13
「アベル」
低い声。
はっとして振り返れば、ベルトランだ。苦い表情がこちらを見ていた。
「どこへ行くつもりだ」
責めるような口調の相手へ、アベルは努めて冷静に答える。
「ここを出ていきます」
「なぜ」
「あなたならわかるでしょう、ベルトラン」
「わからない。――まったくわからない」
きっぱりとベルトランは言ったが、それは嘘だとアベルは思った。
「外へ出て話しませんか」
「そのまま逃げないと誓うなら」
「あなたが本気で追ってきたら、逃げ切れるはずありません」
体力も持久力も腕の力も、すべてにおいてベルトランはアベルに勝る。いや、アベルだけではない。ベルトランを凌ぐ騎士にアベルはお目にかかったことがない。
そのベルトランから、だれも逃げることなどできるはずがない。
納得したのか、ベルトランは戸口へ歩み寄った。先に外へ出たアベルのあとについてくる。夜空は薄雲に覆われ、月が霞んで見えた。
かがり火の照らすベルリオーズ邸の庭園は美しく、アベルは息を呑んだ。こんなに美しい場所で暮らしていたのだと、あらためて思い知らされる。
あるいは、長い夢を見ていたのではないだろうか。
「それで?」
ベルトランの声は、低く不機嫌だ。彼がアベルを責めているのだということがわかる。当然だろう。愛していると言ってくれたリオネルに対して、なにも告げずに出て行こうとしているのだから。
「わたしはここにいてはいけない人間です」
「本気でそう思っているのか?」
ゆっくりと歩んでアベルは庭園へ続く階段の脇まで移動する。ベルトランもわずかな距離を保ってついてきた。
「本気です」
「嘘だ、おまえの居場所はリオネルのそば以外にはない」
「そのとおりです」
「ならば、どうして」
アベルは薄暗く霞んだ庭園を見下ろす。館から漏れる光を、庭の草木は眩しげに受けていた。アベルとベルトラン、そして警備に当たる兵士のほかにはだれもいない。
時折雲が流れて、月明りが視界を照らした。
「恋人として受け入れることはできないとしても、おまえにとってリオネルは何者にも代えがたい存在のはずだ」
返事の代わりにアベルは瞼を伏せる。ベルトランの言うとおりだ。
「どうしてそれを伝えなかった。なぜ突き放した」
「……あなたは、わかっているはずです」
「さっきも言ったが、まったくわからない」
「嘘です。わかっています」
「なにをだ」
「では想像してみてください」
アベルは庭からベルトランへと視線を移す。
「このままわたしがリオネル様のおそばにいたら、どうなるのか」
「どうにもならない。このままだ」
「このままでいいのですか? ずっとこのままで。もし先程の言葉が真実なら、リオネル様はフェリシエ様とは婚約なさらないかもしれません。いえ、フェリシエ様だけではなく、だれとも。ベルリオーズ家の血筋は絶えます。それだけではありません。家臣たるわたしを愛しているなどという噂が万が一にでも広まれば、いったいどうなりますか。リオネル様はひどい汚名を着せられることになり、わたしもここにはいられなくなります」
「リオネルは必ずおまえを守るだろう」
「だからです」
強い瞳でアベルはベルトランを見返した。
「リオネル様は、どこまでわたしを守らなければならないのですか?」
「それがあいつの幸せだ」
「――違います。リオネル様は孤立していきます。ただの家臣であるわたしを庇いつづければ、周囲からは必ず反発が生まれます。理由なく婚約を断ればエルヴィユ家との仲にもわだかまりが生じ、公爵様からはご不興を買い、さらには、いつまでも結婚しないことで家臣も領民も不安になります」
「そんなことはあいつが考えることだ、おまえが心配しなくともいい」
「ちゃんと考えてください!」
アベルは声を大きくした。見まわっている兵士が驚き、ちらとこちらを向く。ベルトランの瞳が無言でアベルを見つめていた。
「……ちゃんと考えてください、ベルトラン。リオネル様をそのような目に遭わせて、なにも思わずにここにいられると思いますか?」
ベルトランは眉をひそめた。
「リオネル様が周囲から責められるのが自分のせいと知っていて、あなたなら平気でそれを傍観していられますか?」
黙っていたベルトランが、ややあって口を開く。
「それだけ、おまえもリオネルのことを想っているということか」
アベルはぐっと喉の奥に力を入れて、なにかをこらえた。
「もしリオネル様が苦しい立場に立たれたら、自分自身が責められる以上に苦しいです。リオネル様はわたしのすべてです」
「だからリオネルから離れると」
「矛盾しているように思いますか?」
ややあってベルトランは、首を横に振った。
