15
血なまぐさい風が吹きつける。朝陽に照らされたルステ川には鮮やかな朱色が流れ、不気味に照り光っていた。
平原に馬の嘶きと悲鳴が響きわたる。飛び来たった幾本もの矢が、陽光を弾いて眩い光の雨となって大地へ降りそそいだ。
あと幾日、持ちこたえることができるのか。
幾人かの兵士らに守られた一騎が、敵兵に囲まれる。
執拗に狙われているのは、位の高い騎士のようだった。
長槍を構えた敵が猛進して迫りくる。次々と周囲の味方が倒れていくなかで、騎士は自らまえへと進み出た。
「私が狙いなのだろう、相手になるぞ」
味方からは動揺の声が上がるが、騎士は迷いのない動きで敵に接近していく。
「ロルム公爵か」
「ああ、そうだ。そちらは」
わずかに口端を歪めると、赤味がかった茶髪も乱れるままに、敵は長槍を振りかざす。自らの名は告げぬつもりらしい。
ロルム公爵は無言で敵の攻撃をかわした。生半可な敵ではないことはたしかだ。長剣を払う間もなく、避けるのが精一杯という状況である。
けれど援護に入ろうとする家臣らに向けて、ロルム公爵は鋭く一喝した。
「手出しは無用だ!」
戸惑いの色が兵士らの顔に浮かぶ。
「命を無駄にするな」
これ以上、配下の者を死なせたくなかった。
繰り出される槍を避けながら、ロルム公爵は長剣を払う機会をうかがう。が、敵はまったく隙を見せなかった。槍の先が、ロルム公爵の肩をかすめる。服が裂かれて血が散った。
「公爵様!」
騎士らが馬ごと敵のまえに立ちはだかる。けれど。
「来るな!」
なおも公爵は騎士らを寄せ付けず、敵に向かって馬を駆けた。ふっ、と敵が嘲笑うかのように頬を引きつらせる。
二騎がすれ違いざまに互いを斬ろうとしたとき、一筋の光が走った。
皆が固唾を呑んで見守るなか、敵の馬が倒れる。騎手が避けたために、馬の背に矢が突き刺さったのだ。悲痛な嘶きと共に馬が倒れる。騎手は一転して態勢を立て直すと、すぐに援護に駆けつけた仲間の馬に飛び乗った。
態勢を立て直し出直すつもりだろう、猛烈な速さで走り去っていく。
後を追おうとする兵士らに、ロルム公爵は叫んだ。
「追うな」
「しかし――」
焦りの色を見せる兵士らに、公爵は断固とした口調で告げる。
「相手は手強い。深追いすれば、命取りになる。今はまだ決着をつけるときではない」
言い終えるか否かの頃合いで、大きな影が彼らのまえに現れた。
立派な馬に跨る騎手は、岩のように大きく逞しい。近づく偉丈夫の手には弓が握られている。ロルム公爵を救ったのは、この弓矢のようだった。
「サンティニ将軍!」
兵士らが歓声を上げる。髭を生やした精悍な顔に、かすかな笑みを浮かべてサンティニと呼ばれた男は応えた。
「助かった、フランソワ殿」
ロルム公爵が礼を述べると、フランソワ・サンティニは軽く頭を下げた。
「公爵殿、お怪我は」
「たいしたことはない。それより、貴公の隊は」
フランソワの周囲には、護衛の騎士が数奇従うのみだ。
「こちらはひとまず落ちついています。騎士らには他の場所を守るよう命じてきました」
「そうか、それはありがたい」
背はさほど高くなく細身であるため、ロルム公爵は小柄にも見えるが、けっして貧弱な身体つきではない。適度に筋肉がついている腕や胸板はしっかりとしている。
その身体を馬のうえですっと伸ばし、公爵は辺りを見回した。
「敵は退いているようだな」
「ですが、またいつ攻めてくるかわかりません」
側近は苦い口調だが、公爵は落ち着いた様子だ。
「王都へは知らせをやっている。援軍が来るのを待とう」
ロルム公爵の言葉に、周囲の兵士らが無言で表情を曇らせる。
本当に援軍は来るのか。
あるいは、この地は見放されるのではないかという不安が、彼らの顔には滲んでいた。家臣の心情を見抜き、公爵が言葉を足す。
「援軍が来るまでには時間がかかるかもしれないが、陛下はけっして我らを見捨てはしない。それに、周辺の諸侯が兵を率いてこちらへ向かっている。案じることはない。これから戦いは徐々にこちらの優位になっていくはずだ」
今のところ戦況はけっして芳しくない。
川を越えてシャルム領へ侵攻してきたのはユスター軍である。幾日もまえに伝書鳩で王都へ知らせを出しているが、なんの音沙汰もない。これでは兵士の士気が上がらないのもいたしかたないことだった。
フランソワ率いる一隊がいなければ、今頃ロルム領はユスター軍の手に落ちていたことだろう。
