表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第六部 ~一夜の踊り子は誰がために~
363/513

45








 シャルム軍営を包む夜空に、煙が立ち上っていく。煙に混ざるのは、肉と野菜を煮込む香りだ。夕餉の準備だろう。


 一日の戦いを終えた戦士たちは、安堵と疲労の色を混ぜ合わせていた。



 司令部となっている古城の窓からは、照明の光が漏れている。

 その橙色の光の向こう側、騎士らからは遠く見えない場所に、ひとりの少女の手をしっかりと握る若者の姿がある。


「今日の戦いが終わったよ」


 寝台の傍らに腰かけ、語りかけたのはリオネルだ。


 少女の頬は赤く上気し、震える唇からは苦しげな呼吸が漏れている。リオネルの語りかけが聞こえているふうではなかった。


「アベルもよく頑張っているね」


 手を握っていないほうの手で、リオネルはアベルのひたいに触れる。わずかに表情を険しくしてから手を放した。


「……熱はどうだ」


 遠慮がちに尋ねたのは、部屋の影と一体化するごとく控えていたベルトランだ。


「相変わらずだよ」

「そうか」


 それきり、赤毛の用心棒は再び黙り込む。

 深い静寂が訪れれば、アベルがなにかうわごとを言う。なんと言ったのかは聞き取れなかった。


「アベル?」


 問いかけてみるが、返事はない。落胆の面持ちでリオネルは浅く息を吐いた。


「……ずっときみに会いたかった、アベル」


 相手に語りかけるというよりは、独り言を言うかのようである。


「別れも告げずに去って行ったきみに、再び会うことを夢見ていた」


 これほど早くその日が訪れるとは思ってもみなかった。――けれど。


「けれど、こんな形じゃない――こんな状態のアベルに再会するなんて」


 負傷してから一日。

 かろうじて出血は止まったものの、傷口が炎症を起こし高熱を発している。


 出血に次ぐ高熱で身体は弱り切っており、熱が続くなら死の危険も否めないだろうと、医師は説明した。


「フランソワ殿は無事だよ。右翼を守る兵士も被害は少ない。きみのおかげだ。フランソワ殿とアベルのおかげで、たくさんの命が救われた」


 アベルの熱い手を両手で握りしめて、リオネルは懇願するように言葉を吐きだす。


「だから、アベルも早く元気になってほしい。皆がきみの回復を待っている」


 けれど苦しげな息遣いだけが返事だった。


 窓の外から歌声が聞こえてくる。兵士たちがシャルムに古くから伝わる民謡を口ずさんでいるのだ。彼らの歌はアベルの耳にも届いているだろうか。


「アベル、頼みがあるんだ」


 意識のない相手へ、リオネルは問いかける。


「元気になったら、もう一度イシャスに歌をうたってやってくれないか。イシャスはきちんとわかっている、アベルが自分にとってかけがえのない存在だということを。あの子にはアベルの歌が必要だ。……おれのそばから去っても、イシャスからは去らないでやってほしい」


「リオネル」


 声を発したのは、むろんアベルではなくベルトランだ。リオネルは部屋の隅に控える用心棒へ視線を向けた。


 けれどベルトランはすぐに、


「こっちを向かなくていい」


 と言う。

 顔の向きまで指定されたリオネルは、いぶかりながらもゆっくりと視線をもとへ戻した。


「イシャスのことなんだが」

「……あの子が、どうかしたのか?」

「ずっと言うべきかどうか迷っていた」


 なにか重要な話をはじめる雰囲気に、リオネルは黙って続きを待つ。


「アベルがおれたちのもとを去った夜、アベル本人の口から聞いた話だ。だから――まぎれもない真実だろう」


 再びアベルが苦しげにうわごとを口走ったので、リオネルは子供をあやすように優しく頭を撫でる。


「おまえが想いを伝えたとき、アベルは『好きな人がいる』と言っていただろう? おまえがそれはイシャスの父親かと尋ねたら、アベルはうなずいていた」

「そうだったね」

「――あれは嘘だ」


 アベルの頭を撫でるリオネルの手が止まる。


「イシャスは、アベルの愛する相手の子供などではない」


 少女を見つめたまま、リオネルは怪訝な面持ちになる。


「襲われたそうだ」


 動きを止めたリオネルの紫色の瞳が、大きく見開かれた。


「まったく知らぬ相手に襲われ、イシャスを宿した。だからこそ自分は、男を愛することはないのだとアベルは語っていた」


 苦い表情で、ベルトランはリオネルの後ろ姿へ残酷な事実を告げる。


「けれど、おそらくそれだけじゃない。アベルはそういった過去を持つ自分が、おまえに愛されてはならないと思っているはずだ」

「ちょっと待ってくれ」


 ついにリオネルがベルトランを振り返る。今度のベルトランは、こちらを向くなとは言わなかった。

 二人の視線がぶつかる。


 リオネルは眉を寄せて小さくかぶりを振った。


「待ってくれ。でも、アベルは――」

「おれはアベルからたしかに聞いた、偽りを述べたのだと。おまえに諦めさせるためについた嘘だ」


 リオネルは、寝台に横たわる少女へ視線を戻す。


「アベルはだれにも打ち明けないつもりだったはずだ。だが、おれがしつこく後を追ったから言ったのだろう」


 リオネルは険しい面持ちで拳を握っている。


「だがおれは、おまえにだけは知っておいてほしかった。アベルに想い人などいない。この子は力ずくですべてを奪われた。アベルはおまえを男として愛していないんじゃない。過去の経験によってだれのことも愛せないだけだ」


