こんな形じゃない――こんな状態のアベルに再会するなんて」
負傷してから一日。
かろうじて出血は止まったものの、傷口が炎症を起こし高熱を発している。
出血に次ぐ高熱で身体は弱り切っており、熱が続くなら死の危険も否めないだろうと、医師は説明した。
「フランソワ殿は無事だよ。右翼を守る兵士も被害は少ない。きみのおかげだ。フランソワ殿とアベルのおかげで、たくさんの命が救われた」
アベルの熱い手を両手で握りしめて、リオネルは懇願するように言葉を吐きだす。
「だから、アベルも早く元気になってほしい。皆がきみの回復を待っている」
けれど苦しげな息遣いだけが返事だった。
窓の外から歌声が聞こえてくる。兵士たちがシャルムに古くから伝わる民謡を口ずさんでいるのだ。彼らの歌はアベルの耳にも届いているだろうか。
「アベル、頼みがあるんだ」
意識のない相手へ、リオネルは問いかける。
「元気になったら、もう一度イシャスに歌をうたってやってくれないか。イシャスはきちんとわかっている、アベルが自分にとってかけがえのない存在だということを。あの子にはアベルの歌が必要だ。……おれのそばから去っても、イシャスからは去らないでやってほしい」
「リオネル」
声を発したのは、むろんアベルではなくベルトランだ。リオネルは部屋の隅に控える用心棒へ視線を向けた。
けれどベルトランはすぐに、
「こっちを向かなくていい」
と言う。
顔の向きまで指定されたリオネルは、訝りながらもゆっくりと視線をもとへ戻した。
「イシャスのことなんだが」
「……あの子が、どうかしたのか?」
「ずっと言うべきかどうか迷っていた」
なにか重要な話をはじめる雰囲気に、リオネルは黙って続きを待つ。
「アベルがおれたちのもとを去った夜、アベル本人の口から聞いた話だ。だから――まぎれもない真実だろう」
再びアベルが苦しげにうわごとを口走ったので、リオネルは子供をあやすように優しく頭を撫でる。
「おまえが想いを伝えたとき、アベルは『好きな人がいる』と言っていただろう? おまえがそれはイシャスの父親かと尋ねたら、アベルはうなずいていた」
「そうだったね」
「――あれは嘘だ」
アベルの頭を撫でるリオネルの手が止まる。
「イシャスは、アベルの愛する相手の子供などではない」
少女を見つめたまま、リオネルは怪訝な面持ちになる。
「襲われたそうだ」
動きを止めたリオネルの紫色の瞳が、大きく見開かれた。
「まったく知らぬ相手に襲われ、イシャスを宿した。だからこそ自分は、男を愛することはないのだとアベルは語っていた」
苦い表情で、ベルトランはリオネルの後ろ姿へ残酷な事実を告げる。
「けれど、おそらくそれだけじゃない。アベルはそういった過去を持つ自分が、おまえに愛されてはならないと思っているはずだ」
「ちょっと待ってくれ」
ついにリオネルがベルトランを振り返る。今度のベルトランは、こちらを向くなとは言わなかった。
二人の視線がぶつかる。
リオネルは眉を寄せて小さくかぶりを振った。
「待ってくれ。でも、アベルは――」
「おれはアベルからたしかに聞いた、偽りを述べたのだと。おまえに諦めさせるためについた嘘だ」
リオネルは、寝台に横たわる少女へ視線を戻す。
「アベルはだれにも打ち明けないつもりだったはずだ。だが、おれがしつこく後を追ったから言ったのだろう」
リオネルは険しい面持ちで拳を握っている。
「だがおれは、おまえにだけは知っておいてほしかった。アベルに想い人などいない。この子は力ずくですべてを奪われた。アベルはおまえを男として愛していないんじゃない。過去の経験によってだれのことも愛せないだけだ」
握った拳をリオネルは自らのひたいに押しつける。
「……そんなことがあっていいわけがない」
三年前、サン・オーヴァンで出会った少女は、病を患い、衰弱し、怯え、まるで野良猫のように警戒し、そして孤独な瞳をしていた。深い傷を心に負っていた。
そう、意識を取り戻したときのことを覚えている。――少しでも近づけば死ぬと、短剣を自らの喉元へつきつけたのだ。
そういうことだったのか。
となれば嵐をひどく怖がるのも、夜中にしばしばうなされているのも、この件に関わりがあるのかもしれないとリオネルは思う。
「アベルがそんな目に遭っていいはずがない」
「…………」
「だれよりも優しいこの子が、そんな目に」
