20
整然とした騎兵の隊列が、ベルリオーズ領シャサーヌからアベラール領セレイアックへと続く行路に長く続いている。
隊列が街の城壁近くを通れば、人々は城壁の外へ出てその隊列を見に訪れた。
「あれはどなたさまの軍隊だろう」
赤ん坊を抱いた婦人がつぶやくと、鍛冶屋の息子が興奮した声を上げる。
「旗を見てごらん、ベルリオーズ家だよ! 噂には聞くが、本当にかっこいいなあ!」
目を輝かせて若者は騎兵の隊列を見つめていた。
「はじめて見たよ。あんなに長い列なのに少しも乱れてないのがすごいね。先頭におられるのはリオネル様かな」
「けれど、リオネル様はお怪我をされていると聞いたよ。いったいどこへ向かわれるのだろう」
婦人の疑問に答えたのは、四十代と思しき衛兵だ。
「ユスターが国境を超えてシャルムに侵攻してきたという噂だ」
さほど大きな声だったわけでもないのに、周囲からはたちまちどよめきが沸き起こった。
戦争だ、ユスターが攻めてきた、戦争がはじまるぞ――、と方々から声が上がる。
「これは大変だ……」
若者がつぶやいた。
「リオネル様は戦場へ向かわれるのか」
「おそらくアベラール領へ立ち寄られるのだろう。アベラール家の兵力を加えたうえで、国境の戦場へ赴かれるに違いない」
「リオネル様は負傷されたお身体で、大丈夫なのかね?」
道標石のうえに座った老婆が、不安げに尋ねる。衛兵は隊列から視線を外さずに答えた。
「我らはご武運をお祈りするしかない」
曲がりくねった行路を長い隊列が行く。
彼らの姿が見えなくなるまで、街の人々はその場から動かなかった。
馬蹄の音が規則的に響いている。丘陵地帯のなかを進む騎兵らの一糸乱れぬ行進には、張り詰めたような緊張感が漂っていた。
一隊が通過する行路のすぐ脇に、街を囲う外壁が見える。
ベルリオーズ家の騎士らは主であるリオネルに率いられ、アベラール領セレイアックを目指していた。
セレイアックへ向かう理由は、衛兵が説明していたとおりである。
アベラール家は常にベルリオーズ家と運命を共にする。ベルリオーズ家が兵を出せば、必ずアベラール家の騎士も戦場へ赴く。
両家が動くとなれば、周辺の中小規模の諸侯らもなにかしらの反応をみせるはずだ。戦況は少なからず変わってくるだろう。
問題は、周辺諸侯らが動きだすまでのあいだ、持ちこたえられるかどうか、ということだった。
隊列を率いるリオネルの隣に並ぶのはディルクで、そのやや後方に騎士隊長クロードが従う。
隊を率いるはずだったジェルヴェーズに代わり、ベルリオーズ家嫡男リオネルが先頭に立っているのだから、騎士らはベルリオーズ家の家臣としての自信に溢れ、誇らしげな面持ちだった。緊張感漂う隊列からは、片腕を負傷した主リオネルを必ずや守り抜こうという気概が感じられる。
そういった騎士らのなかに、最も年若い者の姿があった。
これまでは二番目に若かったが、今や最年少になったのは、アベルがベルリオーズ家を去ったからだ。
クロードのすぐ後ろで馬を駆けながら、ジュストは物思いに耽っていた。これから戦場へ赴くというのに雑念を止めることができない。
彼がベルリオーズ公爵クレティアンに呼び出されたのは昨夜、夕餉の直後のことだった。
従騎士であるジュストが、出陣前に多忙であることはクレティアンもよく知っている。そのため、手短にすませると前置きしてから、クレティアンはすぐに本題を切り出した。
『そなたに尋ねたかったのは、殿下がお気に召したという踊り子のことだ』
直接クレティアンから踊り子のことを聞かれるとは思っていなかったので、正直なところジュストは驚いた。内心で身構えたのは、ジェルヴェーズ王子の怒りを鎮めるために、踊り子を探し出すよう命じられるのではないかと思ったからだ。