 握った拳をリオネルは自らのひたいに押しつける。


「……そんなことがあっていいわけがない」


 三年前、サン・オーヴァンで出会った少女は、病を患い、衰弱し、怯え、まるで野良猫のように警戒し、そして孤独な瞳をしていた。深い傷を心に負っていた。


 そう、意識を取り戻したときのことを覚えている。――少しでも近づけば死ぬと、短剣を自らの喉元へつきつけたのだ。


 そういうことだったのか。


 となれば嵐をひどく怖がるのも、夜中にしばしばうなされているのも、この件に関わりがあるのかもしれないとリオネルは思う。


「アベルがそんな目に遭っていいはずがない」

「…………」

「だれよりも優しいこの子が、そんな目に」

「おれも、そいつを見つけだして殺してやりたい」


 リオネルは双眸を閉じて大きく息を吸い込み、そして時間をかけて吐き出した。それでも波立つ感情は抑えられない。


「同情ではなく、そんな過去があったアベルだからこそ、幸せになってもらいたいとおれは思っている」


 静かにベルトランが言った。


「そして、アベルを幸福にできるのがリオネル――おまえだったらいいとも思っている」


 苦い表情でリオネルは沈黙している。


「主従だろうが、恋人だろうが、この際、形なんてどうだっていい。アベルにとっておまえは生きる意味のすべてだからだ」


 リオネルには気持ちの整理がつかない。アベルの過去を、消化しきれずにいる。


「アベルは、おれを必要としてくれるだろうか」

「なくては生きていけないだろう。おまえの左腕が動くようになったそれだけで、アベルは幸福だと思うぞ」

「…………」


 そっとリオネルが左手でアベルの上気した頬をなぞる。と、その動きにあわせたかのようにアベルの睫毛が震えた

 長い影が細かく震え、やがてかすかに持ちあがる。


 わずかに開いた瞼の隙間から、潤んだ水色の瞳がのぞいた。


「アベル……!」


 思わずリオネルは腰を浮かせて、愛しい相手の瞳をのぞきこむ。すると、力ない眼差しながらも、アベルの瞳が懸命にリオネルを見つめ返す。


 リオネルはアベルの熱い手を握りしめた。


「アベル、おれだ。わかるか?」


 熱に浮かされた瞳で、アベルはリオネルを見つめ続けている。そして、口をかすかに開いた。

 ……リオネル様、と。


 声にはならなかったが、たしかにアベルの唇はそう動く。


「ああ、アベル」


 リオネルは目を細める。

 なにを言えばよいのかわからない。リオネルはただアベルの手を握りしめることしかできない。


 意識が戻ったものの、アベルの呼吸は荒く苦しげだ。意識も朦朧としているように見受けられる。自分の状況を呑みこめていないようだ。


「大丈夫だよ。手を繋いでいるから」


 ゆっくりとした口調でリオネルは語りかける。


 ややあってアベルはほんのかすかにうなずく。その拍子に、潤んだアベルの瞳の端から、つうと涙がこぼれた。


「アベル……」


 こぼれた雫をリオネルは指先ですくいあげる。


「すまない――こんな目に遭わせて」


 わずかにアベルの口が開く。

 けれど、震える唇は言葉を紡ぎ出すことができない。


「ああ、ゆっくり休むといい。なにも心配しなくていいから、ただ元気になることだけを考えるんだ」


 焦点を結びづらいのか、それとも目を開けているのが辛いのか、アベルの眼差しは虚ろだ。


 ベルトランが無言で水を杯に注いで、リオネルに渡す。礼を言ってリオネルはそれを受けとった。


「飲める?」


 リオネルがアベルに尋ねる。

 アベルは杯を見たようだが、定かではない。


「飲みたい?」


 アベルが首を小さく動かす。


「わかった」


 そっとアベルの後頭部へ左手を滑り込ませ、軽く持ち上げると、唇へ杯を近づける。けれど水はうまく流れこまず、アベルの唇の端から顎へ流れ落ちた。


 濡れたところをぬぐってやってから、リオネルは意を決したように告げる。


「……許してほしい」


 リオネルは自ら杯に口をつけてひとくち水を含み、それから唇をアベルの赤く染まる唇へ重ねた。


「ふ……」


 熱いアベルの唇が、リオネルから与えられる水を受けとる。

 口に入った水が、ゆっくりと飲み下される。


 リオネルとベルトランの顔に安堵の色が広がった。と同時に、アベルの顔からも苦痛の色がかすかに和らぐ。


 リオネルの唇がそっと離れると、おいしいとアベルの口が動いた。


「そうか」


 リオネルは微笑した。微笑しながら、拳を握りしめる。


「アベル、きみのおかげでおれは左腕が動かせるようになった。不思議だろう? 人の身体は自分で考えているよりずっと強いのかもしれない。だからアベルの怪我も、熱も、必ずよくなる」


 アベルの口元に、かすかな笑みがひらめいたように見えた次の瞬間には、その身体から力が抜けていた。


「アベル」


 リオネルが名を呼ぶが、返事はない。


「意識が飛んだか」


 ベルトランがつぶやく。リオネルはアベルの額に手を添え、うなずいた。


「――代わってあげられるものなら、怪我も、熱もすべておれが引き受けてやりたい」

「ああ、気持ちは同じだ」

「この戦い、必ず勝ってみせる」

「むろんだ」


 城の外からは、まだ兵士らの歌が聞こえていた。










評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