表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第六部 ~一夜の踊り子は誰がために~
350/513

32







 傷口に薬酒をかけ、千切った布で覆う。痛みに顔を顰めながらも、サミュエルは黙って手当てを受けていた。


 三年ぶりに会うサミュエルは、顔は以前よりやや痩せて見えるものの、身体つきはより精悍になったようだ。職業柄かもしれない。盗賊業も、褒められたものではないが、けっしてらくではないだろう。


「できました」


 手当てを終えると、サミュエルは布を巻かれた腕を軽く動かし、そして、小さく礼を言った。


 二人が腰掛けるのは路傍の草むらの上である。

 沈黙が横たわる。

 互いになにから話せばいいのか、わからない。

 この三年のあいだに、あまりの多くのことが起き、そして変わっていた。


「サミュ――」

「アベルは――」


 長い沈黙を経て、二人の声が同時に発せられる。アベルとサミュエルは顔を見合わせて、気まずげに言葉を切る。


「あ……」

「えっと、あの、どうぞ」


 促され、サミュエルが先に口を開いた。


「その……、アベルは妹に会ったのか」


 妹とは、サミュエルの妹イレーヌのことだろう。


「はい、たまたまコカールの街へ行くことがあって……本当に最近のことです」

「話したのか?」

「ええ」

「どんな様子だった?」

「元気そうでした」


 そうか、とサミュエルは大きく息を吐く。妹のことを案じているのだろう。


「あなたが死んだと――、彼女はそう言っていました」

「…………」

「人攫いに襲われ、身体中を刺され、川に流されたと。とても哀しそうに話していました」

「どうしておれが生きて、ここにいるのかって?」


 少しサミュエルは笑ったようだった。自嘲するような笑い方だった。


「あなたが生きていることより、なぜ妹さんのもとへ戻ってあげないのかということのほうが、わたしには不思議です」

「おれだって、戻れるものなら戻りたい」


 どうやらサミュエルには、妹のもとへ戻れぬ事情があるらしい。


「あなたが死んだと信じていて、そのことでイレーヌは自分を責めていました。自分が素直に人買いのもとへ行っていたら、と」

「イレーヌを人買いになど売るものか」


 吐き捨てるようにサミュエルは言う。


「戻れないんだ。――親父の作った借金は、あの一件でなくなったわけじゃない」

「人買いは捕まったのでは?」

「捕まったのは一部だけだ。人買いの組織は大きく複雑で、ちゃんと別のやつらが生き残っていて借金の額も記録している。……おれたちは一生つきまとわれるんだ」


 語るサミュエルの横顔を、アベルは見やった。事情がまだいまいち呑み込めない。


「どういうことですか?」

「たしかにおれは三年前、刃物で刺されて川辺へ連れていかれた。瀕死だったよ。でも、助けられたんだ。おれを刺した、その人買いたちの仲間にね」

「なぜ?」

「おれを殺しても金にはならないし、彼らにとってなんの得にもならない。それに仲間が捕まったせいで、妹の周囲には憲兵が張り付いている。父親の借金を返すためには、おれが働くしかなかった」

「働く……」


 つまり、人買いの一味に加わって働くということか。


「おれは命を取り留めた。そして、人を襲い、金品や馬を盗み、女子供をさらい、それらを売買している。そうやって働いて借金を返してる。借金を返し終えなければ、また妹が狙われる」


 なんということだろう。

 あの優しく親切なサミュエルが、このような経緯で、盗賊や人攫いなどの犯罪に手を染めなければばならないとは。運命は非情で、容赦がない。

 言葉は出てこなかった。


「驚いただろう? おれがこんな悪党だなんて」

「…………」

「もちろん、はじめは心が痛んだよ。人からお金や物を奪ったり、小さな子供や、弱い女性をさらって売り払うなんて、そんなことをするくらいなら、おれは死んだほうがましだと思った」


 サミュエルの頭上を雲が流れていく。

 月明りが、いたずらに闇夜を照らす。


「でもさ、おれが死んだらイレーヌはどうなる? イレーヌを守るためなら他の犠牲はしかたないと――そう割り切ったら、案外すんなりと心を痛めずになんでもできるようになったんだ」

「そんな……」

「ひどいと思うかい? でも、実際におれはきみを人買いに売っただろう。……おれはさ、自分が素晴らしい人間だとは思ってなかったけど、絶対に犯罪になんか手を染めないと信じてた。けれど、案外あっけないもんだよ。一度やってしまえば、一瞬にして信念なんてものは消え去る。おれが信じていたものなんて、本当に脆いものだったんだ」

