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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第六部 ~一夜の踊り子は誰がために~
330/513

12








 廊下を歩むリオネルの背中に、ベルトランが視線を投げかける。そして、遠慮がちに名を呼んだ。


「リオネル」


 けれどリオネルは答えない。ベルトランもそれ以上は声をかけず、軽くうつむいた。


 無言で長い廊下を歩む二人の先に、ジュストの姿がある。おそらく戻るのを待っていたのだ。

 駆け寄ってきたジュストが一礼する。リオネルはその姿をちらと見やっただけで、なにも言わない。通りすぎようとするリオネルに、慌てた様子でジュストが声をかけた。


「リオネル様」


 リオネルの足が止まる。ジュストがそばへ寄った。


「アベルは……」

「無事だ」


 短く答えて、再びリオネルは歩きだす。すると、すぐに背後から大きな声が響いた。


「申しわけありませんでした!」


 足を止めて振り返った二人の目に、深く頭を下げるジュストが映る。


「アベルを危険な目に遭わせて申しわけございませんでした」


 頭を下げたまま、ジュストは微動だにしない。リオネルは小さく息を吐く。


「もう終わったことだ」

「ですが」


 ジュストが顔を上げる。


「もういい」

「…………」


 浮かぬ面持ちのままであるジュストから視線を外して、リオネルは言った。


「頼みたいことがある」


 ジュストは表情を引き締めた。


「医師を呼び、二階の使用人部屋へ向かわせてほしい。そこにアベルがいるから。それと、アベルの服を部屋へ届けるようエレンに伝えておいてくれ」

「医師……?」

「唇が切れていた。他にも傷ついたところがあるかもしれない。大丈夫だとは思うが、念のためだ」

「……はい」


 再び歩きだすリオネルをジュストは呼びとめようとしたのか、一歩足を前へ踏み出す。けれど声は出ないまま後ろ姿は遠ざかっていき、ジュストの視界から二人は消えた。









 本来なら、寝室で休むベルリオーズ公爵のもとを見舞い、状況を報告し、フェリシエの様子も見にいくべきなのだろうが、リオネルはどこへも寄らずにまっすぐに自室へ向かう。


 だれとも会いたくなかった。


 今、身体は鉛のように重たく感じられる。

 身体中を、負の情動が支配していた。


 哀しいのかどうかもわからない。ただ闇に落ちていくような感覚のなかにいる。


 肘掛け椅子に腰かけると、リオネルは両目をつぶった。目を開けていても、閉じていても、これまでの出来事が繰り返し思い起こされて止まらない。


 ジェルヴェーズに組み敷かれていたアベルの華奢な身体。

 青い血管が透けて見えるほど白い肩や胸元。

 震える手足。

 ジェルヴェーズの口づけによって傷けられた唇。


 彼女はたしかにひどく怯えていた。


 それを目にしたとき、ジェルヴェーズを殺したいと思った。

 激情に流されてそう思ったわけではない。リオネルはむしろ冴えきった思考のなかで、ジェルヴェーズを殺したいと思ったのだ。

 ジェルヴェーズの長身の下になるアベルを見た瞬間、リオネルはおそろしいほど冷酷で冴えた感覚をまとった。一瞬のうちにその考えに潜む危険に気づき、リオネルは剣ではなく拳を振り上げた。


