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西の彼方に太陽が沈んでいく。
真紅に染まった戦場は、夕陽に染めあげられて目に痛いほど鮮やかな色彩を放ち、やがて日没と共に闇に沈んだ。
一日の戦いが終わる。
シャルム軍営に、続々と兵士らが戻る。
その気配は、古城の一室であるこの場所にも伝わってきていた。
「アベル、きみのおかげでシャルム軍は危機を免れたよ」
寝台に横たわるアベルに向けて、リオネルは語りかける。
返事はない。
シャルム軍は事実、手薄になった右翼を敵軍に突かれるところだったが、フランソワとアベルの功績で壊滅的な被害を免れた。むろん直後のトゥールヴィル家及びルブロー家の援軍が加わってこその結果でもある。
けれど、援軍が駆けつけた時点で右翼の守りが崩れていたら、持ち直すまでに大きな犠牲を払わねばならなかっただろう。
横たわる少女は、苦しげな呼吸を繰り返している。意識はないが、おそらく痛みは相当なものであるはずだ。
「アベル……」
目を細め、リオネルは指先でアベルの頬に触れる。少しでも痛みがやわらげばいいと思った。
そこへ扉を叩く音がある。
「リオネル様、ご来客です」
ダミアンの声だ。彼はベルトランに代わってリオネルを警護するため、部屋のそとに控えていた。
自ら扉を開けにいけば、大柄な男が二人並んでいた。ただ立っているだけだというのに、すさまじい迫力だ。
ひとりはフランソワ・サンティニ、いまひとりはベルトランである。二人の身体に汚れはなく、清潔な衣服をまとっている。
戦場から戻ってすでに着替えを済ませてきたようだ。
「少年の具合が気になり、ベルトラン殿に案内いただきました」
フランソワは単刀直入に言った。ややあってリオネルはうなずく。
「私も、フランソワ殿からお話をうかがいたいと思っていました。どうぞ、お入りください」
わずかにためらう素振りを見せたものの、フランソワは部屋へ足を踏み入れた。ベルトランが続く。
ベルトランと視線が合うと、リオネルは「ありがとう」と短く礼を述べた。むろん、アベルのそばにいさせてくれたことに対する礼だ。
「アベルはどうだ」
「……腹部を斜めに斬られている。出血がひどい」
「止まったのか」
「いや、完全には」
「そうか……」
二人の会話を聞いていたフランソワが眉をひそめた。
「危険な状態ですか」
「一応は落ちついています。ですが楽観はできません。さらにこれから熱が出るだろうと医師は言っていました」
浅く溜息を吐き、フランソワは寝台の負傷者へ視線を向ける。
「……悪いことをしました」
「フランソワ殿は、アベルのことをご存知だったのですか」
「知っているというほどではありません。戦場で会いました。見知らぬ者であるうえに、まだ年若いのに腕が立つので声をかけました」
「彼はいつから戦場にいたのでしょう」
「それはわかりませんが、騎士らのあいだでは五、六日ほど前から噂になっていたようです。武勇に優れた少年がいると。……彼のことを、リオネル殿が存じておられたとは」
「私の家臣――でした」
「この少年が?」
「ベルトランの従騎士だったのです」
「だった、というのは」
「わけあって我々のもとから去りました」
リオネルとベルトランを交互に見やってから、フランソワは再びアベルへ視線を戻す。
「そうでしたか」
驚くというより納得する様子だ。
「どうりで腕が立つはずです。はじめは報奨目当てかと思ったのですが、どうも違うと思いはじめていました。申しわけないことをしました。私が少年に、右翼に残って共に敵軍へ突っ込むよう頼んだのです。その際、彼は私を救うためにザシャ・ベルネットと対峙し、身体に刃を受けました」
「おそらくフランソワ殿に頼まれなくても、アベルはそうしたでしょう」
「リオネル殿は彼が戦場にいたことを、知っておられたのですか」
「いいえ……まったく」
ひとたび会話が途切れると、アベルの苦しげな息遣いが静寂のなかで響く。
「アベルは随分と痩せたな」
ベルトランがつぶやく。
「本当だね、いったいどんな生活をしていたのだろう」
リオネルはアベルを見つめる。
「彼はお金に困っているようでした」
フランソワのひと言に、リオネルは顔を上げた。
「お金に?」
「随分痩せているので、食べているのかと尋ねたら答えなかったので、銀貨を一枚渡しました。シャルム軍営に来ればもっと払えると言ったのですが」
「来なかったのですね」
「ええ」
