36
その日、全身を汚して戻ってきた三人に、館の者は仰天した。中庭に続くバルコニーで心配して待っていたエレンは、その場で気を失って倒れたほどだ。
けれどそのほとんどが返り血だったことを知ると、皆が胸をなでおろしたのだった。
三人は身なりを整えてから、アベルの部屋でドニの診察を受けた。エレンはまだ気を失ってから目覚めていない。
アベルの首を消毒し、布を巻きながらドニは言った。
「次から次へと、貴女は本当によく……」
「……ごめんなさい」
「自分の身体のことをわかっているのですか。生死の狭間をさまよっていたのは、つい先日のことですよ。そのうえ身体のあちこちに痣と切り傷を残したまま、また新しく傷をつくって……」
年が明けてから、幾度も瀕死のアベルを診てきたドニは、呆れたように言った。
うつむき、何も言えないでいるアベルをかばうように、リオネルが口を挟む。
「ドニ、今回はおれが連れだしたんだ。アベルに怪我をさせてしまったのも、立ちまわらせてしまったのも、おれの力が及ばなかったからだ。責めないでやってほしい」
そう言う主人の顔を見てから、ドニは口をつぐんだ。小言を呟くドニよりも、リオネルのほうがよほどアベルを心配しているようだったからだ。
「アベル、さっきは言い忘れたけど、ありがとう」
なんのことかわからず、アベルは顔を上げてリオネルを見た。
「いっしょに戦ってくれて、ありがとう」
一瞬きょとんとしてから、次いで理解したアベルは、ほほえんでうなずいた。
リオネルとしては、できればアベルにあのような危ないことをしてほしくはなかったが、リオネルや彼女自身を守ったのは、たしかにアベルが剣を握ったからだ。
そんなことを思っていたリオネルを、アベルがかつてないほどに驚かせたのは、その夜のことだった。
銀杯にたたえられた葡萄酒が、蝋燭の炎を反射し、赤紫がかった光を揺らしている。部屋中の燭台に火が灯り、夜更けだが室内はかなり明るかった。
リオネルの寝室。
昼間の騒動が嘘だったかのように、館の外も、館内も静かだ。
「しかし今日は驚いたな」
ベルトランが長椅子にもたれかかり、銀杯を傾けながら言った。どことなく元気のないリオネルは、小さくうなずく。
「あれほどの数の刺客を一度に送り込まれたのは、はじめてのことだ」
「遺体は十二人分だったみたいだね」
「しかも今までのやつらより数段腕が立った」
「そうだね」
「今回は確実にやり遂げるつもりだったのかもしれないな」
リオネルはあたたかい葡萄酒を手に持ったまま、考え込んだ。
「この頃合いに現れたということは、伯父上も関与してのことだろうか」
「……それはわからない。ただおまえがもうすぐ十七になるということが、国王派の連中にとって焦る要因だとすれば、エルネスト殿の視察と十二人の刺客とは、直接的な関連性がなくても、同時期に起こりうることだ。おまえの成長は彼らには脅威だろうからな」
「ベルトランはあくまで、伯父上がおれに刺客を送り込まないと思っているんだね」
「もしエルネスト殿がおまえを狙うなら、もっと政治的な手を使うような気がしてね」
「なるほど」
「今回、だれが送ってきているにせよ、持ち駒を使い切ったとしたら、当分おとなしくしていてくれるかもしれない」
リオネルは返事をせずに、葡萄酒を少しだけ口に含む。
「元気ないな」
「……そう?」
リオネルは誤魔化してみたが、ベルトランには隠せそうになかった。
「アベルを……助けられなかったと思って」
「あの子は、剣技においては他人の助けを必要とするほど弱くないだろう」
あれほどの腕があれば大抵の敵は倒せる、とベルトランは付け加えた。
「もしアベルが剣を使えなかったら、殺されていたかもしれない」
落ち込むリオネルの様子に、ベルトランはため息をつく。
「なにをそんなに気にしてるんだ? 無事だったのだからいいだろう」
「…………」
エレンがこの場にいれば、リオネルの気持ちを察することができたかもしれないが、ベルトランにはリオネルがなにを気にしているのかさっぱりわからなかった。
「それにしても、アベルは何者なんだ」
ベルトランは呟いたが、リオネルは返事をしない。正確に言えば、できなかったのだ。
アベルをサン・オーヴァンの街からこの館に連れ戻した夜、身元については一切詮索しないとリオネルはアベルに約束した。そうしなければ、アベルはおそらくこの館に留まらないだろうと思ったからだ。
けれど、アベルが農民や貧しい身分の出身ではないことに、二人は薄々気づきはじめている。
アベルの身のこなしは、上品でしなやかだ。言葉遣いや発音、手紙に書かれた文字も洗練されていて美しい。貴族か、裕福な商人の娘であると考えてもよさそうだった。
