33
空気が光り輝いているような朝だった。
風は穏やかで、花は冬に疲れ果てた大地を浄化するように、華麗に咲き乱れている。
「トゥーサン見て、スミレの花が咲いたよ」
開花したばかりの淡い水色の花を前に、カミーユは顔をほころばせた。
「綺麗だなあ」
トゥーサンも、カミーユとともに花壇をのぞきこむ。
小さな花は春の日差しを浴び、かすかな風をうけて心地よさそうに揺れていた。
「本当に、綺麗ですね」
飾り気のないトゥーサンの言葉だったが、そこには深い思いがこめられている。
「姉さんの瞳の色だ」
「そうですね」
カミーユの言葉にトゥーサンは目を細めてうなずいた。
「奥方様が、スミレの花が咲いたら摘んできてほしいとおっしゃっていましたね」
「うん」
開いたばかりの花弁に軽く触れながら、カミーユは青灰色の瞳にかすかな憂いをたたえる。
「姉さんは、こんなふうにどこかで笑ってくれているかな」
「……はい、きっと」
「この花は摘まないよ。せっかく咲いたのに摘んだらかわいそうだ。母上には別のものをなにか差し上げるよ。スミレの花は母上が体調のいいときに一緒に見にくる」
カミーユの横顔は、ほほえんではいたものの、泣きだしそうにも見えた。
春になれば毎年、姉のシャンティと庭に出て駆けまわっていた。
春のデュノア邸の庭には、笑い声が絶えず響きわたっていた。
それは、花々の開花や温かい風だけではない――、たしかな春の訪れを知らせる光景だった。
それが今年は火が消えたようだ。
春が来ない。
デュノア邸の庭にはなにかが足りない。
春の輝きにあふれているのに、哀しく感じられる景色だった。
「そうですね、カミーユ様。奥方様も開花をご覧になればお喜びになるでしょう」
胸が押しつぶされるような思いでトゥーサンは言った。
美しく仲睦まじい姉弟の楽しそうな笑い声を、もう一度聞きたい。二人の屈託のない笑顔をもう一度見たい。輝くような二人の姿が、トゥーサンにとっては誇りであり、幸せそのものだった。
+++
春の王宮。
騎士館の食堂では、最も混雑する時間帯を迎えていた。
体躯の良い男たちが、所狭しと長椅子に腰かけている。
朝餉が載った盆を片手で持ちながら、シャルム王国第二王子レオンは、さてどこに座ろうかと室内を見回した。
レオンが来ればだれもが慌てて席を譲るが、そうされるのも面倒なので、なるべく空いている場所を探している。
「混んでいるね、レオン」
横から声をかけられて振り返れば、そこには、このところ久しく目にしていなかった姿があった。
「リオネル!」
驚いた顔をする友人に、濃い茶色の髪の青年は笑いかける。
「そんなに驚かなくても」
「突然、練習中にいなくなってから五日間も音沙汰なし。ようやく顔を出したと思ったら、その翌日からさらに今日まで六日間も不在……。ここにいるほうが驚く」
「そうかな」
「そうだ。……もう戻らないかと思った」
「どうして?」
「…………」
返答しないレオンの代わりに、二人の背後から声が聞こえた。
「レオンなりに、おまえのことを心配していたんだよ」
人懐こい笑顔で現れたのはディルクだった。
「自分の兄が、またおまえの周りで悪質なことをしているんじゃないかってね」
「そ、そんなわけないだろう! リオネルがいないあいだの一人分の練習量が多くて、参っていただけだ」
「照れちゃって、レオン様」
「照れてなどない!」
「ありがとう、レオン。おれはいい友達を持ったね」
リオネルがディルクに悪乗りしてそう言ったのか、それとも素直にそう思って言ったのか、レオンは判じかねて複雑な顔をした。
「本当に、おまえはよくわからない」
「長く不在にして悪かった、レオン」
「別におれはかまわないが」
リオネルに謝られ、レオンは照れくさそうに顔を背けた。
それを見てディルクはにやりと笑う。
「レオンは本当にリオネルのことが好きなんだなあ」
「そ、そんなわけがあるか!」
「恥ずかしがらなくてもいいだろ、きみたちは従兄弟同士なんだし。それに、おれもリオネルのこと大好きだよ」
「……勝手にしろ」
「まあ従兄弟同士でも殺したがっているやつもいるけどね」
「ディルク」
繊細な話題を口にしたディルクを、リオネルが小声で諌める。
「と、いうのは冗談で……リオネル、久しぶりだね」
「ああ、久しぶり」
ずいぶん遅れて挨拶した幼馴染みに、リオネルは笑った。
「今度の六日間は長かったね。なにしてたの?」
「……まずは座る場所を探さないか?」
「こうやっていつもごまかされるんだよな」
