44
激しく剣がぶつかりあうなか、大きな溜息をついた者がいる。
「今日のリオネル様は、いつも以上の激しさですね」
――感嘆の溜息を洩らしたのはダミアンだ。
遠目でも、鮮やかに敵兵を倒していくリオネルの姿はよく目立つ。
「よそ見をしていると斬られるぞ」
忠告したのはナタルだが、ラザールはその言葉を聞き流してダミアンに言う。
「それはむろん、アベルが戻ってきたからだろう」
敵の剣を、ベルリオーズ家の剣豪のひとりラザールは容赦なく叩き返した。
「アベルが戻ってきて一番元気になったのは、ラザール殿ではありませんか」
「元気なものか。アベルは戦場で斬られたっていうじゃないか。ユスター兵を見ると、無性に腹が立つんだ。リオネル様も同じかもしれんぞ」
まあ気持ちはわかりますけど、と小声でつぶやくダミアンの声は、壮絶な戦いのなかでかき消される。
「おまえは昨日、アベルのいる部屋の警護にあたっていたのだろう? 納得がいかん。なぜおれには声がかからなかったんだ」
「そうはいっても、会うことはできませんでした。傷は深いようですよ。ディルク様やレオン殿下でさえ入室を許されませんでしたから」
「ああ、心配でいてもたってもいられん」
そう言うや、ラザールは渾身の力を込めて剣を薙ぎ払う。それはひとりの肩を裂き、いまひとりの胸元を傷つけ、さらにもうひとりの腕を斬った。
ユスター兵のあいだからどよめきが生じる。
「荒れてますねえ」
ダミアンがしみじみと言った。
「よそ見をしていると危険だと言っているだろう」
再びのナタルの忠告に、ダミアンは「はい」としっかり答えて前を向く。しばらくは無言で戦っていたが、すぐに疑問が浮かび、気づけばそれは言葉になっていた。
「けれど、どうしてアベルは、一度は出ていったのに再び戻ってきたのでしょう。しかもこのような形で」
「たしかに不思議だが、もしかしたら初めからアベルは、そのつもりで館を出たのかもしれないぞ」
ラザールが言う。
「というと?」
「館は出たが、リオネル様やベルリオーズ家の危機には駆けつけるつもりだったのではないか? その機会が、案外早くに訪れたということかもしれない」
ラザールに説明されて、ダミアンはふとかつてのナタルの言葉を思い出す。あれはユスター国境へ向かう途中、宿営時のことだ。
――皆、アベルが二度と戻らぬかのような落ち込みようだが、あの者がベルリオーズ家やリオネル様のことを忘れることはない。そうは思わないか。
たしかにナタルはそう言っていた。
あのときは意味がわからなかったが、今から考えれば、ナタルはアベルが戻ってくることを予期していたのかもしれない。
驚きと尊敬の眼差しでナタルを見やれば、厳しい眼差しが返ってくる。
「戦いの最中によそ見をするな」
叱咤されてダミアンは慌てて敵へ視線を戻す。さすがは老練の騎士――余人とは一線を画する男だとダミアンは密かに恐れ入った。
彼らがいる場所からやや西に離れた場所で、クロードが剣を振るっている。
全体の動きを見極め、騎士らに細かい指示を出しながら戦っているのだから、他の騎士たちとは戦い方が違う。けれどそれを感じさせないのがクロードだ。
常に彼のそばには従騎士のジュストがいて補佐している。
早速、声がかかった。
「右翼の状況を見てきてくれないか、ジュスト。サンティニ将軍かロルム公爵殿が見つかれば、兵士が足りているかどうか確認してほしい。それから、戻ったらその足でリオネル様にご報告を。リオネル様からなにかご指示があれば、しっかり聞いてきてくれ」
「わかりました」
返事をして、ジュストは馬首を巡らす。去っていくジュストに追いすがろうとする敵を、クロードがすかさず斬った。
振り返ったジュストに、クロードはうなずきを返す。
「早く行きなさい」
クロードの援護に感謝しながら、ジュストは馬の腹を蹴った。
敵味方入り乱れる戦場を駆け抜ける。時折頭上から降ってくる矢を斬り、攻撃をかわして右翼へ向かう。そうして馬上にいながら、ジュストは命じられたこととはまったく関係のないことを考えていた。
――アベルが戦場に現れた。
その話はすでにジュストの耳にも入っている。フランソワ・サンティニを守り、深手を負ったということも。
事実をリオネルに確かめたいと思ってはいたが、話す機会がなかった。
リオネルの姿をほとんど見かけなかったのは、おそらく彼がアベルに付きっきりだったからだろう。それくらい重傷だということだ。
リオネルに確認しなくとも、それくらいは察することができる。
戦場にアベルが現れ負傷したことは、直接自らの責任ではないことだと知りつつも、ジュストは少なからず自責の念を覚えずにはおれなかった。
そも、あの夜アベルが踊り子になど扮しなければ、館を出ていくことはなかったのかもしれない。
館を出ていかなければ、このような状況を防ぐことができたのかもしれない……と考えてもしかたのないことを、くよくよと考えてしまう。
自分らしくない、と思う。
けれどこればかりはしかたがない。
さらに、あの夜以来リオネルは、ジュストに対して冷ややかになったような気がする。
