第二章 別離、そしてユスター出兵 16
陽が高くなるにつれて、景色に色彩が戻る。
鮮やかな色を取り戻した世界が、窓の外に広がっているにもかかわらず、四人は深刻な様子だった。
「いったい、なにが起きたんだ」
一同が集まっているのは、ディルクの寝室である。
リオネルの部屋のまえで石像のように頑として動かぬベルトランを、ディルクがどうにか説得してようやくここへ連れてきたのだ。
「アベルが出ていったって、いったいどうして」
騒ぎを聞いて駆けつけたレオンも、遠慮がちに尋ねる。
「本当なのか、アベルが出ていったというのは」
沈鬱な表情でベルトランは黙りこんでいた。
ディルクがレオンを振り返って肩をすくめる。リオネルが部屋にこもってしまったので、話を聞けるのはベルトランしかいないのだが、先程からこの調子だ。
一方マチアスは質問などせずに、ひたすらなにやら考え込む面持ちでいる。
「マチアス、黙ってないでなにか言うことはないのか。アベルが出ていったんだぞ」
なにか気の利いたことを言えば状況が変化するというわけではない。滅茶苦茶な要求をするディルクだったが、マチアスはちらと主人を見やっただけで、ベルトランと同様に、やはりなにも言わなかった。
腕を組んだディルクが人差し指を弾く。
このままではなにもわからない。わからないでは、アベルが出ていった理由も、どこに行ったのかも見当がつかない。
探しにいくことさえできないのだ。
「リオネルのあの様子じゃ、アベルは無断で出ていったんだろう?」
あれほど心を乱したリオネルを、ディルクは見たことがなかった。かつて母親であるアンリエットを亡くしたときにはひどく取り乱したと聞いたが、それも六歳のころの話だ。
「リオネルも辛いだろうが、おれたちだって納得できない。アベルは大切な仲間だ。なにも告げずにいなくなるなんて、哀しすぎる。よほどの理由があったとしか思えない」
ベルトランがなにも語らないので、ディルクはひとりで話している。けれどいくらひとりで話したところで、なにも解決しなかった。
「なあ、ベルトラン。アベルのことが心配だ。リオネルのことも。おれたちにできることはないのか」
するとベルトランが顔を上げる。突然ベルトランが振り向いたので、レオンがわずかに後ろへ後ずさりした。
「残念だが、ない」
ようやく声を発したと思えば、告げたのはそれだけだ。
「ないならないで、理由を説明しろよ」
苛立った様子でディルクが問いただす。ベルトランは再び黙りこんだ。
「アベルは大丈夫なのか?」
尋ねたのはレオンだ。ややあってベルトランは、おそらく、と答えた。
「おそらくってなんだ。アベルが危険かもしれないなら、追いかけるべきだろう。違うのか」
詰め寄るディルクにベルトランは鋭い視線を向ける。レオンはぎくりとなったが、ディルクに怯む様子はない。
「睨むくらいなら、理由を教えろよ」
「アベルは自分で出ていった。詳しいことは話せない。だが、あの子なりにリオネルを守ろうとした結果と言うしかない。アベルは自分の信念に基づいてここを出ていった。だからこそ止めることはできなかった。わかったな」
二人の勢いをまえにして、レオンはさらに二歩ほど後ずさりする。
「わからない。どうしてアベルが出ていくことが、リオネルを守ることになるんだ? なんで詳しいことは話せないんだよ」
「話せないものは話せない。これ以上聞くな」
むっとした顔でディルクは黙りこんだ。
「……イシャスはここに残ったのだろう?」
おそるおそる尋ねたのはレオンだ。
「ああ」
「アベルはひとりきりで行ったのか……」
「イシャスはエレンを母親だと信じている。二人を引き離すことには、心が痛んだのだろう」
「けれど、アベルに行く場所はあるのか?」
ベルトランは答えない。代わりにマチアスがつぶやいた。
「知るかぎり思いつきません。おそらく、ないのでしょう」
「……心配だな」
レオンはアベルを案じるようだった。
