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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第六部 ~一夜の踊り子は誰がために~
340/513

22







 宿は大通りに近い場所に位置しているので、室内には外の喧騒が届く。それがかえって今のアベルには落ちついた。


 セレイアックにはしばらく滞在するつもりだった。

 この場所に留まるのは、リオネルの動向を見守るためである。アベラール邸が所在するこの街なら、ベルリオーズ家にまつわる情報が速く、しかもどこよりも正確に伝わってくるのではないか。

 ベルリオーズ領内ではないため、知り合いに会う可能性も少ない。


 ここへ来る途中に買ったパンを取り出し、わずかばかりかじる。

 けれど布を噛みしめているかのように、味は感じられない。


 ベルリオーズ邸を出たときから、アベルはなにを食べても味覚を感じられないようになっていた。

 小さなひと口を、ゆっくりと噛み締める。思い出そうとしても、舌はすべての味を忘れてしまったようだ。

 そう、リオネルのいない人生に喜びはない。イシャスや、仲間と別れた人生には音も色彩もない。ついでに味覚も失った。


 窓へ視線を向ける。

 どこまでも孤独だというのに、涙は出ない。

 泣くことは許されない。自分で館を出てきたのだから。

 だから、泣かない。どうにかパンひとつを食べきると、アベルは飾り気のない寝台に横になった。





 眠れぬ夜を経て朝を迎える。けれどアベルは布団から動かなかった。

 近頃では、このような調子が続いている。食事をまともに取っていないせいだろうか、それとも疲れているのだろうか。起きなければならないと思うのに、身体が動かない。


 昨日もやはり昼ごろまでは布団から出ることができなかった。おかげでセレイアックに到着するまでに、ずいぶんと時間がかかった。

 いずれは働いて生活費を稼がなければならないのに、これでは話にならない。けれどそんなこともどうでもいいと思えるほど、アベルは無気力だった。



 そのような状態のアベルが思わぬ事態に直面したのは、ようやく寝台から起きあがった昼下がりのこと。

 外が騒がしいような気がして、アベルは窓辺に寄る。


 通りを見下ろしてみると、街の人々が一方へ流れているようだった。年老いた者は急ぐ様子で、若者らは走って北の方角へ向かっている。

 なにかが起きたのだということはすぐに察せられた。


 けれどアベルは外へ出る気もおきず、再び寝台へ戻る。横にこそならなかったが、座ったまま床板を見つめていた。

 どれくらい経っただろうか、いったんは鎮まったように感じられた騒ぎが、再び大きくなる。


「どこを通られるのだ?」

「あちらの大通りへいらっしゃるぞ!」


 通りから声が上がった。


 いらっしゃる? ――だれか来たのだろうか。


 ぼんやりとそんなことを思ったとき、扉を叩く音が響く。鍵を開けにいくと、宿屋の女将だった。


「お客さん、あんたは幸運だよ!」

「幸運?」

「ディルク・アベラール様がお戻りになられたんだよ!」


 え、とつぶやいたまま、アベルは水色の瞳を大きく見開く。まさか、どうしてディルクが。


「ああ、旅人のあんたは知らないかもしれないが、ディルク様というのはここアベラール領を治めるご領主様のご子息で、ご嫡男様だ。若くて、最高にいい男だよ。それが、幼馴染みであらせられるリオネル様とご一緒に兵を率いてお戻りになられたんだ。リオネル様がまたとんでもない美男だと聞くよ。さあ、見にいこう! こんな機会は滅多にないからね!」


