27
コカールに到着してからすでに二日。
けれど、リオネルらがアベラール領セレイアックを発ったとの報は、未だアベルの耳には聞こえてこない。
彼らはユスター国境へ向かうのではなかったのだろうか。それとも、セレイアックに留まらなければならない理由があるのだろうか。
あれこれと考えたが、結局はわからないので、とりあえずアベルはコカールの街へ出かけることにする。
近頃は無気力が増し、なかなか寝台から起きあがることができない。
できれば一日じゅう宿に籠っていたいが、情報を得なければならないので、そういうわけにもいかない。それにまた朝昼ともに食事を抜いていたので、少しはまともな食事をとる必要もあった。
その日初めて宿から出て外の空気を吸うと、涼やかな外気に秋の気配が感じられる。
いっきに秋になってしまった気がするが、考えてみれば、もう十月に入ったのだ。
人々が多く集まりそうな居酒屋を選んで、アベルは戸をくぐる。ひとりで入るのは得意ではないが、この手の店がもっとも情報交換の場になりやすい。
店内は、酒の匂いと熱気に満ちていた。
なるべく居心地のよさそうな場所を選んで座る。アベルが腰を落ちつけたのは、壁際の一席だ。席を挟んで長机があり、そこでは酒飲みの男たちが大声で話しているので、興味深い話題が出てくればすぐにわかるだろう。
今日はニジマスの冷製がおすすめなのだと給仕の娘に勧められたが、それを断り、代わりに羊肉とインゲン豆の煮込みと蜂蜜酒を注文する。
耳を傾けてみれば、長机に集まる男たちの話題は、ユスターが国境を超えてきたという話一色である。
――北ではエストラダが諸国を支配しつつあるというのに、西でも戦争がはじまるのか。エストラダとユスターは裏で繋がっているのだろう。いや、まさか、あれほど距離があるというのに、裏で結託できるはずがない。だとすれば、いったいなぜこの時期にシャルムに侵攻するのか。このままでは、この大陸には血の嵐が吹き荒れるかもしれない。シャルムはこれからどうなるのだ――。
興奮した様子で男たちは議論を交わしている。
酒と食事が同時に運ばれてきた。会話に耳を傾けつつも、羊肉が思ったよりも大きかったので、やはり鶉か兎にしておけばよかっただろうかと、アベルは密かに後悔する。
「国王様は正騎士隊を動かさないのだろうか」
「ベルリオーズ家が軍を動かしたらしいから、山賊討伐のときのように、西方諸侯に押し付けて傍観するつもりなんじゃねえか?」
「相変わらず汚ねえなあ!」
エマ領は王弟派の土地である。むろん領主が王弟派なのだが、そうすると自ずと領民もそちらへ傾く。
「おまえの顔のほうが、汚ねえや」
「なんだと!」
どうでもいいことで喧嘩しながら、議論は進行する。
アベルはまずインゲンから口に運んだ。この日はじめて口にする料理だが、やはり味が感じられない。
「我々のご領主様も、戦へ行きなさるのだろうか」
痩せた老人が不安げに呟いた。
「子爵様はお身体が悪いからなあ、ご出陣はされないかもしれんなあ」
答えたのは、穏やかそうな髭面の男だ。
「もし出陣されるなら、もうとっくにロルムのほうへ行っているだろうよ」
こちらは血の毛の多そうな巨漢。
「しかし、これでもし西方諸侯らが戦いに負けて、ユスターが侵攻してきたら、どうなるんだ」
顔が汚いと罵られた男が疑問を口にした。
「ベルリオーズ家が参加したなら、負けるはずねえだろう」
「しかし相手は国を挙げて攻めてきてるんだろう? かたやこちらは正規軍が動かねえんじゃ、圧倒的に不利だぜ。しかもリオネル様はお怪我をされてるじゃねえか。本当にベルリオーズ家は参加するのか?」
「いや、おとといの夕方には、ロシェウーでリオネル様の御一行が通過されるのを、この目で見たからな」
「本当にユスター国境へ向かっていたのか?」
「南下していたから、そうだろうよ。しかし、リオネル様はたいそう立派だったぜ。片腕は動かないようだったが、そんなことはちっとも感じさせない姿でよ。あんな姿見せられちゃ、おれだって戦いに加わりたくなるってもんよ」
「おまえみたいな役立たずが加わっても、リオネル様は迷惑だろうよ」
仕返しとばかりに、顔が汚いと罵られた男が言い放つ。
「言ったな、このやろう!」
再びくだらぬ言い争いがはじまりかけたが、それを中断させたのは、細身で秀麗な顔立ちの旅人だった。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
むろんアベルである。
男たちは目を見開いて、小柄な少年を見やる。
「なんだあ?」
「さっきの話、もっと聞かせてください。リオネル様がロシェウーを通過したというのは本当ですか」
ロシェウーとは、エマ領の西方に位置する街である。アベル自身もここへ来る途中に通ってきた。
見知らぬ旅人の勢いに押されて、腹の出っ張った巨漢が答える。
「ああ、そうとも。おれはこの目で見たんだ」
「いつですか」
「だから、おとといだ。もう日も暮れかけたころだったが、その夜はロシェウーの近くに宿営されて、翌朝には再び発たれたと聞いたぞ」
「本当に?」
「嘘を言ってどうなる」
ひどく驚いた様子のアベルを、男は怪訝な眼差しで見返す。
「昨日の朝には、エマ領を出ていたということじゃないですか!」
「だ、だからなんだよ」
……ほぼ二日経っているではないか。
今夜これから出発するのは、この街では危険だ。コカールを出られるのは、早くても明日の朝になる。二日も遅れてリオネルたちのあとを追うことになるとは。
「なぜもっと早く噂にならなかったのですか」
「そんなこと知らねえよ。この街じゃ昨夜遅くか、今朝あたりから随分と話題になっていたはずだけどな」
そうか!
ようやくアベルは思い至る。アベルが宿で寝台に伏せっているあいだに、コカールではリオネルらがエマ領を通過して南下したことは、すでに噂されていたのだ。
宿の外が静かだからなにも起きていないと思っていたが、考えてみればこの街を通過するのでなければ、セレイアックのときのような騒ぎにはならない。
とりあえず男たちに礼を述べて、アベルは席に戻る。
今夜出立できないなら、慌てても仕方がない。まずは羊肉をしっかり食べて、今夜はゆっくり休み、力をつけて明日の朝に出るしかない。
やはりリオネルやディルクたちは、ユスター国境へ向かっているのだ。そのことは、これではっきりした。
あの怪我で戦場へ向かうなど、どうかしている。
だれか止めなかったのだろうか。いや、止めても聞き入れる人ではなかったか……。
むろんベルトランやディルクがそばに付いていて、最悪の事態に陥るとは思えないが、それも全軍が敵に包囲されればどうにもならない。
――なにがあってもリオネルを守らなければ。
味気のない料理を、アベルは噛みしめた。