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ザシャの目のまえを、すさまじい速さで駆け抜ける一騎がある。
と同時に、斬られて馬上から落ちかけていたはずの少年の身体が、一瞬にして消えた。
力を失っていくアベルの身体を抱きとめたのは、他でもなく、これまで動かなかったはずのリオネルの左腕だ。
「アベル――――ッ!」
リオネルの叫び声が、高い金属音のなかで響きわたる。右手で剣を振るい、左腕で血に染まった少年……否、少女を抱えている。
自らの左腕が動いたことさえ、リオネルは意識しているふうではない。
「リオネル殿!」
フランソワが声を上げた。けれどリオネルはそれに応えることもせず、鬼神のごとき激しさで剣を振るう。
たちまちユスター兵らが斬られ、血しぶきを吹きあげながら地面へ倒れ伏した。
「ザシャ・ベルネット!」
リオネルはアベルをしっかりと抱きとめたまま、ザシャのまえへ馬を進める。
「ああ、リオネル・ベルリオーズ。ようやく再会でき――」
途中でザシャが言葉を斬らざるをえなかったのは、叩きこまれたリオネルの攻撃があまりにも激烈だったからだ。
舌打ちすると、ザシャは剣を握り直す。次の言葉を紡ぐ余裕さえ与えぬ激しさで、リオネルは相手を攻めたてた。
ひと言も発することのないまま、二本の剣が幾度となく交差する。
真昼でも見てとれるほどの火花が生じ、血の海へ鮮やかに散る。十合以上続けて撃ち合ったのち、ザシャは息を切らしていた。
わずかにザシャは自らの跨る馬の手綱を引く。リオネルとの戦いを中断させる時機を見計らっているようでもあるが、リオネルの攻撃はわずかな余裕も与えない。
二人の戦いの激しさに、周囲の者はそばへ寄ることさえできない。
もう少し二人が長く戦っていれば勝敗は決したかもしれないが、途中で思わぬ事態が起きた。
東方――シャルム陣地のほうから、少なからぬ騎兵の近づく気配がある。
ユスター兵らのあいだからどよめきが生じた。
「敵の援軍だ!」
声が上がる。
「シャルム軍だぞ!」
彼らが事態を完全に把握しきれぬうちに、たちまちユスター軍のなかにシャルム軍が突入し、激しい剣の撃ち合いが生じた。
なだれ込んだシャルム軍は、無敵のベルリオーズ家の騎士団。
けれどそれだけではない。
「リオネル、無事か」
声がした。
リオネルとザシャが同時に視線を向ける。その先に現れたのは淡い鳶色の髪と、紫がかった青色の瞳を持つ騎士。その傍らには、細身の女性らしき戦士がいた。ベルリオーズ家の騎士ではない。
「叔父上」
大きくリオネルは瞳を見開く。
「シュザンから書状を受けとって駆けつけた。えらい有様だな」
分が悪いことを悟ったザシャが、最後の一撃を叩きこみ、それをリオネルに弾き返されると馬首を巡らせる。
あえて速度を上げずにザシャはその場から離れたが、リオネルは彼の挑発に気づいていて、後を追わなかった。ユスターの陣地に引きこまれれば、ザシャひとりを倒したところで、シャルム陣地に戻れる保証はない。
強力な援軍が駆けつけた今、リオネルにとってやらなければならないことはただひとつだった。
リオネルから〝叔父上〟と呼ばれた騎士は、リオネルとほぼ同じほどの背丈で、三十代半ばというあたり。リオネルの実母アンリエットの弟で、正騎士隊隊長シュザンの兄フェルナン・トゥールヴィルだった。
「ありがとうございます、心強いかぎりです」
二人の周囲はすでにベルリオーズ家とトゥールヴィル家の騎士団によって、完璧に守られている。リオネルの傍らではベルトランが、フェルナンのすぐ後ろでは美しい騎士が、主人らを守るように激しく剣を振るっていた。
共に鮮やかな手並みだ。
「怪我をしたのか」
血に染まるリオネルの衣服を見やって、フェルナンが眉を寄せる。リオネルは険しい面持ちで首を横に振った。
「家臣の血です」
ぐったりとするアベルへ視線を移し、フェルナンは声を低める。
「生きているのか」