不思議な話だった。シャルム軍営に来ないというのは、アベルの性格からすれば納得できる。けれど、そもそも所持金がないというのは納得できない。
むろんアベルの蓄えをリオネルは把握しているわけではないが、給金はある程度支払っていたし、その金をアベルはイシャスのもの以外に使っていなかったようだから、少なくとも金貨の数枚くらいはあるはずだった。
ベルトランもまた同じ疑問を抱いたようだ。
「金に困っている者に施したのだろうか」
ぼそりと言う。そこへ、再び来訪者があった。
「リオネル様、レオン殿下並びにディルク様がおいでですが、いかがいたしますか」
遠慮がちに尋ねるダミアンの声がする。ベルトランと視線を交わしてから、リオネルは答えた。
「今は静かに寝かせてやりたい。すまないが、レオンとディルクにはあとでおれが話しに行くと伝えてくれ」
すると、扉の向こうから声がある。
「やはりな。ディルク、おまえがいるとうるさいからだ」
「おれのどこがうるさいんだよ」
「すべてだ」
「ほらみろ、ちゃんと答えられないじゃないか」
「……まあまあ、お二人とも」
なだめる声はマチアスだ。
「お気持ちはわかりますが、アベル殿はひどい怪我を負っているのです。もう少し落ちついたらまた皆で伺いましょう。そのほうが早く治るかもしれませんし」
「なにかアベルのためにできることがあればいいんだけど」
「それこそ、おまえが静かにしていることだろう」
「なに?」
と、扉の向こうは賑やかだ。
室内にいた三人は顔を見合わせて微笑した。
「では長居しては怪我人も落ちつかないでしょうから、私も退室いたします。リオネル殿とベルトラン殿、そしてご家臣には、実に申しわけないことをしました」
最後に再び謝罪するフランソワに、リオネルは首を横に振って見せる。
「フランソワ殿がいてくださってよかった。でなければ、アベルはひとりで敵軍に突っ込んでいたところでした」
「…………」
フランソワが瞳をまたたく。それほどまでに無謀な家臣なのかと呆れたのかもしれない。
リオネルが切なげに顔を歪めた。
「そんな家臣だから、気にかかってしかたないのです」
「よいご家臣をお持ちですね」
……フランソワが部屋から出ていくと、ややあって皆が扉のまえから去っていく足音が聞こえる。
すべての音が遠のくと、リオネルは組んだ両手を祈るように額に押しつけた。
+++
訪れた医師と入れ替わりに、リオネルはアベルのいる部屋を出て食堂へ向かう。
大広間は怪我人の療養場所、食堂は諸侯らの集まる場所となっている。リオネルが食堂へ向かったのは、先程追い返したディルクらに、アベルの容体を伝えるためだった。
目当ての三人は食堂にいた。フランソワやシャルルもいっしょだ。
その他にも、ロルム公爵やテュリー伯爵、さらにトゥールヴィル公爵フェルナンと、直臣でルブロー伯爵家の次男ロランド、そしてルブロー家嫡男エヴァリストの姿もある。
クロードやジュストらが見当たらないのは、天幕のほうで騎士らと過ごしているからだ。
ちらとリオネルがディルクへ視線をやると、首をかすかに傾げながらの苦笑が返ってくる。先に挨拶してこいという意味だ。
軽くうなずいてディルクに詫びてから、リオネルは諸侯らのもとへ足を運んだ。
「ああ、リオネル」
真っ先に声をかけたのはトゥールヴィル家当主フェルナンである。
「元気そうでよかった」
「叔父上も」
「左腕を負傷したと聞いたが、平気そうじゃないか」
皆の視線がリオネルの左腕に集まる。
「ええ、いつのまにか良くなっていました」
リオネルは左腕を動かして見せると、皆が笑う。安堵の滲む笑いだ。ただ、以前の状態を知るロルム公爵やティリー伯爵は、驚いた顔のまま信じられない様子で左腕を凝視している。
「どうだ、怪我人の具合は」
「ご心配ありがとうございます。今は落ちついています」
「そうか、よかったな。大切な家臣ならそばにいてやれ」
フェルナンがそう言うのは、負傷者の容体が急変して死に至ることも少なくないことを、よく知っているからだ。
「ありがとうございます」
「ユスター軍は強敵ではないが、数が多いな。倒しても倒しても沸いてくる。できれば川の向こう側まで追い払ってやりたがったが、残念ながら陽が沈んでしまった。なあ、エヴァリスト殿」
声をかけられた騎士は、柔和な顔つきを笑ませる。
「ええ、本当ですね。いっそ川を渡らせるまえに、すべての敵兵の首を刎ねてやりたいところですが」
大人しそうに見えて過激な発言をするこの男こそ、ルブロー家嫡男エヴァリストだ。三十歳を超えたばかりだが、年齢以上に落ち着いた雰囲気である。ルブロー家の三兄弟のなかで、彼だけが赤毛ではない。
