21
「フェリシエと二人きりになって、なにを話していたんだい?」
馬を走らせながら、ディルクは横に並ぶリオネルに声をかける。リオネルは返事どころか振り向きさえしない。だがディルクは意に介さなかった。
「ついに将来を誓う口づけをしたとか?」
あるいはリオネルを元気づけるために、ディルクはあえて明るい話題を選んで話しているつもりなのかもしれないが、それはまったくの逆効果だということに本人は気づいていない。
「戻ったらフェリシエと正式に婚約するつもりだろう」
「…………」
「おれが部屋に行ったとき、フェリシエは泣いているようだったけど嬉し泣きかな」
「彼女のことを愛していないと告げた」
「へえ……ジェルヴェーズ王子の横暴から守るために、フェリシエを突き放したのか。やるじゃないか。それですぐにフェリシエはエルヴィユ領へ帰ったわけか」
「生涯、彼女と結婚することはない」
「なにもそこまでしなくともいいんじゃないか?」
会話はいまいち噛みあっていないようだ。
「ジェルヴェーズ王子の手から守るために言ったんじゃない」
「ん? どういうこと?」
「愛していないんだ」
「…………」
二人のあいだに沈黙が降り落ちる。それから不思議そうにディルクは尋ねた。
「愛していないって? おれのこと?」
やや呆れた視線をリオネルはディルクへ向ける。
「どうしてディルクの話が出てくるんだ」
後方で二人の会話を聞いていたマチアスは、呆れるのを通り越して、もうなにも言うことはないという表情だった。ベルトランは相変わらずの仏頂面で押し黙っている。
「だって、よくわからなかったんだ。だれがだれを愛してないって?」
「おれ――リオネル・ベルリオーズが、エルヴィユ家の令嬢フェリシエ殿を愛していないということだ。これでわかったか?」
「本気か?」
「ああ」
「言ったのか?」
「ああ」
「本人に?」
「そう」
しばし視線を行路の果てに彷徨わせたのち、ディルクは片手をひたいに当てた。
「それでフェリシエは泣いていたのか。そうか……」
リオネルは黙っている。
「今のリオネルを癒せるのは、フェリシエの存在だけだったと思ったんだけど」
「なんて答えたらいいんだ?」
「そう怒るなよ、心配してるんだ」
わかっている、そうつぶやいたリオネルの声がやけに憂いに満ちていたので、ディルクは傍らを走る親友を見やった。
「リオネル」
「もうフェリシエ殿の話はしないでくれ」
「本当によかったのか?」
「しないでくれと言ってるだろう」
「じゃあ、アベルの話ならいいのか?」
はじめてリオネルは振り向き、親友の姿を視界へ入れた。
「今のおまえは、自暴自棄になって、なにもかも壊そうとしているように見える――おまえ自身さえもだ」
リオネルは目を細めた。
「自暴自棄になって婚約を断ったわけじゃない」
「フェリシエに別れを告げたところで、アベルが戻るわけじゃないだろう? なら、どうして」
「ディルクがシャンティ殿に対して抱いていたような想いを、おれはフェリシエ殿に抱いていたわけじゃない。それなのに中途半端な状態を続ける意味なんてない。幾度も曖昧になってきたから、今度こそはっきりさせるいい機会だったというだけだ」
ややあって、そうか、とディルクはうなずく。
あれこれ言ってくるかと思いきや、案外あっさり引き下がったので、リオネルはディルクを見やった。
「いや、おまえの気持ちは薄々わかってたよ。ただ、おれ自身の経験があるから不安だった。でもおまえがそう思ったなら、そうするしかなかったんだろう」
「…………」
リオネルの気持ちは薄々知っていたというディルクは、これまでとは一転、深刻な表情で目を細める。
「アベルがどうして出ていったのか――なぜ、おれたちに挨拶もなしに行ってしまったのか、ずっと考えていたんだ」
ディルクから視線を外し、リオネルは紫色の瞳に憂いをたたえる。
「けれど、わからない。考えても考えてもわからない。ある日突然おまえのもとに現れた謎めいた少年はさ、いつしかおれたちにとってなくてはならない存在になっていたのに、突然またいなくなった」
