36
「珍しいなあ」
大広間では負傷者の手当てが行われている。ひどい有様だ。薬種や薬草、血の匂いが入り混じり、そこへ負傷者の呻き声が加わる。
兵士らの顔には疲労の色が濃かった。
その大広間の一角、低い木製の長椅子にリオネルが腰掛け、ベルトランから傷の手当てを受けていた。そばには、ディルク、マチアス、そしてレオンの姿もある。
なぜ見張りについていたはずのベルトランが、リオネルの手当てをしているのかというと、彼が戻ってくるまでリオネルは他の負傷者の世話に明け暮れ、自らの怪我を放置していたからだ。ベルトランが激怒したことはいうまでもない。
左腕の傷口に薬酒をかけられ、リオネルはわずかに顔を背けて眉を寄せる。そんな親友を見ながら、ディルクがしみじみと言った。
「リオネルが怪我をするなんて、そんなことが本当にあるんだなあ」
「狼には勝てなかったしね」
冗談のように答えるリオネルに、ベルトランが不機嫌な声を放る。
「呑気に言っている場合か」
友人の怒りを察してリオネルは口を閉ざした。
「もう少しで斬られるところだったんだぞ」
「…………」
「そもそも敵の只中に突っ込むこと自体が無謀だ。おまえは死ぬ気か」
包帯を巻く力が強かったので、リオネルは再び顔を顰める。
「心配をかけてすまない」
「そう思うなら慎重に戦え。ザシャ・ベルネット相手にもっと警戒しろ」
赤毛の用心棒は、相当ご立腹らしい。
「……わかっている」
「わかっていたら、あんな無茶苦茶な戦い方はしない」
ベルトランの説教を、リオネルは困り顔で聞いていた。
レオンはというと、ベルトランの説教にはあまり関わりたくないのか、リオネルのそばで肩をすくめて存在感を消している。レオンもまた、ところどころ擦り傷はあるものの、手当てを必要とするほどの怪我はない。
一方、ベルトランはかすり傷ひとつなかった。この戦場で、一箇所も傷がないというのは驚異的なことである。
怖いもの知らずの――あるいはなにも深く考えておらぬディルクは、その恐ろしきベルトランの怒りなど気にせず、思ったことをそのまま外界へ垂れ流した。
「ああ、このところ妙にベルトランは大人しくリオネルに従っていると思っていたら、ついに爆発したね。そりゃそうだ、よく耐えたほうだよ」
「おまえもだ、ディルク」
他人事だと思っていたのが、突然ベルトランから怒りの矛先を向けられて、ディルクはぎょっとする。
「えっ、なに、おれ?」
「リオネルの暴走を、どうしておまえは止めない」
暴走って……と、リオネルが苦笑する。
「そんなこと言われたって、おれにはどうにもできないよ。ベルトランだってそうだったんだろう? 黙ってリオネルの思うとおりにさせてやることくらいしか、リオネルのためにしてやれることはないって」
「ああ、そうだ」
あっさりとベルトランは認めた。
「だが、その結果がこれだ」
「まあさ、軽い怪我だったからいいじゃないか。左腕だって、もう血は止まっているし」
「小さな怪我を甘く見れば、あとで命取りになることもあります」
冷静な指摘をするのは、ディルクの優秀な従者だ。小うるさそうにディルクは背後を一瞥した。
「ザシャは心の底からリオネルを憎んでいる」
苦い口調でベルトランがつぶやく。
「根に持つ気質なんだね。よくいるよ、そういうやつ」
相変わらず呑気な発言を繰り返すディルクに、ベルトランは青筋を浮かべた。
と、そのとき、ちょうど大広間の扉からロルム公爵が足早にこちらへ向かってきたため、ディルクは赤毛の用心棒の雷に打たれずにすむ。
「リオネル様、お怪我の具合は」
心配そうに尋ねる公爵へ、リオネルは笑顔を返す。
「このとおり軽傷です」
どうやらリオネルの言葉が真実らしいと知ると、ロルム公爵は大きく息を吐く。
「貴方が怪我をされたと聞いたときは、心臓が止まるかと思いました」
「そんなことで止まられては困ります」
リオネルは微笑した。
「〝そんなこと〟と仰いますが――」
「ああ、もうそのくらいにしてあげてください」
ロルム公爵をディルクが途中で遮る。
「散々、ベルトランから説教を受けていたところなんですよ」
驚いたように公爵はディルクを見返してから、リオネルと赤毛の用心棒を交互に見やる。
「リオネル様に説教ですか」
「あまりにも戦い方が無謀だ、ってね」
ディルクの説明に公爵は納得したらしく、深くうなずいた。