「必ず助けます」
リオネルの強い調子に、フェルナンはうなずく。
「負傷者はだれかに委ねるのか、それとも自ら運ぶのか」
アンリエット譲りの深い紫色の瞳をひたと向けられて、すぐにフェルナンは悟ったようだ。
「ああ、おまえが運べばいい、リオネル。――ここは任せろ。委ねてもらえれば、ベルリオーズ家の騎士団はクロードと共に私が指揮する」
「ありがとうございます」
叔父の言葉に、迷うことなくリオネルは頭を下げる。
フェルナンが軽く顎をしゃくった。
「早く行け」
そう言うフェルナンの傍らで、美しい騎士がちらと振り返る。長い朱色の睫毛と白い肌が印象的な美形だ。
「おまえもだ、ベルトラン。リオネル様をしっかりお守りしろ」
たおやかな姿に似合わず口調は男勝りだ。
「言われずともわかっています」
ぶっきらぼうに言い返すベルトランと、美貌の戦士の視線が交わる。
「相変わらずだな、ベルトラン」
「兄上こそ」
短くベルトランが答える。
――兄上。
そう、女性のごとき容姿だが、この戦士はまぎれもなくベルトランの兄で、ルブロー家次男ロランドだった。
ベルトランがリオネルに仕えるのと同様、ロランドはトゥールヴィル家に仕え、主人の用心棒を務めている。長身で筋肉質のベルトランとは似ても似つかない、兄弟とは思えぬ体格差だ。
「ロランド殿、すみませんが、よろしくお願いします」
リオネルに声をかけられると、美貌の戦士は剣を振るうのを束の間やめて、すっと頭を下げた。
しっかりとアベルを抱え直し、リオネルは馬の腹を蹴る。寸分も遅れずにベルトランが従った。
二人は脇目も振らずにシャルム軍営へ戻る。
戦いの最中の軍営には、わずかな警備の兵士と、負傷者、そして軍医がいるだけで閑散としている。負傷者が集まる大広間などは重苦しい雰囲気が流れていた。
馬から降りたリオネルはアベルを自室まで運ぶ。そのリオネルを見やって、ベルトランが短くつぶやいた。
「リオネル、左腕が動くのか」
なにも答えずリオネルは石積みの階段を駆け上る。リオネル自身もさすがに左腕について自覚しているが、今は喜ぶ気持ちになれない。
寝室の扉をくぐり、リオネルは自らの寝台へアベルの身体を横たえた。
アベルの服は血に染まり、ぐっしょりと濡れている。よくよく見れば右胸の下方から斜め下の腹にかけて、服が無残に裂けていた。
「アベル――アベル……」
細い手を握り、リオネルが呼びかけるが反応はない。指先からは力が抜けきっていた。
リオネルの胸に鋭い痛みが走る。
アベルは顔も唇も真っ蒼だ。まるで生気を感じられない。胸元がわずかに上下していることだけがせめてもの救い。
ここへ来るまでに呼んであった医師が、慌てた様子で部屋へ駆けつけた。
「リオネル様……」
息を切らしながら医師はリオネルに一礼する。
「この人をすぐに診てほしいんだ」
アベルを見下ろした医師は、表情を険しくする。
「これは……」
「意識がない」
焦りの滲む口調でリオネルが説明した。
「出血もひどいし、まだ止まっていない。まだ十六歳の女性なんだ。――頼む、救ってくれ」
驚愕の表情で医師はリオネルを見返す。
「女性が戦場に?」
「とても大切な人だ。おれにできることなら、なんだってやる。尽くせる手はすべて尽くしてくれ。彼女の命を救ってほしい」
リオネルは医師に懇願する。ひどく慌てて医師は両手を上げた。
「リオネル様――、むろん力を尽くします。どうか頭をお上げください。必ずや、この方をお助けいたします」
「頼む」
医師がアベルの衣服の紐をほどきはじめると、リオネルは無言で踵を返す。
衣服の下にあるだろう無残な傷口を想像すれば、それだけでリオネルは心臓が凍るような心地がした。抱き上げたときの、細く軽い少女の身体。
それが、これほどの怪我を負った。――なぜ。
「どこへいくんだ」
ベルトランが問う。
「戦場だ」
まだ仲間や家臣が、激しい戦いの最中で剣を振るっている。むろん、深手を負ったアベルのそばから離れることはリオネルにとってひどく辛いことだったが、戦う以外にできることはない。