傍らのクロード、背後のベルトランやマチアスも、二人の会話は耳に入っているだろう。
「でもさ、アベルが気まぐれで出ていったとは思えないんだよ。自分のことなんかそっちのけで、周りのことばかり考えて無茶な行動にでる子だっただろう? だから今回もそうだったんじゃないかと――」
「すまないが」
まだ途中らしいディルクの台詞を、リオネルは遮った。
「アベルの話もやめてくれないか」
「どうして」
「…………」
「辛いんだろう? そんなの見ていればわかるよ」
「なら聞く必要もないだろう」
「辛いなら、辛いって言えばいいじゃないか。ひとりで抱え込むなよ」
「だれとも話す気になれない」
「アベルがいなくなって辛いのはおれも同じだ。きっとベルトランだって、レオンだって、マチアスだって……」
「――そうだね」
「見ていられないよ、今のおまえは」
「すまない」
「大切な家臣だったんだろう?」
リオネルは返事をしない。代わりに顔を上げて、どこまでも続く景色の先へ視線を向ける。
「戦いが終わったら、アベルを探しにいこう」
ディルクが言った。
「ちょっとくらい政務をさぼったって平気だよ。時間があるときに館を出てさ、たまには一週間くらい遠出して、いろんなところを探しにいこう。それまでにはおまえの左腕を治して、アベルを探し出したら見せてあげよう。もう完全に治ったんだって。きっと飛びあがって喜ぶよ」
様々なことを考えた結果、アベルはリオネルの左腕が動かぬことに対して責任を感じて出ていったのだと、ディルクなりに思ったのかもしれない。
「そうしたら、またいっしょに旅に行こうって誘ってみてさ、来ないっていうなら、とびきりの蜂蜜酒を用意して待っていよう。甘い匂いに誘われて、いつかまた戻ってきてくれるかもしれない」
「……蝶か、蜜蜂のようだ」
ほほえむリオネルの横顔は寂しげだ。
なにか言いたげな表情でディルクはその横顔を見つめていたが、それ以上言葉を紡ぐことはなかった。
+++
街を歩いていると、方々から声をかけられる。
「旅の方、今日はとびきり細工の綺麗な指輪があるんだよ。故郷の恋人にどうだい?」
軽く首を振って断ると、別のほうから呼び止められた。
「そこのお兄さん、ちょっと待って」
布地を扱う店から、中年の婦人が手を振っている。
「厚手の毛布が今日はお買い得なのさ。これから寒くなるから重宝するよ」
謝絶して先へ進めば、目のまえにチーズを差しだされた。
「葡萄酒にぴったりだよ?」
木組みの三角屋根の家々が並ぶ道には、多くの露店。
常設市には新鮮な野菜や果物、乳製品、鶏や豚などの生きた動物たち、それに金物や靴、古物、宝飾品、武具までもが売られており、買い物客でごった返している。異国からの熊使いが広場で芸を披露し、盛大な拍手を浴びていた。
街は華やかな賑わいに包まれている。
ここアベラール領最大の都市セレイアックは、アベルが想像していた以上に活気に溢れる街だった。
ベルリオーズ領シャサーヌや王都サン・オーヴァンと、さして変わらぬ賑やかさである。
すぐ近くで生まれ育ったというのに、アベルがこの街へ来るのは初めてのことだ。
このような大都市が近くにあることを知らずに、アベルはデュノア邸で長年過ごしてきたのだから、いかに世間知らずだったかが、今ならわかる。
商人らは活き活きと商売し、道の脇では子供たちが楽しげに笑い声を上げている。
こうしてみると、賢く心優しい領主に恵まれた領民は、むろん多少の差はあれども概ね安心して暮らせるのだということがよくわかる。よい領主を戴いた領民は幸せだ。
果たして王都サン・オーヴァンはどうだっただろうか。貧富の差は大きく、貧困は深刻だった。かつて煙突掃除夫として働いた経験があるからこそ、その悲惨さは身に沁みてわかる。
リオネルやディルクの領地にいるというだけで、アベルはなにか安心することができた。
館を出てから三日目に、アベルはベルリオーズ領を出ていた。
最終的にはベルリオーズ領内の片隅で暮らせたら幸せだが、知人に会わぬとも限らない。そのため、当面は周辺の領地を転々として生活するつもりだった。
