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辺境の村々を過ぎ、長閑な風景のなかを西へ進めば、小高い丘のうえに城を認める。その麓に密集する天幕は、シャルム軍の宿営地であることを示していた。
ついにアベルは、ユスター国境に辿りついたことを知る。
丘の向こう側にある戦場は、ここからは確認できないが、男たちの叫び声や馬の嘶き、剣の交わる音が折り重なった戦いの響きはここまで伝わってくる。
アベルは馬の足を速めた。
宿営地を過ぎ、さらに馬を駆ければ、戦いの音は徐々に激しく鼓膜を打つようになる。
アベルの視界に戦場の光景が飛び込んできた。
大地が緩やかに起伏しているため、全体は見渡せない。けれど、ここからの光景を目にしただけでも凄まじさは一目瞭然だった。
この戦場のどこかにリオネルがいると思えば、アベルの胸は締めつけられる。
無事だろうか。
怪我などしていないだろうか。
左腕は、変わらず動かせないのだろうか。
リオネルと別れて二十日ほど。
まだひと月も経っていないというのに、彼の存在はとても遠く感じられた。
この戦場にリオネルがいるなど信じられない。ベルトランも、ディルクも、マチアスも、レオンも、ラザールも、ダミアンも、バルナベも……皆、無事だろうか。
アベルには微塵の迷いもなかった。
かつての主人と、仲間たちのために戦うのは、アベルの望みであり喜びである。
荷物を草陰に隠し、外套のフードを被る。それから再び馬に跨り、アベルは長剣を鞘から抜き払った。戦闘の真っ只中へ突入していく。
本人は気づいていなかったが、アベルが突入したのは、現在右側面からの攻撃を守るフランソワ・サンティニ率いる隊の一帯だった。
ちょうどユスターが、シャルム陣形の側面から崩そうと力を入れ始めたころである。戦場でも最も戦いの激しい場所のひとつだ。
ディルク率いるアベラール軍は陣形の左翼側――テュリー伯爵の隊がある場所へ援護にまわっている。
開戦当初から戦いに加わり疲弊しているロルム公爵が守る右翼は、苦戦を強いられていた。側面を守っていたはずのフランソワの隊も、すでに右翼へ援護に入っていた。
その右翼側へ参戦したのがアベルだ。
たちまちアベルの剣にかかったユスター兵が、絶叫と共に馬から転落し、地面に落ちていく。
小柄であるため、はじめは目立たなかったアベルの豪勇も、五人、六人と鮮やかに倒していくうちに人目を引くようになった。恐ろしく強い少年騎士がいると。
馬に矢を受けて地面に転がったシャルム兵に、ユスター兵が止めを刺そうと槍を衝きだす。すると、その脇で戦っていたアベルが、止めを刺そうとしていたユスター兵の背後から剣を衝く。さらには、小柄な少年と見くびって群がるユスター兵を、鮮やかな手並みで斬り倒していった。
ユスター側にとっては最悪の展開である。一気に右翼から崩そうというときに、たかがひとりの少年といえども、手強い相手が現れたのだから。
むろんフランソワやロルム公爵らにとってはありがたいことだ。アベルに命を救われたシャルム兵はその日だけでも数知れない。
激しい戦いは日没まで続いた。
限界まで戦い終えると、アベルは両国が兵士を引き揚げるより先に戦場を後にする。空腹と疲労が激しかったからだ。
翌日も、その翌日も、アベルは開戦後に戦いに加わり、そして限界まで戦うと両国の撤収より先に姿を消した。
戦いの中盤にシャルム軍を助け、どこへともなく姿を消す謎の少年は、ロルム家の騎士団やフランソワの隊で噂になった。
アベルがシャルム軍の右翼という位置に居続けたのは、数日の戦いのなかでベルリオーズ軍やアベラール軍がここには配置されていないということがわかったからだ。一番初めに加わった場所が、結果的にアベルにとっては最適だったといえる。
戦いに加わって四日目のこと。
戦いのさなかにアベルは、体格のよいシャルム騎士と出くわした。
その大柄な騎士の周囲に敵兵はまばらだ。ユスターの兵士は、彼に近づくのを恐れているようである。時折、果敢に斬りかかってくるユスター兵もいるが、ことごとく返り討ちにあっていた。
「おまえは――」
大柄な騎士は、フードをかぶったままのアベルをみとめて目を細めた。
「――騎士らが噂している、あの少年か」
騎士らの噂などアベルは知らない。「あの少年」かどうかと聞かれても、答えようがなかった。
「なるほど、小さいな」
たしかにこの男からすれば、アベルなど子供のようなものだろう。アベルがちらと視線を上向けると目が合った。
「小さいのに、先程から見ていれば素晴らしい腕前だ」
ありがとうございます、と言うべきなのだろうか迷って、けっきょくアベルはなにも答えなかった。
「なぜ我々に味方する」
「…………」
敵と剣を交えている最中だというのに、男はやたらとアベルに話しかけてくる。
「見たところシャルム人ではないな。ユスター人か、それともローブルグか」
フードからこぼれ出た髪と、瞳の色で彼は判断したようだ。
けれど、母はブレーズ家令嬢、父はデュノア伯爵――生粋のシャルム人である。
「我々を助け、味方についたふりをして、シャルム軍に入りこみ寝首をかくつもりか?」
思わぬ台詞に、アベルは眼差しを鋭くして巨漢を睨み上げた。その眼差しに、男は声を上げて笑う。
「冗談だ。間者なら、いくら敵を欺くためとはいえ、これほどユスター兵を倒しはしないだろう。言ってみただけだ、すまない」
「…………」
戦いに参加しているとは思えぬ余裕ぶりである。けれど、この男がアベルの反応を試したということくらいは、アベルにもわかる。
「いつも戦いの終いには姿を消すが、どこから来て、どこへ消えているのだ?」
質問ばかりだった。男はアベルの正体が気になるようだ。
「随分と痩せているが、ちゃんと食べているのか」
あらためて他人から問われると、アベルは途端に腹のあたりが切なくなる。
実のところ、近頃アベルはまともに食事をとっていない。戦いが終われば、戦地から最も近い町まで行き、そこでわずかなパンを食べ、安宿に泊まっては再び翌朝戦いに参加している。
所持金もあと一回パンを買えば底をつくという状況だ。
「金はないようだな」
アベルの表情から読み取ったのか、男は見事に言いあてた。
周囲に敵がいないのを見計らって、男はアベルに向かってなにかを投げる。慌ててそれを受けとれば、一枚の銀貨だった。
驚いてアベルは男を見る。
「礼だ。もっと払いたいところだが、今は多くを持ち合わせていない。落ちついたら私のところへこい。宿営地で、〝シャルム正騎士隊に所属するフランソワ・サンティニに会いたい〟と兵士に告げればすぐに出てくる。そうすればもっと渡せるだろう」
――フランソワ・サンティニ。
その名には聞き覚えがある。
弓の名手であり、正騎士隊のなかでも指折りの優秀な剣士のはずだ。王宮の事情には疎いアベルでさえ知っているほどの将官である。
フランソワをじっと見据え、それから手のなかにある銀貨へ視線を移す。
「とっておけ」
もはや所持金の尽きたアベルにとっては、まさに天の恵みだ。
銀貨をそっとしまってから、無言でアベルは頭を下げた。フランソワは髭面を笑ませる。
「また会おう」
そう言って、フランソワは敵軍めがけ馬を駆けていった。