32
傷口に薬酒をかけ、千切った布で覆う。痛みに顔を顰めながらも、サミュエルは黙って手当てを受けていた。
三年ぶりに会うサミュエルは、顔は以前よりやや痩せて見えるものの、身体つきはより精悍になったようだ。職業柄かもしれない。盗賊業も、褒められたものではないが、けっしてらくではないだろう。
「できました」
手当てを終えると、サミュエルは布を巻かれた腕を軽く動かし、そして、小さく礼を言った。
二人が腰掛けるのは路傍の草むらの上である。
沈黙が横たわる。
互いになにから話せばいいのか、わからない。
この三年のあいだに、あまりの多くのことが起き、そして変わっていた。
「サミュ――」
「アベルは――」
長い沈黙を経て、二人の声が同時に発せられる。アベルとサミュエルは顔を見合わせて、気まずげに言葉を切る。
「あ……」
「えっと、あの、どうぞ」
促され、サミュエルが先に口を開いた。
「その……、アベルは妹に会ったのか」
妹とは、サミュエルの妹イレーヌのことだろう。
「はい、たまたまコカールの街へ行くことがあって……本当に最近のことです」
「話したのか?」
「ええ」
「どんな様子だった?」
「元気そうでした」
そうか、とサミュエルは大きく息を吐く。妹のことを案じているのだろう。
「あなたが死んだと――、彼女はそう言っていました」
「…………」
「人攫いに襲われ、身体中を刺され、川に流されたと。とても哀しそうに話していました」
「どうしておれが生きて、ここにいるのかって?」
少しサミュエルは笑ったようだった。自嘲するような笑い方だった。
「あなたが生きていることより、なぜ妹さんのもとへ戻ってあげないのかということのほうが、わたしには不思議です」
「おれだって、戻れるものなら戻りたい」
どうやらサミュエルには、妹のもとへ戻れぬ事情があるらしい。
「あなたが死んだと信じていて、そのことでイレーヌは自分を責めていました。自分が素直に人買いのもとへ行っていたら、と」
「イレーヌを人買いになど売るものか」
吐き捨てるようにサミュエルは言う。
「戻れないんだ。――親父の作った借金は、あの一件でなくなったわけじゃない」
「人買いは捕まったのでは?」
「捕まったのは一部だけだ。人買いの組織は大きく複雑で、ちゃんと別のやつらが生き残っていて借金の額も記録している。……おれたちは一生つきまとわれるんだ」
語るサミュエルの横顔を、アベルは見やった。事情がまだいまいち呑み込めない。
「どういうことですか?」
「たしかにおれは三年前、刃物で刺されて川辺へ連れていかれた。瀕死だったよ。でも、助けられたんだ。おれを刺した、その人買いたちの仲間にね」
「なぜ?」
「おれを殺しても金にはならないし、彼らにとってなんの得にもならない。それに仲間が捕まったせいで、妹の周囲には憲兵が張り付いている。父親の借金を返すためには、おれが働くしかなかった」
「働く……」
つまり、人買いの一味に加わって働くということか。
「おれは命を取り留めた。そして、人を襲い、金品や馬を盗み、女子供をさらい、それらを売買している。そうやって働いて借金を返してる。借金を返し終えなければ、また妹が狙われる」
なんということだろう。
あの優しく親切なサミュエルが、このような経緯で、盗賊や人攫いなどの犯罪に手を染めなければばならないとは。運命は非情で、容赦がない。
言葉は出てこなかった。
「驚いただろう? おれがこんな悪党だなんて」
「…………」
「もちろん、はじめは心が痛んだよ。人からお金や物を奪ったり、小さな子供や、弱い女性をさらって売り払うなんて、そんなことをするくらいなら、おれは死んだほうがましだと思った」
サミュエルの頭上を雲が流れていく。
月明りが、いたずらに闇夜を照らす。
「でもさ、おれが死んだらイレーヌはどうなる? イレーヌを守るためなら他の犠牲はしかたないと――そう割り切ったら、案外すんなりと心を痛めずになんでもできるようになったんだ」
「そんな……」
「ひどいと思うかい? でも、実際におれはきみを人買いに売っただろう。……おれはさ、自分が素晴らしい人間だとは思ってなかったけど、絶対に犯罪になんか手を染めないと信じてた。けれど、案外あっけないもんだよ。一度やってしまえば、一瞬にして信念なんてものは消え去る。おれが信じていたものなんて、本当に脆いものだったんだ」
「それでも私は信じています」
地面だけを見下ろしていたサミュエルが、顔を上げて怪訝そうにアベルへ視線を向ける。
「あなたは、とても優しい人です」
サミュエルは小さく笑ったようだった。先程と同じ、自嘲するような笑いだ。
「随分とお人好しだね」
「あなたがいなかったら、今のわたしはいません。コカールの宿で死にかけていたわたしを救ってくれたのは、あなたです。本当に親切にしてもらいました」
サミュエルは黙りこんだ。
黙りこんだまま、視線を再び地面に落とす。
随分と時間が経ったような気がした。
……あのころに戻れたらな。
つぶやかれた声は、あまりに小さくて、聞き逃してしまいそうだった。
