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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第一部 ~婚約破棄された伯爵令嬢は、男装して旅に出る~
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戦うシーンがあります。苦手な方はご注意ください。





「リオネル様、お帰りなさいませ。……ですが、そのお姿は?」


 帰館してすぐ、外套も脱がずにアベルの部屋を訪れたリオネルとベルトランに、エレンは戸惑う様子だ。


「アベル、エレン、久しぶり」


 リオネルはアベルとエレンに笑顔を向けた。

 アベルがサン・オーヴァンの街から連れ戻された日の翌朝にリオネルは王宮に赴いたので、アベルがリオネルと会ったのはそれ以来一週間ぶりのこと。


 リオネルの変わらぬ笑顔に、アベルはほっとする。


「アベル、体調は?」


 アベルが座る寝台のそばまで歩んで、リオネルは尋ねた。


「とてもいいです。ありがとうございます」


 イシャスを抱いたまま、アベルは軽く頭を下げる。


「イシャスもしばらく見ないうちに大きくなったね」


 リオネルの台詞に、その場に居た三人は首を傾げた。イシャスはたった七日間で大きくなったようには、とても見えない。

 リオネルはイシャスをアベルの腕から抱き上げ、目尻を下げてあやしている。それはまるで子煩悩な父親の図だった。ベルトランがなんともいえない表情で頭をかく。

 しばらくしてからリオネルはエレンに赤ん坊を手渡し、再び寝台のそばへ戻るとアベルの右手をとった。


「ドニに了解をもらったんだ。アベル、少し外に出ないか?」


 アベルは瞳をまたたかせる。


「きみのぶんの外套も持ってきた。中庭に馬を繋いであるから、さあ行こう」



 いつになく強引にアベルを外へ連れだしたリオネルは、アベルを自らの馬の前鞍に乗せた。


「あの、一人で乗れます」

「知っているよ。けれどきみの身体はまだ万全ではないから、今日はおれの馬にいっしょに乗ってくれないか」


 やんわりとリオネルに言われて、アベルはそれ以上食い下がらなかった。

 二人の馬の後ろを、ベルトランがついてくる。


 リオネルの腕に包まれるようにして馬に乗るのは二度目だった。一度目は、サン・オーヴァンから連れ戻されたとき。

 アベルにとっては、落ち着かないような、恥ずかしいような、なんとも表現しがたい心地だった。

 リオネルの腕は、長くしなやかで、それでいて力強く、温かい。

 すぐ後ろにいるリオネルの存在を強く意識してしまって、アベルは背後を振り返ることができなかった。


 花の咲き乱れる中庭では、池の水が夕陽を反射して紅い宝石を浮かべている。

 春の芝生の、青い匂いのなかを駆け抜け、木立に入る。闇と光が交差する木立のなかをさらに奥へと入っていった。館の敷地内ではあるが、短くはない距離を進む。


 木立がまばらになり、少し空間がひらけたところに、高い柵があった。

 そばに馬をとめて先に降りたリオネルは、アベルに手を差し出す。


「あ、ありがとうございます。でも自分で降りられます」


 小声でアベルはその手を断り、軽やかに地面に降り立った。乗馬に慣れた者の身のこなしだ。

 そんな姿にほほえみつつ、リオネルはアベルを柵のほうへ促す。


「入ってごらん」


 アベルはリオネルの顔を見つめ、次いで促されたほうを向いた。

 ゆっくりと柵にある扉を押し開ける。そこに広がった景色に、アベルは目を見開いた。

 花を咲かせた木々が、立ち並んでいる。その多くは純白の花弁だった。


「これは――」

「うちの果樹園だ」


 リオネルは佇むアベルを残して、果樹園の奥へ進む。アベルとベルトランは少し遅れてその後ろ姿を追った。


「これが梨の木。アベル、見たがっていただろう?」


 高すぎない木には、透けるような白さの花々が咲き乱れていた。


 ――梨の木に咲く花を見たことがあるかい?