「弟とも離れ離れになって、ひとり行く当てもないとは。自ら選んだ道とはいえ、本当ならここに残りたかったことだろう。おれはアベルから借りたいくつもの恩を、まだひとつも返していない。もう会えないのだろうか」
「まだ納得できない、おれは」
不満のにじむ口調のディルクに、ベルトランは不機嫌な声を返す。
「アベルが自分の信念に基づいて行動したからだと言っているだろう」
「それにしたって、できることがあったんじゃないのか。ひと言相談するとか。こちらからも、せめてもう少し後にするよう説得するとか」
「それができたら、やっている」
「おれたちは最後に言葉さえ交わせなかった」
なにも言わずにベルトランが目を細める。憤怒の色がたたえられているかと思いきや、意外にも冷めた眼差しだった。
「ご自身の従騎士を、なにもできずに見送らなければならなかったのです。ベルトラン殿のお気持ちも、察するべきではありませんか」
静かに告げたのはマチアスだ。ディルクは無言になる。
納得がいかぬというディルクの気持ちもさることながら、大切な仲間を見送らなければならなかったベルトランもまた辛いはずなのだ。
扉を叩く音がしていっせいに視線がそこへ集まった。マチアスが扉を開けに行くと、慌てた様子の兵士がいた。
「どうしましたか」
「ジェルヴェーズ殿下がご起床になられました」
皆がなにか思い至る表情になる。アベルがいなくなったことの衝撃で、ジェルヴェーズの存在を忘れていたのはたしかだ。
「……それで?」
「ひどく気分を害されておりまして」
表情を曇らせるマチアスに兵士は説明する。
「昨夜の踊り子を、殿下は大変お気に召されたようです」
「踊り子……」
「ああ、美人だったからな」
レオンがつぶやく。
「まだ幼いが、絶世の美女だ。踊りも素晴らしかった」
マチアスが眉を寄せた。
「それで、殿下と踊り子は」
「踊り子は昨夜、殿下の部屋を出たきり戻ってきておらず、行方がわからぬままです。殿下はすでに配下の方々に館じゅうを探させはじめています」
思いも寄らぬ事態に、ディルクとレオンが顔を見合わせる。ベルトランは思案顔でうつむき、マチアスはさらに眉をひそめた。
「すぐに行きましょう」
「今はリオネル様がご対応されています」
「リオネルが……?」
驚きの声を発したのはベルトランだ。
「先にご報告いたしましたら、すぐに殿下のもとへ向かわれまして」
兵士の説明に弾かれたように立ちあがり、ベルトランが部屋を飛び出す。続いて出て行こうとしたディルクを、レオンが呼び止めた。
「大勢で騒ぎ立てれば、今以上に兄上の機嫌を損ねるだろう。おれが行くから、ディルクとマチアスは公爵のそばへ」
ディルクは足を止め、マチアスがレオンにうなずいてみせる。
「かしこまりました。公爵様とフェリシエ様のことは私たちにお任せください」
ディルクは溜息をつく。嵐が去る日は、ひどく遠く感じられた。
部屋という部屋を、ジェルヴェーズの家臣が許可なく開けては隅々まで見て回る。
館内は恐慌状態に陥っていた。若い女中らは怯えきり、騎士たちは長剣を抜きはらう寸前である。それにもかまわず、兵士らは館内を手荒に探しまわった。
「殿下、このような方法はおやめください」
強い口調はリオネルである。
「探してもなにも見つからないでしょう」
「踊り子をかくまい、逃がすつもりか」
冷ややかにジェルヴェーズは答えた。
「踊り子はおりません」
「どこへ隠した」
「何処からか流れてきた娘――どこへ去ったのかも、私たちは知りません」
不愉快げに舌打ちして、ジェルヴェーズは大股で廊下を歩む。そこへ慌てた様子でレオンが駆けつけた。
「リオネル」
「――レオンは部屋に戻るんだ」
短くリオネルが告げるが、レオンは首を横に振った。
「そういうわけにはいかない」
ジェルヴェーズのもとへ駆け寄ると、腕を掴む。
「兄上、ベルリオーズ邸でそのような振る舞いは、いかがかと思われます」
「おまえは控えていろ」