ローブルグとの同盟が完全に締結されるまえに国境を侵してきたのだから、ユスターは短期でこの戦いを終わらせる狙いに違いない。
それなのに王宮は動きが鈍い。
今のところユスター側も様子をうかがっているのか、全軍を投入しているわけではないようだ。けれどもし、ユスターが兵を増やしてくれば、さほど時間が経たぬうちに国境は侵され、竜の形をしたシャルムの領土における尾の土地は敵の手に落ちる。
周辺の諸侯らも徐々に参戦してきてはいるが、まだ王宮の動きを見守る者も多い。
王宮が正騎士隊を動かさなければ、ロルム周辺の領土は身捨てられることになる。だれもが不安の色を隠せずにいた。
疲れきった兵士らの顔を見回し、今度はフランソワが口を開いた。
「正騎士隊は陛下のお許しがでるまで動くことができないだろう」
フランソワは正騎士隊に所属する将官である。仲間がすぐには来ないであろうことを示唆したうえで、彼は言葉を続けた。
「が、シュザン・トゥールヴィル隊長の一存でここへ私が派遣されているように、政府が動かずとも、必ず助けは来る。すでにロルム公爵様のお許しをえて、西方の諸侯らには手紙を送った。兵を率いて駆けつけてくる者は少なからずいるはずだ。けっして諦めるな」
つまりは、動きの鈍い中央政府には頼らず、自分たちの力で味方を募ろうということである。
フランソワの言葉を聞いていた兵士らの表情に、かすかな希望の色が灯る。
西方の諸侯には、彼の偉大なブレーズ家もあれば、強兵を誇るベルリオーズ家もある。その他にもアベラール家やヴェルナ家など頼れる諸侯は多く存在した。
「けれどリオネル様はお怪我を負われているという噂。ベルリオーズ家は出兵できないのでは」
兵士のひとりが不安を口にする。もっとも頼れる存在であるはずのベルリオーズ家が参戦できないとすれば、状況はかなり厳しい。
「それに国王派であるブレーズ家が、我ら王弟派に近いロルム家に手を貸すでしょうか」
「ブレーズ家の出方は未知だ。ベルリオーズ家に関しては、おそらく貴公が申したとおりリオネル様ご本人は無理であろうが、配下の騎士だけを遣わしてもらえる可能性はある。それにベルリオーズ家が参戦できずとも、処々から兵士らが集まれば大きな力になる。各地へ知らせが届くころだ。あと少しの辛抱だ」
十月を目前とした秋の朝陽が、兵士らのうえに涼やかな光を投げかける。
力強いフランソワの言葉によって、兵士らの顔には少しばかりの明るさが戻った。
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一方、ロルム領より東方――ここシャルム国の王都サン・オーヴァンでは、戦いとは無縁の穏やかな時が流れている。
柔らかな日差しが照らす光景に、けれど落ちつかない様子の若者の姿があった。
「陛下、正騎士隊を動かさないとはどのようなご所存でしょうか」
国王のまえにひざまずいているものの、シュザンの声には苛立ちが滲んでいる。
フランソワから手紙が届いた直後にシュザンはシャルム国王エルネストに面会を申し出たが、二日経った今日ようやくそれが実現したのである。
が、エルネストは国境へ軍を派遣しないという方針を、シュザンに示したのだった。
「ユスター国境はあと幾日持ち答えることができるかわかりません」
「エストラダの脅威がある以上、正騎士隊を投入することはできぬ」
シャルム国王エルネストはこれ以上の説明を拒むかのように言い切った。シュザンは食い下がる。
「けれど、エストラダは大国ブルハノフとの戦いの最中にあります。すぐにシャルムへ攻め入ってくることはないでしょう。それよりも、すぐにユスター軍を追い払わなければ取り返しのつかない事態に陥ります」
「取り返しのつかぬ事態とは?」
「ロルム領をはじめとした竜の尾の領土は征服され、彼らはさらに王都を目指して東進するでしょう」
「なるほど」
うなずいたものの、エルネストが納得した様子はない。
「だが、もう少し様子を見なければ、ユスター軍の動きは見えぬ。あるいは正騎士隊を西方へ誘い出し、王都の守りを手薄にしたうえで、他国を扇動して我が国を攻め滅ぼそうとしているのかもしれぬ」
「可能性を考えればきりがありません」
「いましばらく様子を見るということだ、シュザン。そのようにいきりたつな」