『踊り子を会場へ連れてきたのはそなただったと聞いたが』
『……そのとおりです、公爵様』
『大変美しい娘だったとか』
『……はい』
『その娘は、どこから連れてきたのだ。門番は彼女の出入りを確認していないと申しているが』
これまで皆に説明してきたように、玄関を通りかかったときに立っている娘を見つけたのだと言おうとして、けれどジュストは喉の奥が焼けついたかのように、声を発せられなかった。
クレティアンのまえで嘘をつくなど、だれよりも忠実な家臣であるジュストにできるはずがない。
『答えられないのか?』
ジュストはうつむく。
『クロードからは、玄関にいたと聞いたが』
うつむいたままジュストは視線を床のうえに彷徨わせる。
なにを言えばいいのかわからない。
クレティアンはじっとジュストを見つめていたが、しばらくして再び口を開いた。
『あの日、殿下はひどく気分を害されていた。殿下はフェリシエ殿を口説き、リオネルには葡萄酒を浴びせ、レオン殿下に手を上げ、あまつさえディルク殿やマチアスに剣を向けようとしたというではないか』
『はい』
『そのような状況で、殿下のまえで踊りを披露しようなどという娘が、果たして本当にいたのか』
『…………』
『よほど怖いものを知らぬか、よほど勇気があったのか、あるいはよほどリオネルらを救いたいと願っていたのか。それくらいしか考えが及ばない』
再びジュストが沈黙してしまうと、クレティアンは淡々とした口調で話を続けた。
『アベルが館を出ていったと聞いた』
これまでうつむいていたジュストが、ゆっくりと視線を上げる。
『アベルならば、リオネルらを救うためにどのような危険も冒すだろう。それとも、すべて私の考え過ぎだろうか』
クレティアンは踊り子の正体に気づいている――ジュストは確信した。
けれどクレティアンが、わざわざ自分を呼び寄せて話を聞こうとしているのは、おそらく確証を得たいがためだろう。
クレティアンが真実に近い場所にいる以上、家臣であるジュストに偽りを述べる術はない。
『もしアベルが館に留まっていたら、殿下の目にとまる。そうなれば、アベルがどうなるかわからない。だから、そなたが夜のうちに館の外へ逃がしたのではないのか』
『いいえ、公爵様』
静かにジュストは答えた。
『たしかに踊り子はアベルです』
やはりと納得する顔でクレティアンはジュストを見据えた。
『私が晩餐会の様子を伝えると、アベルはすぐに踊り子に扮することを考えつき、実行に移しました。けれどここを去っていった理由を私は知りません。アベルが殿下と共に大広間を出てからは、一度も会うことなく、気がついたときにはすでに館を出ていました』
『アベルは女性なのか』
『……それについては、私もはっきりとは分かりかねます』
ジュストは正直に答える。そう、ジュストにもわからないのだ。
確証がない。けれど。
華奢すぎるほどの肩や、透けるように白い素肌、折れそうな足首や小さな裸足は、とても十五、六歳の少年の身体には見えなかった。あれが男だというなら、自分はあのとき酒も飲んでいないというのに酔っ払っていたとしか思えない。それくらいにアベルは女性らしかった。
姿を変えただけで、あのように弱々しく見えるとは。
ジュストは苦い気持ちになる。
もし――、もしもアベルが十五かそこらの少女だったのだとしたら……。
自分は騎士にあるまじき非道なことをしてきたことになる。
これまでに幾度か、あの身体に暴力を振るったのだ。騎士が女性に手を上げるなど、とんでもないことだ。
軟弱な身体つきの、どこの馬の骨とも知れぬ男が、リオネルに気に入られて自分より贔屓されることに、ずっとジュストは耐えられなかった。
けれど、もしアベルが女性だったなら。