けれど、乗馬や武術に秀でていることは、大きな謎である。たしかに金持ちか貴族でないかぎり、そういったものに触れる機会には恵まれないが、高貴な娘が通常、体得するものではない。
いずれにせよ、本来なら両親の庇護のもとにいるような歳の娘が、子を宿し、男の姿に身をやつして、路頭に迷っていたという状況自体が普通ではなかった。
「あの子の家族や、赤ん坊の父親は、いったいどこにいるのだろうな」
エレンであればリオネルの気持ちを慮り、けっして彼の前では口にしないであろうことを、ベルトランはぼそりと言った。それは、アベルがこの館に来た日以来、だれも触れてこなかった疑問である。
リオネルは無言で銀杯のなかの葡萄酒をかすかに揺らした。
銀杯のなかに閉じこめられた炎が水面を滑る。
そのとき扉を叩く音がした。
ベルトランは、腰にさげた長剣に手を添える。この時分にリオネルの寝室をだれかが訪れるのは稀だ。さらに昼間の一件が、まだ二人に緊張感を与えていた。
「だれだ?」
ベルトランが扉の前に立ち、短く問う。
「……アベルです」
鈴が鳴るような声が、厚い扉を通して二人の耳に伝わった。二人は顔を見合わせる。ベルトランが扉を開けると、少年の恰好をしたアベルが一人、佇んでいた。
アベルがリオネルの寝室を訪ねるのは、はじめてのこと。アベルは意外そうな顔をする二人に、軽く頭を下げる。
「夜分に、申し訳ありません」
「いや、こちらはだいじょうぶだけど……アベルは休んでいなくていいの?」
今まで話題にしていた相手が現れて、リオネルはやや気まずい思いがしないでもなかった。赤ん坊の父親はどこにいるのか、というベルトランの台詞が、まだ頭から離れていない。
「お話があってきたのですが……」
「話?」
「もしお忙しければ、あらためます」
「忙しくないよ」
リオネルは、アベルを椅子に座るよう促した。
「あたたかい葡萄酒を用意しよう」
「いえ……長くお邪魔しませんので」
細いアベルが腰を下ろすと、寝室の肘掛椅子は、ひとまわり大きく見えた。
リオネルは立ち上がり、長椅子にかけてあった膝掛をアベルに手渡す。
「冷えるから、使って」
アベルは素直に礼を述べてそれを膝に置く。
二つの葡萄酒の杯が置かれた円卓を囲んで、三人は沈黙した。
話があるといって来室したアベルは、なかなか口を開かない。はじめて入ったリオネルの寝室の、他と比較しようもないほど立派な調度品や装飾にも、アベルの意識は向いていないようだった。
「エレンは、気がついたのかな?」
どこか重たい空気を破ったのは、リオネルだった。
「――はい、先ほど」
「そうか、よかった。なにか言ってた?」
「わたしたちが無事と知って、涙ぐんでいました」
「エレンらしいね。きみの怪我については、心配していただろう」
「大げさに包帯を巻かれたので……たいしたことないのですが」
アベルが首の包帯に手をやる。
「傷は痛まない?」
アベルは無言で首を横に振る。リオネルが気遣わしげに少女を見やった、そのとき。
「あの――」
意を決したように発せられたアベルの声に、二人は意識を向けた。
「よくあることなのでしょうか?」
「なんのこと?」
「命を狙われることです」
アベルの思いもよらない質問に、リオネルとベルトランは一瞬動きを止めた。
どう答えようか迷ったリオネルは、ちらりとベルトランを見る。
「よく、でもないよ」
「……ベルリオーズ領にいたころは、二ヵ月に一度ほどだったが、王都に来てからは久しぶりだ」
言い淀むリオネルの言葉を、ベルトランが補足する。
「ごめん、アベル」
アベルの質問の意図がわからなかったので、リオネルはとりあえず謝るしかなかった。
「ここに残るように言っておきながら、危険な目に遭わせてしまって」
アベルはまっすぐにリオネルの紫色の瞳を見据えた。
その真剣な眼差しを受けて、リオネルは彼女がなにを考えているのか、ますますわからなくなる。
「お願いがあるのです」
「なんだろう?」
「わたしを――」
リオネルはアベルがなにを言い出すのか、まったく予測できなかった。
「――わたしをあなたの用心棒にしてください!」
葡萄酒を口に運んでいたベルトランが、それを軽く吹き出す。
すぐに言葉が出てこないリオネルと、咳きこみながら手元を拭くベルトランを、アベルは交互に見た。
「衛兵でもいいです。門番でも、お部屋の見張りでも、どんな形でもかまいません。リオネル様をお守りする仕事を、わたしに与えてくださらないでしょうか」
「衛兵って……」
「わたしのような身元のわからない者がこの館で働くことの難しさはわかっています。ですが、わたしとイシャスをここにおいてくださるのであれば、どうかわたしにそういった仕事をさせてください」
「しかし働くにしても、女中とか、侍女とか、女性の仕事があるだろう」
