第三章 燃え尽きる西の大地 35
方々から上がる悲鳴と馬の嘶きが、大気を震わせる。人馬入り乱れた戦場は血の匂いに満ちていた。
夕陽が照らすのは、血の海と化した大地だ。
すでに陣形は敵味方共に崩れつつあり、互いに退却の時を見計らうときだった。
戦況は芳しくないものの、この二日間、シャルム軍は前線の位置を維持している。それはひとえに、最前線で戦うベルリオーズ家とアベラール家の両騎士団が、一歩も後退しないからだ。
時が経つにつれて、敵の攻撃は側面に集中しはじめている。中央を突破するよりも側面を狙うほうが効率よいと判断したようだった。
「リオネル、気をつけろ! 敵は最後に総攻撃を仕掛けてくるかもしれない」
叫んだのはディルクだ。
剣を振るっていたリオネルがちらと親友を振り返る。が、すぐに正面から矢が降ってきて、リオネルは視線を戻してそれを斬り落とした。
「さっきから敵の動きが鈍いのが気になる」
静かに紡がれた声だが、それはたしかに地獄耳のディルクには到達する。
「嵐のまえの静けさか」
「――あるいは、このまま引いていくか」
うぅん、とディルクは唸る。
「どうかな」
「今は左翼のほうに敵は集中しているようだ」
発言したのは、馬上ですっと背筋を伸ばす長身のベルトランだ。彼は容赦なく敵を倒しつつ、視線は南方へ向けている。
「あちらへ兵力を移動させるか」
ディルクの提案に、ベルトランが苦い声を返した。
「中央が手薄になった途端にこちらへ兵力を集中させて、正面突破を画策している可能性もある」
「考えうるね」
同意するディルクに向けて、リオネルは言い放つ。
「可能性を考えていては、きりがない。こちらはおれたちで守る。ディルクは騎士を率いてテュリー伯爵を助けてきてくれないか」
「中央を手薄にするのは得策じゃないよ」
「左翼が崩れれば、どのみち結果は同じだ」
じっとリオネルを見返すディルクは、考えこむ様子だ。瞬間、横合いから衝きだされた槍を、ベルトランが敵兵から奪った剣で叩き落とす。
「おお、危ないところだった。ありがとう、ベルトラン」
「ぼんやりして隙を作るな。考え込んで命を危うくするくらいなら、さっさと左翼へ向かえ」
ベルトランの厳しい言葉に、ディルクは肩をすくめる。
「わかったよ。……なるべくリオネルのそばから離れたくなかったけど、護衛はベルトランに任せる」
そう言って最後にリオネルに目配せし、ディルクは馬首を巡らせる。
アベラール家の一隊が、中央から離れていく。その直後のことだ。凄まじい速さでユスター側からこちらへ駆けてくる一隊があった。
これまでの動きの鈍さは、やはり中央から左翼へ兵力を裂かせるための罠だったのか。けれど接近してくるのは、さほど大規模の隊ではない。
「気をつけろ」
ベルトランが低く告げる。が、ほぼ同時にリオネルは馬の腹を強く蹴っていた。
「リオネル!」
「待っているくらいなら、こちらから出迎えにいく」
手の不自由さを感じさせぬ軽やかさで、リオネルが敵に向かっていくと、ベルトランは仏頂面を濃くして従う。さらにベルリオーズ家の騎士らがそのあとに続いた。
近頃のリオネルの無謀さは、呆れるほどだ。
この無謀ともいえる勢いがあるからこそ、シャルム軍はどうにか前線を持ちこたえているのでもあるが、それにしても激しい。
敵味方が正面からぶつかり合うと、前も後ろもわからぬようななかで、たちまち激しい戦闘が繰り広げられる。
リオネルの長剣が鮮血をまとう。
流麗な剣技でありながら、的確に致命傷を与えるのが恐ろしい。
そのリオネルのもとへ、ひと際立派な馬に跨った一騎が、ユスター軍のなかから猛烈な勢いで近づいた。
「リオネル」
鋭くベルトランが忠告したものの、すでに相手はリオネルの目前へ躍り出ている。
馬上で長剣をかざしたのは、赤茶色の癖毛を持つ偉丈夫だ。
「リオネル・ベルリオーズ!」
敵は目を眇めてリオネルの名を叫んだ。
リオネルは剣を握り直し、敵へ向き合う。
「貴様の首を取りにきたぞ! エーヴェルバインでの恨み、晴らさせてもらおう」
ベルトランが介入する隙もなく、二本の剣が激しくぶつかり合った。
この男とリオネルが相対したのは、約二ヶ月ぶりのことである。
「戦いを扇動したのはおまえか」
剣を交えながら、リオネルが低く尋ねた。
敵がユスターであるうえは、再び相まみえることは薄々予感してはいた。が、これほど早く対峙することになるとは。
リオネルが剣を交えているのは、エーヴェルバインにおいてレオンやアベルを監禁し、危険な目にあわせた男――。
「――ザシャ・ベルネット」
その名をリオネルが口にすると、相手は鼻で笑った。
「思い出してくれたか? あのときおまえにやられた足の怪我が、未だに疼く」
「本当なら殺してやりたかったが」
「シャルムの正統な王子様は、随分とご立腹のようだな。第二王子を拘束され、家臣を殺されかけたのが、それほど頭にきたか」
かつてリオネルが裂いたはずの右腕で、ザシャは平然と戦っている。それもそのはず、命あるまま捕らえるために、出血がひどくならぬ程度にしかリオネルはザシャを傷つけなかったのだ。
「おまえたちのやり方は卑劣だ」
