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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第六部 ~一夜の踊り子は誰がために~
357/513

39





 戦地から最も近い町を、フルティエールといった。


 国境沿いの街というのは、常に国同士の諍いに巻き込まれて苦労をする。


 ローブルグとシャルムの国境に位置するアベルの故郷デュノア領も、かつてはローブルグの領土になったり、シャルムの領土になったりと安定しない位置にいた。

 ――といっても、それは、国の名前も現在とは異なるほど何百年もまえの話だ。

 シャルムが大国になり、デュノア領がその領土に編入されてからは、比較的安定した統治が可能になった。


 おそらくロルム領内のこの町も、同じ運命を辿ってきたに違いない。


 通りには人気ひとけがなかった。

 一方、市場や、居酒屋、食堂などに行けば、人々が不安そうに集まっているのを目にする。緊張感を顔に張りつけた彼らは、この町を出ていくかどうか互いに相談し合っているようだった。


 もしユスター軍がシャルム軍を破って領土内へ侵入してくれば、この町は真っ先に略奪の対象となる。

 裕福な商人や職人などには、すでに財産を抱えて町から避難している者もある。けれど、土地に縛られている農民や小作人はその限りではない。そも農地がなければ、彼らは生きていけないのだ。




 その夜、少しはまともな食事を取らなければと、アベルは町の食堂へ入った。


 実に小さな食堂で、十人ほど入れば満席になるほどの広さだ。

 田舎らしい石造りの建物で、店内の窓は入口の脇についている小窓だけである。侵略者が来たときに、扉だけを死守すればいいように造られているようだった。


 食堂内にはすでに何組かの客がいる。

 農夫らしき男が三人、壁際の席で顔を寄せ合って話しており、他の客も静かに食事を取っている。


 何気なく空いている席に座ると、そばに座っていた客がびくりと肩を震わせた。不思議に思ってアベルは相手の顔を見やるが、記憶にない。

 まだ若く、特に貧しくもなさそうが、どこか挙動不審だ。まとっているのはどこにでもある黄土色の外套で、服装からは生業が推測できなかった。


「なににしますか」


 狭い店なので、調理場から直接店主が声をかけてくる。鴨の燻製と蜂蜜酒を注文して、アベルは姿勢をもとに戻した。

 とりあえず若者のことは意識しないようにして、アベルはぼんやりと店内を見渡す。


 狭い店内だが、ひとつしかない窓や机のうえには花が飾られていて、洒落た雰囲気だ。落ちついた店内に、ほっとする。


 一日中戦場にいると、アベルの感覚は徐々に麻痺してしまう。

 戦いを終えたあと、このようにぼんやりとして自らをまっさらにしなければ、自分のなかでなにかが狂ってしまう気がした。


 自分の両手に視線を落とす。

 剣を握るには細すぎる指が並ぶ。

 血は洗い流したのに、随分と汚れている気がした。

 大切なものを守るためならば、どれだけ汚れてもかまわない。


 今のところリオネルやディルクらが、ひどく負傷したという話は聞こえていない。毎日、リオネルらの無事を確かめることができるだけでも、戦場にいる意味はあった。


 そのうえ、彼らの力になれるなら――。


 大きく息を吐き出し、視線を上げれば、隣の席で、机に両手をついて深く項垂れる若者の姿が目に入る。すでに彼の酒杯は空だ。


 料理が運ばれてきて、アベルはそれを口へ運ぶ。かなり長い時間をかけてすべて食べ終えたが、それでも若者は動かぬままだった。寝ているのだろうか……それとも、具合が悪いのだろうか。