 サミュエルの声が聞こえた。



 ――汚れのないような、まっ白な花なんだ。

 ――それは本当に綺麗だったよ。

 ――そのときさ、こんな花を咲かせる春が来るなら、長く辛い冬を耐えしのんでもいいと思ったよ。



 アベルは目を大きく見開いて花を見上げた。

 泉のような瞳が揺れる。

 長く辛い冬を耐え忍び、アベルはようやく今、梨の木の前にいた。

 アベルの隣には、共に見る約束を交わしたサミュエルはいない。

 厳しい冬はアベルの心と身体を蝕んだが、もしアベルが命を落としていたら、この花を目にすることはなかった。


 今アベルの隣には、リオネルがいる。気がつけば、ずっとそばで守りつづけてくれていたのは、この青年だった。

 長く辛い冬を耐え忍んで、アベルは今、あたたかい場所にいる。

 リオネルはアベルを探し続けてくれた。そして、そのままのアベルを受け入れてくれた。自分がいる場所がアベルの帰る場所だと、リオネルは言ってくれた。

 その場所にはエレンやドニ、ベルトラン、そしてイシャスがいる。


 ここまでの道程が険しかったからこそ、ここに辿り着いたのかもしれない。



 ――だって、冬がなければ、春もこないだろう?



 サミュエルに売られたと知った夜のように、今、アベルの頬を一筋の涙が伝った。

 けれどそれは、あの夜のように孤独をいっそう深くする涙ではなく、アベルの凍りついた心を溶かす涙だった。



 梨の花を見上げるアベルを、リオネルはそっと見守っている。

 アベルがどんな人生を歩み、なにを抱えているのか、知ることはできないけれど、この先この少女の心まで、自分の手で守っていくことができればとリオネルは願った。


「たしかに綺麗だな。果実しか見たことがなかったが」


 ベルトランがリオネルのかたわらで呟く。


「本当にあるとは思わなかった」

「なにが?」

「梨の木だ」


 リオネルは不思議そうにベルトランを見た。


「おまえが最初アベルに梨の木があると答えたとき、ここに繋ぎ留めるために方便を使ったのだと思った」


 それを聞いてリオネルはおかしそうに笑う。


「ベルトランは知らなかったの?」

「こんなに近くにあったのに知らなかった」

「意外と来ないよね。おれも最後に来たのは、母上といっしょのときだった」


 自分で言いながら、リオネルはそういえばそうだったと思い出していた。

 かつて母のアンリエットとここに果実を収穫しに来たことがあった。

 あのとき、アンリエットとリオネル以外に、だれかもう一人いたような気がする。けれど記憶は曖昧で、はっきりとは思い出せない。

 あるいはそれはこの別邸ではなく、ベルリオーズ領内本館にある果樹園のことだったか……。


 リオネルが首を傾げたとき。ベルトランが辺りを警戒して剣の柄に手をかけた。

 瞬時に気配を察したリオネルも、周囲に注意を向ける。


 アベルは少し離れたところに立っている。リオネルは徐々にアベルに近づき、その身体を背後にかばった。

 アベルがリオネルの気配に振り返ったその瞬間、一本の矢が二人の頭上をかすめて梨の木に刺さる。


「え――?」


 アベルが呆然としていると、ベルトランとリオネルが長剣を鞘から抜き払った。


「アベル、伏せて!」


 リオネルが低く言うと、何本かの矢が三人に向かって飛んでくる。


「刺客のお出ましか」


 ベルトランが苦々しげに呟いた。

 飛んでくる矢を二人が切り落としているあいだに、見知らぬ男たちがまたたくまに柵を越えて果樹園に入り込み、三人を取り囲んだ。その数は少なくとも十人はいる。

 男たちは濃い灰色の服をまとっている。顔は隠しておらず、いずれも両眼に殺気をみなぎらせていた。


 なにが起こっているのか、アベルには状況が把握できなかった。灰色ずくめの男たちに、剣と殺気を向けられたことなんて人生で一度もない。もっとも、彼らの目的は、リオネルとベルトランにあるようだったが。