そう言ったのはベルトランだ。ベルトランに強い視線を向けて、アベルは続けた。
「わたしは女性には戻りません」
「…………」
「男として、リオネル様の命をお守りすることが、わたしのただ一つ望む生き方です」
目の前の少女が、あまりに突拍子もないことを言い出したので、リオネルはなんと答えてよいかわからない。自分の命を心配してくれているということはよく伝わってきたが、すぐに首を縦にふれるような話でもない。
言葉を失っている二人に、アベルは言った。
「剣の腕はもっと磨きます。リオネル様を守れるくらい、強くなります」
「……アベル」
「お願いします」
アベルは二人に頭を下げる。
「……どうして? なぜ、おれを守ってくれるんだ?」
リオネルはここでようやく質問を発した。
「それは――」
少し迷う様子を見せてからアベルは答えた。
「――それは、あなたがいる場所が、わたしが帰る場所だからです」
はっとしてリオネルはアベルの宝石のような瞳を見つめる。
「リオネル様にもしものことがあれば、この世界にわたしの居場所はありません」
「――――」
自分が発した言葉が、目の前の少女にとってどれほどの重みのあるものだったのか、リオネルはこのときあらためて思い知らされた。
「それに、今までのご恩をお返ししたいのです。すぐにお返事をいただけなくても、かまいません。わたしは待ちます……」
言葉少なであるリオネルの様子を拒絶と受け止めたのか、アベルは消え入りそうな小さな声で言った。
それからすっくと立ち上がり、二人に頭を下げると足早に扉に向かう。
「待って」
部屋を出ようとするアベルをリオネルは追いかけた。
「きみが言ったとおり、すぐには答えられない。けど……申し出てくれたこと、きちんと考えるから。少し待っていて」
アベルはリオネルの瞳をしばらく見つめてから、もう一度頭を下げて部屋を出た。
リオネルはその後ろ姿を見送り、扉をそっと閉めた。
「本当に、おもしろい娘だな」
ベルトランは、戻ってくるリオネルに向かって言う。
「次から次へとおれたちの意表をつく」
リオネルは無言で肘掛椅子に座る。深く考え込んでいた。
「……用心棒が、二人いてもいいんじゃないか?」
リオネルの思いつめた横顔に、ベルトランのあっさりとした調子の声が降りかかった。
「え――?」
リオネルは顔を上げてベルトランを見る。
「あの子はこれからまだまだ強くなる。そして必ず役に立つ」
「強いからといって、彼女に剣を握らせたくはない」
「この先、今日みたいなことがあったとき、いっしょに戦うやつが、おれ以外にも必要になってくる。アベルの腕なら不足はない」
リオネルはうつむいた。
アベルの技量については、リオネル自身も感心したが、ベルトランがこのように言うのであれば、よほど確かなものなのだろう。
「それに、さっきから考えていたんだが……身元がわからぬ使用人は置いておけないが、護衛の騎士であれば、おまえのそばにいても構わないのではないだろうか」
「それはどういう……」
青年は目を細めて、推し量るような顔をした。
「おれの騎士見習いになって、叙勲すればいい」
「叙勲……」
ベルトランの提案に驚くと同時に、リオネルはひどく複雑な心境になった。
通常、騎士になれるのは貴族の子弟のみだが、ひとたび叙勲してしまえば、だれがなんと言おうとも騎士は騎士である。「騎士」という名がつけば、周囲に対してアベルがリオネルのそばにいることの説明がつく。けれど。
アベルのことを守りたいとは思うが、彼女に、自分の命を守ってほしいとは思わなかった。アベルを、危険な目に遭わせなくはない。
騎士として叙勲されることは、すなわち争いの世界に身を投じることでもあった。
「考え方次第だと思う」
渋い顔をするリオネルへ、ベルトランは言った。
「おまえはあの子を守りたいんだろう?」
「…………」
「アベルがおまえの命を守るということは、あの子がずっとおまえのそばにいるということだ。どんな形であれ、おまえにとってはそのほうがあのお転婆娘を守りやすいんじゃないか」
リオネルは再び考え込む。ベルトランの言うことは的を射ていた。
リオネルが見ていない隙に、どこへ行ってなにをはじめるか予想できない少女を、常に見守り続けることは容易ではない。さらにリオネルが叙勲されてベルリオーズ領に戻れば、生活はなにかと忙しくなり、常にアベルのそばにいることは困難だ。であれば、いっそのこと、彼女を自分のそばに置いておくのが、彼女を守る最も確実な方法だった。
「ある意味、一石二鳥だと思うけど」
ベルトランが、最後に言った。
翌朝、アベルには返事をしないまま、二人は王宮へと発った。
「一週間、考えさせて」
玄関に見送りに来たアベルに、リオネルはそう言い置いていった。