「大丈夫ですか?」


 散々迷ったが、アベルはついに声をかけることにした。


 すると敵にでも遭遇したように若者は飛び退く。声さえ出せない様子だ。

 若者が驚いたのと同じくらい、アベルも驚いた。


「ご、ごめんなさい」


 椅子から転がり落ちそうになっている若者を、農夫らが不審げに見やる。どうも彼らの知る相手ではないようだ。

 小さな町である。互いに顔見知りではないということは、この男は他所者なのかもしれない。


「なん、な、なんの用だ」


 若者は舌を噛みそうになりながら尋ねた。


「その……ずっと下を向いていたので、気分が悪いのかと思って」

「き、気分? い、いや、別に悪くない」


 若者は目をきょろきょろと動かして、周囲をうかがっている。目の下にはひどい隈があり、顔色も悪い。憔悴しているようでもあり、なにかを怖がっているようでもあった。


「そうですか」


 ならよかったです、とアベルは相手を安心させるために笑って見せる。

 アベルの笑顔を男はしばし見つめてから、はたと我に返って視線を逸らす。


「あ、ああ、そう、気分は、だ、大丈夫だよ」

「お代わりしますか?」


 空の酒杯をアベルが指差すと、男は首を横に振った。


「……金が、ない」


 アベルは革袋にある銀貨のことを思い出す。貴重な生活費だが、酒を一杯奢るくらいならかまわないだろう。

 若者のために葡萄酒を注文すると、若者は目を見開いた。


「おれになにか用か?」


 ひどく警戒しているようだ。


「いえ、なにか飲み物でも口にすれば落ち着くかと思って――余計なお世話でしたら、すみません」


 若者は困惑の表情になった。


「な、なんでこんなことしてくれるんだ?」


 アベルは首を傾げる。


「さあ……なんででしょう」


 しばらく悩んでから小さく笑った。


「自分でもわかりません」

「…………」


 葡萄酒が運ばれてくる。


「どうぞ」


 アベルに促されると、若者はおそるおそる手を伸ばす。けれど、途中でその手を止めた。

 黙ってアベルはその様子を見守っていた。


「あんたはだれた? なんでおれにかまうんだ」


 若者がアベルに問いかける。


「さあ、わたしはだれなんでしょうね」


 アベルは視線をうつむける。


「自分でもよくわかりません」


 先程と同じ回答をして、再び小さく笑う。

 すると若者が顔を上げ、アベルをまっすぐに見据えた。


「――おれは最低な男なんだよ」


 若者の瞳をアベルは見返す。


「なぜですか」

「……仲間を裏切った」

「仲間?」


 若者はうなずいた。


「おれは、ロルム家に仕える兵士だったんだ」


 予想もしていなかった言葉に、アベルは瞳を大きく見開く。まさかこの町でロルム家の兵士に会うとは思いも寄らなかった。


「ロルム家の兵士……」

「逃げてきたんだよ」


 ……そういうことだったのか。

 アベルは納得する。彼は、戦場から逃れてきた脱走兵なのだ。彼が怯えていたのは、素性を見破られたり、仲間に遭遇したりするのが怖かったからかもしれない。


「どうだ、卑怯者だろう?」


 おそらくそれは、彼が人から言われることを最も恐れていた言葉だ。けれど若者は、自らそれを口にした。


「あんただって、卑怯者に酒を奢りたくないだろう?」


 そう言って若者は酒杯を押し返す。

 アベルは若者のことを不憫に思った。

 だれだって死ぬのは怖い。戦場では死が隣り合わせだ。


 アベルは押し返された酒杯へ視線を落とし、ぽつりと言う。


「卑怯者でもいいではありませんか」


 若者が顔を上げた。


「裏切ったといっても、仲間を敵に売ったわけではありません。あなたは自分の心に正直だったのです」

「けれど皆は戦ってる――怪我もしているし、命を落としたやつだっている」

「あなたは自分自身と戦っているではありませんか」


 驚いたように若者はアベルを見つめる。


「心は傷だらけです」


 若者は両手を握りしめた。


「怖いと思う気持ちは、人それぞれです。だから、戦う相手も、それぞれ違うのかもしれません」

「おれはもっと強くなりたかった。腕とか、力とかそういうのじゃない。心が弱いんだ。敵を恐れず戦えるくらいに強くなりたい。――でも、なれない。戦場へ行く一週間もまえから、夜は一睡もできなくなった。怖くて怖くて、行ってもいないのに戦場で死ぬ夢ばかりを見る。それで、おれは逃げ出してしまった」