 リオネルが左手にアベルをかばい、長剣を構えなおす。


「今回はお客さんの人数が増えたね」

「ずいぶん賑やかだが、腕前はどうかな」


 リオネルとベルトランは短く言葉を交わすと、襲いかかってきた剣先を迎え討った。

 リオネルを狙って振り下ろされた複数の剣先を、ベルトランが一薙ぎで半数ほど叩き落とす。残りの攻撃をリオネルは剣で受けとめ、弾き返していった。だが男たちは執拗にリオネルに向かって襲撃をしかけてくる。


 胸元を狙って突きだされた切っ先を薙ぎ払い、リオネルは瞬時に相手の背後に移動して、その背中を斬りつけた。穏やかで美しかった果樹園に、血飛沫が舞う。

 複数を一度に相手にするリオネルの脇を狙った剣を、ベルトランが受け止め相手の身体ごと跳ね返し、倒れた相手に長剣を突き刺した。

 またたくまに辺りは血の海と化した。

 地面に落ちた梨や林檎の木の白い花弁が、赤く染まる。


 アベルは死んだ男の傍らにしゃがんで、長剣に手を伸ばした。

 呆気にとられている場合ではない。

 状況はわからないが、わかることが、ひとつだけあった。


 リオネルが命を狙われている。


 アベルの身体を、頭の天辺からつま先まで恐怖がかけぬけた。

 それは目の前の光景に対する恐怖ではない。

 リオネルを失うことへの恐怖だ。


 この青年がいる場所がアベルの居場所であるならば、その命が失われることは、アベルにとって、自分の生きる場所を失うこと。

 リオネルの腕のなかで、アベルは凍てついていたはずの涙を流すことができた。

 そしてもう一度生きようと思った。

 その腕を失うことは、アベルにとって再び全てを失うことを意味する。


 ――守らなければ。


 アベルは強く思った。

 出会ったときから、見ず知らずのアベルを守り、助けてくれた青年。


 ――今度は、わたしがこの人を守りたい。


 男たちとの戦いは続いている。二人は圧倒的に強かったが、人数の上では不利だった。

 そのとき、情勢が好転しないことに焦った敵の一人が、しゃがみこんだアベルの背後にまわり、その首に長剣をつきつける。それはアベルに抵抗する間も与えないほど、素早い動きだった。