卑劣か――、と方頬を引きつらせながら笑うその表情からは、リオネルへの深い恨みが読みとれる。
これまで十号ほど剣を撃ちあわせたが、勝敗はつかない。
「高潔であることにこだわっていたら、いずれ身を滅ぼす」
激しく叩きこんだザシャの剣が、リオネルの頬をかすめる。と同時に、リオネルの剣先はザシャの前髪を裂いていた。赤茶色の毛が、夕陽に散る。
「リオネル!」
周囲の敵を斬り倒しながら、ベルトランが叫ぶ。ザシャの攻撃が、すんでのところでリオネルに致命傷を与えるところだったからだ。
けれどリオネルは振り返らない。
「正しくあることに、こだわらずともいい。だが、やって許されることと許されないことはたしかに存在する」
頬から流れた一筋の血が、リオネルの顎へ伝って滴る。二人は睨みあった。
「偉そうな口ぶりだな。さすがは王子様だ」
「シャルムを侵略してなにが望みだ?」
ザシャは皮肉めいた笑みをひらめかせる。
「言っておくが、我々西方諸国はけっしてエストラダには勝てない」
「戦ってみなければわからないはずだ。西方諸国同士で無意味な戦いをすることこそ、敗因になりかねない」
「無意味だと? そうでもないさ」
突然ザシャが長剣を振り上げる。リオネルが攻撃を弾き返すと、高い金属音が鳴り響いた。
「正面から戦えば、我々は必ずエストラダに敗北する」
「なぜ言い切れる」
「やつらは人の力を超えているからだ」
剣を撃ち合わせながら、リオネルはしばし沈黙する。ザシャの言葉が意味するところを理解しかねた。
「あの国は、ひとたび狙いを定めれば、必ず征服することができる――神がエストラダを祝福しているからだ」
たしかに神話では、神がはじめに舞い降りたのはベルデュ大陸の最北だということになっている。現在の地図上におけるエストラダの地だ。
「けれど、神々は殺戮を認めないはずだ」
「そういった次元の話ではない。あの国には、神から力を与えられた者が生まれるのだ。その力に我々は対抗できない」
「…………」
「だから、我が国は生き残る術を模索した」
「その結果がこの戦いか?」
「シャルムは強国だが、エストラダのようなけっして征服されぬ国ではない。エストラダの目的は、ベルデュ大陸の統一だ。それに力を貸すことにした」
「取引したのか」
「知りたいか?」
ザシャが頬を歪めた。斬撃をしかけながら叫ぶ。
「――知りたければ、あの世で神々に聞いてこい!」
激烈な一撃を受け止めながら、リオネルはザシャを見据える。
「もし本当にエストラダの目的が大陸諸国の統一であれば、シャルムを犠牲にしたところで、ユスターが助かるわけがない。支配されるのは時間の問題だ」
「〝支配〟という言葉は間違っている。他のどの国より優位な形でエストラダに吸収されるのだ」
「それでいいのか」
「すべてを失うよりはいい」
「戦わずして侵略者に屈するなど馬鹿げている」
「綺麗事だな!」
下ろした長剣をザシャは斜め横に薙ぎ払う。リオネルの動かぬ左腕を狙った攻撃は、わずかにだがその目的を果たした。リオネルの二の腕が斬られ、血が散る。
「リオネル!」
ベルトランが鋭く主人の名を呼ぶ。
「大丈夫だ」
左腕の怪我にかまう様子もなくリオネルは答えた。
「どのみち動かない腕を失ったところで、困ることはない」
「ならば望みどおり先にその左腕から斬り落としてやろう」
大きく振り上げた長剣が、リオネルを狙う。が、するりと馬ごとリオネルは攻撃を避けて、敵の背後にまわった。
舌打ちしたザシャの背中向けて剣を振り下ろす。しかしリオネルが攻撃を中断せざるをえなかったのは、幾本もの矢が西の夕焼け空から降り注いできたからだ。矢を放っているのはユスター側の弓箭隊である。
矢でシャルム軍の攻撃を食い止めているあいだに、ユスター軍が引き揚げる――撤収の合図だった。
降りそそぐ矢から逃れるためにリオネルは一歩引く。
「おまえの命、次は必ず奪う」
ザシャが言い放った。リオネルが言葉を返すより先に、二人のあいだにベルトランが馬を進めた。
「今度会うときはおれが相手をしてやる、ザシャ・ベルネット」
「赤毛の用心棒か」
鋭い眼差しでザシャは、ベルトランを睨む。エーヴェルバイン王宮ではじめて出会ったときから、とりわけこの二人は険悪な関係だ。
「むろん貴様もいっしょに殺してやる」
唾を吐き、ザシャは馬首を巡らせる。
ユスター軍が引くと同時に、ロルム公爵の指示でシャルム軍もまた撤収をはじめた。
矢の驟雨が止み、ベルトランはリオネルを振り返る。それから頬と左腕の怪我に視線をやって眉を寄せた。
「気が緩んだか」
いや、と小さくリオネルは首を振る。
「彼は相当な腕の持ち主だよ」
無言で片眉を上げてから、ベルトランは顎をしゃくった。
「先に行け。早く城で手当てを受けろ」
背後から敵が隙をついて襲ってこないとも言い切れないので、ベルトランが見張るということだ。リオネルが馬首を巡らせる。
――長い一日の戦いが終わる。
この一日だけで、どれだけの人馬が負傷し、命を失っただろうか。
けれど明日からも戦いは続く。争いの終着点は遠く、今はそのときを想像することが難しかった。