腕を振り払い、ジェルヴェーズはレオンを押しのけようとする。が、リオネルはさっとレオンの腕を引いてそれを阻止した。
ジェルヴェーズの瞳が不穏な色を帯びる。
「そなた、なにもかも邪魔立てする気か」
「わかりました。――探すのはかまいません。すべての部屋をご覧になればいいでしょう。もしそれでも踊り子が見つからなければ、ここにはいないとご納得し、諦めてくださいますね」
「もし踊り子がいれば、私の好きなようにするぞ」
一瞬リオネルは返事に詰まったが、すぐに冷静さを取り戻す。
「……承知しました。ただしお探しになる際に、けっして館の者に手を上げぬとお約束ください」
「刃向かう者がなければな」
「周知いたします」
かくして館内のすべての部屋が捜索されることとなった。この件は、むろんベルリオーズ公爵クレティアンの耳にも入った。
公爵は病の身体を寝台から起こして、自ら対応すると言ったが、それを止めたのは執事のオリヴィエと、駆けつけたディルクである。
二人の他にも、騒ぎのために各所を飛び回るはめになったクロードが居合わせていた。
「公爵様、いまはお身体を大事になさるときです。ご心配には及びませんので、どうかお休みになられていてください」
そう言ったのはオリヴィエで、言葉を被せるようにディルクが進言する。
「リオネルとレオン王子が、ジェルヴェーズ王子の対応をしています。二人がいれば問題が大きくなることはないでしょう。ジュスト他数名の者が、先んじて各部屋に殿下の配下の者が来ることを伝えてまわっているようです。いずれこの部屋にも兵士が来るでしょうが、どうかお気になさることなく、休まれますよう」
「フェリシエ殿は」
「彼女の部屋にはマチアスを向かわせています」
「……そうか」
クレティアンはとりあえず安心した様子だった。それからふと考えるふうな顔つきになって、ぽつりとつぶやく。
「踊り子など、本当にいたのか」
「……レオンはたしかに見たと言っていました。踊りに優れた美しい娘だったと」
「殿下がそれほど執心なさるほどに?」
「わたしは直接会ってはいないので、わかりかねますが」
騒動の原因となったのは踊り子である。彼女がなにも告げずに行方をくらましたりしなければ、このようなことにはならなかったのだ。
――だが、それ以上に、彼女の存在は昨夜、ベルリオーズ家の危機と多くの者の命を救った。
クレティアンの考えは読めないが、少なくとも踊り子の存在については、はっきりさせたいようだった。
「どこから連れてきたのだ」
この件については詳しくないディルクの代わりに答えたのは、ジュストから話を聞き及んでいたクロードである。
「突然館に現れたと聞いています」
続けて咳をしてから、納得できぬ様子でクレティアンは眉根を寄せる。
「門番は確認していないのか」
「それについては未だ判然としておりません。ジュストが殿下のもとへ案内したことはたしかですが、門番は踊り子の出入りを確認していないようです」
「ジュストはどこでその娘を見つけたのだ」
「玄関のまえに立っていたと、申しておりました」
ますます不可解である。
「どうやって敷地内へ入ったのだ」
むろんそのようなことはクロードにもわからない。黙したクロードに、クレティアンは質問を重ねた。
「なぜ消えた」
「それも不明です。――踊りを披露し、殿下のお相手をしたものの、報賞さえもらわずに去っていったとか。彼女が現れなければ、昨夜はジェルヴェーズ殿下のお怒りを鎮めることはできませんでした」
「あるいは、我々を助けるためだけに現れたようでもあるな」
「そうとも考えられます」
「出ていく姿を確認していないということは、まだ館にいる可能性があるということか」
「可能性はあるでしょう」
「…………」
「ジュストを呼んで、詳しい話をさせましょうか」
考えこむ様子で沈黙してから、公爵はクロードを見やる。
「もし殿下が踊り子を探し出し、手荒なことをするようであれば、娘を保護して殿下と共に二人を私のもとへ連れてきなさい」
「承知いたしました」