彼もおそらくアベルと似たような思いを抱いているだろう。それは、忠実な家臣としてアベルとベルトランが共有できるものである。だからこそベルトランは、はじめからアベルが館を去ろうとする気持ちを理解しているはずなのだ。
「なら、どうして引きとめるのです?」
「おれはおまえの気持ちもわかるが、リオネルの思いもわかる」
「…………」
「どんなことがあったって、おまえがいればリオネルは幸福なんだ」
「そのような幸福、長続きしません」
「続くかどうかは、あいつが決めることだ」
「それではだめなんです」
アベルの言葉に、ベルトランは軽く首を傾げた。
「あなたはベルリオーズ家の嫡男を守る者として、わたしをここに置くことを許してはなりません」
わずかに表情を硬くして、ベルトランは沈黙した。
ベルリオーズ家を守る者として、むしろベルトランはこの館から――リオネルのそばからアベルを追い払うべきなのだ。
けれどリオネルの友人としての情が、ベルトランの考えを大きく揺るがしている。
「わたしがいなくなれば、きっとリオネル様は徐々にアベルという存在を忘れていきます。いずれフェリシエ様か、もしくは他の家柄の正しい女性を愛し、結婚をなさいます。輝くようなお子が生まれ、新たなベルリオーズ家の跡取りになります。公爵様も喜ばれ、だれもが祝福するようなご領主様になるでしょう」
「…………」
「そうなるように導くのが、わたしたち家臣の役目であり、そして、わたしたちにとってこのうえない幸福です。あなたは違いますか?」
「リオネルの気持ちはどうなる」
「人の心は、いつまでも同じではありません。若く大事なこのときに、わたしなどがリオネル様の心を惑わせ、生涯を台無しにするわけにはいかないのです」
「リオネルがおまえに向ける気持ちは一時的なものだと?」
「そうは言っていません」
「同じことだ。おまえはリオネルをそれだけの男だと思っているということだ。愛した女を忘れて、他の女を妻として迎えられると」
「順番が逆かもしれませんが、家庭を持てば、妻になった女性を愛し、子供を可愛がることのできる方だと思っています。それがリオネル様にとっても、このベルリオーズにとっても――だれにとっても望ましいことです」
再びベルトランは沈黙する。
ベルリオーズ家の者としての立場と、個人的な思いの狭間に立って苦しんでいるのは、だれもが同じだ。ベルトランも、リオネルも、そしてアベルも。
「では聞かせてくれ」
アベルは軽く視線を上げた。
「もし互いにどのような立場でもなく、ひとりの人間同士として出会っていたなら、リオネルを愛したか?」
「今もわたしはリオネル様を愛しています」
「男として、という意味だ」
「……わたしがだれかを、男性として愛することはありません」
なぜ、という顔つきになるベルトランにアベルは苦笑して見せようとして、うまく表情を作ることができなかった。なるほど、聞くほうもけっして笑えないだろう。けれど伝えておかねばならない。きっと、これですべてを終りにできる。
「見知らぬ男に襲われて、わたしはイシャスを宿したのです」
さらりと告げられたアベルの言葉に、ベルトランが息を呑む気配があった。
「イシャスの父親を愛しているなんて嘘です。まったく知らない相手なのですから」
「――――」
なんと言っていいかわからぬらしい様子のベルトランに、なぜだかアベルは申しわけない気分になる。
「こんな話を聞かせて、すみません」
「……名前と顔がわかれば、おれが探し出して殺してやる。今すぐに」
小さくアベルは笑った。笑うことのできた自分を、アベルは不思議に思う。もう、なにもかもがどうでもいいのだと思った。
「それでも、イシャスに罪はありません。大切な、かわいい子です。エレンから引き離すことも、放浪の生活につきあわせることもできません。勝手な願いですが、どうかあの子をよろしくお願いします」
「おまえは辛いことを経験してきた、――ここに残れ。どうして、もっと周囲に甘えない。リオネルはそんな男とは違う。あいつはけっしておまえに暴力など振るわない。むしろ大切なあまりに触れるのを躊躇うだろう。それくらいおまえを想っているんだ。これ以上辛い思いをする必要はない。幸せになることだけを考えろ」
珍しくベルトランは多くの言葉を口にした。静かにアベルはほほえむ。気持ちは嬉しい。
けれど。
「それでいいと――本当に思いますか?」
「思う」
「……ありがとうございます。あなたがそう思ってくださるだけで、わたしは救われます」
「…………」
「さようなら、ベルトラン」
ベルトランは黙っていた。歩み去るアベルへ追いつき、肩を掴む。
「アベル!」
