25
大通りから一本入った道に、小さな商店が連なる。
靴屋や小間物屋と軒を並べるサミュエルの八百屋は、以前とまったく変わらぬ場所にあった。店の造りも、壁の装飾も同じだ。異なるのは、並んでいる野菜や果物の種類や配置くらいで。
店に近づくと心臓が早鐘を打った。
緊張している。
なぜこんなに緊張するのかわからない。
ここまで来たというのに、今更サミュエルに会ってどうするつもりなのだろうという疑問が、自身のうちに湧き起こる。
ああ、そうか。
アベルはひらめく。
緊張するのは、怖いからだ。
自分は、サミュエルに再会することが怖い。
三年前に、サミュエルによって完全に崩れ去った関係だというのに、今更ながら怖いというのはどういうことだろう。それなのにその姿を確かめたいと思うのはなぜなのか。アベル自身にもわからない。
遠巻きに店を眺めやれば、店にはアベルと同じ年ごろと思しき少女が立っているようだった。
サミュエルの妹だろうか。
だとすれば、彼女は人買いに売られずにすんだのだろうか。
そんなことを考えたところで、再びアベルは我に返る。
サミュエルの妹の無事を確かめて、なんになるのだろう。
もし売られていたら、助けにでもいくつもりなのだろうか? だとしても、もう三年もまえの話だ。今更、遅すぎる。
アベルは踵を返そうとした。
サミュエルには会わないほうがいい。そう思った。
もしかしたら、彼の優しさをまだ信じていたかったのかもしれない。ここへ来れば、再びサミュエルが笑いかけてくれるような気がしたのかもしれない。
――絶対にそんなことはないのに。
三年前、彼の裏切りに絶望した。
けれど今、それでも信じたいと思ったのは、リオネルの優しさに触れたからかもしれない。この世界に美しいものがあることを、信じられたから――サミュエルのことも信じたいと思ったのかもしれない。
しかし、そのような幻想を抱いてもしかたがない。サミュエルのことを憎んでいるわけではないが、再会したところで互いに気まずいだけだ。
そんなことを思いながら、八百屋に背を向けたとき。
「あの!」
若い女性の声がアベルの背中に投げかけられた。はじめアベルは自分が呼ばれたとは思わなかった。けれど、その声は再びアベルの鼓膜を打つ。
「これ、買ってくれませんか!」
振り返ると、八百屋の娘が梨を差しだしていた。
「え?」
梨はアベルが三年前によくここへ買いにきていたものだ。
「たくさん売れ残っているんです。このままでは腐ってしまいます。お願いします、買ってください」
娘は頭を下げた。アベルは娘のもとへ駆け寄り、肩に手を添える。
「頭を上げてください」
「腐ってしまうと、父に怒られるんです。お願いです!」
父――ということは、借金を作ったというあのサミュエルの父親のことだろうか。
「お父さんはお元気なんですね」
気がつけばアベルは尋ねていた。え、と今度は八百屋の娘が驚いた顔をする番だった。
「父をご存じなのですか?」
「え……いえ、あの、昔、よくこのお店に買いにきていたんです」
アベルは笑顔で取りつくろう。
「そうなんですね」
娘はほっとした表情になった。
「父はその……長いこと体調を崩していまして、ご存じのとおり母も昔から病気ですし、だから私が店に立っているんです」
借金を作った理由はわからないが、あまり頼りにならぬ父親なのだろう。彼が店に立つことはないようだった。
それにしても、サミュエルの名が出てこないのはなぜだろう。あるいはこの一家は、サミュエルとは別の家族なのだろうか。
頭の片隅では、やめておいたほうがいいと警鐘が鳴っているのに、アベルの口からは質問が発せられていた。
「お兄さんがいたのでは……?」
今度こそ娘は苦い面持ちになる。やはりこの娘はサミュエルの妹なのだ。
「……兄のこともご存じなのですね」
「お世話になったんです。とても親切にしてもらいました」
娘はさみしげな眼差しでアベルを見つめる。二人の身長は同じくらいか、ややアベルのほうが低いくらいだ。
「兄と親しかったなら、父が借金を作ったこともご存知ですよね?」
確認していくる娘に、アベルはゆっくりと頷く。娘はそれをみとめて瞼を伏せた。