ジュストは聡い。すぐに、その可能性を考えないわけがない。
さらにその可能性を確信にまで深めたのは、クレティアンと会った直後に起きた、もうひとつの出来事だった。
……踊り子がアベルであったこと及びその行方がわからぬことを確認すると、クレティアンはあっさりとジュストを退室させた。ジュストが偽りを述べるはずがないということを、クレティアンはよく承知していたからだ。
けれど仕事に戻ろうとしたところを、今度はライラに引きとめられた。狭い部屋へ連れていかれ、どうしてもやってほしいことがあると詰め寄られた。
『リオネル様の愛する娘を探しなさい』
ライラはジュストにそう告げたのだ。
『リオネル様が愛する娘?』
アベルのことがあったばかりなので、わずかな可能性が脳裏をよぎり、ジュストはやや戸惑う。
『フェリシエ様……でしょう』
『いいえ、リオネル様ご本人の口から伺ったのです。リオネル様はフェリシエ様ではなく別の娘を愛していると。だから、フェリシエ様とは結婚できないと』
『そんなまさか……』
ジュストは混乱せずにはおれなかった。
リオネルはフェリシエ以外の令嬢と噂があったこともないし、フェリシエの口ぶりや様子からは、てっきり二人は仲が良いのだと信じ込んでいた。
それなのに、リオネルが、別の娘を愛しているとフェリシエに告げたのだとは。
『リオネル様に、他に愛する方がおられるというのは本当なのですか?』
『いるのでしょう。だからこそ、フェリシエ様との婚姻を、頑なに受け入れてくださらないのです』
完全に状況を把握するためには、気持ちの整理が必要だった。
まさかこのような事態になっていたとは。
『いいですね、ジュスト。リオネル様が想いを寄せる相手がだれなのかわかったら、すぐに知らせてください』
『……探し出してどうするのですか』
『むろん、その娘を殺します』
しばしジュストは絶句する。
『ちょっと待ってください』
『リオネル様のお相手はフェリシエ様以外にはありえませんよ、ジュスト』
『いいえ、従姉妹殿。話が違います。なにか重要なことを忘れていませんか。私はベルリオーズ家の家臣です。リオネル様が愛する方を、命をかけてお守りする立場にいます。だからこそ、私はこれまで貴方がたに協力してきたのです』
瞬間、ライラをまとう空気がすっと変化した。
『フェリシエ様にあれだけ可愛がっていただいて、よくそのようなことを言えますね!』
激しい怒りに満ちた台詞と眼差しが、ジュストを責め立てる。
『共に力を合わせ、リオネル様を支えていこうと誓ったではありませんか。フェリシエ様はあなたを信頼しているのですよ! だからこうして相談しているというのに』
けれど、そこはライラの従兄弟である。もともと真面目で強い意志の持ち主だ。
ライラがフェリシエに忠義を尽くすように、ジュストもまたベルリオーズ家に対する思いは人一倍強い。
従姉妹の怒りに打たれてもジュストは少しもひるまなかった。
『フェリシエ様のために尽力していたのは、リオネル様が愛しておられると聞かされ、将来ご結婚なさるはずの方だったからです。けれどもしリオネル様がフェリシエ様を愛しておらず、他に想う方がおられるなら話は違ってきます。リオネル様の愛する人を傷つければ、私は貴女がたであっても容赦はしませんよ』
鎮まらぬ怒りを秘めた瞳を、ライラは細めた。
『よくも、よくもそのような口を。フェリシエ様を裏切るつもりですか』
『リオネル様が慕うお相手を殺そうとすることこそ、我々ベルリオーズ家に対する裏切りです』
『ジュスト、あなたはもしや、アベルを排除することにも疑問を抱きはじめているのでは?』
『アベルは館を出て行きました』
『え?』
『満足ですか』