「ですが、一刻を争います。遅れれば侵攻を食い止めている諸侯らは全滅します」
「そなたが派遣したフランソワ・サンティニの一隊もか?」
「…………」
遅かれ速かれ、シュザンがフランソワらを無断でユスター国境へ派遣したことは、エルネストの耳に入るとは思っていた。実際、すでにエルネストは把握しているようだ。
無理もない。名高い将官フランソワが長いこと姿を見せないのだ。なにかあったと考えるのは当然のことだ。
「許可を得ずに勝手なことをして、申しわけございません」
「私が許可を出さないと思っていたのだろう」
エルネストの声は冷ややかだ。シュザンが答えられずにいると、エルネストは質問を重ねた。
「そなたは、ユスターの侵攻を見越していたのだな?」
「……ええ」
「そなたが派遣したフランソワ・サンティニの一隊と、周辺の諸侯らが集まれば、ユスター国境を守ることはできると私は考えている」
「周辺の諸侯とは――」
まさか、とシュザンは顔を上げる。
「折り良く、ジェルヴェーズがベルリオーズ邸に滞在している。リオネルは片腕が治っておらぬゆえ兵を率いることはできないが、ジェルヴェーズなら可能だろう」
「つまりベルリオーズ家の騎士らを、ジェルヴェーズ殿下が率いていくと……」
「さよう、ジェルヴェーズが赴けば、我らが無関心ではないということが伝わるであろうし、ベルリオーズ家並びにアベラール家の兵力があれば、ユスター軍など追い散らすことができよう」
シュザンは言葉を失った。
つまるところ、ジェルヴェーズは兵を率いるのみで安全な場所におり、ベルリオーズ家やそれに従う王弟派の騎士らだけが戦うということである。
そして、戦いに勝利した暁には功績はジェルヴェーズのものとなる。
だれがこのようなことを考えついたのだろうか。狡猾な手法は、エルネスト自らが考案したとも思えない。
「これはすでに決定したことだ。ジェルヴェーズには書状を送ってある」
つまり面会を拒絶されていたこの二日間のうちに、エルネストは方針を定めたうえに、書状まで書き送ってしまっていたのだ。
国王が決定したことを、いまさら覆すことはできない。シュザンはうつむき眉をひそめる。
――だれかがエルネストの裏にいる。
脳裏をかすめたのは、今は西方の自領にいるはずの二人だった。
「……ブレーズ家は」
「公爵とフィデールには知らせを遣った。ジェルヴェーズの指示に従うようにと」
いや違う、とシュザンは思う。エルネストが彼らに知らせたのではなく、おそらく彼らがエルネストに知らせを遣ったのだ。
西方の領地にいる彼らはいち早くこの事態を把握していたに違いない。国を揺るがすこの事態を、いかに国王派にとって有利に切り抜けさせるか――先手を打たれたのだ。
ブレーズ家は、シュザンがエルネストと話し合いをするのを妨げ、事前に国王へ働きかけていた。
このままでは彼らの思う壺である。けれど、シュザンに打つ手はない。
あるいは処罰を覚悟のうえで、王の許しなく軍を動かすしかないが、そのようなことになれば実家であるトゥールヴィル家に類が及ぶ可能性さえある。
「シュザン、私とて考え抜いて出した結果なのだ。リオネルの怪我にも配慮し、かつ王都を空にせずにユスター国境を守る術はこれしかない――不満はあるやもしれぬが、ここは納得してほしい」
たしかに、それはそのとおりである。
だが、それで最も得をするのはいったいだれなのか。
そして、損害を被るのは――。
「いいか、シュザン。今後、勝手な行動を取ることは許さぬぞ。もし再び私の許可なく正騎士隊を動かせば、隊長の座を退かせねばならぬことにもなりかねない。私にそのようなことをさせるな」
ひざまずいたまま、無言でシュザンは頭を下げる。
……リオネルを戦場に向かわせずにすむことだけが、唯一の救いか。
かといって、ジェルヴェーズが率いていけば、ベルリオーズ家の騎士らは戦いの最前線に配置される可能性が高い。あるいは全滅するかもしれない。
ならば、リオネルが率いていくほうが幾分かましだろうか。もはやシュザンには判断がつきかねた。
けれどこのまま傍観しているわけにはいかない。
王命で出陣を禁じられれば従うしかないが、今後のことを考える時間だけは与えられたともいえる。
ユスター国境のシャルム領土を、そしてリオネルとベルリオーズ家を守る術を探るべく、シュザンは考えを巡らせた。