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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第六部 ~一夜の踊り子は誰がために~
336/513

18






 二通の手紙は、ほぼ同時にベルリオーズ邸に届いた。

 すなわち、一通はシャルム国王エルネストからジェルヴェーズに宛てたもので、もう一通はロルム公爵名義で正騎士隊将官フランソワ・サンティニがしたためた西方諸侯宛ての手紙である。


 リオネルらがベルリオーズ公爵クレティアンの私室に到着したとき、すでにジェルヴェーズは長椅子に腰かけ、小卓を隔ててクレティアンと向かい合っていた。


 ジェルヴェーズに向けて一礼すると、リオネルはすぐにクレティアンのそばへ寄る。


「父上、お身体は」


 寝台で休んでいるはずのクレティアンが起きあがって、これから話し合いに挑もうとしているのだから、案じずにいられるわけがない。


「お休みになっていなくてもよいのですか」

「私は平気だ、心配しなくていい」


 そう述べるものの、クレティアンの顔色は優れない。


「あとは私たちで話し合います。どうか父上は寝台へ」


 休むよう促すリオネルに、そういうわけにはいかないと、はっきりクレティアンは告げた。


「思いも寄らぬ事態になったのだ、休んでいるわけにはいかない」

「ユスター軍が侵攻してきたのですね」


 リオネルが視線を上げると、ジェルヴェーズの眼差しとぶつかる。非常事態であるというのに、ジェルヴェーズは余裕さえ漂わせていた。リオネルは内心で眉をひそめる。

 部屋に集まった面々を見渡して、ジェルヴェーズは告げた。


「ああ、集まってもらったのは他でもない。ユスター国境を守るようにと、父上から指示があったのだ」


 軽い口調で説明するジェルヴェーズは、まるで遠い異国の話をしているかのようだ。


「傷の癒えぬリオネル殿の代わりに、私がベルリオーズ家の兵士を率いて国境へ向かうようにという、父上からの命令だ」


 え、とリオネルはクレティアンを見やる。


「ベルリオーズ家の騎士らを、ジェルヴェーズ殿下が……?」


 はいそうですか、と受け入れられる話ではない。

 同席するすべての者の視線がクレティアンに集まった。ディルクやレオンにとっても、それは信じられない話である。


 クレティアンは重い口調で答えた。


「ちょうど私宛にも、ロルム公爵から援軍を要請する手紙があった。……私はこの身体ではすぐに動くことができない。だが、左腕が治らぬリオネルを戦地へ向かわせることもできない。ならば陛下のご命令どおり、ジェルヴェーズ殿下に率いていただく他ないと考えている」

「なぜベルリオーズ家なのですか。正騎士隊は――」

「正騎士隊は、北方の情勢に備えて王都から動かせぬそうだ。フランソワ殿の一隊のみが、シュザンの命で国境へ派遣されている。戦況は極めて厳しく、このままでは幾日持ちこたえるかわからないと、手紙には記されている」


 ロルム家をはじめ、ユスター国境近くの領主らが一刻も早い助けを求めていることはたしかだった。援軍の到着が遅れれば、フランソワの隊もろとも全滅し、竜の尾に位置する領土はユスター軍の手に落ちるだろう。


「けれど、それでは騎士らが納得しません」


 苦い声を発したのはベルトランだ。


「私では不満だと?」


 ジェルヴェーズがベルトランへ鋭い視線を向ける。


「ベルリオーズ家の騎士らはむろん、私も含めてシャルム王家に忠誠を誓っておりますが、直接仕える相手は公爵様とリオネルです。お二人以外の者の指揮のもとで戦うことなど考えられません」

