17
館内の捜索は半日にも及んだ。
調理場から、使用人部屋、客室、控えの間、ベルリオーズ公爵やリオネルの寝室、本館のみならず騎士館の隅々までジェルヴェーズは探させた。
――けれど、踊り子の姿はない。
探す場所がなくなるとジェルヴェーズは、腹立たしげに大広間の壁を蹴りつけた。周囲の者は固唾を呑んで、またレオンはうんざりした様子で、その様子を見守っている。
けれどリオネルは平然としていた。
「踊り子がいないということは、ご納得いただけましたね」
静かにリオネルが確認すると、ジェルヴェーズの怒りを恐れて使用人らは首をすくめ、騎士らは緊迫した空気のなかで殺気立つ。
ジェルヴェーズは忌々しげにリオネルを睨み据えた。
「どこへ消えたのだ」
「……さあ、我々には踊り子の居場所はもとより、名さえわからないのですから」
「レナーテ」
ジェルヴェーズが発した名に、リオネルは不可解な顔つきになる。
短くジェルヴェーズが説明した。
「彼女の名だ」
それは有名な戯曲「クラウディア」に登場する悲劇の少女の名である。庶民ならともかく、貴族で知らぬ者はない。
「レナーテ、ですか」
小さな声でリオネルは繰り返す。なぜアベルが「レナーテ」と名乗ったのか、リオネルにはわからなかった。
「実の名ではないだろう、昨夜の曲から名を借りたのだ。悪魔に魂と身体を売り、愛しい男の心を得ようとして破滅するはずの女は、報賞さえ受けとらずに姿を消し、いったいなにが望みだったのだ?」
「…………」
「それとも魂を捧げるのが惜しくなったのか」
「あるいは愛しい男など、はじめからいなかったのかもしれません」
「なるほど。遊ぶつもりが、遊ばれたのは私だったということか。――おもしろいではないか」
妙に冷静さを取り戻したジェルヴェーズは、かつかつと靴音を響かせながら廊下を歩きだす。
「殿下」
近衛兵が慌ててジェルヴェーズのあとを追う。
「シャサーヌの街とその周辺を探しますか」
「女の足といえども、一夜あればそれなりの距離を行くことができる」
「は……」
「探しても埒が明かない」
目当ての娘の捜索を諦めたようであるわりには、ジェルヴェーズの機嫌は悪くない。それが配下の兵士らにとっては解せぬことであり、そして不気味でもあるようだ。
「久しぶりに心躍るではないか」
ひとりつぶやくジェルヴェーズに、周囲の者はなにも答えることができなかった。
かくして半日続いた騒動はいったん収まり、ベルリオーズ邸に静けさが戻る。
けれどその静けさは緊張感を含んだものであり、普段の穏やかさとは対極のところにある。
ジェルヴェーズと別れたレオンは疲れた様子で自室へ戻り、リオネルは通用階段を通って上階へ向かった。
リオネルの後ろには、わずかな距離を置いてベルトランが従う。
自室へは戻らず、リオネルはフェリシエの使用する客室へと向かったが、そのことについてベルトランはなにも尋ねない。再びリオネルに部屋にひとりで籠られるよりは、黙って従うほうが賢明と判断したようである。
訪れたリオネルを出迎えたのはマチアスだ。中途半端な位置でライラが立っているところからすると、彼女が対応しようとしたのを制してマチアスが扉を開けたようだった。
扉のまえに立つリオネルに気づくと、マチアスにしては珍しくわずかに驚きの色を見せた。
一礼するマチアスへ、フェリシエを守っていたことに対する礼を短く述べてから、リオネルは入室する。
長椅子で休んでいたらしいフェリシエが、はっとした表情で腰を浮かした。
「……リオネル」
窓際に立っていたディルクが意外そうな顔をする。
「えっと……」
なにから言えば、あるいは聞けばいいのかわからぬ様子だ。
「アベルは――、というか、ジェルヴェーズ殿下は落ちついたのか?」
「ああ、館じゅう踊り子を探しまわって見つからなかったから、ひとまず納得はしたようだ」
「そうか」
ディルクは安堵の表情を見せたが、それはジェルヴェーズが落ち着いたからというよりも、リオネルがごく普通に口を利いてくれたからかもしれない。
