28
闇夜に、赤々と火が燃える。
炎が映し出すのは、夜空に吸い込まれていく煙と、無数の天幕、そして、一日の行軍を終えた騎士たちの姿だ。
彼らは、その夜の食事を思い思いの場所でとっている。ある者は火のそばで、ある者は天幕のなかで、ある者は気の合う者と共に草の上で……。
今夜の主菜は、鶏肉の赤葡萄酒煮である。
食事を木皿によそって配っているのは、従騎士のジュストや若手の騎士らだ。そのなかに、これまでならアベルの姿があったのだが、今夜はむろんいない。
大きな溜息をこぼしたのはラザールだ。
その横では、六十代の騎士ナタルが黙々と鶏肉を口に運んでいる。ナタルは騎士のなかでは年長者であるため仲間から一目置かれている存在だ。
ひととおり仕事を終えた若手騎士ダミアンが、二人のそばへ来て、腰を下ろした。
再びラザールが溜息をこぼす。けれど、だれもなにも言わなかった。皆、淡々としたなかにもかすかな憂いを感じさせる面持ちだ。
今回の戦いは厳しい。
敵は大国だ。
加えて、正規軍の不参加と、リオネルの左腕の怪我。
さらには、リオネルやディルクを含めた主導者陣が、そろって元気がない。
「アベルはどこへ行ってしまったんだ」
ぽろりとこぼれたラザールのつぶやきが、煙で霞んだ夜空に散る。
責めるような口調のなかにも、寂しさが滲む。
ナタルがちらとラザールを見やったが、やはりなにも言わなかった。
突然アベルがいなくなり、騎士らのあいだでは、どこへ行ったのか、なぜ出て行ったのかと騒ぎになった。そのときのベルトランの説明は次のようなものだった。
『アベルはリオネルを守るために館を出た。――おれが許可した。突然のことで驚く者もいるだろうが、理解してほしい』
むろん騎士のなかからは、疑問の声が上がった。
『リオネル様をお守りするためとは、どういうことですか』
『アベルはなにをしているのですか』
『戻ってくるのですか』
それらの質問に答えるベルトランは、あらゆる表情を消し去っていた。
『リオネルを守るためというのは、アベルなりに考え抜いた結果だとしか言えない。出て行くのを止めたが、おれはアベルの考えを理解することもできた。だから許可せざるをえなかった。ただ、もしアベルに戻る意志があれば、我々は喜んで迎え入れる。それはたしかだ』
そして次のように締めくくった。
『これ以上の説明はできない。納得してくれ』
こうして、それ以上アベルのことについて話し合う余地はなくなったわけだが、これで皆がすんなりとこの事態を受け入れることができたわけではない。トマ・カントルーブ、ジェローム・ドワイヤン、オクタヴィアン・バルト、そしてロベール・ブルデューあたりは、せいせいしているに違いないが、ラザールやダミアンをはじめとした多くの騎士たちは違った。
――この状況に納得などできないし、やはりアベルがいないと寂しい。
顔にはそう書いてあるが、ラザールはそれをはっきりとは言葉にしない。弱音を吐けぬ性格ゆえだ。
「寒くなってきましたね」
パンをかじりながら、ダミアンがラザールに言う。
「こんな寒いのにアベルはどこでなにをしているのだ。いつもなにも言わずにいなくなる」
いつも――というのは、五月祭の折りに、書庫の整理をすっぽかして王都へ向かったアベルの行動を指してしているらしい。
けれどラザールの愚痴に答える者はない。だれもアベルがどこでなにをしているのか知らないのだから当然のことだ。
再び沈黙がおとずれる。
と、突然ラザールは立ちあがった。
ナタルとダミアンがラザールを見上げる。
「どうしました?」
ダミアンに問われると、「二杯目をもらってくる」とだけ告げて、ラザールは食事を配るジュストのほうへ歩んでいった。その後ろ姿を見送りながらナタルがつぶやく。
「落ち込んでいるようだな」
「それはそうですよ。私も元気が出ません」
消沈した口調でダミアンが答えた。