呟きつつディルクは背後のベルトランをひょいとのぞく。
ベルトランは軽く会釈をした。
「あちらは相変わらずだね。でも……おまえは、ずいぶん表情が明るくなった」
「え?」
「全然違うよ。自分で気づいてないの?」
「…………」
ディルクはあえて口にしなかったけれど、リオネルは六日前よりただ表情が明るくなったというだけではない。どこかが――なにかが、違った。
それはうまく表現できないものだったが、紫色の瞳に秘められたなにかが、たしかに変わった。あえて言葉にするならば、瞳に宿る光が強くなり、深みを増した、とでもいうのだろうか。
「レオン、どこか適当なところに座ってくれよ。おまえが行けば周囲が空くから」
軽い調子で言うディルクに、レオンは渋面をつくって言い返した。
「リオネルが行っても空くぞ」
「では二人で行ってくれたまえ」
屈託のない笑顔をディルクは二人に向ける。
さらに苦い顔になったレオンのかたわらで、リオネルは食堂内の一箇所を指差した。
「あそこが空いている」
人通りの多い配膳場所の近くの机に、四人は腰かける。
各々が食事に手を伸ばしたとき、ベルトランはそこに近づくひとりの人物に気がつき、真っ先に顔を上げた。リオネルや周囲の騎士たちもその姿をみとめ、食事をする手を止めて立ち上がる。
マントを翻し颯爽と歩いてきたのは、正騎士隊副隊長のシメオン。
歳は四十代半ばで、引き締まった体躯と、口髭のある精悍な顔つきの男だ。副隊長にふさわしく落ちついた印象をまとっている。
彼は普段自室で食事をとるため、食堂に足を運ぶことは珍しい。恐縮する周囲に対し、シメオンは座って食事を続けるように促す。
シメオンの様子からどうやらリオネルに用事があることがうかがえたが、彼はまずその隣に座っていたレオンへ深々と頭を下げた。
「王子殿下におかれましては、ご機嫌うるわしく存じます」
「ああ」
椅子に座ったままレオンが短く答える。挨拶などよりも、シメオンがリオネルに何の用があるのか気になるようだった。
「リオネル殿におかれましても、ご健勝のことと存じます」
「お久しぶりです、シメオン殿」
リオネルは立ったまま応じた。シメオンは、王国の直轄領の西に接するバシュレ領を治める侯爵家の者だ。二人の立場は、爵位のみからいっても、リオネルのほうが上である。
二人はこれまで騎士の鍛錬場などで互いに姿は確認していたが、言葉を交わすことはほとんどなかった。
「お話しするのは、お久しぶりでございます。リオネル殿、どうぞお座りくださいませ」
「いいえ、お気遣いなく。お話があるようでしたら場所を変えましょうか」
「お食事中に邪魔をしているのは、こちらのほうです。私は早々に立ち去りますので」
リオネルとベルトランを交互に見やってから、シメオンは周囲に聞こえないほどの声で言った。
「以前、甥が非礼を働きましたこと、お詫び申し上げたく参りました」
リオネルとベルトランは顔を見合わせる。
シメオンの甥といえば、雪のサン・オーヴァンで遭遇したフェリペのことである。
「もう三ヶ月以上も前のことながら、私の耳に入りましたのが昨夜のことでして。これほど遅くなりましたことも、併せてご容赦ください」
リオネルは思案しつつ、軽く頭を下げるシオメンを見た。
三ヶ月以上経ってからこの人の耳に入り、なおかつ、わざわざリオネルのもとまで足を運ぶということは、なにか他に目的があってのことなのか。
「シメオン殿が謝罪される必要はありませんよ」
「いいえ、甥のフェリペには二度とお二人に剣を向けることなどしないよう、言い聞かせました」
その言葉をリオネルはどこか違和感を持って聞く。
たしかにシメオンの立場として謝るべきことは、彼の身内がリオネルに剣を向けたことかもしれないが、実際にリオネルが許せなかったのは、フェリペが瀕死の相手に手を上げていたことである。
フェリペがサン・オーヴァンの街で〝正騎士隊副隊長の親族〟としての権力を振りかざし、好き勝手に振る舞っていることをシメオンは知らないのだろうか。
「フェリペ殿は、よく街に?」
「はい、落ち着きのない者でして、館にいるより街で過ごしているほうが好きなようです」
「街でどのように過ごされているかはご存知ですか?」
「……さあ、私には」
「…………」
リオネルが口をつぐむと、シオメンは機を見計らっていたように、話を切り出した。
「ところで、甥はあのとき少年に手傷を負わされたようでして。聞いたところによると、リオネル殿がその者をお連れになったとのこと」
「それで?」
