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今回は短めですm(_ _)m
壁にかけられた燭台の炎が、小刻みに震えている。
かつては仲のよい姉弟の笑い声が響いていたこの館も、ふたりの姿が見えなくなった現在は、ひっそりと時間が過ぎている。
ほのかな灯りのなかで、机に向かって手紙をしたためるのはデュノア伯爵だ。
手紙は、ノエル・ブレーズの従騎士として王宮で修業する息子、カミーユに宛てたものである。
手紙の冒頭には、遠くで修業する息子を案じる父親としての言葉を綴った。
『しっかりと鍛錬に励んでいるか。高貴な方々に敬意を払い、無礼のないように過ごしているか……』
それからベアトリスや自分が元気にしていることを短く記すと、本題に入る。
『……ところで、ユスターがシャルムの国境を侵したことは、そなたも知っているだろう。
シャルム南西部では激しい戦いが繰り広げられている。ベルリオーズ家が全軍を率いて戦地へ向かい、それに伴いアベラール家も同行、ブレーズ家からは傭兵が派遣され、その他の西方諸侯らも参戦している……』
……デュノア家もまた兵士を率いてユスター国境へ向かい、他の諸侯らと共にユスターと戦う所存――と書きかけて筆を止めたのは、部屋を叩く音があったからだ。
伯爵の書斎を訪れたのは、妻ベアトリスだった。
「オラス様」
デュノア伯爵は、机を離れて妻を出迎えた。オラスとは伯爵の下の名である。
「ベアトリス、こんな時間まで起きていたのか」
生まれつき身体が丈夫ではないベアトリスは、早く就寝することが多い。
「ええ」
かすかに笑ってベアトリスは上目づかいに夫の顔を見やる。
「体調がよいのです」
兄であるブレーズ公爵に似て、ベアトリスは他人に心情を読ませぬ質であるが、ことオラス・デュノアの前ではその限りではない。公爵令嬢の立場を捨ててまでベアトリスが惚れ込み、嫁いだ相手である。
「体調がいいからといって、無理はいけない」
出会ったころと変わらず、オラス・デュノアは妻に対して礼儀正しく、そして気遣いを忘れない。
どの女性に対しても同様だ。口数が多いわけではないが、適度な距離感を保って女性と接することができるその硬派な雰囲気が、彼の不思議な魅力だった。
けれどその半面、相手に心底惚れ込んでいる様子はうかがえない。完全に自らのものにならぬ男だからこそ、女性たちは夢中になるのかもしれない。
オラス・デュノアに促されたものの、ベアトリスは椅子には腰かけずに、夫が書きかけていた手紙を覗き込む。
「なにをなさっていらしたの?」
「カミーユに手紙を書いていた」
「まあ」
嬉しそうに笑み、ベアトリスは手を差し出す。
「読ませていただいても?」
「かまわないが、まだ途中だ。それに堅苦しい内容になっている」
「堅苦しい内容?」
「ユスター国境へ出兵する旨を、書き送ろうとしているところだ」
夫の言葉を聞いたベアトリスは眉をひそめた。
「まさか、あなたが戦地へ?」
「そう考えている」
「オラス様が兵を率いて戦場へ向かう必要はありませんわ」
「しかし、アベラール侯爵とロルム公爵から、援軍を要請する手紙が届いている。ブレーズ家からも兵士を出しているのだから、デュノア家がなにもしないわけにはいかない」
机に歩み寄ったベアトリスは、夫の書いていた手紙を手に取る。中身に素早く目を走らせると、手紙を再び机に戻し、細い指先で羽根ペンを取った。
夫の目のまえで、
『デュノア家もまた兵士を率いてユスター国境へ向かい』
と書きかけた部分を黒く塗り潰していく。
「ベアトリス」
抗議の含んだ声音でデュノア伯爵は妻の名を呼んだが、ベアトリスは手を止めなかった。文字が読めなくなると、ベアトリスはオラスを見上げる。
「あなたを、戦場になど行かせません」
「そういうわけにはいかない」
そう答えるオラスのまえまで来て、ベアトリスは身体をそっと預ける。伯爵は妻の華奢な身体を無言で受け止めた。
「兄からは、デュノア家が出兵する必要はないとの手紙を受けとったはずです」
「竜の尾を身捨てれば、ローブルグが侵攻してきた折りに、今度は我々が見捨てられることになる」
「案じることはありません。そのときには、ブレーズ家が総力を挙げてこの地を守ります。それに兄上の力を使えば、正騎士隊など容易に動かすことができます」
それはそのとおりだった。妹であるベアトリスを、ブレーズ公爵はことのほか可愛がっている。ベアトリスの言うことなら、たいがいのことは聞き入れるだろう。
だからこそである。
だからこそオラス・デュノアは、妻ベアトリスに対してはけっして頭が上がらない。
大公爵家であるブレーズ家の令嬢であるというだけではなく、少なからぬ権力をこの病弱な女性は握っているのだ。間接的にではあるけれど。
デュノア伯爵が返す言葉を探せずにいると、ベアトリスは身体を預けたまま顔を上げる。
「あなたを守るためなら、わたくしはなんでもいたします」
「…………」
「随分とアベラール家などに気を遣っているご様子ですが、我々の力をもってすれば、あのような家、簡単に潰すことができるのですよ」
「我がデュノア家は長年、アベラール家と懇意にすることで、ベルリオーズ家の後ろ盾を得てローブルグ国境のこの地を守ってきた」
「存じております。けれどそれは昔の話。この家にはブレーズ家の血が入ったのですもの。デュノア家を継ぐカミーユには、わたくしの血が流れています。カミーユの直系が続く限り、ブレーズ家はデュノア家を守りますわ」
再びデュノア伯爵は口をつぐむ。
「カミーユには、わたくしたちが元気にやっていることだけを伝えてください。なにも心配せずにノエルのもとで修業に励み、立派な騎士になり、一刻も早くわたくしのもとへ戻ってくるようにと」
伯爵は小さく溜息をついて、書きかけの手紙に視線をやる。最後の一文は真黒に塗り潰されていた。
こうなれば、オラス・デュノアに選択肢はない。
この国境沿いにあるささやかな領地を守るため、身分の高い令嬢を妻に迎えたときから、オラス・デュノアは最終的な決定権を失ったのだ。
むろん押し通せば、ベアトリスも刃向かってはこないだろう。けれど心配のあまりに倒れられては、ブレーズ家に申しわけが立たない。
デュノア家の当主であるオラスには、ベアトリスを大切にしなければならぬ義務があった。
「わかった、そうしよう」
ベアトリスは四十代半ばを過ぎたところだが、病気のせいか太ることもなく、肌の色も白く美しい。出会ったころから比べればむろん歳は重ねたが、とても四十歳を超えているようには見えなかった。
艶やかな笑みを浮かべるベアトリスが、なにをねだっているのか、オラスにはすぐわかる。
顔を近づけて口づけを落とせば、ベアトリスの柔らかく冷たい唇が吐息をもらした。
相手が自分に心底惚れていることを、オラスは知っている。
そのことを客観的に受け取れるほどオラスは冷静だった。
「愛しています、オラス様」
「……私もだ」
凄惨を極める戦地へ、デュノア邸から援軍が駆けつけることはなかった。