「叔父上やエヴァリスト殿の援軍のおかげで、シャルム軍は危機を免れました。ありがとうございます」
「本当に助かりました、シャルムの右翼からアンテーズ川を超え、このユスター国境まで来ていただけるとは思ってもいませんでした」
リオネルに続いて礼を述べたのはロルム公爵である。
トゥールヴィル家とルブロー家はともに竜の形をしたシャルム国土の右翼に位置する。ユスター国境まではかなりの距離があった。
「むろん弟シュザンからの要請もありましたが、駆けつけたのは私自身の意志ですよ。シャルムの領地を守ることは我々の義務であり、喜びでもあります」
「感謝の言葉もありません、フェルナン殿」
「これだけの兵力で、よく今まで持ちこたえてきたと思います」
感心したようにエヴァリストが言う。
「ベルリオーズ家やアベラール家の騎士団が加わっていなかったら、状況はまったく違っていたことでしょう。こうして味方が増えて心強い限りです」
「――公爵様」
駆けてきた家臣に呼ばれて、ロルム公爵は少し話をしてから「すみません。お話し中ですが少し失礼します」と言ってその場を離れる。テュリー伯爵も続いて退席した。
近しいものばかりになると、ルブロー家嫡男エヴァリストは、まったく似ていない二人の弟――つまりロランドとベルトランを見やった。
「それにしても、このように弟たちがそれぞれ主君に仕え、しっかりと務めを果たしているところを見るのは嬉しいものです」
長兄のはずが、父親のような貫禄だ。
「それにしても、あらためて三人とも似ていないな」
しみじみとフェルナン・トゥールヴィルがつぶやく。
「顔も性格もな」
「そうですか? 母親も父親も皆同じですよ……多分」
おっとりと笑いながらエヴァリストが言う。
「今更、腹違いだと告白されても困惑します」
小声でベルトランがこぼすと、一同に笑いが広がった。
「しかし、ベルトランの剛腕ぶりはすさまじい。うらやましい限りだ。うちのロランドと交換しないか、リオネル」
リオネルの背後に控える赤毛の用心棒をちらと見やって、フェルナンは口端を吊り上げる。リオネルが答えるより先に声を上げたのは、フェルナンの傍らにいる美丈夫だった。
「私ではご不満ですか」
整った顔立ちだけに、怒りを帯びると冷たい印象になる。
「いや、不満というわけではないが、やはりおまえでは迫力に欠けるというか、用心棒らしさに欠けるというか」
「迫力? でかければいいんですか」
「でかいって……」
苦笑したのはベルトランだ。
「たしかにベルトランは威圧感がありますからね。ロランド殿は、まずは女装するのをやめてみてはいかがですか」
「じょっ……」
喧嘩を売っているかのような台詞だが、それを発したのはリオネルだからロランドも怒るに怒れない。
「リオネル様、おそれながら申しあげますが、まるで私が自ら好んで女の格好をしているとお思いなら、それは勘違いというものです。フェルナン様をお守りするため――刺客を欺くために女の格好でいることもあるというだけです。最後にお会いしたときが、たまたま女の格好をしていただけで、現に今日は普通の格好ではありませんか」
慌てて説明するあたりが言い訳がましいが、なるほど今日は騎士らしい格好だ。
けれどかつてリオネルが従騎士の修業をしていた時分、フェルナンが王宮を訪れた際に同行したロランドは、しばしば女性の格好をしていた。――その印象が強い。
むろんロランドほど線が細く美しい顔立ちなら、ドレスをまとっても違和感はない。
「すみません、冗談ですよ」
リオネルが笑って謝罪すると、ロランドはなんとも言えぬ表情になる。ベルトランは笑いをかみ殺すようだ。
一方、声を上げて笑ったのはフェルナンだった。
「リオネルはおもしろい。真面目なようでいて、遊び心がある。こんなに困惑するロランドなど滅多に見られるものじゃないぞ」
「すみません、ロランド殿」
「いいえ、冗談として受け取れなかった自分自身に恥じ入っています」
ロランドがわずかにうつむくと、そこへエヴァリストが発言する。
「どちらも私のかわいい弟たちです。どうぞ、フェルナン殿もリオネル様も二人をこき使ってやってください」
穏やかな口調でエヴァリストが言うと、リオネルとフェルナンが顔を見合わせた。
「では遠慮なく……」
と口にしたフェルナンだが、ロランドの鋭い視線を受けて苦笑する。
「……といっても、怒らせると怖くて扱いづらいがな」
笑いが広がったところで、リオネルは断りを入れてディルクのほうへ向かった。