けっして冷たい態度を取られているわけではなく、他の騎士らに対するのと変わらぬ態度で接してくれているというのにそう感じるのは、あるいはジュストの自責の念が起因しているのかもしれない。
とにかく、ジュストはやりきれぬ気持ちでいた。
怪我を負ったアベルのことも心配だ。
リオネルの想いを想像すれば、なおさら辛い。
右翼側の戦場へ入り、ロルム公爵か、あるいはフランソワ・サンティニはいないかと視線を巡らせる。が、探すより先に声をかけられた。
「従騎士殿」
振り返ればフランソワの姿がある。ジュストの名は知らぬようだが、いつもクロードのそばにいる従騎士だということは、フランソワも知っていたらしい。
「様子を見にきたのか」
「はい、サンティニ将軍」
「このとおり、援軍が加わったこともあってなんとかなっている。クロード殿及びリオネル殿には案ずるに及ばないと伝えてくれ」
「兵力は足りていますか?」
「今のところ問題ない」
「かしこまりました」
踵を返そうとするジュストを、「待ってくれ」とフランソワが呼び止める。
「いかがしましたか」
「いまひとりの従騎士殿の容体は?」
「私は直接会っておらず、リオネル様ともお話していないので、わかりかねます」
「彼は私のために傷を負ったから、気になっているのだ」
なんと答えればいいか迷った末に、ジュストは次のように言った。
「……きっと彼は、貴方を救って負傷したことを後悔していません」
フランソワもまた、アベルが怪我を負ったことに責任を感じているらしいと悟ったからだ。
「リオネル殿は随分気にかけておられる。悪いことをしたと思ってな」
「おそらくリオネル様も、今回のことでだれのことも恨んでなどおりません。むろん、アベルを傷つけた敵に対してはお怒りでしょうが」
言いながらジュストはおかしく思った。
ジュスト自身が負い目を感じているというのに、フランソワを慰めているのだから。
けれど言いながら気づいたことがある。
リオネルはだれも恨んでいない――、とフランソワのために言ったつもりだが、その言葉には薄々ジュスト自身が気づいていた事実も隠れていたのではないだろうか。
「従騎士殿の早い回復を祈っていると、そうリオネル殿に伝えてくれ」
「必ずお伝えします」
フランソワと別れてジュストはリオネルのもとへ向かった。
右翼から中央への移動には時間がかかる。陣形中央の最前線は、さすがに激しかった。
自らの身を守りながらジュストはリオネルの姿を探す。そのとき、右脇から攻撃を受けて咄嗟にそれを弾き返す。さらに背中から襲ってくる槍を斬り落としたが、同時に仕掛けられた得物を避けきれない。
――まずい……!
そう思った瞬間、脇から長剣を叩き落とす者があった。
はっとして視線を上げれば、よく知る相手だ。
「大丈夫か」
余裕の体で尋ねてきたのは他でもないリオネルである。
「あ、ありがとうございます」
礼を述べるとリオネルはかすかにうなずいた。
「大切な家臣を失いたくない。充分気をつけてくれ」
あらためてジュストはリオネルの顔を見つめる。彼の大切にしている者を危険な目に遭わせたというのに、リオネルは自分を〝大切な家臣〟と呼んでくれる。
ジュストは言葉を失った。
「なにか報告があったんじゃなかったのか?」
「あ、はい」
我に返るジュストを、珍しそうにリオネルが見やる。普段ジュストがぼんやりしていることなどないからだろう。
「右翼の状況について、クロード様から報告するようにと言われて参りました」
「ああ、それで?」
自らの目で見て感じた状況と、フランソワの言葉とを伝えるとリオネルは深くうなずいた。
「色々とありがとう」
「とんでもございません……あの」
話を切り出すためには勇気が必要だった。リオネルが視線だけで先を促す。
ジュストは逡巡したが、結局は尋ねた。
「……アベルが戻ってきたというのは、本当ですか」
「ああ、本当だ」
はっきりとリオネルは答える。
「斬られたというのは……」
「それも本当だ」
途端にジュストは返す言葉をなくす。なんと言えばいいのかわからない。ただ、自分のせいだという気がした。
表情を曇らせたジュストを見やってリオネルはわずかに目を細める。
「ジュストも、アベルの回復を祈ってくれるか」
「私などが祈ってよいのであれば……」
「むろんだ」
力を込めてリオネルが答えたので、ジュストは顔を上げた。リオネルは痛みを秘めた、それでも優しいかすかな笑みをたたえていた。
「いっしょに祈っていてほしい」
「私はあの夜、アベルを――」
「ジュストとアベルは、おれの友人たちの命を救ってくれた。踊り子が現れなければ、ディルクやマチアスは斬られていた」
「ですが……」
「友人を失わずにすんだのは二人のおかげだ。今はアベルが元気になることだけを考えよう」
飛び来たった矢を斬りながら、ジュストは負傷したアベルのことを思った。
胸のうちに湧きあがる感情がある。
「私にはなにもできませんが、精一杯アベルのために祈ります」
続けて繰りだされた敵の得物を、ジュストは力を込めて叩き落とす。
「それで充分だ」
会話を終えると、リオネルは馬の腹を蹴り、勢いよく敵の集まる真っ只中へ飛び込んでいく。
その姿を見送りながらジュストは、胸に灯る静かな――けれど温かな炎にも似た小さな決意を抱いた。