「後悔しているのですか」


 尋ねると、若者はこくりとうなずく。シャルム人らしい茶色の髪が揺れた。


「それでも、あなたはこの町にいるではありませんか」

「…………」

「逃げようと思えば、どこへでも逃げることができるのに」


 ロルム家の兵士は答えない。


「あなたは、これからどうしたいのですか? 死ぬのが怖いなら、もっと遠くへ逃げてはどうですか?」


 ゆるゆると若者は首を振った。


「なぜ?」

「仲間が戦っているのに、安全な場所にいけない」


 うつむく若者の茶色い髪を、アベルは黙って見つめる。若者もまた沈黙したまま動かない。

 しばらく時間が経過してからアベルは静かに言った。


「戦地に戻って、仲間といっしょに戦いたいのでしょう?」


 すると、さらに経ってから若者が小さくうなずく。


 ――おそらく仲間と共に戦うこと以外で、彼の心が救われることはない。

 そのことにアベルは気づいていた。


「明日の朝、いっしょに戦場へ向かいませんか?」


 ずっとうつむいていた若者が、え、と顔を上げる。

 アベルは微笑した。


「実は私も戦いに参加するためにここへ来たのです。明日、いっしょに戦いにいきませんか? 一日精一杯戦って、それから仲間にもう一度会ってみてはいかがでしょう」


 若者はわずかに眉を寄せる。やつれた顔を、逡巡の色がかすめた。


「明日、夜明け前にこの店のまえで待っていますね。もちろん来なくてもいいです。あなたが決めてください」


 戸惑う瞳へ最後に笑いかけて、アベルは席を立った。若者の葡萄酒代も含めて代金を支払うと、アベルは店を出る。


 明日の朝、若者が現れても現れなくてもかまわない。

 戦場へ向かうこと自体に大きな意味があるわけではない。

 罪悪感を抱きながらでも、生きながらえることが彼の生き様であるならそれはそれでいいのだ。


 ただ、ここでひとつの判断を下すことが、彼にとって、なにかのきっかけになればいいと思った。






 ……翌朝、アベルが食堂の前へ行くと、そこには昨夜の若者の姿があった。

 不安を押しのけようとするかのように、強張った、けれど決意の滲む表情で彼は立っていた。


「戦場へ行きますか?」


 尋ねると、若者はしっかりと首肯する。

 彼は「ブリュノ」と名乗った。奇しくもロルム領の片隅で出会ったパン屋の息子と同じ名だったが、アベルは真実をあえて確かめなかった。






+++






 その日、アベルはブリュノと共にシャルム軍に加わった。


 ちょうど右翼は、ロルム家の守備位置である。ブリュノは仲間のもとに戻ったのだ。激しい戦いの最中で、アベルはブリュノとはぐれた。

 ブリュノのことを案じたが、戦場ではどうにもならない。

 彼が無事に戦いぬき、仲間のもとへ戻れることをアベルは願った。


 風が強い。

 戦場を吹き抜ける強風が、アベルのまとう外套のフードを煽り、金糸の髪を露わにさせる。けれどフードを直す余裕はない。


 剣をひるがえしながら、アベルは思う。

 ユスター軍の攻撃が普段より甘い。

 ――いや、数も少ないのではないだろうか。


 敵は戦略を変えてきたとも解釈できる。だとすれば、この先どのような出方をするのか気を払わねばならない。





 アベルがそのことに気づいているのだから、当然ながら軍人フランソワや、ロルム公爵もわかっていた。

 しかし中央や左翼の状況はここからは判じかねる。右翼から他方へ兵力を集中させている可能性もあった。


「フランソワ殿!」


 将官フランソワ・サンティニを呼ぶ声は、アベルの近くから上がる。アベルはそちらへ注意を向けた。


「いかがでしたか」


 フランソワの声だ。

 視線をやれば、たしかに豪快に剣を振るう姿がある。そのそばに、背のさほど高くない、けれどしっかりとした身体つきの騎士が馬を近づける。馬や服装から察するに高貴な身分の者だ。


「やはり今日は、中央に兵力を集中させているようです」


 兵士に様子を見にいかせたのだろう。彼は状況を語った。


「敵はこちらにいた兵士らを、中央へ配置しなおしたと考えられます」

「エルヴィユ家に中央へ加わってもらったのは正解でしたね」


 フランソワの意見に、けれど高貴な騎士は表情を曇らせる。


「それでも状況は厳しいでしょう」

「持ちこらえられそうですか」

「むろんベルリオーズ家が前線で奮闘しています。ですが現時点でユスター兵はシャルム兵の数を遥かに上回っています」


 低くフランソワは唸る。


「こちらから兵士を割きますか……」


 前日と比べ、右翼を攻撃するユスター兵の数は少ない。中央へ回しても問題はないと思われた。


「それが得策でしょう。ですが右翼の守りは肝心――ついては、正騎士隊にはこちらに残っていただき、我らロルム家の隊が中央へ向かうというのはいかがでしょう」

「むろんです。中央への加勢は公爵殿にお願いいたします」


 我らロルム家、というからには、高貴な騎士はロルム家に所属する者だ。軍事権を握っているなら、ロルム公爵本人なのかもしれない。

 互いに納得しあうと、高貴な騎士はその場を去った。




 自分も中央に移って戦おうか――しかし、顔を見られてはまずい、などとアベルが考えていると、突如聞き覚えのある声が耳に飛び込んでくる。


「少年」


 自分のことだろうかと顔を上げれば、フランソワの視線がこちらへ向けられていた。


「昨日は宿営地へ来なかったな。あと十枚くらいは銀貨を渡せたというのに。リオネル様に相談して金貨もいただけるようにしてやろうと思ったが、残念ながら話をする機会を逸した」