 女将に手を引かれて、アベルは階下を転がるようにして下る。


「待ってください、わたしは――」

「心の準備ができてないかい? 気持ちはわかるが、ぼやぼやしていると、方々が館に到着されてしまうよ!」


 強引な女将の導きにより、目覚めてから顔も洗わぬままアベルはセレイアックの街を走り抜けることとなった。


 リオネルが兵を率いて、ディルクと共にセレイアックを訪れた理由が思い当たらない。女将に聞いたところで、知るはずないだろう。


 街の大通りへ出ると、そこはすでに人でごった返していた。


「ディルク様はもうお通りになったのかい!」


 ざわめきにかき消されぬ大声を張り上げて、女将がそばに立っていた中年の男に聞く。


「まださ!」

「ああ、よかった。間に合ったようだ」


 そう言って女将が振り返ったとき、すでにアベルの姿はなかった。








 目立つ場所にいて、万が一リオネルやディルク、あるいは騎士のうちのだれかに姿を見られては大変なことだ。

 けれど、本当にリオネルとディルクが兵を率いてこの街へ来たのかどうか、自分自身の目で確かめる必要がある。真実であったなら、すぐにこの街から去らなければ。


 最も目立たず、また最もよく隊列が見えるところ。それは――。


 考えた末に、アベルは大通りから離れ、脇道から広場を目指す。

 向かった先は、街で最も高い建物、すなわち大礼拝堂だった。


 大礼拝堂の鐘楼からならば、街中が見渡せる。広場に位置しており、大通りからはさほど離れてはいないので、おそらく騎手の顔を判別することは充分可能だろう。


 解放されている大礼拝堂の入口をくぐり、騒ぎに気を取られている司祭の目をかいくぐって鐘楼へ上る。そこからアベルは眼下を見下ろした。


 たしかに大通りを進む隊列がある。一騎も乱れぬ姿と、菖蒲に剣の紋章は、まぎれもなくベルリオーズ家の騎士たちだ。

 隊列が徐々に街の中央へ差しかかる。広場は通らないかと思いきや、一行は大通りから広場に突入した。

 ここまでくれば、はっきりと騎手の顔が確認できる。


 先頭の二騎は、リオネルとディルク。その背後にはクロード、ベルトラン、マチアス、そしてさりげなくレオンが続いている。

 隊列のなかには、ジュストやラザール、ダミアン、ナタル、そしてバルナベの姿もあった。


 これだけの顔ぶれがそろって出兵するということは、なにかとんでもない事態が起こったに違いない。

 彼らが南下しているということは、ユスターとの国境で異変があったのか。だとすれば一行は、おそらくアベラール家の兵を加えてさらに南下するのだろう。

 けれど、最終的な結論に至るには判断材料が少なすぎる。


 そう思ったとき、リオネルの顔がふと上向いた。


 まさか、鐘楼の隅に潜むこちらに気づくはずがない。

 けれどリオネルの眼差しは、まっすぐアベルへ向けられているかのようだ。


 反射的にアベルは壁に身を隠した。


 心臓が早鐘を打つ。


 顔を見られたかもしれない、ということ以上に、リオネルの深い紫色の瞳に見つめられたような気がして、顔が熱くなる。

 あのような言葉を聞かされたあとなら、なおさら。


 どうかしている。

 もう会わない覚悟でいるのに、氷のごとく凍てついたはずの鼓動が、これほどまで熱く胸を打つなんて。壁の隅に身体を潜めたまま、アベルはいつまで経っても胸の高鳴りを抑えることができなかった。


 と、そこへ何者かが階段を駆け上る足音が聞こえてくる。

 アベルは咄嗟にどうしていいかわかならなくなった。



 ――リオネルかもしれない。



 そう思った瞬間には、アベルは低い柵を乗り越え、鐘楼から飛び降りていた。






+++






 落ちたのは屋根のうえ。


 腰を打ちつけ、そのままどこにも捕まることができずに屋根の斜面を滑ると、今度は木の上に落ちる。何本かの枝を無残に折りながら、アベルはついに地面に到達した。

 落下の速度に意識は遠のき、地面に到達したときにはアベルは気を失っていた。


 再び目を開けたとき、太陽はほとんど移動していなかった。


 落ちている最中には、このようなつまらない経緯で自分は死ぬのかと思ったりもしたが、どうやら命はあるようだった。

 むしろ不思議なことに、あまり痛みがない。

 地面だと思ったところは、ふわふわとしている。

 おそるおそる下を向くと藁が敷かれていた。


 藁……?