今はここ、ベルリオーズ領の南方に隣接するアベラール領内にいる。むろんディルクや、その父であるアベラール侯爵の治める所領だ。
かつて自らが嫁ぐはずだった領地に入ると、不思議な心地がした。むろんベルリオーズ領とは比較にならないものの、他の諸侯らの所領らに比べればはるかに広い。アベルの実家であるデュノア領の何倍もある。
このように大所領を保有し、かつ伝統ある名家に嫁ぐはずだったのだから、つくづく自分は大それた立場にいたものだとアベルは思う。身の程知らずとはこのことだ。
そして、その領主であるディルクや、リオネル、そしてこの国の王子であるレオンとつい先日まで共に過ごしていたなど、こうしてベルリオーズ邸を離れてひとりになってみると、夢だったような気がしてくる。
そう、なにもかも夢だったのかもしれない。
そうでなければ納得できるはずがない。
リオネルが、自分のようなちっぽけな者を慕っていたなんて。
きっと、夢だったのだ。
けれど夢にしては、リオネルのことを思い出すたびによみがえる切なさだけは、夢と思えぬほどの痛みを伴ってアベルの胸に突き刺さる。きゅぅと胸が締めつけられるような思いに駆られるのが、なぜなのかわからない。
もう一度、会いたいと思う。
二度とリオネルに会えないなら、このまま人知れず消えてしまいたい。そんな衝動に駆られた。
――けれどそれはできない。
リオネルに救われた命を、リオネルのために使うと決めたのだから。
アベルはセレイアックで宿探しをはじめた。
所持金はいくらかあるが、働く当てもないので当分は食いつぶすばかりだ。贅沢はできない。
ちなみに所持金は、年に一度、主であるリオネルから直接渡される給金――金貨五枚のところ、自分には不相応の額であるという理由でアベルは二枚だけ受け取っていた――と、ベルトランから定期的に受け取っていた銀貨がある。自分のものなどほとんど買っていないが、イシャスの服や玩具などは、払わなくていいというリオネルを押し切ってアベルが支払っていたので、いくらかは減っている。
さて贅沢をしなければしばらく働かずに生活できるだろうが、それも住む家があるという前提の話だ。アベルには住む家がない。つまるところ、アベルは安い宿を探すしかなかった。
何件かよさそうな宿を見つけたが、訪ねてみるとそれがなかなか値が張る。やはり大都市だけあって、これまで田舎で宿を借りてきたのとは事情が違った。
「うちは安いほうだよ、お客さん」
宿屋の女将は言う。
「この街でまともな宿を探したら、多分うちほどお得なところはないと思うけどね」
「けれどあまり余裕がないんです」
「あんた綺麗な顔しているじゃないか。安宿なんかに泊まったら、戸に鍵も付いてないし、人攫いに襲われてもおかしくないよ」
「人攫い?」
思いも寄らぬ言葉に、アベルは思わず問い返す。アベラール家のお膝下である大都市セレイアックで人攫いとは聞き捨てならない。
「そう、人攫いさ。女や子供だけではなくて、最近は少年や若者も危ないようだよ。王都ではよくある話らしいけれど、それがどんどんこちらへ広がってきているんだ。コカールあたりの治安が悪いと聞いていたが、最近ではセレイアックでも騒がれるようになった」
エマ領コカールといえば、事実アベル自身が人攫いに遭いかけた街である。
あのときは、八百屋の息子サミュエルに陥れられたのだが……。
まさかディルクの領地にまで、そのような犯罪が横行しはじめているとは。
「侯爵様も随分と対策を打たれて、衛兵の数もだいぶ増えたんだけどね。ああいう質の悪い犯罪はなかなか根絶できないのさ。だからお客さん、気をつけたほうがいい。悪いこと言わないから、うちに泊まっていきな」
「心配してくださるなら、少し安くしてもらえませんか? そうすればこちらに泊まります」
アベルが言うと、女将は声をたてて笑った。
「おとなしそうな顔して、しっかりしているじゃないか。しかたないね、いいよ。安くしてやるから、うちに泊まっていったらいい」
こうして交渉は成立したのだった。
誤字脱字のご連絡、いつもありがとうございます!