「そのとおりです。貴方になにかあれば、我々はどうすればいいのですか。シャルムは希望を失うことになるのですよ。リオネル様は、しばらく養生してください」
「養生? この程度の怪我で必要ありませんよ」
「無謀な戦いをしないと誓うまでは、少なくとも後方に控えていてもらう」
公爵の代わりに、厳しく言いつけたのはベルトランだ。苦笑してリオネルは赤毛の用心棒を見上げる。
「暴走とか、無謀とか……散々な言われようだね」
「おまえのことが気にかかって、戦いに集中できない。おれのほうが先に斬られそうだ」
「それは困る」
実際に困った表情をしてみせるリオネルを見て、ディルクが声を上げて笑った。
「大丈夫だよ。ベルトランが斬られるなんて、天と地がひっくり返っても絶対ない」
「おれは化け物か」
「そんな感じ」
言いたい放題の主人を前に、マチアスが呆れ顔になる。
「ディルク様……」
「冗談はさておき、少しはご自身の身体のこともお考えください」
ロルム公爵が話を元に戻したので、リオネルはしかたなくうなずいた。
「心配をおかけして申し訳ありません。これからは、もう少し慎重に行動します」
「そのお言葉、たしかにこの耳で聞きましたよ」
念を押されて、リオネルは微妙な面持ちになる。助け船を出すかのようにディルクが皆を促した。
「さあ、夕飯でも食べるか」
「あなたはとことん呑気ですね」
マチアスの言葉にディルクはむっとしたものの、なにも言い返さない。これまで存在感を消していたレオンが、そのときようやく長椅子から立ち上がり、疲れた顔でディルクを見やった。
「ああ、なんだか一日中血を見ていたせいで食欲が湧かない。夕飯を食べる元気のあるおまえがうらやましい」
「なんだよ、二人揃っておれが能天気のような言い方だな」
「違うのか?」
「違うのですか?」
マチアスとレオンの声が重なり、ディルクは表情を曇らせる。するとリオネルが真顔で言った。
「こういうときに普段どおりでいられるのは、素晴らしいことだと思うよ」
「そ、そうかな」
まんざらでもない様子のディルクに、マチアスが平坦な声で告げる。
「良いご友人をお持ちですね」
「いやに含みのある言い方だな、マチアス」
「普段どおり能天気なおまえがうらやましいと、リオネルは言いたかったのだろう」
追い打ちをかけたのはむろんレオンだ。
「二人とも、おれになにか恨みでもあるのか?」
ディルクが苦虫を噛み潰したような面持ちになる。
一同のあいだに小さな笑いが広がったのが合図だったかのように、皆は大広間を離れ、食堂へ向かった。
+++
シャルムとユスターの国境を流れるルステ川を、北へ辿っていけば、ローブルグの王都エーヴェルバインである。
その街を流れるルステ川は、朝陽を受けても、昼の白い日差しのもとでも、また夕焼けの下でも、いつだって水面に七色に光る宝石をちりばめている。
この美しい川を見下ろす城の一室に、国王と側近の姿があった。
「シャルムは幾重にも一枚岩ではないようだな」
苦笑したのは、長い金糸の髪を持つ国王フリートヘルム――巷では〝男色家で変わり者のローブルグ王〟と呼ばれる男だ。
天井まである大きな窓の前で、フリートヘルムは二通の手紙を左右の手に掲げている。
一方はシャルム国王エルネストから届いたもので、もう一方はその配下である正騎士隊隊長シュザン・トゥールヴィルからのものだ。
エルネストからの書状はすでに半月ほど前に届いていたものだが、シュザンからの手紙は今朝方届けられたばかりである。
「交渉に赴いた使者は、リオネル・ベルリオーズ殿やレオン王子ではなく、第一王子ジェルヴェーズだったと公表してほしいというのが、シャルム王の希望だそうだ」
「は……」
長椅子の脇にこぢんまりと佇むヒュッターは、難しい顔つきでうなずく。
白髪の混じったこの男は、フリートヘルムの亡き兄アルノルトの、家庭教師を務めていた男だ。体格は中肉中背で、年も若くはなく、軍人というよりは学者気質だが、フリートヘルムの信頼を得てこうして側近として仕えている。
「随分と身勝手な要請で」
ヒュッターの率直な意見に、フリートヘルムは笑った。
「長子に国を継がせるため、必死なのだろう」
「ならば第一王子殿下ご本人を派遣すればよかったものを」
「それだけの理由があるということだ。シャルムの第一王子については、あまり良い噂が聞こえてこない」
「そうですな」
