33
時刻は深夜。
戦場とは思えぬほどあたりは静かだ。
二隊に分かれたおかげで、当初の予定より二日ほど早く、ベルリオーズ家の騎士団はユスター国境近くにあるシャルム側の陣地に到着した。
小高い丘のうえに建つ古城が、シャルム側の拠点だ。丘の東側の麓には無数の天幕が張られており、兵士らが寝泊まりしている。
重たい静寂。
穏やかな風のなかにもほのかに漂う血の香りだけが、ここが戦場であることを物語っている。陽が昇れば、戦地の様相もはっきりと見えてくるだろう。
敵軍の目を欺くかのように、深夜にひっそりとシャルム軍に加わったベルリオーズ家の騎士団を、ロルム領主と、正騎士隊の将官フランソワ・サンティニが出迎えた。
「これほど早期に駆けつけていただけるとは思っていませんでした」
ロルム公爵は、かたくリオネルの手を握りしめる。
「兵士らは皆すでに疲弊しきっています。ベルリオーズ家の強兵が加われば、誠に心強い」
少数で国境を守ってきたロルム公爵の苦労が、その表情からは見てとれる。
「もっと早くに加わることができたらよかったのですが。……二、三日後にはアベラール家やヴァルナ家、その他の諸侯らの援軍も駆けつけます。我々の出せる限りの力を尽くして戦います」
「ありがたいことです。けれどリオネル様は、どうか戦場には出られませぬよう」
「なぜでしょう」
「お怪我を負ったばかりとうかがっております」
そう言いながら、ロルム公爵は視線をリオネルの左腕にやった。力なく垂れ下がったその腕は、動かすことができないということを、はっきりと表している。
なんでもないようにリオネルは笑った。
「お気にかけていただき、ありがとうございます。ですが、片腕だからといって戦えないわけではありません。どうかお気遣いなきよう」
助けを求める様子で、ロルム公爵は視線をすぐ隣へ移す。視線を受けた男は、岩のごとくがっしりとして存在感のあるフランソワ・サンティニだ。
正騎士隊将官であるフランソワは、リオネルが従騎士として王宮に滞在していたころから互いに顔見知りである。
フランソワは伸びかけの髭に覆われた口を、わずかに笑ませた。
「リオネル殿がそうおっしゃるだろうことは、予測していました」
「お久しぶりです、フランソワ殿」
両者は握手を交わす。
「少し痩せられましたか」
フランソワはじっとリオネルの顔を見据えた。
「そうでしょうか。フランソワ殿もお疲れでは」
「私は平気ですよ。戦うことが本業ですから。しかし、まさかこのような場所で、貴方と再会するとは思っていませんでした」
「本当にそうですね」
「隊長の采配でこの地に派遣されましたが、やはりかような事態となりました。貴方の叔父上殿の、先を読む力はさすがとしか言いようがありません」
「ですが、フランソワ殿には大変な役目を担わせてしまうことになりました」
「王都にいる隊長のほうが、今頃は陛下に大目玉をくらって大変な目に遭っているでしょう。無断で正騎士隊を動かすことは、固く禁じられていますから」
「すべて承知のうえでやったことのはずです。きっとうまく切り抜けているはずですよ」
二人が話をしている途中にロルム公爵が咳払いしたのは、話を本題に戻すためだ。
ああ、と思い出したようにフランソワはうなずき、リオネルの左右の瞳を交互に見やった。
「皆が心配しております。今回リオネル殿は、砦で指揮を執っていてはいかがでしょう」
「そういうわけにはいきません」
「まあ、貴方ならそう言うでしょうな」
この調子ではいっこうに説得できそうにないので、ロルム公爵は小さく首を振る。
「今夜はもう遅い、早々に休むことにしましょう」
ひとまず説得を諦める様子で、リオネルを寝所へ促す。
騎士らはすでに外で宿営の準備を始めている。強硬な行程でここまできたが、これからが本番だ。のんびりと過ごしているわけにはいかない。
「古い城ですが、案外居心地は悪くありません」
そう言いながら、ロルム公爵はリオネルとベルトランを古城の内部へ案内した。
夜明けとともに、戦いは始まる。
まだ辺りが薄暗いなか、長い隊列がシャルム側の前線まで移動する。
当初はユスターとシャルムの国境を流れるルステ川を挟んで、両国の兵士らが陣形を組んでいたが、今やユスター側の優位により、敵の陣地はルステ川を超えてシャルム領内にあった。
東方に位置するシャルムの大地の遥か彼方から、眩い朝陽が昇る。