回廊を歩きだそうとするリオネルの背中へ、ベルトランがすかさず声を放った。
「いいのか」
「……ここにいても、おれはアベルのためになにもできない」
拳を握るリオネルは、苦い表情だ。
「トゥールヴィル家が到着したということは、ルブロー家も参戦しているだろう。おれが戦場へ行く。リオネル、おまえはここに残れ」
ルブロー家はベルトランの生家である。ベルリオーズ家とアベラール家が命運を共にする家同士だとすれば、トゥールヴィル公爵家とルブロー伯爵家もまたよく似た関係にあった。
ベルトランの説得には答えぬまま、リオネルは唇を噛み締める。
「アベルはなぜ戦場にいた」
「…………」
「いつからいたんだ……こんなことになるとは」
「戦場にいたのは、おまえの力になりたかったからだろう」
はっきりとベルトランが告げると、リオネルはわからないという顔をする。
「アベルはおれのもとを去った」
「ああ、そうだ。だが、おまえのことが嫌いで去ったわけではない――言ったはずだ、おまえを守るために去ったと」
「おれの気持ちを受け止められなかったからだろう」
「そうじゃない。もし、あのときおれの言葉を理解できていなかったなら、もう一度言ってやる。アベルの居場所は、この世におまえのそば以外にはない。そばを離れたのは、自分はおまえに愛されるに相応しくない、このままそばにいてはおまえの立場を悪くする、そう考えたからだ」
「馬鹿げている」
「あの子は真剣だ」
「すべておれのためだというのか」
「それくらいアベルはおまえのことを想っている」
「馬鹿げている」
同じ言葉をリオネルは繰り返した。
「だからといって、どうしてこんなことにならなくてはならない。どうしてアベルがあんな姿にならなくてはならない」
ベルトランがリオネルの疑問に答えるまでに、しばしの間があった。
「同じ家臣として、おれはアベルの気持ちがわからなくはない」
リオネルは沈黙する。そして、言葉をこぼす。
「……おれは、なにをしているんだ」
「きっと助かる」
「ああ、当然だ。死んでいいはずがない」
語調を強めて言うと、リオネルは回廊を足早に歩みはじめる。
「アベルのそばにいろ」
呼び止められても、リオネルは足を止めなかった。
「今のおれがアベルのためにできることは、ユスター兵を追い払うことくらいだ。――必ず仇を討つ」
「おまえがそばにいることが、アベルの生きる力になる」
「生きる力? さっきベルトランの言っていたことが本当なら、おれのせいであの子を幾度も危険に晒した。今回もだ。アベルをあんな目に遭わせたのはおれだ」
「もしこのままアベルの意識が戻らなかったらどうするんだ。一生後悔するぞ」
ようやくリオネルの足が止まる。と、ほぼ同時に追いついたベルトランを、リオネルは鋭く睨み上げた。
「――このまま意識が戻らないなどと、二度と言うな」
「アベルのことを思うなら、そばにいてやれ」
「おれは戦うことでしかアベルに報いてやれない。それに、ベルリオーズ家の騎士団を率いる義務と責任がある」
「ならばせめて今日一日くらいは、ひとりの男でいたらどうだ?」
リオネルは小さく口を開いたものの、言葉を発しない。
「惚れた相手が命の危機にあるときくらい、そばにいる以外になんの役にも立たない、つまらない男になってもいいだろう。本気で女に惚れた男ほど、馬鹿でつまらない生き物はないはずだ」
「…………」
「そばにいたいんだろう?」
紫色の双眸をリオネルは細める。
「医者だって、他に手当てしなければならない負傷者がいる。常にアベルのそばにいられるわけじゃない。おまえがいてやれ」
沈黙しているリオネルの肩をぽんと叩き、ベルトランは微笑をひらめかせる。
「おまえのそばを離れたくないが、しかたがない。あとでラザールかダミアンあたりを護衛につけさせよう。――おれが、おまえのぶんまで戦ってきてやる」
ベルトランは主人を残し、足早に廊下を去っていった。