「その、なんというか、また会えるとおれは信じているよ」
脈絡がないので、傍から聞けばいったいディルクがなんの話をしているかわからない。踊り子の話をしているようにも聞こえるが、むろんアベルの話をしているのだ。
リオネルもそのことはわかっているので、返事をせずに軽く顔を背けただけだった。
「フェリシエ殿に話があって来た」
ディルクがベルトランを見やる。ベルトランは首を傾げた。
「二人きりのほうがいいかい?」
気を利かせたディルクに、リオネルは「どちらでもかまわない」と短く答える。再びディルクはベルトランを見やったが、赤毛の用心棒は、今度はなんの反応も示さなかった。
「えっと、じゃあ、お邪魔虫は退散するよ。二人でゆっくりしたらいい」
そう言ってディルクはマチアスに合図し、共に部屋を出ていく。
赤毛の用心棒はというと、立っていた場所から岩のごとく一歩も動かない。フェリシエの侍女ライラもまた部屋に残っていた。
リオネルがフェリシエのまえへ歩み寄る。フェリシエは期待と不安の混じった表情で、リオネルを見上げた。
「フェリシエ殿にはご迷惑をかけてしまい、申しわけありません」
頭を下げるリオネルをまえに、戸惑ったようにフェリシエは首を横に振った。
「いえ……」
「貴女にお願いがあります」
「願い?」
「たとえ殿下が、貴女に強引な真似をしても、もはや我々には殿下を止める術はありません。もう二度と踊り子も来ないでしょう。殿下の気が逸れている今のうちに、貴女はここを離れてください。エルヴィユ家から迎えがこちらへ向かっているので、途中で合流することができます」
「けれど、ジェルヴェーズ殿下が、領地へ戻ってはならないと――」
「私がなんとかします」
「せっかくお会いできたのに、リオネル様とこのままお別れするなんて、わたくしは嫌です」
「どうかお聞き届けください」
「リオネル様がおそばにいれば、なにも怖いことなどありません」
「フェリシエ殿」
揺るぎのない口調でリオネルは相手の名を呼ぶ。
「もうひとつ、お伝えしておきたいことがあります」
突如フェリシエの瞳に不安の色が灯る。リオネルが再び声を発しようとするのを、唇に手を添えて制した。
「おっしゃらないでください」
「…………」
「リオネル様のお気持ちは存じています。それでも、おそばにいたいのです。でなければ、あなたの気持ちを動かすこともできないではありませんか」
細いフェリシエの指を、リオネルはやんわりと唇から遠ざける。
「私の気持ちが変わることはありません」
「どうしてそのように言い切れるのですか? 他に愛していらっしゃる女性がいないなら、いつかわたくしに心を向ける日も訪れるかもしれません。そうではありませんか? わたくし、いつまでもお待ちする覚悟です」
けれど、リオネルはゆっくりと首を横に振る。
意味を悟り、ぐっとフェリシエは顔を強張らせた。
「――なぜです?」
「ある女性を愛しています」
言葉を失うフェリシエに、リオネルは言葉を続ける。
「彼女以外の人を愛することはないと、私はあらためて気づきました。ですから、貴女の貴重な時間を私のために費やすことも、そしてこの館で私のために危険な目に会うことも、すべて終わらせましょう」
「……その女性とは、いったいどなたなのです?」
フェリシエの声は低く震えている。リオネルもまた、わずかに調子を落として答えた。
「お教えすることはできません」
「その女性も、あなたのことを愛して……?」
「どちらでもいいのです」
「…………」
「彼女が私を愛していようが愛していまいが、関係ありません。想いが通じ合わなくとも、私は彼女を愛し続けます」
「そんなの――」
なにか言いかけるが、フェリシエは言葉が続かない。感情の昂りに、泣くことも怒ることもできずにただ唇を震わせていた。
「貴女に、このようなことをお伝えしなければならなかったことを、申しわけなく思います」
蒼白な顔で立ちつくしているフェリシエへ、リオネルは深く頭を下げる。