「それでも私は信じています」


 地面だけを見下ろしていたサミュエルが、顔を上げて怪訝そうにアベルへ視線を向ける。


「あなたは、とても優しい人です」


 サミュエルは小さく笑ったようだった。先程と同じ、自嘲するような笑いだ。


「随分とお人好しだね」

「あなたがいなかったら、今のわたしはいません。コカールの宿で死にかけていたわたしを救ってくれたのは、あなたです。本当に親切にしてもらいました」


 サミュエルは黙りこんだ。

 黙りこんだまま、視線を再び地面に落とす。

 随分と時間が経ったような気がした。


 ……あのころに戻れたらな。

 つぶやかれた声は、あまりに小さくて、聞き逃してしまいそうだった。


「あのころに、戻れたら……」


 うつむくサミュエルへ視線を向けたが、髪や耳の一部しか見えない。


「もぎたての葡萄の新鮮な色、林檎の香り、桃の感触……」


 懐かしいな、とサミュエルは地面に声を落とした。


「……あのころのおれは、陽のあたる場所にいた」

「今も同じ場所で、イレーヌが待っています」

「借金がまだ残ってるんだ」

「……どれくらいなのですか?」

「ざっと金貨五枚分くらいだよ――まっとうに働いたら一生返せない。いや、こんなことをしてたって、返せるかどうか」


 アベルは耳を疑う。

 想像以上の額だった。

 ――金貨五枚とは。


 たしかにベルリオーズ家に仕えていたころは、一年で金貨五枚を給金として提示された。あまりの額に驚き、アベルはそれを二枚にしてもらったのだ。

 けれどそれは、大貴族の嫡男のそば近くに仕えているからこその金額であって、使用人や一介の兵士らは金貨一枚だって受け取っていないだろう。

 金貨五枚分の借金など、どうやったら作れるのか疑問を抱かずにはおれない。


 驚くアベルの表情をまえにして、サミュエルは苦い声で告げた。


「利子だ。ほとんどが利子なんだよ。きっとはじめは銀貨三十枚分ぐらいだった。それが、時間が経つにつれて膨れあがった」

められたのではありませんか?」

「そうだとしても、親父はその金利を承諾してしまってる。今更どうにもならない」

「…………」


 眉を寄せてアベルは考えこむ。

 サミュエルの死に対して哀しみと罪悪感を抱えながら、八百屋をひとりで支えるイレーヌの姿が思い起こされた。

 サミュエルが戻ってきたら、あの少女はどれほど救われるだろう。サミュエルだって、本来ならば盗賊や人攫いなどやりたくなかったはずだ。


「まだこのようなことを続けるのですか?」

「やめられると思う?」

「このままでは、あなたはいずれ危ない目に遭います。今日だって私はあなたを殺めかけました。憲兵に捕まれば、極刑は免れません。このような仕事は早くやめて、イレーヌのところに帰ってあげてください」

「それができれば、やっているよ」


 今までなにを聞いていたんだと問いたげなサミュエルに、アベルは革袋を差し出す。サミュエルはそれを受けとらずにただ見つめた。


「なんだい?」

「金貨四枚と、銀貨が三十枚ほど入っています」


 アベルの顔を見据えるサミュエルの瞳は、嘘だろうと言っている。

 革袋を、アベルはサミュエルの胸に押し付けた。


「これで借金を返して、イレーヌに元気な姿を見せてあげてください」


 おそるおそるサミュエルは袋の中身を確認する。そして、袋から手を放した。


「嘘だ……こんな大金」

「本物です」


 恐ろしいものを目にしたかのように、サミュエルはアベルを見た。


「どうしてこんな金――」

「コカールを出てから、さる高貴な方に仕えていました。そのときに貯めたお金です」


 なにを言えばいいかサミュエルはわからないようだ。ただ、革袋を拾い上げる手が震えている。

 その手には、激しい迷いが見て取れた。

 やはり、サミュエルは優しい心の持ち主だ。

 昔と変わらない。

 犯罪に手を染めても、悪人にはなりきれない。

 お金がほしいに決まっている。けれどサミュエルは、これだけの金額を受け取っていいものか迷っている。悪人ならば、油断しているアベルをここで絞め殺して、金銭をすべて奪うだろうに。


「もらえないよ……おれはアベルにひどいことばかりをしてきた」

「命を助けていただきました」

「そんなの一度きりだ」

「人生は一度きりですから。あのとき命を失っていたら、もう終っていたのです」

「でもアベルのお金がなくなってしまう」

「わたしはあと少しばかり持っています。そのお金は、わたしよりもあなたが持っていたほうが、価値があります」


 サミュエルは革袋を震える手で握りしめた。


「本当に、いいのか」

「ええ、いいんです」


 サミュエルは項垂れるように草むらに手をついた。


「……ありがとう――」

「そのかわり約束してください。もう二度と人買いや盗賊には関わらないと。必ずコカールへ戻り、イレーヌを守ると」

「――もちろんだ。誓うよ」


 その言葉を聞いて、アベルは安堵した。


「あなたが生きていて、よかったです」


 アベルは言った。


「あなたと再会できて本当によかったです」

「アベル……」

「すぐに借金を返してきてください。そして早くイレーヌに会いにいってあげてください。梨が売れ残って困っていましたよ」


 サミュエルは小さく笑う。今度は、自嘲の笑みではなく、かつてのような明るさをわずかばかり取り戻した笑みだった。


 ちなみにイレーヌから買い取った梨は、宿屋の女将に託して宿泊客に提供してもらってきていた。


 最後にもう一度礼を述べて、サミュエルは立ちあがる。

 歩きだそうとして、けれどなにか言い残したのかアベルを振り返った。


 アベルが首を傾げると、サミュエルは無言でうつむく。そして、今度こそ振り返ることなく、漆黒の闇のなかへ消えた。


 サミュエルとイレーヌの兄妹が、幸福に暮らせるようアベルは祈った。













誤字のご連絡、いつもありがとうございます!






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