「少年といえども、罪は罪。罰せねばなりません。できればその少年を我々に引き渡していただきたいのですが」
「それはできません」
リオネルは即答した。その声音は穏やかだったが、隠しきれない怒りでかすかに低く響く。
「あの者に罪はありません」
「理由をお聞かせ願えますか、リオネル殿」
「先ほど私は貴方にうかがいました。フェリペ殿が街でどのように過ごされているか、ご存じかどうかと」
「たしかに」
「貴方はご存じないとおっしゃいました。であれば、それをお知りになったうえで、貴方が先ほどと同じことを申し出られるのであれば、私も少年に罪がない理由をご説明しましょう」
シメオンは押し黙った。
「……できれば、あのような形で、フェリペ殿には、お会いしたくなかったと思っています」
リオネルの言葉の意味を理解してかせずしてか、シメオンはもう一度頭を下げると、リオネルの顔を再び見ることなく踵を返す。
去っていくその後ろ姿を、リオネルは静かな眼差しで見送った。
「謝罪だけが目的ではなかったようだな。フェリペはこちらへ嫌がらせをするために、今更シメオン殿の権力をあてにしたのか」
ベルトランが、リオネルに小声で呟く。
「あれで諦めればいいが」
「アベルに二度と手出しさせはしない」
リオネルの声音は低かった。
「リオネル?」
名前を呼ばれてリオネルは我に返る。
ディルクがフォークを手に持ったまま、リオネルを見上げている。
「座ったら?」
「……そうだね」
リオネルは長椅子に腰かけ、何事もなかったかのように食事を始める。
「なにを話していたか聞こえなかったけど、なんだか重たい空気だったね」
ディルクに言われて、リオネルは顔を向けずにうなずいた。
「副隊長殿は警戒する相手ではない思っていたけど、そうでもないのかな」
「……正直よくわからない」
シメオンの実家であるバシュレ家は国王派である。けれどこれまでリオネルにあからさまな敵意を見せたことはなかった。彼は浅はかな人間ではない。今回はフェリペのことが絡んだために、厄介な事態となっただけだ。
アベルを助けたがゆえの厄介事――と括ってしまえば、そうなのかもしれない。
けれどベルトランは、リオネルがアベルを助けなければよかったとは考えていなかった。
たしかにお転婆な少女の出現でリオネルの生活は振りまわされてばかりである。
週に一度は館に戻るようになり、王宮を無断で五日間も不在にした挙句、承諾を得ていたとはいえ、さらに六日間不在にしたのだ。こんなことは今まで一度もない。
けれどそんな一連の出来事のなかで、リオネルはなにか大切なものを取り戻しつつあるように感じられた。
リオネルの気持ちの明確な形はベルトランにもわからないが、リオネルはどうやらアベルを大切に思っている。それだけは、はっきりわかることだった。
厳しい運命を背負って生まれてきた、正統な王家の血をひく青年は、十年前にベルトランが初めて会ったときから、年齢以上に大人びた雰囲気をまとっている。いつも穏やかに振る舞い、感情を押し殺すように、けっして本心を見せない少年だった。それは、どこか孤独を感じさせたし、他を拒絶しているようにも見えた。
けれどアベルに出会ってからのリオネルは、心配したり、怒ったり、喜んだり、自らの感情に素直で一生懸命だ。
もし彼女と共にいるときだけでも、リオネルが素直な気持ちを表すことができ、ありのままの姿でいられるのであれば、それは貴重な存在ではないかとベルトランは思う。
「副隊長殿がなにを考えているにせよ、警戒するに越したことはないかもね」
ディルクがパンをちぎりながら言う。
リオネルが何をしたわけでもなく、何を望んでいるわけでもないのに、リオネルの周囲には手強い敵と、そして口うるさい味方が集まってくる。謂れのない敵対心を向けられる一方で、王になるようにと諫言する者も少なくない。
ディルクは、そんなリオネルを幼いころからかたわらで見続けている者のひとりだ。
前の席で黙々と食事をするリオネルを見やり、ディルクはもう一度ため息をついた。
「どうした?」
ディルクの様子に、レオンが怪訝な顔をする。
ディルクは思っていたことを口にするべきかどうか、パンを弄びながら迷ったすえに、別の言葉をつむいだ。
「いや……なんだか、シメオン殿が現れたせいで、リオネルがいつも館でなにをしているのか、聞く雰囲気ではなくなってしまったと思っただけだよ」
「そのことなら、いっそのこと、今度、二人で押しかけようと思っているが」
レオンが真剣にそう答えたので、リオネルは咳き込んだ。