早朝は逆光になるためユスター側にとっては不利であり、逆に午後は、夕陽に向かって攻めなければならぬシャルムが不利になる。少しでも前線を押し進めたいユスター軍は、逆光にも関わらず戦い開始早々から猛烈な勢いでシャルム軍を攻めた。
けれど今朝は、これまでの戦いとは様子が異なる。
かつては押されがちであり、徐々に前線の後退を余儀なくされていたシャルム軍が、今朝は激しい反撃に出たのだ。
異なるのは戦い方だけではない。
これまでより兵力を増している。ベルリオーズ家の騎士団が加わったためだ。
弓箭隊の攻撃からはじまり、ひとまず矢が尽きると、今度は騎馬隊の激しい激突が生じる。
シャルム側の陣形の左翼を守るのは国境沿いに領地をもつティリー伯爵の一隊で、陣形の右翼を守るのはロルム公爵の率いる一隊、そして中央を固めるのは、ベルリオーズ家の騎士団である。ベルリオーズ家の騎士団を率いているのは、片腕で戦う若き騎士――リオネルだ。
方々からの反対を押し切り、リオネルはベルリオーズ家の騎士団を率いて、最前線で剣を振るっていた。
その戦い方は隙がなく、優雅でありながらも激烈だ。まるで命の危険を顧みておらぬかのように躊躇なく敵軍に突っ込んでいく姿は、無謀にさえ見える。
そのためもあってか、彼の周囲で普段以上の激しさで剣を振るうのは、赤毛の用心棒ベルトランだ。
近頃のベルトランは、けっしてリオネルの行動に反対しない。今回も、戦いの最前線に立つというリオネルに従い、そして決死の覚悟で主人を守っているようだった。
黙って従い、リオネルを守ることだけが、今の自分にできることだとベルトランは考えたのかもしれない。
一方、フランソワ・サンティニ率いる正騎士隊の強兵は、側面からシャルム陣形を崩そうとする敵軍と剣を交えていた。
猛烈な反撃を受けて、これまで優勢だったユスター軍がわずかに後退する。
リオネルらの到着から二日遅れて到着したディルクらの一隊が加わると、シャルム軍はさらに勢いづき前線を押し返した。
けれどユスター軍は、諸侯らの連合隊であるシャルム軍より、遥かに兵力に余裕がある。
シャルム側に援軍が加わるとほぼ同時に敵もさらなる兵力を投入し、ひとたび押し返した前線は、ユスター軍の猛攻にあって後退を余儀なくされた。
厳しい状況が続くこととなった。
+++
道の脇に据えられた石標によって、アベルはロルム領へ入ったことを知った。
長い旅程だったが、ルエルやアンオウェルの山々を超えてからは、比較的時間が早く経過したように感じられる。
サミュエルと別れて一週間以上。
所持金のほとんどを彼に渡してしまったので、もはや手持ちは底をつきはじめていた。連日泊まっているのは安宿である。
けれど、戦場まではあと少しだ。お金などなくてもさほど困りはしない。
戦いは厳しいものになるだろう。アベルはリオネルのために命を賭す覚悟でいる。運よく生き残ることができたならば、生活費についてはそのあと考えればいい。
ちなみにサミュエルと別れたあと、セルドンの住民が言っていた「隣町」へはすぐに辿りついた。
それは、大きな町とはいえないが、セルドンよりは遥かに民家も多く、宿屋や食堂も点在する宿場町だった。そこで聞いた話では、セルドンは憲兵もおらぬ小さな村であるため、盗賊に度々襲われているという。
旅人を泊めたせいで、その所持品を狙った盗賊に大変な目に遭わされることもあるため、村民は見知らぬ相手を泊めたがらないとのことだった。
それは周辺の町では有名な話らしいが、一方で別の噂もアベルは耳にした。
というのは、実のところセルドンの村民は盗賊と密かに繋がっており、暗くなってから宿を求めて訪れた旅人を村から追い出すことで、盗賊に獲物を提供しているというのだ。
セルドンの人々は、自分たちを守るために、盗賊と契約して旅人を売っているのかもしれない。
なにが真実にせよ、アベルはセルドンの家々ですげなく追い返された事情が、なんとなくわかったのだった。
人はだれしも自分や家族がなにより大事だ。哀しいことだが、セルドンの村民が示した態度も、大きな顔で責められたものではないのかもしれなかった。
ロルムはさすがに公爵領だけあって、領内へ入ってすぐに憲兵の姿が見られる。領内の隅々まで警備が行き届いているようだ。
けれど、彼らの表情は硬く、緊張感に満ちている。