「貴女の幸福を心から願っています」
そう告げると、フェリシエの顔を再び見ることなくリオネルは踵を返した。ベルトランも続いて部屋を立ち去る。
――リオネルが去った部屋。
震えるフェリシエの肩を、ライラが背後から抱きしめる。蒼白な顔で、フェリシエはライラを振り返った。
ライラがひとつうなずく。
その瞬間、フェリシエは甲高い悲鳴を上げた。
「お嬢様、エルヴィユ領に戻りましょう」
「いや――いやよ、リオネル様が他の女を愛しているなんて、絶対に嫌。あの方の心を、わたしではない女が占めているなんて許せない! その女を探し出して殺してやるわ。死んでしまえばいいのよ!」
「しっ、大きな声で言うと外へ聞こえます」
「だって、ライラ! だって、こんなことってある? ひどいわ、あまりにも」
「リオネル様が愛している相手とやらは、ジュストに探させましょう。今後どうするか決めるのは、それからです。叶わない願いなどこの世にはないのですよ、フェリシエ様。このライラにお任せください」
フェリシエはライラの胸のなかで、声を上げて泣いた。
+
長い廊下を、黙々と歩く。
フェリシエの部屋を出たリオネルは、まっすぐに自室へ戻った。相変わらずベルトランはひと言も発せずについてくる。自室へ辿りつくが、リオネルはベルトランを閉め出さなかった。
ひとりでいたい。
けれどベルトランの負っている役目も、リオネルは理解しているつもりだった。それに、彼が気を遣ってくれていることもよくわかる。
肘掛け椅子に腰かけると、リオネルは右手で顔を覆う。
これまで気にならなかったのに、今は動かない左腕がひどく重く、鬱陶しく感じられるのはなぜなのか。
いっそ腕など斬り落としてしまってもかまわないとさえ思う。大切な――愛した少女ひとり繋ぎとめられないこの腕など、無用の長物だ。
昼下がりの陽光が、窓の外の景色を照らしている。
白く霞んで見える青空が、ひどく空虚だ。
もう、アベルがここにいない。
出会ってから三年。気がつけば、リオネルの世界をアベルが彩っていた。
アベルがいない世界には、色も、音も、香りも存在しない。きっとこれから先なにを見ても虚しく、なにを食べても味気ないだろう。
なぜ彼女は出ていったのか。そのことをリオネルは未だに消化しきれずにいる。
それほどまでにアベルにとってはリオネルの気持ちが迷惑だったのだろうか。それとも、ベルトランが言っていたとおり、リオネルやベルリオーズ家の立場を考えて、ここにいてはならないと判断したのだろうか。
あるいはその両方かもしれない。
アベルは、イシャスの父親へ今も心を寄せていると言っていた。
ならば仕える主人であり、身分も遥かに高いリオネルの告白は重圧以外のなにものにも聞こえなかったはずだ。
さらに、貴族の嫡男が平民の娘を愛することの弊害くらいは、重々承知しているに違いない。責任感の強いアベルのことだ、自分がなんとかしなければならないと考えるだろう。
どうしてそのことに思い至らなかったのだろうと、リオネルは自身を責める。彼女を失うより怖いことなどなかったのに。
アベルの寝室へ彼女の姿を確認しに行ったとき、だれもいない部屋が、冷たい現実を突きつけていた。
小さな机の上に残されていたのは、見覚えのある革袋だった。かつてリオネルがシャサーヌの街でアベルに渡した金貨の袋だと、すぐにわかった。
胸がつぶれるとは、こういうことをいうのだろう。
ぐしゃりと、実際に心臓が踏みつぶされるかのような感覚だ。
フェリシエに別れを告げたのは、アベル以外の女性を愛することはけっしてないと知ったからだ。アベルを失ってあらためて気づかされる。
アベルの代わりはいない。あの子でなければ意味がない。
それに今ならわかる。
リオネルは自分に想いを寄せるフェリシエに別れを告げたが、アベルもまたリオネルに別れを告げた。実ることのない想いを相手に延々と抱かせるということは、深い罪悪感を生じさせるものだ。
アベルに負い目を植え付けてしまった。
そのせいで、アベルは出ていったのかもしれない。
