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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第六部 ~一夜の踊り子は誰がために~
332/513

14






 夜が明ける。

 どのようなことが起きた夜であっても、朝は訪れる。


 昨夜のことが夢であったらよかったのに、とベルトランは心から思った。


 今朝も変わらずアベルが朝寝坊をして、しかたがなく起こしにいくと、慌てて夜着のまま布団から跳ね起きる。警戒心のなさもここまでくれば呆れるしかない。

 それからリオネルやディルクと共に食堂へ向かい、賑やかに皆で朝食をとるのだ。


 ……そんな朝であったなら、どれほど嬉しいだろう。


 けれど、アベルはもういない。


 顔を洗って布で拭えば、あらためて朝陽の眩しさが目に染みる。

 いつもと同じ朝であることには違いないのに、ひどく違和感があった。


 不機嫌そうなクロードを部屋に残し、重い足取りでリオネルの部屋へ向かう。扉を叩いたが返事はない。

 しかたがないので無断で扉を開ければ、リオネルの姿は窓際に置かれた洗面台のまえにあった。


 顔を洗っていたようだが、彼のことだから、おそらく一睡もしていないのだろう。

 こちらを見やってリオネルがわずかに目を細める。その表情には陰りが見て取れた。


「……おはよう」


 朝の挨拶をするリオネルへ、ベルトランは返事をすることができない。どのように話を切り出せばいいのか、どうすればリオネルを最も傷つけずに伝えることができるのか、まったくわからなかった。


 黙って立っているベルトランを不審に思ったのか、リオネルが訝る表情になる。ベルトランの口からは、重い声音がようやく発せられた。


「リオネル」


 その口調だけで、リオネルはなにか察したようだった。


「――アベルは」


 顔色を一変させたリオネルに、ベルトランは苦い表情を返すしかない。


「アベルはどうしている」


 リオネルの口調が強くなる。ベルトランはなおも黙っていた。


 しびれを切らしたリオネルが、部屋を飛び出る。呼び止めるまもなくアベルの寝室まで駆けて、扉を叩いた。

 当然のことながら返事はない。ベルトランは言葉を発せられぬままリオネルのあとに従った。


 リオネルがゆっくりと扉を開けるが、少女の姿はない。

 カーテンが開け放たれている。室内は目に痛いほど眩しい光に満ち、絶望的な空虚感に満たされていた。いつもの笑顔も、少し驚いたような表情も、眠たそうな瞳も、なにもない。


 アベルの寝室を飛び出て、リオネルは階下へ向かおうとする。

 耐えきれなくなって、ベルトランはリオネルの背中へ声をかけた。


「イシャスのところにはいない」


 足を止めてリオネルが振り返る。ベルトランは苦い面持ちになった。


「むろんジェルヴェーズ王子のもとでもない」

「…………」

「アベルは出ていった」


 咄嗟にリオネルは声を出すことができないようだった。瞳を大きく見開きベルトランの顔を凝視している。


「アベルは……出ていった」


 いま一度ベルトランが言う。


 ――嘘だ、とリオネルの顔には、たしかにそう書いてある。だからこそベルトランは告げねばならなかった。


「あの子はもうここへは戻らない」


 リオネルはつかつかとベルトランのもとへ歩み、胸倉をつかんで引き寄せた。けれど、やはり言葉は発せられなかった。

 燃えるような紫色の瞳で、ただベルトランを睨みつけている。


「すまない」


 短くベルトランは謝罪した。


「おれを殴れ」


 胸倉を掴ませるままに、ベルトランは言う。


「アベルを止められなかった。おれを信頼しておまえはアベルを任せた、それなのにだ。気がすむまで殴れ」


 ベルトランは両目を軽く閉ざして来たるべき痛みに耐えた。

 リオネルは黙って胸倉を掴んでいたが、しばらくすると彼の手からは力が抜けていく。ベルトランは目を開けた。

 そこにあったのは、この世のすべてのものから忘れ去られたかのような――、あるいは、この世のすべてのものを忘れ去ってしまったかのような、ひどく傷つき、それでいて空虚な瞳。