「父はお金が返せなくなって私を売ろうとしました」
目鼻立ちのくっきりした愛らしい娘だ。三年前ならおそらく十二、三歳だったに違いない。このような娘を売ろうと思う親の気がしれない。
「兄は私を助けようと、色々と手を尽くしてくれました。わたしの代わりになる人を引き渡したから安心していいってそう言っていたのに、ある夜突然たくさんの男たちが来て、約束が違う、どうしてくれるんだと叫びながら兄に襲いかかったんです。身体じゅうを刃物で刺されて、そのまま川のほうへ運ばれました。……それきりです」
アベルは絶句した。
「遺体は上がりませんでした。きっと、わたしたちの手の届かないくらい遠くへ、とても遠くへ、流されてしまったのでしょう」
血に染まったサミュエルの姿が、鮮明に瞼に浮かんだ。
――明るいサミュエルの笑顔がその光景に重なる。
『梨の木に咲く花を見たことがあるかい?』
三年前、いつも梨ばかりを買いにくるアベルに、まさにこの八百屋でサミュエルはそう尋ねたのだ。
見たことがないと答えると、サミュエルは真剣な様子で言った。
『汚れのないような、まっ白な花なんだ。春に咲くのだけど、おれはその春の梨の果樹園に一度だけ行ったことがある。それは本当に綺麗だったよ。そのときさ、こんな花を咲かせる春が来るなら、長く辛い冬を耐えしのんでもいいと思ったよ。だって、冬がなければ、春も来ないだろう?』
サミュエルの言葉が胸に沁みた。
それからアベルに笑いかけて、こう誘ったのだ。
『来年の春に、いっしょに見に行かないかい?』
そのとき、光が差し込んだような思いがした。少なくとも、翌年の春まで生きる目的ができたのだから。
『おれはサミュエル。きみは?』
『……アベル』
『アベル! ね、次の春、行こうよ』
『うん……行きたい』
――はい、じゃ、約束。
サミュエルの笑顔が眩しかったことと、握り返した手がとても暖かかったことを、今でもよく覚えている。
「兄を襲ったことが騒ぎになって、その男たちは憲兵に捕まったんです。だからわたしは連れていかれずにすみました。助かったけど……わたしは兄を失いました」
アベルはうつむく。複雑な思いだった。涙は出ない。少なくとも、この娘のまえで泣いてはいけない気がした。
「わたしの代わりに、だれか他の人を犠牲になんてしようとしたから、こんなことになったのでしょうね。わたしたち、自業自得なんです。でも一番ずるいのはわたしです。わたしが大人しく売られていたら、兄は死なずにすんだんですから」
声が揺れているような気がして視線を上げれば、娘は大きな瞳いっぱいに涙をためていた。
けれどまっすぐにアベルを見つめている。
一度でも瞬きすれば、涙は瞳から零れ落ちるだろう。それを必死に堪えるようだった。
「あなたはずるくないですよ」
静かにアベルは娘に告げた。それは本心だ。たしかにサミュエルはアベルを生贄にしようとしたが、彼らが自業自得だったとは思わない。
サミュエルは妹を守ろうとした。
サミュエルの妹は、どこへも売られたくないと思った。
それは、自然な感情だ。
本当に悪いのは、借金を作った父親と、それを人身売買などという手段で支払わせようとした悪党たちだ。兄妹もアベルも、その犠牲になったにすぎない。
ただ、サミュエルがとった方法は正しいとは言えなかったが。
「サミュエルはきっと、あなたがこうして無事でいて、元気にお店で働いていることを喜んでいます。それこそが、サミュエルの願いだったのではないでしょうか」
引き結ばれた唇が震え、わずかにうつむいた娘の瞳からぽつりと涙が落ちる。一粒落ちれば、たちまち続けて涙がこぼれた。
けれど泣き崩れることなく、娘は片手で頬をぬぐうと一度だけ鼻をすする。
辛いことばかりが続いただろうに、娘はこの家に留まり、しっかりと八百屋を支えている。立派だと思った。
しばしの間をおいてから、娘はぽつりとこぼす。
「父はどうしようもない人間です。兄じゃなくて、父が死ねばよかったのにと思うこともあります。いいえ、いつもそう思ってしまうんです」
「…………」
