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食器のぶつかる音が、静かな広間に響いている。普段は明るい会食も、この日ばかりは緊張感が漂っていた。
「そうですか、ジル殿は無事に解放されたのですね」
アベラール侯爵は肉を切る手を止めて、リオネルへ視線を向けた。
「ええ、ようやく安堵しました」
「ローブルグとの交渉を成功させたことで、今回のことはこれ以上御咎めなしということですか」
「その約束のはずですけれど」
曖昧なリオネルの返答である。ディルクが口を挟んだ。
「当然、約束は守ってもらわないと」
そう言いながら、ディルクは平然と食事を口に運んでいる。
「ディルク、気持ちはわかるけど、あまりジェルヴェーズ殿下に盾突かないでくれ」
困ったようなリオネルの声音に、ディルクは不満げな面持ちになった。
「なぜだ? あいつの横暴は黙って見ていられない」
黙って食事をしていたレオンが、深くうつむく。それに気づいたディルクが珍しく慰める。
「ああ、レオン。おまえとは関係ないから気にしなくていいよ」
王弟派貴族同士の会話に、レオンはまったく加わっていなかった。そのようなレオンをちらと見やってから、リオネルはできるかぎり声を低めて言った。
「おれやレオンはまだしも、ディルクはその場で斬られる可能性だってある。実際、おれが部屋から出たあと、レオンを助けようとして、ディルクが斬られかけたと聞いた。かばったマチアスまで命を奪われる寸前だったとか。可能な限り、おとなしくしていてほしい」
ディルクとマチアスがジェルヴェーズに斬られかけたのは、アベルが踊り子に扮した夜のことである。
「しかたないだろう、レオンが殴られるのを黙って見ていられなかった」
「あの夜、おれは大切な友人を二人も失っていたかもしれなかった」
「なんとかなるもんだよ」
軽い調子のディルクに、リオネルは再び声を低めた。
「どうするつもりだったんだ?」
「ジェルヴェーズ王子に剣を向けてでも、マチアスを殺させたりはしなかったよ」
「殿下と剣を交えたら、どういうことになるかわかっているだろう」
「じゃあ、おれはどうすればよかったんだ?」
「……あの夜は、おれが至らなかったと思っている。殿下が泥酔するまえに、何か余興を考えておけばよかった。そうすれば殿下も満足したかもしれない」
「踊り子を呼んだじゃないか」
ディルクのひと言に、リオネルは沈黙した。レオンは空気と化したかのように、気配を消している。
リオネルのまとう雰囲気が変化したのを察して、アベラール侯爵が話に加わった。
「そうですか、愚息がそのようにご迷惑をおかけしたのですね」
「いいえ、ディルクにはいつも助けられています」
親友の父親に向けて、リオネルは柔らかな表情を向ける。
「多分なお言葉です。……こうしてみると、多くの困難に直面してはおりますが、ジル殿が無事に戻り、リオネル様やフェリシエ殿、そして息子ディルクやマチアスに怪我もなく、ジェルヴェーズ殿下もブレーズ領へ向かわれ、けっして事態は悪い方向へは向かっていないように感じられます」
「……そうですね」
ただひとつ、アベルがいなくなったことを除いては。
「あとはリオネル様、貴方様が戦場へ赴かなければ、クレティアン様も安心なさると存じますが」
「そういうわけにはいきません」
きっぱりとリオネルは言った。
「家臣だけを危険な目に遭わせることなどできません」
「そのことなら、力足らずかもしれませんが、ディルクがベルリオーズ家のご家臣をお預かりして戦地へ赴くことができます。どうかリオネル様は、ご家臣とディルクを信じてこのアベラール邸でお待ちいただけませんか」
どうやってもアベラール侯爵はリオネルを戦場へ向かわせることに反対のようだった。
それもそのはずだ。左肩に怪我をしてからまだ日は浅い。
けれどリオネルの意思は明白だった。
「私は家臣や友人と運命を共にしたいと思っています。私ひとり生き残ったところで、なんの意味もありません」