「おれも、そいつを見つけだして殺してやりたい」
リオネルは双眸を閉じて大きく息を吸い込み、そして時間をかけて吐き出した。それでも波立つ感情は抑えられない。
「同情ではなく、そんな過去があったアベルだからこそ、幸せになってもらいたいとおれは思っている」
静かにベルトランが言った。
「そして、アベルを幸福にできるのがリオネル――おまえだったらいいとも思っている」
苦い表情でリオネルは沈黙している。
「主従だろうが、恋人だろうが、この際、形なんてどうだっていい。アベルにとっておまえは生きる意味のすべてだからだ」
リオネルには気持ちの整理がつかない。アベルの過去を、消化しきれずにいる。
「アベルは、おれを必要としてくれるだろうか」
「なくては生きていけないだろう。おまえの左腕が動くようになったそれだけで、アベルは幸福だと思うぞ」
「…………」
そっとリオネルが左手でアベルの上気した頬をなぞる。と、その動きにあわせたかのようにアベルの睫毛が震えた
長い影が細かく震え、やがてかすかに持ちあがる。
わずかに開いた瞼の隙間から、潤んだ水色の瞳がのぞいた。
「アベル……!」
思わずリオネルは腰を浮かせて、愛しい相手の瞳をのぞきこむ。すると、力ない眼差しながらも、アベルの瞳が懸命にリオネルを見つめ返す。
リオネルはアベルの熱い手を握りしめた。
「アベル、おれだ。わかるか?」
熱に浮かされた瞳で、アベルはリオネルを見つめ続けている。そして、口をかすかに開いた。
……リオネル様、と。
声にはならなかったが、たしかにアベルの唇はそう動く。
「ああ、アベル」
リオネルは目を細める。
なにを言えばよいのかわからない。リオネルはただアベルの手を握りしめることしかできない。
意識が戻ったものの、アベルの呼吸は荒く苦しげだ。意識も朦朧としているように見受けられる。自分の状況を呑みこめていないようだ。
「大丈夫だよ。手を繋いでいるから」
ゆっくりとした口調でリオネルは語りかける。
ややあってアベルはほんのかすかにうなずく。その拍子に、潤んだアベルの瞳の端から、つうと涙がこぼれた。
「アベル……」
こぼれた雫をリオネルは指先ですくいあげる。
「すまない――こんな目に遭わせて」
わずかにアベルの口が開く。
けれど、震える唇は言葉を紡ぎ出すことができない。
「ああ、ゆっくり休むといい。なにも心配しなくていいから、ただ元気になることだけを考えるんだ」
焦点を結びづらいのか、それとも目を開けているのが辛いのか、アベルの眼差しは虚ろだ。
ベルトランが無言で水を杯に注いで、リオネルに渡す。礼を言ってリオネルはそれを受けとった。
「飲める?」
リオネルがアベルに尋ねる。
アベルは杯を見たようだが、定かではない。
「飲みたい?」
アベルが首を小さく動かす。
「わかった」
そっとアベルの後頭部へ左手を滑り込ませ、軽く持ち上げると、唇へ杯を近づける。けれど水はうまく流れこまず、アベルの唇の端から顎へ流れ落ちた。
濡れたところをぬぐってやってから、リオネルは意を決したように告げる。
「……許してほしい」
リオネルは自ら杯に口をつけてひとくち水を含み、それから唇をアベルの赤く染まる唇へ重ねた。
「ふ……」
熱いアベルの唇が、リオネルから与えられる水を受けとる。
口に入った水が、ゆっくりと飲み下される。
リオネルとベルトランの顔に安堵の色が広がった。と同時に、アベルの顔からも苦痛の色がかすかに和らぐ。
リオネルの唇がそっと離れると、おいしいとアベルの口が動いた。
「そうか」
リオネルは微笑した。微笑しながら、拳を握りしめる。
「アベル、きみのおかげでおれは左腕が動かせるようになった。不思議だろう? 人の身体は自分で考えているよりずっと強いのかもしれない。だからアベルの怪我も、熱も、必ずよくなる」
アベルの口元に、かすかな笑みがひらめいたように見えた次の瞬間には、その身体から力が抜けていた。
「アベル」
リオネルが名を呼ぶが、返事はない。
「意識が飛んだか」
ベルトランがつぶやく。リオネルはアベルの額に手を添え、うなずいた。
「――代わってあげられるものなら、怪我も、熱もすべておれが引き受けてやりたい」
「ああ、気持ちは同じだ」
「この戦い、必ず勝ってみせる」
「むろんだ」
城の外からは、まだ兵士らの歌が聞こえていた。