「長く引き止めてすまなかった。そなたは忙しいのであろう。私のことはいい、早く家臣らのもとへ戻りなさい」
「――は」
恐縮の体で、クロードは頭を下げる。
続いてディルクへ視線を注いで、クレティアンは言った。
「ディルク殿、我が館で面倒事に巻き込んで申しわけない」
「そのような水臭いことを仰らないでください。アベラール家は常にベルリオーズ家と命運を共にします。むしろこのような大変な折りに、リオネルのそばにいることができてよかったと思っています」
「……ありがたい言葉だ。重ねて甘えるのは気が引けるが、ディルク殿はフェリシエ殿のところへ行ってはくれないか」
軽くディルクは首を傾ける。
「彼女のところにはマチアスがいます」
「フェリシエ殿は不安な思いをしていることだろう。リオネルはこの騒ぎで会いにいけない。ディルク殿は、フェリシエ殿とは旧知の仲と聞いている。そばにいてあげてほしい」
「けれど、私は公爵様のおそばを――」
「私のもとにはオリヴィエがいる。それに扉のまえには、ラザールやダミアンという屈強な者たちが控えている。そなたらのような頼れる者を私のためばかりに割きたくはないのだ。案ずるな、殿下の配下の者らも私の部屋で騒ぎ立てたりはすまい」
ぐっと考えこむ顔つきになったものの、ディルクは不承不承うなずいた。
「かしこまりました」
「よろしく頼む」
クロードとディルクが同時に退室し、病のクレティアンと、けっして若くはないオリヴィエだけが残ると、部屋は急に広く静かな空間になったように感じられる。
すると、クレティアンが激しく咳込みはじめる。客人らのまえでは堪えていたのだろう。クレティアンの背をオリヴィエがさすった。
「少しお休みになりますか」
「……大丈夫だ」
呼吸を落ちつかせてから、クレティアンは大きく肩で息を吸う。すると遠慮がちにオリヴィエが尋ねた。
「なにかお話があったのでしょうか」
長年クレティアンに仕えているオリヴィエは、主人がさりげなく人払いをしたことを察していたようだ。
「アベルはどうしている?」
尋ねられたオリヴィエは、虚をつかれた面持ちになる。
「従騎士のアベルですか」
「そうだ」
「御用向きがあるなら、呼んでまいりましょうか」
「頼む」
オリヴィエはすぐに扉のまえに控えていたダミアンに、アベルを連れてくるよう依頼した。けれどしばらくして戻ってきたダミアンは、アベルを伴っておらぬうえに、ひどく困惑した様子だった。
ひざまずくダミアンに「どうした」とクレティアンが尋ねる。
「は、それが……」
ダミアンは口ごもった。
「アベルはいないのか」
「……どうも、館を出ていったようなのです」
「出ていった?」
思わぬ言葉を耳にして、クレティアンは問い返す。
「出ていったとは――」
「エレンやイシャスの部屋にいると聞いて訪ねたのですが、アベルはすでに館を出ていったのだと告げられました。イシャスは連れていかなかったようです」
「いつ出ていったのだ」
「昨夜遅くです」
「戻りは」
「……もう戻らないだろうと」
ダミアンが深くうつむき唇を噛んだのは、おそらくまだ納得できていないからだろう。
アベルはダミアンやラザールにとっても大切な後輩であり、仲間だった。この状況をすぐに消化できないのは当然のことだ。
けれど葛藤の垣間見えるダミアンとは異なり、クレティアンは冷静だった。
「リオネルはこのことを知っているのか」
返事の代わりに、ダミアンはぎこちなくうなずく。それを確認して、大きくクレティアンは息を吐きだした。
「そうか」
重苦しい沈黙が降り落ちる。
「理由については、なにか言っていたか」
「特には聞いておりません」
うなずき、クレティアンはダミアンに退室を命じた。再び二人きりになると、オリヴィエは遠慮がちに尋ねる。
「アベルがいかがしましたか」
なんでもない、とクレティアンが答えると、それ以上オリヴィエも追及しない。
寝台に腰かけたまま窓を見つめ、疲労した様子でクレティアンは溜息をついた。