「そこまで言うならばリオネル殿が率いていけばよいではないか」


 こともなげにジェルヴェーズが言い放った。


「片腕でも戦えぬことはあるまい、剣を握るのは右手だからな」

「兄上」


 レオンがいさめるが、ジェルヴェーズは聞かなかった。


「そうしたらいい。案外、戦っているあいだに、左腕も動くようになるかもしれぬぞ。リオネル殿が赴くなら、私は兵を率いていく必要もなくなるから助かる」


 挑発するような台詞はむろん、ジェルヴェーズにとってはそれが最高の筋書きであるからだ。自らの命を危険に晒すことなく、ベルリオーズ家の兵力を利用し、さらに負傷しているリオネルが戦地で命でも落とせばさらに好都合である。


 皆が厳しい表情になったが、ただひとりリオネルだけは違った。


「おおせのとおり、私が向かいます」


 平然と告げる。


「ベルリオーズ家の兵士を率いるのは私の役目です」

「だめだ」


 即座にリオネルの発言を退けたのはクレティアンだ。


「そなたは自身の身体のことを考えているのか。まだ負傷して日が浅い。今無理をすれば左腕が生涯にわたって使えなくなるだけではなく、ともすれば、戦場で命を落とすことになる」

「大丈夫です」


 根拠のないリオネルの自信――あるいはなにも考えていないようにも受け取れる発言に、クレティアンは束の間、呆れを通り越して言葉を失う様子だ。


「リオネル、やめろ」


 ベルトランが低く告げた。


「危険すぎる」

「そうだよ、おれやクロードがベルリオーズ家の騎士たちには同行するから、リオネルはここに残れ」


 ディルクもまた必死に説得にかかる。その様子を、ジェルヴェーズは愉快げに見守っていた。彼にとっては、どちらに転んでも好機なのだから当然のことだろう。


 むろんリオネルが率いていくことが彼にとって最も望ましい筋書きではあるが、ジェルヴェーズ自身が率いることになったとしても、ベルリオーズ家の騎士らを最も厳しい前線に投入し傍観していればいいのである。

 そうして戦いに勝利すればよし、ベルリオーズ家の騎士が壊滅すればそれもまたジェルヴェーズにとっては歓迎すべきことだ。


「おれが行く。ローブルグへも行ったのだから、ユスター国境へ行けない道理はない」

「今回は交渉じゃない、戦場へ行くんだぞ」

「同じことだ」


 揺るがぬ決意を抱くリオネルを、だれも説得することができない。


「では、そうしてもらおうか」


 ジェルヴェーズが笑った。


「リオネル殿はなかなか頑固と見える。そこまで言うなら、そなたが率いていけばよい。そなたが自分自身で決めたことだ。もし最悪の事態になったとしても、私が責任を負うものではないぞ」

「承知しています」


 はっきりと答えるリオネルに、ディルクが表情を曇らせる。


「おい、リオネル」

「行きたいんだ」


 リオネルは言った。


「……行かせてくれ」


 その言葉の真剣な――いや、切羽詰まっているようにも聞こえる響きに、ディルクは言葉を呑む。


「ジェルヴェーズ殿下、ユスター国境へは私が行きます。けれど出兵のまえにジルを解放してください。そうでなければ、私はここから離れることができません」

「ジルを解放すれば、そなたが戦場へ向かうのだな?」


 はい、とリオネルは迷いなく答える。ジェルヴェーズは薄く笑った。


「ということで、叔父上。リオネル殿が赴くことに決まりましたが、ご納得いただけますね」


 ジェルヴェーズがクレティアンへ視線を向ける。クレティアンはじっと考え込む顔つきになり、そして静かに言った。


「しばし、リオネルと二人にしてくださいませんか」

「退室せよと?」

「ええ、ジェルヴェーズ殿下も、レオン殿下も、ディルク殿も……。リオネルと二人きりで話したいことがあります」


 ディルクはレオンと顔を見合わせ、視線だけで互いに確認し合うと、ジェルヴェーズやクレティアンのほうへ軽く頭を下げて一礼した。それから気がかりげにリオネルを一瞥し、レオンやマチアスと共に部屋を辞す。