「そんなことでどうする。シャルムの国境を守り、リオネル様をお守りしなければならないのだぞ」
叱咤されたダミアンは、視線をうつむける。
「申しわけありません」
「……おまえたちの気持ちはわかるが、いつまでも気にしていては士気にも影響する」
「ええ」
静かにダミアンはうなずいた。
ナタルは若者の様子を見やって、内心で溜息をついたようだ。それから、騎士らに混じって食事を取るリオネルらのほうへ視線を向けた。
なるほど、主君があの調子では家臣も力が出ないだろう。
普段と変わらぬ様子のリオネルだが、なにかが違うのはすぐにわかる。
それはおそらく、リオネルがまとう空気だ。
アベルが家臣になってからのリオネルは、肩から力が抜け、楽しげで、幸福そうだった。
周囲の者に対して向ける笑みとは違う、とても安らかで、やわらかな笑みがアベルの隣では浮かんでいた。二人の雰囲気は、周囲だけではなく、多くの家臣らの気持ちまで和やかにしていたのだ。
「おそらくアベルが出て行ったのは、リオネル様を守るためだけではない。我々のことも考えたうえでとった行動だろう」
これまでアベルのことについては、意見を述べることのなかったナタルが、珍しくこの件について言及した。
「そうかもしれませんね」
「皆、アベルが二度と戻らないかのような落ち込みようだが、あの者がベルリオーズ家やリオネル様のことを忘れることはない。そうは思わないか?」
ダミアンが顔を上げてナタルを見やる。
「どういう――」
どういう意味かと尋ねようとしたとき、二杯目をもらったラザールが戻ってくる。この話はもう終いだと、ナタルは目だけでダミアンに合図した。
戻ってきたラザールを見上げたナタルが、「おや」という面持ちになる。ダミアンもまた気がついたようだ。
「ラザール殿、どうされたのですか?」
尋ねられたラザールは、一度だけ鼻をすする。
「向こうへ行ったら、リオネル様がいらした」
ベルリオーズ家の騎士のなかでも、一際優れた剣の腕を持つ中堅騎士ラザールだが、だれより涙もろい。
ラザールの瞳は潤んでいた。
「それで?」
「食事を取りにいくと、リオネル様は私に声をかけてくださったのだ」
「なんと仰られたのだ?」
ナタルが尋ねる。
「『これまでアベルのことをよく面倒見てくれて、ありがたく思っている。おまえたちのおかげでアベルは騎士たちのなかにいても、楽しそうだった。感謝している』と……」
二人は黙ってラザールを見つめる。
「きっと『おまえたち』というのは、ナタル殿や、ダミアンおまえのことも含んでいたのだ。だれよりご自身がお寂しいだろうに、我々にこのような言葉をかけてくださった。これが感動せずにおられるものか」
そう言ってラザールは左腕で顔を覆った。
なにも泣かなくても、とダミアンは思ったが口には出さず、ラザールから視線を外して遠くに見えるリオネルの姿へ目を向ける。
「リオネル様はきっと、ラザール殿のお気持ちを察しておられたのでしょうね」
周囲の騎士らと話すリオネルは、戦地へ赴く彼らの緊張を解こうとするかのように、気軽な笑みを見せている。
「周りのことばかり気遣い、ご自身のお気持ちには注意を払っていないのではないかと、心配になってしまいます」
男泣きするラザールは、もはやダミアンのつぶやきなど聞こえてはいない。どう考えても泣きすぎだ。
代わりにつぶやきを拾ったのはナタルである。
「リオネル様には、ベルトラン殿やディルク殿がおられる。あとは我々がしっかりと振る舞い、陰ながらお支えするのだ」
ナタルの台詞は聞こえたらしく、ラザールがはっとして顔を上げた。
「そのとおりですね、ナタル殿」
瞳を潤ませた髭面の中年男など、あまり直視したいものではない。だが、周囲のことは気にせずラザールは腕で顔を覆うのをやめて、まっすぐ前を見据えた。