ロルム領に入って最初の休憩地で立ち寄ったパン屋で、アベルは戦況に関する噂を聞くことができた。
「ユスターが大軍で攻めてきたんだ」
パン屋の主人が表情を曇らせたのは、アベルが国境で起きていることを尋ねたからだった。
「戦場は悲惨なようだよ」
「それほどに?」
アベルは眉をひそめる。
「息子がヴィルミュランのお屋敷に仕えているんだ。馬にも乗らない本当に下っ端の兵士で、今は残って館を守っているらしいが、瀕死の兵士が次々に戦場から返されてくるそうでな。もうすぐ息子も戦場へ行かなくてはならなくなるかもしれない」
ヴィルミュランとは、ロルム領最大の都市であり、領主の住まう街である。
「正騎士隊はまだ到着していないのですか?」
「国王様は、正規軍を動かさないおつもりらしいよ」
初老の主人は、苦い口調だ。
「まさか――」
「すでにベルリオーズ家やアベラール家の騎士団は到着しているらしいが、正騎士隊や国王派諸侯は動いていないようだ。国王様の魂胆は見え透いているね」
「ブレーズ家やデュノア家は?」
「デュノア家? 聞いたことのない家だが……ブレーズ家ならもちろん知っている。けれど、ブレーズ家の当主が駆けつけたという話は聞いていない」
「そう……ですか」
アベルの実家であるデュノア家は小さな伯爵家であるため、ロルム領でパン屋を営むこの男が知らなくても当然のことだ。
それにしても、国王はまたしても王弟派諸侯らだけを危険な目に遭わせようとは。
国王派の者たちは、ベルリオーズ家や王弟派貴族を滅ぼすつもりなのだろうか。
実家のデュノア家や縁戚であるブレーズ家は、国王派である。自分のせいではないと知りつつも、アベルは心が痛んだ。
「シャルムは劣勢なのでしょうね」
「かなり押されているらしいよ。ベルリオーズ家やアベラール家が加わっていなかったら、今頃国境は突破されて、このあたりもユスター軍に占領されていたかもしれない」
「リオネル様ご本人は、戦いに加わっているのでしょうか」
「そこまでは知らないなあ。……はい、いらっしゃい」
パン屋の主人は、アベルのあとに来た客の注文を聞く。代金を受けとり、いくつかのパンと釣銭を渡すと、客はすぐに帰っていく。
「話を聞かせてくださり、ありがとうございました」
「いいや、見たところ若いようだが、旅をしているのかい?」
「戦いに加わりたいと思ってここまで来ました」
アベルの言葉に、パン屋の主人は目を丸くする。
「そうだったのか、立派な心がけだね。今日のパンは奢るよ。代金はいいから、持っていきなさい」
「そういうわけには――」
「いやいいんだよ。わしは息子を助けにいけるわけでも、戦ってシャルムを守れるわけでもないし、それくらいしかできないからね」
しばし迷ったが、アベルはパン屋の主の気持ちを受けとることにした。
「ありがとうございます」
所持金の少ないアベルにとっては、ありがたい話だった。
「気をつけて。もし戦場で息子に会ったらよろしく伝えてくれ。ブリュノというんだ」
果たして会うことはあるだろうか、とは思いながらも、アベルはうなずいた。
もらったパンは、半分のバゲットと、四分の一に切ったライ麦パンだ。たったこれだけを払わずにすむだけでも、今のアベルにとっては助かる。それほどまで旅費不足は切実だった。
生活費については、命あったそのときに考えればいいなどと悠長に構えていたが、実際には戦争で生き残ったとしても餓死するのではないかとアベルは嫌な想像をする。
不吉な予感は強引に頭の隅に追いやって、アベルはパンを抱えて広場へ向かった。
いよいよ国境に近づくにつれて、戦地の状況は詳細に伝わってくる。
ユスターは大軍を派遣して国境を攻めているにもかかわらず、シャルムは西方諸侯の連合軍のみが応戦しているという。戦況は厳しく、被害も大きいようだ。
すでにベルリオーズ家の騎兵隊は到着している。
アベルは仲間や主人を案ぜずにはおれない。
リオネルは、片腕で戦いに参加しているのだろうか。周囲が説得して、安全な場所に留まっていてくれたならいいのだが。
けれど、リオネルの性格はよく理解しているつもりだ。おそらく自分だけ安全な場所にいて、指揮を取るなどということはないだろう。今は彼の無事を祈るしかない。そして一刻も早く戦地へ駆けつけて彼の力になりたかった。
広場の片隅で、購入したパンを一切れのチーズと共に素早く食べ終えると、アベルは再び馬に跨り、戦地を目指した。