 けれど、アベルに想いを告げたのは、けっして冷静だったからではない。

 それに関しては、すでに止められないところまできていたのだ。


 華奢な身体に薄絹のドレス一枚をまとったアベルは、あまりにも儚げで弱々しかった。そして、彼女はあまりにも無防備すぎた。

 想いが溢れて隠し通すことが、できなかった。


 むろん受け入れてもらえるとは思っていなかった。けれど、これほど完膚なきまでに拒絶されるとは。


 小さくリオネルは苦笑する。

 自分は世界一の馬鹿だ。

 少しでもアベルに受け入れてもらえるとでも、密かに思っていたのだろうか。これほどまで打撃を受けるとは、くだらない下心でも抱いていたのかもしれない。


「ベルトラン」


 腕を組んで立っていた赤毛の騎士が、顔を上げる。


「今夜はアベルの部屋のまえで彼女を守ってくれないか。もしかしたらジェルヴェーズ王子が探し出そうとするかもしれない」

「おれはおまえのそばを離れない」

「頼む、今夜だけだ」

「断る」

「おれがおかしなことを言ったせいで、あの子も混乱するかもしれない。心配なんだ」

「おまえは、なにもおかしなことなど言っていない」

「彼女にとっては聞きたくないことだっただろう。それもそのはずだ、アベルの忠誠心や純粋さを勘違いして、おれは自惚れていた」

「ちがう、おまえは自惚れていたから伝えたわけじゃない。伝えたかったから、伝えたのだろう」


 リオネルは口をつぐんだ。


 伝えたかった――そう、伝えたかったのだ。

 好きなのだと。

 怖いほどに愛しているのだと。


 けれどそれは独りよがりではなかっただろうか。

 その独りよがりの言葉を、それでも彼女は最後まで聞いてくれた。聞きたくなかったかもしれないが、遮らずに聞いていてくれた。……それだけで充分ではないか。


「頼む、今夜だけだ。おれのせいであの子の身になにかあったら耐えられない」

「…………」

「引き受けてくれないか」


 腕を組んだままベルトランは視線を床へ落とす。そして、仕方なさそうに言った。


「……他の騎士をおまえの護衛につけるなら」


 引き受けてくれるのだと知って、リオネルは安堵の面持ちになる。


「ありがとう、ベルトラン」


 ベルトランは無言だった。


 静寂のなか、扉が鳴る。警戒する様子でベルトランが開けにいくと、レオンの姿があった。

 普段に増して仏頂面のベルトランが迎え出たものだから、レオンはぎょっとしてあとずさりした。


「な、なにかあったのか」


 ベルトランが無言でリオネルを振り返る。リオネルはかすかな笑みをレオンへ向けた。


「なにもないよ」

「兄上のところに向かったと思っていたから心配していたんだ。でも兄上がいるという部屋へ行ってみても、ジョスランとオディロンが厳つい顔してだれも来ていないと言うから」


 ジョスランとオディロンというのは、ジェルヴェーズ付きの近衛兵の名であろう。


「それで、わざわざおれの部屋に来てくれたのか。ありがとう」


 おそるおそるベルトランの脇を通ってレオンは室内へ入る。


「血相変えて大広間を出ていったから、兄上のもとへ行ったのだと思ったぞ」

「心配をかけてすまない」

「い、いや、心配というか、あれだ。ほら、兄が従兄弟を斬るなどという事態になれば、おれも心が痛むからな」


 小さくリオネルは笑ってみせた。


「ありがとう」


 礼を言われると、レオンは言い訳するように言葉を続ける。


「兄上はひどく酒に酔っていたから。ああなるとだれにも止められない。そうだ、婚約者候補殿はどうなったのかな。なんにせよ、ディルクとマチアスがそばにいるなら安心だ。とりあえず皆無事でよかった」

「そうだね」


 答えてからリオネルはレオンの顔を見つめ、眉をひそめた。


「手当てをしていないのか、レオン」

「え? ああ、こんなものはたいしたことない。忘れていたくらいだ」


 切れた口端に手をやって、レオンは首を振ってみせる。


「医者を呼んでおく」

「本当にいいのだ。女ならともかく、男がこれしきの怪我で医師を呼ぶ必要はない。……女といえば、踊り子にはかわいそうなことをしたな。いまごろ兄上にひどい目に遭わされていることだろう」

「…………」

「明日の朝になったら、彼女にこそ医者を呼んでやってくれ」


 無言になったリオネルに、レオンが気がかりげな視線を向ける。


「大丈夫か? さっきから元気がないように見えるが」

「大丈夫だよ」


 リオネルは短く答える。


「少し疲れたみたいだ」


 深くうなずきながらレオンは同意した。


「おれもだ。ベルリオーズ邸に着いたと思ったら、兄上がいたのだから落ちつく暇がない。ベルリオーズ家の者たちも疲れたことだろうな。早くジルを解放して、王都へ戻ってくれたらいいのだが」