 一連の事態を目の端で捕らえたリオネルは、剣を振るう手を止める。


「アベル!」

「リオネル、剣を止めるな!」


 リオネルとベルトランの声はほぼ同時だった。はっとしたリオネルは、目前に迫った剣先を受け止める。


「こいつを殺されたくなかったら、二人とも剣を下ろせ」


 アベルを拘束する男が低い声で言った。ベルトランが舌打ちする。


「典型的な卑怯者の行動例だな」


 二人が剣を下ろせば瞬時にリオネルは方々から滅多刺しにされるだろう。リオネルは強く唇を噛んだ。


「早くしろ」


 アベルの首に当てられた刃先がゆっくりと動いた。白い首筋にうっすらと赤い血が浮かぶ。

 三人の男と剣を交えたままリオネルがアベルを振り返った。


「アベル!」


 アベルはその瞬間、今しがた拾いかけていた剣を後ろ手に握りなおし、背後に向けて力の限り突き刺す。


「――――!」


 無言の驚愕と共に背後の男は腹を押さえ、地面に片手をついた。


「こいつ……!」


 男は得物を構えなおして、アベルに向かって振り下ろす。

 リオネルの切迫した声と、アベルが敵の切っ先を薙ぎ払ったのが同時。

 よろめく相手のふところに剣をつきつけたものの、アベルは躊躇った。敵の剣を拾ったのは、たしかに参戦するためだったけれど……。

 人を殺したことは、ない。

 その瞬間、相手の長剣がアベルの足を狙って振り払われた。アベルはそれを寸でのところで飛びずさって避ける。


 その様子を目の端でとらえていたベルトランが叫んだ。


「アベル、とどめをさせ!」


 アベルは長剣を握る手に力を込めた。手のひらに汗がにじむ。


 ――守りたい。


 高く長剣を掲げて切りかかってきた相手へ、アベルは鮮やかに飛び込み、その心臓を貫いた。確かな感触がアベルの腕に伝わる。

 リオネルを守りたい――その思いだけが、アベルを衝き動かした。


 それからアベルはリオネルの周りの男たちに目を向けると、リオネルの背後から攻撃をしかけようとしている男に斬りかかった。男は咄嗟にアベルに剣を構えなおしたが、何合か撃ち合ってから、アベルの握る剣が相手を斬り裂いた。

 刺客たちが次々とベルリオーズ家別邸の果樹園に倒れていく。


 リオネルは自らの相手を全て片付けると、未だ戦っているアベルのもとへ行き、その相手の男を一刀で斬り捨てた。ほぼ同時に、少し離れたところでベルトランも最後のひとりを葬り去る。


「アベル、怪我は?」


 リオネルはアベルに駆け寄った。


「大丈夫です。リオネル様とベルトラン様こそ――」


 話している途中で、リオネルがアベルの首元に手を伸ばしたので、言葉が途切れた。

 首筋の傷口にわずかに滲む血を、リオネルは指先でそっとぬぐう。


「助けられなくて、すまない」

「ちょっと驚いただけです。逃れようと思えばいつでもできました」

「…………」



 リオネルは今しがた目にしたアベルの強さを思い出した。アベルは、ともすれば叔父シュザンの従騎士らに劣らないくらい腕が立つかもしれない、などと考えてしまう。

 一方のベルトランは、かつてベルリオーズ家別邸の廊下でアベルと剣を交えていたので、アベルが優れた剣の使い手であることは、以前から薄々気づいていたようだ。


「……すまない」


 リオネルはもう一度アベルに謝る。不思議そうに見上げるアベルに、リオネルはどこか苦しげに言った。


「きみに剣を握らせてしまった」


 アベルはリオネルの深い紫色の瞳を見つめ、そして首を横に振る。


「彼らはあなたの命を奪おうとしていました」

「…………」

「彼らはいったい……?」


 リオネルが答えなかったので、アベルはベルトランに視線を向けた。髪の毛と同じ色に全身を染めた長身の男は、肩をすくめる。


「刺客だ。リオネルを狙った」


 それだけでは理解しきれず、アベルはかすかに眉を寄せて説明の続きを待つ。


「前王と正妻のあいだの子は王位を簒奪されたが、さらにその血筋を根絶やしにしようとしてるやつらがいる」

「……前王と正妻の子の、血筋……」


 しばし考えたあと、アベルの瞳に理解の光が宿る。


「そんな――」


 リオネルの父であるベルリオーズ公爵は、シャルムの前王と正妃のあいだに生まれた。

 リオネルに流れる正統な王家の血筋。それを根絶やしにしようとしている人たちがいる……。


 もしそれが本当なら、リオネルの命を狙っているのは、国王派の者ということになる。

 今はデュノア家もそうだが、母の出身であるブレーズ家は、さらに生粋の国王派だ。まさか彼らが直接手を下しているわけではないだろうと思いつつ、国王派のなかで、このような卑劣な考えの者がいることが信じられなかった。


「正当な王家の血筋を残すのは、今のところリオネル一人だからな」


 アベルはリオネルに視線を移した。リオネルは複雑な表情を浮かべている。

 さらにベルトランが言った。


「殺さなければ、殺される。躊躇えば、リオネルの命を守ることはできない」


 アベルの全身を強い思いが貫く。

 リオネルを失いたくない。この人を守りたい。


 アベルはまっすぐリオネルを見つめた。







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