 続いてジェルヴェーズがおもむろに席を立ち、近衛兵を伴って退室した。


 室内は、クレティアンとリオネル以外には、執事のオリヴィエと用心棒のベルトランだけになる。

 身近な者たちだけになったせいか、クレティアンは疲労の色を顔に浮かべた。


「お加減は、父上」

「たいしたことはない、心配をかけてすまない」

「だいぶお疲れのようです」


 小さく溜息を吐き、クレティアンは立ったままの息子へ、椅子に座るよう手で示した。


「私は立ったままでけっこうです。それより話とはなんでしょうか。出兵のことでしたら、私が騎士らを率いていきます。なにをおっしゃられても、考えを変えるつもりはありません」


 クレティアンは浅く溜息をつく。


「殿下の言っていたとおり、そなたは頑固だな」

「そうでしょうか」

「アンリエットのようだ」

「…………」


 リオネルが黙りこむと、ややあってクレティアンは口を開いた。


「話というのは、アベルのことだ」


 リオネルがまとう空気が変化する。クレティアンはそれを見逃さない。話が打ち切られるのを避けるかのようにクレティアンは続けた。


「出て行ったそうだな」

「……はい」

「そなたが許可したのか」


 あれほどリオネルが大切にしていた家臣である。まさかリオネル自身が許可を出したとは、クレティアンとて思っていないはずだ。けれどあえて彼はそれを尋ねてくる。


「いいえ」


 低くリオネルが答えると、探るような視線をクレティアンは息子へ向けた。


「それなのに、なぜ出ていったのだ」


 どうやらクレティアンは、出兵の議題から離れて、本格的にアベルのことを話すつもりらしい。

 リオネルは押し黙るしかなかった。彼女が出て行ったのは、自分が想いを伝えたせいだなどと答えられるはずない。


「昨夜、踊り子が現れたそうだな」


 深い紫色の瞳を、リオネルは父親へ向ける。いったいクレティアンがなにをどこまで知っているのか判じかねた。


「美しく、踊りの上手い娘だったと聞いた。殿下のお怒りを鎮め、夜の相手をすると報賞も受けとらずに昨夜のうちに消えたとか」

「夜の相手をしたかどうかは定かではありません」


 静かだが、かすかに苛立ちのこもる声音で、リオネルはクレティアンの言葉を訂正する。クレティアンはじっと息子の瞳を見返した。


「まるで踊り子は、我々を助けるために現れたようだと」

「そのようにも見受けられました」

「だが門番は、踊り子が出入りするところを確認していない」

「……なにがおっしゃりたいのですか」


 硬い口調でリオネルが尋ねると、クレティアンはちらとベルトランを見やってから息子リオネルへ視線を戻す。


「アベルが踊り子の姿をしたなら、すべて納得がいく」

「アベルは男です」

「姿を変えたら、と言っているだろう」

「踊り子が去ったのと同時期にアベルがいなくなったからといって、二人を同一と捕らえるのは馬鹿げています」


 わずかにクレティアンは目を細める。


「リオネル、今日のそなたはいつもと違う」


 なにを言っているかわからない、という顔でリオネルは父親を見返した。


「大切なものを失った――そんな目をしている」

「アベルは大切な家臣でした」

「そなた、戦場へ死ににいくわけではあるまいな」

「なぜそのようなことを?」


 平らな声で尋ねるリオネルをじっと見据えて、クレティアンは声を低めた。


「そんな気がしたのだ」

「父上より先には死ねません。それに、私には家臣や領民のために生きる義務があります」

「……生きる義務か」


 クレティアンは苦い顔になる。


「それは父上もディルクも同じ――、領主たる者皆同様のはずです」

「アベルの存在は、そなたをベルリオーズ家や王家のしがらみから切り離し、ひとりの人間にしてくれたのか」


 わずかに瞳を見開いたリオネルは、咄嗟に言葉を探せない。


「……私は、いずれこのような日が来るような気がしていた。あの者には『根』が感じられない。初めて会ったときから、何処から現れ、何処へとも消えていくように思えたのだ。まるで昨夜の踊り子のように」