「そうだね」

「ああ、猛烈に眠い」

「今夜はもう休もう」

「布団に入るまえにおれはディルクに会いにいく。リオネルもいっしょに来ないか」

「……おれはやめておくよ」

「なぜだ? 婚約者候補殿の様子も見にいったほうがいいのではないか」


 黙ってリオネルは首を横に振った。


「代わりに見てきてくれ」

「リオネルの代わりに?」


 レオンは怪訝な面持ちなった。


「おれが行ったところで、彼女は喜ばないと思うが」

「フェリシエ殿は婚約者じゃない。おれは彼女を愛していない」

「…………」


 困惑した様子でレオンがベルトランへ視線を移す。どういうことだ、とレオンの目は問う様子だったが、ベルトランは仏頂面でその問いを受け流す。

 肩をすくめたレオンは、諦めの表情だ。


「なにか言伝は?」

「ゆっくり休んでほしいと、皆に」

「わかった」

「それと、おれもすぐに休むから、だれもここへは来ないでほしいと」


 幾度かレオンは目をまたたかせ、それから、


「本当にリオネルおまえ大丈夫か」


 と尋ねた。


「平気だよ」


 再びリオネルは笑ってみせる。

 訝る様子でレオンはその笑顔を見つめるが、ついには自分自身を納得させるように首を振り、踵を返した。


「……おやすみ。今夜は兄上が本当にすまなかった」

「レオンが気にすることはなにもないよ、おやすみ」


 レオンが部屋を出ていくと、すぐにリオネルはベルトランへ目配せする。ベルトランは仏頂面のまま扉口へ向かった。今夜はアベルを見守るという約束を果たすために。


「発せられた言葉だけが真実であるとは限らないぞ」


 扉を出ていくときにベルトランはそう言い残したが、リオネルは表情さえ変えなかった。






+++






 リオネルとベルトランが去って間もなく医師は訪れた。泣きはらしたアベルの顔を見て医師は驚いたようだが、なにも聞かずに診察をし、大きな怪我はないことを告げて去っていった。

 彼は館の敷地内に常駐している医師で、アベルとも顔見知りであるが、彼のほうは患者が従騎士のアベルとはまったく気づいていないようだった。


 ふらふらと立ちあがり、アベルは来た道を戻りはじめる。つまり、隠し扉から再び三階のジェルヴェーズのいる部屋へ向かったのだ。


 梯子を上り衣装部屋へ。そこからさらに扉を押し開いて部屋へ入ると、ジェルヴェーズがうつぶせに眠っていた。そのうえへそっと布団をかけてから、アベルはヴェールを頭から被る。

 息を大きく吸いこみ、部屋の扉を開いた。


 直接顔は見えないが、こちらを見下ろす近衛兵が訝っているのが感じとれる。


「殿下は」

「終えたら眠ってしまわれました」

「殿下の許可が下りるまでは、勝手に出ていくな」

「……具合が悪いのです、お酒を飲み過ぎてしまったかもしれません」


 そう言って口元を手で覆うと、近衛兵らは顔を見合わせる。


「殿下のおそばで粗相をするわけにはいきませんので……」

「行け」


 近衛兵らは短く命じた。


「落ちついたら戻ってこい。明日は殿下から直接報酬を与えられるはずだ」

「ありがとうございます」


 軽く頭を下げてアベルは歩み去る。

 どうにか切り抜けることができた。自室で化粧を落として着替えをすませ、少ない持ち物をまとめてからエレンの部屋へ向かう。


 アベルが扉口に現れると、エレンは驚いた様子だった。


「アベル!」


 駆け寄ってアベルの腕を掴む。


「大丈夫だったの? これから服を届けようと思っていたところだったわ。もう着替えたのね。心配したのよ。あまりに心配だから、リオネル様にはあなたが殿下のもとへ行ったのだと伝えてしまったの。だって、あなたになにかあってからでは遅いもの。約束を破ってごめんなさい。でも、いてもたってもいられなかったから。怪我はない?」