「しっかり力をつけ、戦いに勝つ。それが我々の役目だ」
そう言ってラザールは、鶏肉を豪快に口に入れる。
「そうかもしれませんね」
つられるようにしてダミアンも食事を再開した。
「その調子だ、二人とも」
ラザールとダミアンの様子を見てナタルが笑う。
「こうでなければ戦いには勝てない」
さすがは熟練の騎士である。若者らの士気を高めると、ナタルは自らも食事を口に運んだ。
一方、ラザールの二杯目を注いだジュストは、思いつめる面持ちで虚空を見据えている。
直後、そのそばへ寄る人影があった。
気配を察して顔を上げたジュストは、この青年にしては珍しく苦い色をかすかに露わにした。二杯目をもらいにくる者も途絶えたころジュストに声をかけたのは、アベラール家に仕えるマチアスだ。
「少し、いいですか」
探るような視線を束の間、相手の両眼へ注いでから、ジュストはうなずいた。
「……はい」
「仕事もひと段落してきたでしょう。どうぞ食事を召し上がってください」
「いえ、お話が終わってからで結構です、マチアス殿」
「遅くなってしまっては申しわけないので」
「かまいません」
「貴方の食事の時間を邪魔すれば、クロード殿やリオネル様にお叱りを受けてしまいますから」
「マチアス殿なら叱られませんよ」
「万が一にでも叱られるのは私です。どうか私のために、食事を召し上がってもらえませんか」
かつてはジュストもリオネルの従者を務めたことがある。年の差はあれど、優秀な従者同士で押し問答をすれば、どちらも丁寧な言葉遣いのなかに一歩も譲らぬ強かさが感じられた。
けれど、そこはやはりマチアスのほうが年齢と経験ではジュストを凌ぐ。そのことはジュスト自身も端から承知しているらしく、最終的には無言で木皿に食事をよそった。
ジュストが食事の準備をするあいだ、マチアスは無言でその様子を見守る。ジュストは居心地悪そうにしつつも、黙々とパンや葡萄酒をそろえた。
「どこか別の場所に座りますか」
ゆっくりと座って食事ができるよう気遣うマチアスに、ジュストは「ここで大丈夫です」と答える。早く話をすませてしまいたいという思いが含まれているようだ。
早く話を終わらせたい――それは、マチアスがなにを話しにきたのか、ジュストにはだいたいわかっていたからだ。
ジュストが鶏肉の葡萄酒煮に口をつけると、ようやくマチアスは用件を切り出した。
「踊り子はどのような様子でしたか」
鶏肉を噛み砕いていたジュストの口の動きが止まる。唐突な質問だった。
「あの夜、踊り子を連れてきたのは貴方でしたね」
マチアスはジュストを見ていたが、ジュストは食事の皿だけを見つめている。
「あの夜、私もディルク様も踊り子に命を救われました。もし彼女が現れなかったら、私たちのうち、少なくともどちらかは死んでいたでしょう。あるいは両者とも」
ぎこちない動作で、ジュストは食事を再開させる。再開させることはできたが、言葉を発することはできない。
それを静かに見つめながらマチアスは話を続ける。
「――踊り子にも、彼女を連れてきた貴方にも、感謝しています」
ジュストは黙っていた。
「けれど、踊り子はあのときどのような気持ちでいたのか、そればかりが気になってなりません」
「そのようなことを知ってどうするのです?」
ようやくジュストが答える。普段から迷いのない口ぶりのジュストにしては、力のない口調だ。
「いうなれば我々は、踊り子を犠牲にして助かりました。その踊り子は、翌朝には忽然といなくなっていた――そのことが私には負い目となっています。あのとき彼女が来なければ、どうにもなりませんでした。だからこそ、私は彼女に過酷な役目を課したのではないかと苦しく感じています。せめてあの夜、踊り子がどのような様子だったのか知りたいのです」
ジュストは食事の手を止めてマチアスを見やった。じっとなにかを見定めるように。