「そのような言い方はやめてください」


 強い口調でリオネルは言った。


「アベルは自ら出て行きましたが、あの子自身がそれを望んでいたわけではありません。アベルをここにいられなくしたのは、私なのです」

「理由など重要ではない」

「先程から、父上がなにをおっしゃりたいのかわかりません」

「義務や責任のなかだけで生きるのは、辛かろう」


 ゆっくりと窓のそとで陽が傾いていく。束の間、クレティアンとの会話がリオネルの意識から遠ざかる。


「苦しむそなたの姿を見るのは辛い」

「…………」

「だが、死んではならない、リオネル」


 ああそうか、とリオネルは思う。クレティアンは結局のところ、このことを言いたかったのだ。


「わかっています、父上。必ず生きて戻ります。けれど戦地へ赴くまえに、私にはひとつはっきりさせておきたいことがあります」

「それは?」

「どれほど父上が反対されようとも、フェリシエ殿との縁談はお断りします。彼女には、あらためて結婚の意思がないことを伝えました。これからエルヴィユ侯爵にもその旨を手紙にしたためて送る予定です。たとえ、そのことで、両家のあいだにどれほどの不和を生じさせようとも」

「リオネル、そなたは――」

「命あるかぎり、私はアベルとの再会を信じます」

「そなたは、踊り子に扮していた娘を愛しているのか」


 ひたとこちらへ向けられる父親の眼差しを見返し、リオネルはかすかに目を細める。


「『愛』などというものについて語るのはやめましょう」


 クレティアンは黙りこんだ。


「私には、だれかを自由に愛することなど許されていないのですから。それに、踊り子に扮した娘というのがだれなのか、わたしにはわかりかねます」


 話はこれだけですか、とリオネルは確認する。


「私は死にません。死ねない立場におりますので。ご納得いただけたら、戦地へ兵を率いることをお許しください」


 なおも黙っているクレティアンに、リオネルは「父上」と呼びかける。


「ただちに加勢に行かなければ、取り返しのつかない事態になります。騎士らを他者の手に委ねることはできません。どうか、許可を」


 厳しい表情になってから、クレティアンは声を発した。行きなさい、と。力の籠らぬ声だった。


「ありがとうございます」


 リオネルが頭を下げる。


「なぜ礼を言う」

「家臣と運命を共にすることが私の喜びです。ただちにクロードを呼び、出兵の準備をします」


 退室するリオネルにベルトランが従う。こうなってしまえば、あとはなにが起きてもリオネルを守るしかない――、そうベルトランの背中には書いてあるかのようだ。




 二人が去るとオリヴィエが気がかりげな声を発した。


「よろしかったのですか、公爵様」

「しかたあるまい」


 耐えきれなくなったようにひととおり咳き込むと、クレティアンはつぶやく。


「……少し疲れた」

「すぐに寝台へ」


 オリヴィエに付き添われて、クレティアンは寝室へ向かった。








 ベルリオーズ家では、慌ただしく出陣の準備がはじまる。

 その間にフェリシエがエルヴィユ領へ発ち、また、ジェルヴェーズもベルリオーズ邸を離れた。ジェルヴェーズが向かった先はブレーズ邸である。


 ジルが解放されたのを見届けたリオネルが、ディルクやレオンらと兵を率いてベルリオーズ邸を出たのは、翌日の昼過ぎのことだった。


 ジルは衰弱していたものの、命に関わるほどではなく、しばらく療養すれば回復すると医師は診断した。


 次々と要人らの去っていった直後のベルリオーズ家に、再び静けさが戻る。


 優れないクレティアンの容体。

 厳しい戦いの前線へ向かったベルリオーズ家の騎士らと、リオネル。


 だれもが不安を隠せない。イシャスの笑みがその日のうちに陰ったのは、アベルやリオネルはじめ館内の騎士らが皆いなくなったことを知ったからだった。








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