「…………」


 それほど金に困っているように見えただろうかと、アベルは内心で首をひねる。あるいは賞金目当ての傭兵と思われたのかもしれない。

 どちらにせよリオネルに話が伝わらなくてよかった。


「状況はさっきロルム公爵殿の語っていたとおりだ」


 密かにアベルが話を聞いていたことに、フランソワは気づいていたようだ。


「おまえはここに残ってくれ。いささか嫌な予感がする」


 アベルは視線を上げた。

 背の高いフランソワがこちらを一瞥する。


「いや、たしかに今日、敵はベルリオーズ軍のほうへ兵力を集中させている。シャルル殿の隊がいなければ、甚大な被害だっただろう。これまでの作戦を転換させた可能性もあるし、これまで中央を避けて攻めていたのは、我々の目を欺くためだったかもしれない」


 アベルがなにも答えないので、フランソワはひとりで話しているかのようだ。


「しかし、リオネル様がやけに右側の守りを気にかけておられたのが、今更ながらに気になる。あるいはリオネル様はなにか感じておられたのかもしれない」


 無言で眼差しを向けてくるアベルをフランソワは見下ろす。


「圧倒的に、兵力においてあちらは有利だ。だからこちらは策を巡らす余裕はなく、国境を死守することに全力を挙げる以外にない。さて、もしおれがユスター側なら、どうやってしぶといシャルム軍を叩きつぶすか?」


 アベルは軽く眉をひそめた。


「――いや、こちらの話だ」


 フランソワの懸念をはっきりとは理解できない。けれど、ぼんやりとならわかる。つまり、ユスター軍がシャルム軍を翻弄することは容易だということだ。


「おまえはおれの近くにいろ。いざとなれば、おれとおまえで百人ずつは斬れる」


 褒め言葉として受け取ってもいいだろう。――あのフランソワ・サンティニから頼みにされたのだから。


「ただ、気をつけろ。リオネル殿も容易に倒せぬほどの敵が、ユスターにはいるらしい。なんという名だったかな、リオネル殿を恨んでいるのだと、ベルトラン殿から聞いたのだが」


 リオネルを恨んでいるユスター人と聞いて、思い当たる人物がいる。


「ザシャ・ベルネット……」


 小声でアベルが言うと、フランソワは髭に覆われた顔に驚きの色を走らせた。


「おまえ――」


 そのときだ。

 低い轟音が生じる。

 雷か――、いや空は快晴だ。


 足元が震えるのではないか思えるほどの地響きが、北西の方角から生じていた。


「敵兵だ」


 フランソワがつぶやく。

 二人は顔を見合わせる。それからほぼ同時に、アベルとフランソワは馬の腹を蹴って北西へ駆けた。


 敵味方入り乱れる兵士らのあいだを駆け抜け、一帯から抜け出て視界が広がれば、川の浅瀬を渡ってこちらへ押し寄せる大軍が目に飛び込んでくる。


 ――そうか。

 アベルは悟った。おそらくフランソワも同様だろう。


 やはり敵の狙いはシャルム軍の右翼だったのだ。それは、ユスター軍においては一貫した方針で……。


「やはり中央を攻めたのは罠だ」

「このまま右翼へ突入されれば、守りは崩れます」

「片側から突き破られ、シャルム軍は壊滅的な被害を受けるな」


 二人は再び顔を見合わせ、そしてうなずいた。

 今、やらなければならないことは、ただひとつ。


 同時に馬の腹を強く蹴る。

 押しよせてくる大軍へ向かい、アベルとフランソワは猛烈な速さで疾駆した。


「悪いな、少年。報賞は弾む」


 小さくアベルは笑う。


「では、命があればたっぷりいただきます」


 フランソワもまた口端を吊り上げる。


「ああ、だから死ぬなよ」


 二騎は敵軍の只中へ突入した。











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