 束の間ベルトランはぞっとした。

 この瞳には見覚えがある。


「リオネル」


 呼びかけても、反応はない。このままリオネルの心が壊れて消えてしまうのではないかと不安になる。


「聞かないのか、リオネル。なぜ止めなかったのか、どうして無理やりにでもアベルを引き止めなかったのか」


 彼の心をこの場所へ繋ぎとめようとするように、ベルトランは尋ねた。けれどリオネルは沈黙していた。


「リオネル」


 名を呼んだのが合図だったかのように、リオネルは無言で廊下を走りだす。大階段を降り、向かった先はイシャスの部屋だった。


 リオネルが部屋に現れると、エレンがイシャスの髪を梳いてやっているところだった。


 はっと振り返ったエレンの表情。その表情だけで、彼女がすべて知っていたのだということをリオネルは察したに違いない。


 リオネルに気づいたイシャスが、遊んでもらえると思ったのか駆け寄ってくる。けれど、リオネルは「今はごめんね」とだけ優しく告げて踵を返した。


「リオネル様!」


 エレンの声が追ってきたが、リオネルは足を止めない。今度は階段を駆け上がり、二階を曲がって西の客間と繋がる使用人部屋へ向かう。ベルトランは遅れずに後を追った。


 開け放った使用人部屋には、人の影もない。

 アベルがいた痕跡さえなかった。


 振り切るように部屋から離れて、リオネルは再び階段を下りようとする。


「リオネル」


 呼び止めても、リオネルは振り返りさえしない。すると今度は別の声が響いた。


「リオネル?」


 呑気な声は、懐かしくさえ感じられる。


「どうしたんだい、血相変えて」


 珍しいものを目にするかのように、ディルクが最上階の踊り場からリオネルとベルトランを見下ろしていた。

 ちらとリオネルは顔を上げたが、なにも言わずに再び階段を駆け降りる。


「おい、リオネル」


 驚いた様子でディルクは後を追いかけてくる。


「なにかあったのか?」


 ただごとではないと察したディルクが問いかけた先は、リオネルではなくベルトランだ。


 ベルトランは仏頂面でディルクを見やる。そして、低く告げた。アベルが館を出ていったと。

 ディルクの背後でマチアスが瞳を大きくする。


「嘘だろう」


 即座には、ディルクは信じなかった。


「そんなこと――」

「嘘じゃない」


 短くベルトランが告げると、ディルクはマチアスを振り返る。すでに階下へ消えてしまったリオネルのあとを、ベルトランは追いかけた。


「リオネル、待て」


 驚く使用人や騎士らにかまわず玄関を飛び出て、リオネルは厩舎へ向かう。


「リオネル!」


 ベルトランが幾度呼んでも、リオネルは足を止めない。愛馬ヴァレールに飛び乗ると、リオネルは強く腹を蹴った。ベルトランも遅れずに馬に飛び乗る。


「追っても無駄だ!」


 馬を疾駆させて前庭を駆け抜けるリオネルに、ベルトランの声と馬が追いすがる。


「アベルはもうこの街にはいない。おそらくおまえが追いつかない場所まで行っている」

「……ならば、どこまでも探しにいく」


 リオネルが言葉を発したのは久しぶりのこと。


「必ずアベルを探し出す」

「どうするんだ」


 ベルトランは叫ぶ。


「探してどうするつもりだ。会ってどんな言葉をかけるつもりだ。どんな気持ちであの子がここを出ていったのか――もうアベルはなにを言っても戻らない」


 ややあって、リオネルが徐々に馬の速度を落としはじめる。ヴァレールの足がゆるやかな歩みへとかわったのは、正門を出てしばらく経ったころだった。

 追いつき、ベルトランはリオネルのそばへ馬を寄せた。


「リオネル……」

「アベルは」


 呆然とリオネルは声を発する。


「――アベルは、おれから離れることを選んだのか」


 ベルトランはわずかにうつむく。


「すべて昨夜のおれの言葉のせいで」

「あの子は心からおまえに仕えていた」

「すべてを壊したのは、おれか」

「しかたがなかった」

「すべてをアベルから奪ったのは、おれなのか」

「奪ったわけではない、彼女の選択だ。アベルはおまえのことを最後まで思って、ここを出ていった」

「おれのことを?」

「おそらくアベルの居場所は、この世におまえのそば以外にはない。それでもここを出ていったのは、おまえを守るためだ。自分はおまえに愛されるに相応しくないと、このままそばにいてはおまえの立場を悪くすると、アベルはおれに語っていた。おまえのことが大切だからこそ、出ていくことを選んだんだ」

「彼女のためなら、立場などいくら悪くなってもかまわない」

「おまえがそう考えることを恐れていたからこそ、アベルは出ていった」


 ゆっくりと視線を下げて、リオネルはうつむく。固く握られた拳から、わずかに血が滲むのが見えてベルトランは苦い声を発した。


「リオネル」


 顔を背けたリオネルは、ヴァレリーの腹を蹴った。途端に、これ以上速く走れないだろうというほどに速度を上げる。


「リオネル!」


 慌てて後を追う。疾駆するリオネルは、ベルトランでさえ本気を出さねば追いつかない。


「危ない、止まれ!」


 けれどリオネルは走りつづけた。

 猛烈な速さで正門を二騎が駆け抜ける。門番は命の危険を覚えたのか、それとも主人らを怪我させないよう配慮したのか、呆気にとられながら後ずさりしてそれを見送る。


 厩舎にぶつかるのではないかと思われる勢いでリオネルが馬を駆けていたものだから、中庭にいた者からは悲鳴が上がった。

 けれど、ぶつかる直前にリオネルはヴァレリーの足を止めた。リオネルは肩で息をしている。


「リオネル……」


 ベルトランでさえ呼吸を乱していた。


「危ない真似を――」


 馬から飛び降り、リオネルは館の玄関へ向かう。馬番が慌てて駆けつけ、ヴァレリーの手綱を掴んだ。


 館で待っていたディルクの目前を通り過ぎ、呼び止めるのも聞かずに、リオネルは自室へ向かう。そして固く扉を閉ざした。

 鍵の掛けられた部屋のまえで、ベルトランは拳を扉に押しつける。


「リオネル」


 低く名を呼ぶが、リオネルは答えなかった。








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