「リオネル様はお怪我をされています。他の者とは危険の度合いが違います。それにお父上様のことを、お考えになってください。クレティアン様には、貴方だけが唯一の家族であり、希望なのですよ。むろん貴方は、我々や領民――この国にとっての希望でもあります」
「私は、家臣やディルクと共に、必ず生きて戻ります」
なんと言っても決意を揺るがすことのないリオネルに、アベラール侯爵もこれ以上言葉を探せぬようだ。
「大丈夫ですよ、父上」
難しい面持ちの侯爵に、ディルクが明るく言った。
「戦地へ着いたら、すぐにリオネルに薬を盛って眠らせます。食事にも混ぜて、戦いが終わるまでは起きあがれないようにしておきますから」
「……ディルク」
不謹慎な冗談を苦い声で諌めたものの、侯爵自身もそうしてほしいのは山々だったに違いない。
「そうですか。リオネル様のご無事を信じて待つしことしか、私たちにはできないのですか……」
「充分ありがたいことです」
「ディルク、そなたは命に代えてもリオネル様をお守りしなさい」
「当然ですよ」
ディルクの返答にリオネルの表情が曇る。
「命に代えるのだけはやめてほしい」
「もちろん死ぬ気はないよ」
死ぬ気はないという息子へ静かな眼差しを注いでから、アベラール侯爵はリオネルへ視線を戻す。
「各諸侯へは、フランソワ殿から援軍要請の書状が届いているとは思いますが、私からもアベラール領周辺の所領に助力を依頼する手紙を送ってあります」
「周辺の所領とは?」
「カルリエ、エマ、ビゾン、フレヴァン、エクリムー、サルヴァロンク、あとはデュノアです」
「なるほど」
侯爵の口から出た諸侯らは、軍事力を備えているか、あるいは影響力のある者たちばかりだ。
特に今回の戦いの中心となっているロルム家が王弟派であるため、ビゾン家やフレヴァン家、エクリムー家、そしてデュノア家のような国王派貴族が参戦するならば、味方は飛躍的に増える可能性がある。
「私からの要請などで、どれほどの結果が期待できるかはわかりませんが」
「そのうちの一諸侯でも参加すれば充分です。ありがとうございます」
アベラール侯爵は小さく溜息をついた。
「長い旅になりますね」
セレイアックからユスター国境までは十日以上かかる。到着すればすぐに激しい戦いに身を投じなければならない。
若者らを思う侯爵の胸のうちは、平安とは程遠いものだった。
せめて数日ここに留まったらどうかという台詞は、アベラール侯爵の喉元まで出かかったものの言葉にならない。
今も戦っている者たちがいることを思えば、一刻も早く国境へ向かわなければならないことはわかりきっている。
平穏な夜は、またたくまに過ぎていった。
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役人に身分証を見せ、街を囲う城壁の門をくぐる。
大聖堂の鐘楼から落ちたその日のうちに、アベルはセレイアックを出て、夜にはアベラール領からエマ領に入っていた。
門をくぐったのはエマ領最大の街コカールである。
他でもない、宿屋の女将が「人攫いが横行している」と言っていた街だが、ここを訪れたのには理由があった。
エマ領はアベラール領の南方に隣接しているため、この場所にいれば、セレイアックにいるリオネルらの動向を見守りやすい。
彼らが南下してユスター国境を目指せば、すぐにこの街でも噂になるだろう。
リオネルがあのような身体で戦地に赴くというなら、なにか手を打たねばならない。今後リオネルたちがどのように動くかで、アベルの行動も変わってくるはずだ。それを見極めるために、この場所は最適だった。
この門をくぐるのは、初めてではない。
コカールを訪れるのは二度目。
かつてデュノア領を追放されたとき、アベルはこの街に滞在したことがある。滞在中にアベルは体調を崩し、命の危機に瀕した。世話をしてくれる者もなく、寝台から一歩も動けなくなったときに、アベルを救ってくれたのはコカールで八百屋を営むサミュエルだった。
彼は病のアベルに果物や食料を与え、早く元気になるようにと勇気づけてくれた。
サミュエルがいなかったら、アベルはあの粗末な宿で、生涯を閉じていたことだろう。