「あのころに、戻れたら……」
うつむくサミュエルへ視線を向けたが、髪や耳の一部しか見えない。
「もぎたての葡萄の新鮮な色、林檎の香り、桃の感触……」
懐かしいな、とサミュエルは地面に声を落とした。
「……あのころのおれは、陽のあたる場所にいた」
「今も同じ場所で、イレーヌが待っています」
「借金がまだ残ってるんだ」
「……どれくらいなのですか?」
「ざっと金貨五枚分くらいだよ――まっとうに働いたら一生返せない。いや、こんなことをしてたって、返せるかどうか」
アベルは耳を疑う。
想像以上の額だった。
――金貨五枚とは。
たしかにベルリオーズ家に仕えていたころは、一年で金貨五枚を給金として提示された。あまりの額に驚き、アベルはそれを二枚にしてもらったのだ。
けれどそれは、大貴族の嫡男のそば近くに仕えているからこその金額であって、使用人や一介の兵士らは金貨一枚だって受け取っていないだろう。
金貨五枚分の借金など、どうやったら作れるのか疑問を抱かずにはおれない。
驚くアベルの表情をまえにして、サミュエルは苦い声で告げた。
「利子だ。ほとんどが利子なんだよ。きっとはじめは銀貨三十枚分ぐらいだった。それが、時間が経つにつれて膨れあがった」
「嵌められたのではありませんか?」
「そうだとしても、親父はその金利を承諾してしまってる。今更どうにもならない」
「…………」
眉を寄せてアベルは考えこむ。
サミュエルの死に対して哀しみと罪悪感を抱えながら、八百屋をひとりで支えるイレーヌの姿が思い起こされた。
サミュエルが戻ってきたら、あの少女はどれほど救われるだろう。サミュエルだって、本来ならば盗賊や人攫いなどやりたくなかったはずだ。
「まだこのようなことを続けるのですか?」
「やめられると思う?」
「このままでは、あなたはいずれ危ない目に遭います。今日だって私はあなたを殺めかけました。憲兵に捕まれば、極刑は免れません。このような仕事は早くやめて、イレーヌのところに帰ってあげてください」
「それができれば、やっているよ」
今までなにを聞いていたんだと問いたげなサミュエルに、アベルは革袋を差し出す。サミュエルはそれを受けとらずにただ見つめた。
「なんだい?」
「金貨四枚と、銀貨が三十枚ほど入っています」
アベルの顔を見据えるサミュエルの瞳は、嘘だろうと言っている。
革袋を、アベルはサミュエルの胸に押し付けた。
「これで借金を返して、イレーヌに元気な姿を見せてあげてください」
おそるおそるサミュエルは袋の中身を確認する。そして、袋から手を放した。
「嘘だ……こんな大金」
「本物です」
恐ろしいものを目にしたかのように、サミュエルはアベルを見た。
「どうしてこんな金――」
「コカールを出てから、さる高貴な方に仕えていました。そのときに貯めたお金です」
なにを言えばいいかサミュエルはわからないようだ。ただ、革袋を拾い上げる手が震えている。
その手には、激しい迷いが見て取れた。
やはり、サミュエルは優しい心の持ち主だ。
昔と変わらない。
犯罪に手を染めても、悪人にはなりきれない。
お金がほしいに決まっている。けれどサミュエルは、これだけの金額を受け取っていいものか迷っている。悪人ならば、油断しているアベルをここで絞め殺して、金銭をすべて奪うだろうに。
「もらえないよ……おれはアベルにひどいことばかりをしてきた」
「命を助けていただきました」
「そんなの一度きりだ」
「人生は一度きりですから。あのとき命を失っていたら、もう終っていたのです」
「でもアベルのお金がなくなってしまう」
「わたしはあと少しばかり持っています。そのお金は、わたしよりもあなたが持っていたほうが、価値があります」
サミュエルは革袋を震える手で握りしめた。
「本当に、いいのか」
「ええ、いいんです」
サミュエルは項垂れるように草むらに手をついた。
「……ありがとう――」
「そのかわり約束してください。もう二度と人買いや盗賊には関わらないと。必ずコカールへ戻り、イレーヌを守ると」
「――もちろんだ。誓うよ」
その言葉を聞いて、アベルは安堵した。
「あなたが生きていて、よかったです」
アベルは言った。
「あなたと再会できて本当によかったです」
「アベル……」
「すぐに借金を返してきてください。そして早くイレーヌに会いにいってあげてください。梨が売れ残って困っていましたよ」
サミュエルは小さく笑う。今度は、自嘲の笑みではなく、かつてのような明るさをわずかばかり取り戻した笑みだった。
ちなみにイレーヌから買い取った梨は、宿屋の女将に託して宿泊客に提供してもらってきていた。
最後にもう一度礼を述べて、サミュエルは立ちあがる。
歩きだそうとして、けれどなにか言い残したのかアベルを振り返った。
アベルが首を傾げると、サミュエルは無言でうつむく。そして、今度こそ振り返ることなく、漆黒の闇のなかへ消えた。
サミュエルとイレーヌの兄妹が、幸福に暮らせるようアベルは祈った。
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