 再び顔を上げたとき、無数の瞳と視線が合う。冷たく、嘲るような視線だ。


「あ――、ごめんなさい。あなたたちの寝床だったのですね。急にお邪魔して……」


 こちらをじっと見つめるのは、何頭もの牛の黒々とした瞳だった。

 正面とは反対のほうへ飛び下りたため、どうやら大聖堂の裏にある納屋のあたりに落ちたようだ。


 すぐに立ちあがり、そそくさとその場を後にしようとする。

 ……が、腰が痛くて機敏には動けない。牛たちの冷たい視線を背中に感じながら、アベルは服についた藁を払って、敷地の出入り口となる門へ向かう。


 すると、正面からこちらへ近づく者の姿があった。

 身構えたがすでに時遅し。相手は完全にこちらに気づいていた。


「どなたですか?」


 服装から察するに司祭のようだ。


「えっと……」


 納屋のほうから腰をさすりながら、しかも藁だらけで現れるなど、怪しすぎる。

 かといって鐘楼に無断で上り、だれかが来たので慌てて逃げようとしたら、真っ逆さまに落ちてしまったなどとは言えない。


「先程、屋根から大きな音がしました」


 それはおそらくアベルが屋根にぶつかったときの音だ。


「もしや、貴方は鐘楼にいたのでは」

「…………」

「腰をお打ちになったのですね」


 腰にあてていた手を、アベルはぱっと離す。


「あちこち擦り剥かれているようですから、手当てをいたしましょう」

「ありがとうございます。でも、けっこうです」


 きっぱりとアベルは断る。

 けれど司祭のほうもまた断固とした口調だった。


「そういうわけにはいきません。怪我されている方を放っておけるはずがありません」

「本当に大丈夫ですから」

「鐘楼から落ちて無事なはずがありません」

「だれも鐘楼から落ちたとは言っていません」

「先程、さる高貴な方が鐘楼へ駆け上がっていきました。屋根から大きな音が聞こえたのはその直後です」


 再びアベルは沈黙せざるをえない。

〝さる高貴な方〟とは、まさか――。


 なにか決定的なことを、この司祭には見破られている気がする。

 ……後方から牛の鳴き声が上がった。彼らの機嫌は直っただろうか。


「無茶なことをするものです」


 無言のアベルから視線を外して司祭は歩きだす。


「さあ、いらしてください。手当てはすぐに終わります」


 有無を言わさぬ態度のまえで、アベルは断る道を絶たれた。






 大聖堂のなかはひんやりとして静かだ。普段はもっと人の出入りがあるのだろうが、ディルクらの帰還のせいで人はまばらだった。


 脇の小部屋に入ると、司祭はアベルを小さな木の長椅子に座らせる。

 奥から取りだしてきたのは重そうな木箱だ。手当ての道具が入っているのだろう。司祭は、箱から薬草やら薬酒やらを選び出し、手早く擦り傷の手当てをはじめる。


 頬や耳、肘や、足など、あちこちが傷ついていた。

 手足や顔の手当ては服を捲ればいいが、さすがに腰を直接診てもらうわけにはいかない。


 すると、司祭はなにも語らぬままアベルの腰に手をあて、押したりさすったりして様子を確かめている。慣れているのか手つきに迷いがない。


「とても幸運でしたね」


 この日、人から「幸運」だと言われるのは二度目だ。


「あの高さから落ちて腰を打ちつけて、ただの打撲ですむなど奇跡のようです」


 あまり「幸運」な一日とは思えないが、あるいは司祭の言うとおりかもしれない。

 いくらなんでも、この世で最も大切な人から逃げるために鐘楼から落ちて死ぬなんて、そんな最期は嫌だ。それを避けることができたのだから、幸運だったのかもしれない。


「きっと貴方を探しにきた方の思いが、神に届いたのでしょう」

「…………」


 同意していいのかわからなかった。司祭の様子からは、なにもかも見抜かれているように感じられる。だとすれば気になることがある。

 小さな声でアベルは尋ねた。


「鐘楼を駆け上がった高貴な方とは、リオネル・ベルリオーズ様ですか?」

「ええ、そうです。貴方はそれをご存じで飛び下りたのでは?」


 知っていたわけではない。そうかもしれない、と思っただけだ。

 可能性だけで飛び下りたのだから、これほどまでの馬鹿もそうそういないだろう。


「……リオネル様は、ここを訪れたのですね?」

「ええ、それはもう目にも止まらぬ速さで鐘楼を上っていかれました。貴方を探されていたのでしょう」

「どうして鐘楼からわたしが落ちたと気づいていて、リオネル様に伝えなかったのですか?」


 司祭は怪我した個所から視線を外し、アベルを見やった。

 年は四十歳前後だろうか。背は高く、騎士らほどではないが、しっかりした身体つきだ。眼差しは、なにか達観した印象を与える。


「あのようなところから落ちてまで逃げようとしたのに、その努力を無駄にするようなことはできないでしょう?」

「べつに逃げようとしたわけでは……」


 もごもごとアベルは答える。いや、逃げようとしたのだが。


「リオネル・ベルリオーズ様の真剣なご様子から、きっと貴方はとても大切な方なのだとお見受けしました」

「…………」

「それなのに、鐘楼から飛び降りるとは、よほどお会いになれない理由があったのでしょう」


 そのとおりだ。よほど会えない理由があった。


「リオネル様にお知らせできなかった代わりに、せめて貴方の手当てをしたいと思ったのですよ」


 司祭は少しもほほえむことなく言った。


「怪我が軽くて本当によかった。身体は大事にするものです」


 先程から、司祭の調子に引きずられている気がする。なにも返す言葉が見つからない。

 アベラール領セレイアックの大聖堂の司祭ともなれば、このようになにか余人を黙らせてしまう独特の雰囲気を有しているものなのだろうか。


 司祭は、アベルの名前やリオネルとの関係、逃げた理由などなにひとつ尋ねずに、アベルを大聖堂の出入口まで見送りにくる。


「手当てしてくださって、ありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」


 司祭にも、牛たちにも……。


「神々が貴方と共におられますように」


 司祭の温かい言葉を聞きながら深々と頭を下げ、アベルは大聖堂をあとにした。









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