 一気に話し終えてから、エレンはアベルの顔を覗き込んで瞳を大きくした。


「泣いているの?」


 アベルは首を横に振る。


「どうしたの、ジェルヴェーズ王子になにかされたの」


 エレンの声は強張っていた。


「違うんです。なんでもないんです」

「なんでもないって……なにもなくって、こんなに泣き腫らしたりはしないわ」

「本当になんでもないんです」

「嘘よ」

「大きな声で話すと、イシャスが起きてしまいます」


 エレンは言葉に詰まる様子だ。


「わたしはこのとおり、大丈夫です。それより、イシャスの寝顔を見てもかまいませんか」


 静かな調子でアベルが頼むと、エレンは渋々といった様子で引き下がる。エレンはじっとアベルの表情を見つめていた。その視線を居心地悪く感じながらも、アベルは小さな寝台で眠るイシャスのもとへ行く。


 かすかな寝息を立てて眠る幼子は、まぎれもなくアベルが腹を痛めて産んだ子だ。望んで産んだ子ではないが、愛している。それだけは確かだ。

 そう、ずっとわからないままだったけれど、今ならわかる。

 イシャスを愛している。心から。

 この子を、何者にも代えがたいくらいに愛している。

 それはリオネルへ向ける思いとはまた異なるものだ。どちらが大切かと問われても、そんなことは答えられない。どちらも大切なのだ。


 ただ、リオネルがいなければアベルは存在しえない。

 なぜなら三年前に失われていたはずの命を救ってくれたのは――生きる意味を自分に与えてくれたのはリオネルだから。イシャスを救ってくれたのもまた、リオネルだからだ。


 イシャスのぶんも含めて、リオネルにこそアベルは生涯をかけて恩を返さなければならない。このような形で、返すことになろうとは思いも寄らなかったが。


「ごめんね、イシャス。こんな母親で」


 柔らかな頬に指先で触れる。

 直接、愛していると告げられなかったことだけが、心残りだった。


「アベル?」


 エレンは訝る色を濃くする。


「わたしは今夜、ここを出ます」

「出るって――」


 そう言ったきり、エレンは絶句した。


「リオネル様に大怪我を負わせた晩に、わたしはここを去るべきだったんです。……いえ、もっとまえに、わたしは去るべきでした」

「なにを言うの」


 エレンの声は怒りを帯びていて、同時に激しく揺れていた。


「去るって、どうして。だれが決めたの。リオネル様は? あの方は知っているの、このことを。なぜそんなことを言うの」

「決めたことです」


 強くエレンの瞳を見返してアベルは告げる。声には、揺るぎない覚悟が秘められていた。


「だれがなんと言おうとも、わたしは去ります」

「どうして――」


 アベルの決意を察したのか、エレンの口調から怒りが削がれる。代わりに涙声になった。


「そんなこと……イシャスはどうするの。リオネル様は……」

「イシャスが大きくなったら、アベルという兄……いえ、父親が『愛している』と言っていたと、そう伝えてください」


 屈んでアベルはイシャスの頬に口づける。かすかに甘い香りのする、温かい頬だった。


「アベル!」


 振り返れば、両手で口元を押さえてエレンが泣いている。

 アベルは立ちあがり、エレンの頭を撫でた。背丈はアベルのほうが低いけれど。


「イシャスの母親になってくれて、ありがとうございます。エレンには感謝しても感謝しきれません。どうかイシャスをよろしくお願いします」

「どうして」

「わたしの我儘です」

「そんなのへんよ」

「リオネル様や、ディルク様、ベルリオーズ家の皆様や、イシャス……皆を愛するわたしの我儘です」

「どうしてあなたが出ていかなくてはならないの」


 曖昧に笑っただけで、アベルは答えなかった。


「愛しているならそばにいればいいじゃない」

「エレン、ずっと大好きです」

「わたしもよ、アベル。行かないで」


 目の端をぬぐって、アベルは小さな声で言った。赦してください、と。


 引きとめようとするエレンの手を振り払い、アベルは扉の取手を掴む。

 追いかけようとするエレンへ、


「イシャスのそばにいてあげてください」


 と告げる。


「それと、出ていくことはどうかリオネル様には伝えないでください。リオネル様をお守りするためです」

「ひどいわ、あなたは」


 エレンが涙を溢れさせる。


「赦してください」


 両目を閉ざして、アベルは部屋を出た。すれ違う人々を見ないようにして裏口へ向かう。けれど、間もなく呼び止められる。ちょうど裏口の扉を押し開いたところだった。








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