けれど今更気づいたところで、なにもかもが遅い。
もうアベルはここにはいない。
さしたる所持金もなく、ひとりでどこへ向かったのか。
出会ったころの、心も身体もひどく傷つき衰弱しきったアベルが思い出される。病に侵され、死に瀕しているというのに、だれのことも信じようとしなかった孤独な少女。
二度と彼女があのような目に遭ってほしくないと思うのに、今のリオネルには、なにもしてやれない。
いつかアベルが語った言葉を思い出す。
『死ぬのは怖いです、リオネル様。あなたのおそばを離れるのは、とても怖いです。あなたと離れるということは、わたしにとっては死ぬと同じです』
そう語っていたアベルを、ここから追い出したのは自分だ。
想いさえ告げなければ――。
今、一枚も使わずに残された金貨の袋を握りしめながら、リオネルは思う。
愛してはいけなかったのだろうか。
彼女を愛してはならなかったのだろうか。
アベルは今どうしているだろう。厳しいこの世界に、あの子はこれからひとりで生きていくのか。
そう考えればリオネルは胸を裂かれる思いがする。
愛したせいで、失った。
愛したせいで、アベルを再び孤独へ突き落としてしまった。
……もう、アベルがいない。
アベルの顔が思い出せない。笑顔も泣き顔も思いだすことができない。
それほどまで彼女のことが遠く感じられる。
二度と会うことはないかもしれない。ならば、もう二度と愛した女性の顔を思い出せないのかもしれない。
握った拳で胸を抑えた。
気のせいではない。たしかに呼吸は浅く、せわしくなっている。このまま空気を吸えなくなっていくような錯覚に襲われる。
いっそ自らの手で喉をかき切り、この苦しみから逃れることができたなら。
けれどそれさえも許されない。自分はベルリオーズ家の跡取りだ。負っている責任の重さは承知している。
どこへも逃げられないならせめて。
リオネルはどうにか息を吸い込む。ゆっくりと、深く。
せめて、別れを告げるのではなく、アベルの無事を祈っていたい。
どこかで幸福に暮らしてくれることを願わなければ、負の感情に溺れてしまう。アベルが笑顔でいることを信じなければ、息もつけない。
そうして生き抜いたなら、いつかまたどこかで再会する日が訪れるだろうか。
そのときは笑顔を向けてくれるだろうか。
静かに扉を叩く音があって、ベルトランがリオネルを見やる。けれどリオネルが答えるまえに、遠慮がちに扉は開いた。
「リオネル……?」
ディルクの声だ。彼にしては随分と気を遣っているのが感じられる。
「いや、ごめん。フェリシエの部屋に行ったら、もうリオネルはいないって侍女に言われてさ」
「…………」
「その、ひとりきりでいるよりは、いっしょに酒でも飲んだほうが気も晴れるかと思って」
うまい酒を持ってきたんだ、とディルクは器を掲げる。
「レオンも連れてきた」
「すまないが」
「……飲まない?」
「悪いけど」
「そうか……」
ディルクが声の調子を落とす。彼はなにか言いたげにリオネルを見つめていたが、やがて踵を返した。
「だめだったか?」
と、かすかにレオンの声が聞こえてくる。扉の向こうで待っていたのだろう。彼らはそのまま立ち去るかと思いきや、ベルトランが扉を閉めようとすると、ディルクが、
「ダミアン?」
と、怪訝な調子でつぶやいた。
リオネルが顔を上げる。ダミアンが部屋を訪れたらしい。
クレティアンの部屋を守っているはずの彼が訪れたということは、公爵から言伝があるのかもしれない。
すぐにダミアンは半開きの扉から姿を現した。一礼する彼に、ベルトランが用向きを問う。
「どうした」
「お休み中にご無礼いたします。火急のご用で公爵様が、リオネル様並びにレオン殿下とディルク様をお呼びです」
「火急?」
「ユスター軍が、竜の尾に位置する西方国境を侵して、我が国へ攻め入ってきたとのことです。すでにジェルヴェーズ殿下も公爵様のお部屋におられます」
リオネル、ベルトラン、ディルク、マチアス、そしてレオンの顔に緊張が走った。