「兄弟なのに、レオン王子とは随分と違うようだ」
ヒュッターは無言になる。風変わりなこの国王が、シャルム第二王子レオンをいたく気に入っていることはヒュッターもよく知っている。
「我が国も一枚岩とは言えないがな」
「まあ、そうですな」
「シュトライト公爵を処刑するとなれば反発する輩も出てくるだろう。ユスターの一部も騒ぐかもしれない」
シュトライト公爵とは、前王の時代から急速に権力を握り、あまつさえフリートヘルムの兄アルノルトとその妻を死に追いやった人物である。
長きにわたってフリートヘルムは復讐の機会をうかがい、ついにはアルノルトの忘れ形見であるジークベルトを暗殺しようとした罪で、シュトライト公爵を捕らえることに成功した。
しかし、処刑するまでには幾度も裁判を重ねなければ、円滑に彼を処罰することは難しいのが現状だ。
けれどフリートヘルムはそれを確実に実行するつもりだった。シュトライト公爵の処刑が現実になるころには、彼の息のかかった官僚たちは王宮から一掃されている予定だ。
「ユスターあたりにつけいる隙を与えないためにも、今はシャルムとの関係をしっかりと築く必要があります」
「なるほど。おまえは援軍を出すべきだと?」
「はい」
「だが、今回の戦いでシャルム国王は動かぬようだぞ。下手に援軍を出せば、関係に傷がつく。シャルムは、国王派と王弟派に大きく二分している。シャルムのだれと関係を築いておくかということは、大きな課題だ」
フリートヘルムの意見に、ヒュッターは細い瞳をわずかに見開き、輝かせた。
「仰るとおりで……!」
長いこと政治に関心のなかったフリートヘルムが、政治的感覚を身につけてきたことがヒュッターは嬉しいらしい。
そんな側近の様子を、フリートヘルムは冷めた眼差しで一瞥してから、
「リオネル・ベルリオーズ殿を玉座に推す者が王弟派だとすれば、レオン王子もそうなのだろうか」
とつぶやく。
え、とヒュッターは片方の眉を上げた。
「だとしたら、なにか」
「ならば私も王弟派を支援しようかと思ってな」
そう言って、フリートヘルムはもう片方の手に持つ手紙をひらひらと揺すって見せた。シュザン・トゥールヴィルからの手紙である。
ヒュッターは落胆の面持ちになった。
「陛下、私情で政治上の物事を判断するのは、いかがかなものかと」
「私情だけではない。家臣や第二王子の功績を、自らの長子のものだけにするような王を信用できるはずがない。弟の王位を奪った王となれば、なおさら」
「ほう、そこまで考えておいででしたか」
「シャルムの正騎士隊隊長の手紙には、レオン王子も戦場に赴いたとある。怪我でもすれば大変なことだ。彼らを見殺しになどできまい」
「…………」
フリートヘルムの判断は、どこからが私情で、あるいはどこまでが政治的なものなのかヒュッターにはわからなかった。
「隊長殿の手紙によれば、シャルム正騎士隊は出陣を許されず、西方諸侯のみでユスター軍に対抗せざるをえない状況にあるようだ。今はまだ持ち堪えているが、ユスターが総力を挙げて攻め入ってくれば、西方諸侯らだけではとても食い止められないだろう」
「は」
「私は、裏切り者のシャルム国王ではなく、リオネル殿とレオン王子、そして私に幸運をもたらしてくれた水色の瞳の天使に味方しよう。彼らのために援軍を出せ。ただし、王命ではなく、そなたの私兵という名目で、だ」
「は? どういうことでしょう」
「自らの要請なしに、ローブルグの正規軍が動いたとなれば、シャルム国王も気を悪くするだろう。機嫌を損ねるのはかまわないが、レオン王子やリオネル殿に累が及んでは困る」
「それで、なぜ私の私兵という名目なのですか?」
「だれもそなたの名など知らないだろう?」
ヒュッターは目を丸くした。
「名も知らぬ老いた学者が派遣したローブルグの援軍など、だれも気に止めまい。むろん、最強の援軍を差し向けるつもりだがな」
「…………」
微妙な面持ちで、ヒュッターは首をひねる。
「妙案なような……しかし、なにか腑に落ちぬような……」
「すぐに戦地へ向かわせる兵士らを組織しなさい。そなたの私兵という名目であるうえは、采配はすべてそなたに任せる」
「かしこまりました」
ヒュッターは一礼して王の書斎を出た。
側近が去った部屋で、フリートヘルムは二枚の手紙を見比べる。それから、かつて真黒な侵入者の現れた暖炉へ目を向け、小さく笑った。