けれど感情の読めぬ――感情を読ませぬ、濃い色の瞳がジュストを見返すばかりだ。
「踊り子を連れてきた私を責めていらっしゃるのですか?」
「いいえ、感謝していると言ったことは本心です」
「私は後悔しています」
黒い瞳から視線を逸らして、ジュストは短く告げた。ジュストの言葉に、マチアスは意外そうな面持ちになる。
「どうせなら責めてください」
「いいえ。あなたや踊り子のおかげで、ディルク様だけではなく、アベラール家やベルリオーズ家が王家と対立する危機からも我々は救われました」
「ひとりの女性を生贄にして、です」
「彼女は無事だったのですか」
「無事は……無事だったはずです」
「殿下のお相手もさせられずにすんだと?」
おそらく、とジュストが答えると、マチアスは小さく息を吐いた。
「そうですか」
声には安堵が滲む。けれどすぐにマチアスの表情は険しくなった。
「ならば踊り子はなぜ消えたのでしょう」
「……私にもわかりません。ジェルヴェーズ殿下と共に客室に入っていったのが、私が最後に見た踊り子の姿ですから」
「それでは館を出た際の様子はわかりませんね」
燃えさかる火のなかにマチアスがぽつりと言葉をこぼすと、ジュストは橙色の火のなかで薪の爆ぜる様子を見据えながら答えた。
「私が最後に見たかぎりでは、とても落ちついていました。大切な人たちを救うためならば、なにも怖くないというかのように。――あるいは、そのように自らに言い聞かせていたのかもしれませんが」
大切な人たち。
はっきりと、ジュストはそう言った。
その言葉の意味に、マチアスが気づかぬはずがない。いや、はじめからマチアスがわかっていると悟っていたからこそ、ジュストはこの言葉を使った。
「……怖くないはずがありませんからね」
マチアスがつぶやいたとき、「あれ?」と聞き慣れた声が聞こえてくる。
振り返った二人の目に映ったのはディルクだ。二杯目をもらいにきたらしく、木皿を携えている。
「珍しい組み合わせだね」
マチアスとジュストはすぐに一礼した。
「現役従者と、元従者とで、なにか打ち合わせか?」
「いえ、世間話です」
「世間話? 本当のことを言え、マチアス。おまえが世間話なんかするはずない。それに、いやに真剣な様子だったぞ」
「詮索なさるのは悪い癖ですよ、ディルク様」
「隠すのはますますあやしい。白状するまで口を聞いてやらないぞ」
ディルクが瞳にいたずらっぽい色を浮かべる。
「子供っぽい言い方はおやめになってはいかがですか。リオネル様やレオン殿下にも愛想を尽かされ――」
「ジュスト、おまえなら教えてくれるだろう?」
マチアスが話しているあいだにも、ディルクはジュストに詰め寄る。するとジュストはあっさり「踊り子のことです」と白状した。マチアスが微妙な面持ちになる。
「踊り子?」
驚いた様子でディルクがマチアスを見やった。
「ひそひそと秘密話をしていたと思えば、マチアス、ついにおまえもその手の話に興味が湧いてきたのか?」
「けっして、そのような――」
「じゃあ、踊り子についてなにを話しあってたんだ?」
「それは……」
「どうしたんだ?」
聞こえてきた声は、ここにいる三人ではない――今、マチアスが最も話を聞かれたくない相手だった。
「ああ、リオネル。いいところに来た。マチアスが踊り――もごっ」
突如ディルクがおかしな声を上げたのは、マチアスがディルクの口を塞いだからだ。さすがのリオネルも目を丸くする。
「マチアス?」
「――私は踊りが苦手だという話です。どうかお気になさらず」
それだけ告げると、マチアスは未だにもごもご言うディルクを丁寧なしぐさで、けれど有無を言わさず連れて行く。
「なんの話だ?」
リオネルの背後に控えていたベルトランが怪訝な声音でつぶやく。
「世間話です」
真面目な口調でジュストは答えた。
誤字の報告、ありがとうございます!(とても助かります)