「そう思うことが辛くて、お店なんて放りだして家を出ようとも考えるけど、わたしにはここしか住む場所はありません。この家を出ても、お金もないし、行く当てなんてないんです。兄と二人ならできたのかもしれませんけれど。……きっとはじめからそうすればよかったんです。けれど、病気の母のことが心配で、わたしたちが出ていったらこの家はどうなってしまうんだろうって、そんなことを考えたらなにもできなくて……結果はこのとおりです」
サミュエルがいなくなってから、この娘がひとりでがんばってきたのだということが、アベルにはよくわかった。
「名前を聞いてもいいですか?」
「……イレーヌです」
「イレーヌ」
アベルが呼びかけると、イレーヌは顔を上げた。
「サミュエルのためにも、これからは、自分のことを一番に考えて生きたらいいのではありませんか?」
「……自分のこと」
「ここに留まるにしても、出ていくにしても、それはあなたが選択することです。こうしなければならないとか、できるはずないとか、もう遅すぎることなんてことは、ひとつもないのですから」
「でも……」
「サミュエルはあなたの幸せを願っていると思いますよ」
娘は黙りこむ。しばらくして、沈んだ口調で言った。
「……でも、どうすればいいのかわかりません」
「売れ残っている梨をすべてください」
不思議そうに娘は顔を上げる。
「全部? 梨を?」
アベルはいくらかのお金を娘の手に持たせた。
手のうちの硬貨を確認して、娘は大きく目を見開く。
「代金です」
アベルは真面目な口調で説明した。
「こ、こんなにいただけません!」
「これはあなたがひとりでがんばって店を支え、稼いだお金です。好きに使ってください。ここを出るための旅費の足しにしてもかまいませんし、お父さまの借金の返済に充ててもかまいません。新しい果物を仕入れてお店を繁盛させるのも素敵でしょう。あなたが稼いだこのお金は、あなたの人生と同じくらい、自由ですよ」
アベルの水色の瞳と、手のなかにある何枚もの銀貨を見比べる。そして、ぽつりと呟いた。
「銀貨なんて、久しぶりに見ました。それもこんなにたくさん」
とても正直な感想である。普段の生活において銀貨で売買するのは、よほど高額な品だけだ。金貨だったなら、なおさらである。
「やっぱり、こんなにもらえません」
真面目な性格なのだろう、イレーヌは硬貨をアベルに返そうとする。
アベルはそれを受けとらずに、イレーヌへ笑いかけた。
「さっきも言ったとおり、あなたが稼いだお金です。けれどもしそう思えないなら、サミュエルからの贈り物だと思ってください。三年前、わたしはサミュエルに命を救われました。そのお礼です。本人には感謝の気持ちを伝えられなかったので、代わりに、サミュエルの大切な妹さんに」
「…………」
泣きそうな顔でイレーヌはアベルを見つめた。
「……本当に?」
「もちろんです」
硬く銀貨を握りしめながら、イレーヌは涙を堪える表情で「ありがとうございます」と言った。とても小さな声だったが、気持ちは充分に伝わった。
「わたし、自由に生きられるでしょうか」
イレーヌは不安げである。
「もちろんですよ。あなたの人生は、あなたのものです」
驚いたように両目を見開くイレーヌに、サミュエルの面影が重なる。
「幸せになってくださいね」
しばし考え込むように沈黙してから、イレーヌはこくりとうなずく。
彼女にアベルがしてあげられることはなにもない。
金銭がどれほどの役に立つのかもわからない。
けれど、幸福になってほしかった。サミュエルがすべてをかけて守ろうとした人だから。
それからアベルは八百屋の店内へ目を向ける。
「余っている梨はいくつですか?」
ぱたぱたと走っていったイレーヌは、大きな木箱を、身体に似合わぬ力強さで運んでくる。
「これ全部です」
「…………」
どうやって持って帰ればいいのだろう。
それより、どうやってこれらを消費しようか……?
疑問を頭の隅に追いやって、アベルはイレーヌに笑ってみせた。
「おいしそうな梨ですね」
たしかにおいしそうな梨だ。
かつてサミュエルが売ってくれたのと同じ、梨。
――春に、サミュエルと梨の果樹園を見に行く約束は果たせなかったけれど。
大通りを、大きな梨の箱を運んで歩く小柄なアベルを、街の人々は物珍しそうに見ていた。