ライラは心底驚いたようだったが、ジュストの様子から事実らしいと悟ると、かすかに頬を緩める。その表情を見やって、ジュストは不愉快な気持ちになった。
従姉妹ライラからは再三アベルを殺すようにと指示されていた。毒まで渡されたこともある。
なぜライラはアベルを疎ましく感じていたのか。それは自分と同じくリオネルを守るためだと思っていたが、けれどそれは大きな思い違いだったのかもしれない。
今なら、なにかがわかる気がする。
もしアベルが女性であって、フェリシエがその存在に嫉妬していたのだとすれば……。
あるいは、女性とまで思っていないまでも、リオネルに気に入られているアベルに対し女特有の直感で憎しみを抱いていたか。
それならば、ライラがアベルを執拗に敵視していたことすべてが納得できる。
あれこれ考えているうちに、ジュストの脳内で、はっきりとなにかが繋がる。
繋がったと同時に、雷に打たれたような衝撃に襲われた。
確信にも近いこの可能性に驚愕する。
――リオネルが愛する娘。
まるで一夜の幻のように美しい踊り子。
ああ、そうだったのだ。
思い至ったとき、ジュストは総毛立ち、自らの身体を抱きしめた。なんてことだ。なんてことをこれまで自分はしてきたのだ。そして、なんてことをしてしまったのだろう。
『ジュスト?』
怪訝な面持ちでライラがジュストを見やる。
『……おれは最低な家臣だ』
ライラが眉をひそめる。
『リオネル様に申しわけが立たない』
『いったいどうしたのです?』
顔を上げてジュストはライラを睨みつけた。
『アベルが出ていって、貴女方はさぞかし嬉しいのでしょう』
『……あなたもでしょう、ジュスト?』
『今日のことは聞かなかったことにするので、リオネル様の愛する人を殺すなどという企みは、いっさい捨ててください。もし実行に移そうとするなら、貴方を迷いなくこの手で斬ります。覚えておいてください』
絶句するライラを残して、ジュストは部屋を出ていった。
……リオネルの愛する人を、このうえないほどの危険に晒したかもしれない。
そう思えば、ジュストは激しい後悔に襲われた。
もしアベルが女性であり、リオネルが彼女を愛していたのだとしたら。
アベルが踊り子としてジェルヴェーズのまえで舞い、肩を抱かれて寝台に連れていかれたなどと聞かされて、リオネルはどのような心地がしただろう。
激しい怒りと、わずかな猶予もない焦りを秘めたリオネルの眼差しが思い起こされる。
すでにジュストは確信に近いところまできていた。
アベルは女性だ。そして彼女こそが、リオネルの想う相手。
かつてトマやオクタヴィアンをけしかけてアベルを害そうとしたことがある。彼らも、もし真実を知ったなら驚愕すると同時に、自分らの行動を深く悔いるだろう。
あるいは、アベルが由緒正しい貴族の娘ではないことを不満に思い、やはり変わらず彼女を殺めようとするのだろうか。
ジュストは違う。
これまでのことがあったからこそ、そう思うのかもしれないが、これ以上アベルを傷つけることはできない。
女性の身で従騎士などになり、リオネルを命懸けで守ろうとする少女。
その少女をリオネルが愛しているのなら、なおさら守らなければならない。
……アベルはなぜ館を出ていったのだろうか。
あの夜おそらくなにかがあったのだ。ジェルヴェーズと、リオネルと、そしてアベルのあいだに、なにかが……。
まっすぐに視線を上げると、愛馬ヴァレリーに跨ったリオネルの後ろ姿がある。
アベルがいなくなってからの、痛みに耐えるようなリオネルの様子は、見ておれぬほどだ。片腕を犠牲にしてまで守ろうとした少女を失ったリオネルは、今どのような思いで戦場へ向かうのか。
すべては自分が招いた結果。
重い責任を感じると同時に、ジュストは自らの浅はかさを悔いた。