けれど、助けてくれたはずのサミュエルは、アベルが回復したのち、態度を急変させた。
その理由がわかったのは、アベルの宿に人攫いが押しかけたときのこと。父親の借金を返済するために、サミュエルはアベルを人買いに売ったのだ。
――正確には、売られるはずだったのはサミュエルの妹で、アベルはその身代りにさせられそうになったわけだが。
この出来事はアベルの孤独と絶望を決定的なものにしたが、その後リオネルに救われたのである。
城門をくぐると、アベルは既視感に見舞われる。
そうだ、この風景。
三年前、やはり孤独な思いと共にこの景色を見た。
……けれど今は、なんの目的もなかったあのときとは違う。
アベルの心には、ひとりの青年が住まっている。
彼がいるなら、この世界にはまだ希望が残されている。
それに、イシャスやエレン、ベルトラン、ディルク、マチアス、レオン、ジークベルト、ヴィート、ラザール、ダミアン、クロード、ジェレミー、ミーシャ……その他数え切れないほどたくさんの大切な人たち、そしてカミーユの笑顔がアベルの胸には刻み込まれている。
城門をくぐってすぐにある民家の花も、ゆったりとまわる小さな水車も、脇に植えられたイチョウの木も三年前とほとんど変わらないが、今瞳に映る景色は、三年前のアベルの瞳に映り込んだものとは違った。
懐かしくも感じられる景色のなかを、街の中央目指して進む。
まずは宿探しをしなければならない。
人攫いが横行しているというこの街では、それなりの宿を探したほうがよさそうだ。
アベラール領に比べればエマ領は田舎なので、宿泊料はセレイアックほど高くないはずだ。アベルの剣の腕をもってすれば人攫いなど怖くないが、寝込みを襲われたらひとたまりもない。面倒事は避けたいところだった。
当然、三年前に利用した安宿などは避け、街の中心部にほど近い手頃な料金の宿を探す。
かつてはとても大きな街に見えたものだが、今はさほど広がりのないこぢんまりとした街だとわかる。あのころはシャサーヌや、サン・オーヴァンを知らなかった。デュノア領だけがアベルの比較できる世界のすべてだった。
礼拝堂の鐘が鳴る。もう夕方だ。
一件目の宿は、満室だった。二件目は料金が高かった。三件目に訪ねた宿がおおよそ希望に沿っていた。
宿の窓からは、領主の館の尖塔が北東の方角に見えた。
美しいその景色を眺めながら、アベルはなんだか落ち着かない気持ちになる。
セレイアックにいるリオネルから逃げるようにしてこの街へ来たものの、そわそわするのはなぜだろう。
軍を率いてセレイアックを訪れたリオネルのことが気になっているというのは、むろんある。けれどそれだけではない。
鐘楼まで追いかけてきてくれたのにリオネルから逃げたこともまた、今更ながらアベル自身をひと言では言い表せない気持ちにさせていた。
会ってはならないからこそ飛び下りて逃げたのだが、会いたくなかったわけではない。
……またあの紫色の瞳を間近にできるなら、それは幸福なことに違いない。
もやもやとした感覚は、そのせいだろうか。
本当は会いたかった、リオネルに。
……紫色の瞳の青年。
そう、紫色の瞳といえば、この街へ来るとサミュエルのこともまた思い起こされる。姿形はまったく違うけれど、彼はリオネルと同じ、深い紫色の瞳の持ち主だった。
いったん彼のことを思い起こせば、これまで封印していた様々な記憶がよみがえる。
――こんな花を咲かせる春が来るなら、長く辛い冬を耐えしのんでもいいと思ったよ。だって、冬がなければ、春も来ないだろう?
辛い冬があるからこそ、暖かい春が訪れるのだと教えてくれたのは彼だった。
優しい青年だった。
その優しい青年は、あのとき、アベルを裏切らねばならなかったほどに追い詰められていたのだろうか。
アベルは人攫いから逃げたが、その後彼はどうなったのだろう。サミュエルの妹が連れ去られたのだろうか。
今更ながら彼らのことが気になった。
落ちつかないのはそのせいでもあるかもしれない。
迷ったものの、最終的にアベルは宿を出て街へ繰り出した。