「ここに残れば、わたしはあなたのことも、ベルリオーズ家の家臣として駄目にさせてしまいます」
「それでもかまわない」
「あなたはベルリオーズ家の忠実な家臣です」
「家臣であるまえに、おれはリオネルとおまえの友人だ。皆が、おまえを大切に思っている」
「その言葉だけで、充分です」
「――死ぬ気か」
「生きます」
即座にアベルはベルトランの問いを打ち消した。
「リオネル様が救ってくださった命を、それにふさわしい形で生きたいと思います」
アベルの肩を掴んでいたベルトランの手から、力が抜けていく。それが合図だった。
「長いあいだ、ありがとうございました」
大きなベルトランの手に触れ、肩から外させる。思っていたよりも素直に手は離れていった。
「わたしは幸せでした」
「…………」
「ディルク様、レオン殿下、マチアスさん、公爵様、クロード様、ラザールさん、ダミアンさん、他の騎士の方々……そしてリオネル様に、なにも告げずに去ることのお詫びと、これまでのお礼を伝えていただけたら幸いです」
ベルトランは返事をしなかったが、アベルは笑顔で一礼する。今のアベルに作れるかぎりの、精一杯の笑みだった。
迷いのない足取りで正門へ向かう。
月が再び陰った。
今夜のうちにできるかぎり遠くへ行こう。
思い出だけを抱きしめて、今日から生きていくのだ。
闇夜にベルリオーズ邸の壮麗な輪郭が浮かび上がる。そっと水宝玉の首飾りを握りしめ、アベルは門をくぐった。
+
ベルリオーズ邸の、庭園に面した柱に寄りかかる姿がある。普段はけっしてリオネルのそばから離れることのない赤毛の猛将ベルトランである。
そばを通る警備の兵士らが、不思議そうにその姿を見ては、遠慮がちに一礼して歩み去っていく。
今夜は部屋のまえでアベルを守ると、リオネルに誓ったのだ。リオネルのもとへ戻るわけにはいかない。けれど、守る相手はもういない。行く場所はなかった。
守る相手を失ったときの哀しさは、リオネルの忠臣であるベルトランがだれよりもよくわかっている。
これからひとりで生きていくアベルのことを思った。
「なにをしているんだ?」
突然声をかけられて、ベルトランは振り向く。気配に気づかなかったとは、随分ぼんやりしていたらしいとベルトランは自嘲した。
「暇そうだな」
遠慮なくベルトランに対して悪態をつくのはむろんクロードである。
「こんなときに、リオネル様のおそばを離れて、なにをぶらぶらしているんだ」
「今夜は戻るなと言われている」
「へえ?」
「帰る場所がないんだ」
「…………」
姿に似合わぬ台詞を吐くベルトランを、クロードは不審そうに見やった。
「そんなに寂しいなら、おれの部屋で寝るか?」
むろん冗談のつもりでクロードは言ったのである。けれどベルトランは、
「そうさせてもらう」
と真面目に答えた。ぎょっとした顔になったのはクロードだ。
「本気か」
「寝る場所がないんだ」
「おまえと同じ部屋で休むなど、気持ちの悪いことができるか」
「できないなら、はじめから言うな」
「おまえだってできないだろう」
「……アベルをどう思う?」
「脈絡のない質問だな」
引きつった顔でクロードは苦笑した。
「アベルがどうしたって?」
「どんな子だと思う?」
どうやら本気で尋ねているらしいと知って、クロードは未消化ながらも考える顔つきになる。
「……それは、不器用なところもあるが、素直で真面目な子だ。リオネル様が大事にされるのもうなずけるくらい能力も高く、けれど周囲を明るくさせる力を持っている。あの子の周りに集まる騎士の姿を見ていればわかる。かけがえのないベルリオーズ家の家臣だ」
「そうだな」
「そんなこと聞いてどうするんだ」
「出ていった」
「は?」
「アベルはさっき、ここを出ていった」
「なんの冗談だ? 少しも面白くないぞ」
「冗談じゃない。明日の朝まではだれにも言わないでくれ――おまえくらいにしか、言う相手がない。ひとりで抱えるには寂しすぎる」
「…………」
おまえが寂しいなんてことがあるのか、などとは言わず、クロードは押し黙った。しばらくして、尋ねる。
「なぜだ」
「人には人の事情がある」
「なんだそれは」
「大切な従騎士だった」
「なぜ止めなかった」
「……止められなかった」
「リオネル様はご存じないのか」
ベルトランは首を横に振る。クロードは呆れた顔になって天を仰ぎ見る。
「これは大変なことだ」
「――辛いだろうな」
「なぜ止めなかったんだ」
先程と同じ台詞を吐くクロードに、ベルトランは繰り返す。
「だから、止められなかったんだ」
大きくクロードは溜息を吐く。吐かれた溜息は、曖昧な夜の暗がりに溶けて消えた。