11
束の間、「アベル」とはだれだっただろうと思った。それが自分の名であることを思い出すまでに、しばしの時間が必要だった。
「冗談……」
喉の奥が焼けついたようになっている。
からかわれているのだろうか。動揺している自分自身をアベルは身の程知らずだと思った。
けれど、リオネルの苦しげな紫色の瞳はまぎれもなくこちらへ向けられている。
激しく混乱し、動揺した。
「――好きだ、アベル」
心臓が止まったかと思う。
「きみのことを愛しているんだ、どうしようもないほどに」
うそ、という言葉さえ緊張して発せられない。
「どうしようもないほどアベルを愛してる。……想いは伝えないつもりでいた。きみがそれを望んでいないことはわかっていたから。けれど」
リオネルの紫色の瞳が、どこか遠い世界のものに見える。
これが現実であるはずがない。
「ヴィートがアベルに求婚したと聞いたとき、苦しかった。きみがジークベルトを頼って行動したときはひどく心が乱れた。イシャスの父親のことも、考えないようにしてきた。考えれば、とても穏やかな気持ちではいられなくなるから。些細なことで心を乱して馬鹿げているかもしれない。けれど止められないんだ。アベルのことを考えれば、幸福にもなるし、ひどく苦しくもなる。苦しいのに、けれどやはりきみのことばかり考えている」
ひとつひとつの言葉が、現実のものとしては聞こえてこない。それなのに、リオネルの声は乾いた地面に雨が降り注ぐかのように心に沁み入っていく。
こんなに多くの言葉を真剣に語るリオネルをまえに、アベルは言葉が出ない。
眩暈がした。
「頼む――危険なことをしないでくれ。アベルが傷つくことが、おれはなによりも怖い。いつもそばにいて、笑っていてほしい。アベルが男として生きることを決意したことは理解しているつもりだ。だから、おれを愛してほしいとは言わない。自由に生きればいい。ただ、もっと自分を大切にしてほしい。きみが傷ついている姿を見ることが苦しい。だから――」
言葉を切って、リオネルは形のよい眉を寄せた。
まっすぐに見つめられる。
伸ばされた右手が、アベルの頬に触れる手前で止まる。長い耳飾りが揺れて、首筋にあたった。
「アベルを愛している」
「…………」
「ずっと、ずっと好きだった。出会ったころから、この気持ちは変わらない」
頭のなかは真白で、息さえつけない。
「今だけ……触れてもいいか」
声が出せなくて、どう答えていいかわからなくて、アベルはほんの少しだけ首を動かす。それはうなずいたような形になった。
リオネルの手がアベルの頬に触れる。それから肩にまわって、抱きしめられた。
リオネルの息遣いが、すぐ耳元。
薄い服を隔てて、リオネルの身体の熱さを感じる。
息が止まるのではないかとアベルは思った。
けれど、どうしても理解できないことがある。それはたしかにあの女性が口にした言葉。
「……フェリシエ様は?」
小さな、かすれた声でアベルは言っていた。
フェリシエは、自分とリオネルが深く愛し合っていると言っていたはずだ。
「父親同士が進めた婚約だ。たしかにはじめは反対する理由もなかったし、言いなりになっていた。けれど、アベルに出会ってからは、はっきりと父上とフェリシエ殿には結婚できないと伝えた。おれは彼女を友人として慕っているが、愛してはいない」
「フェリシエ様は、あなたから宝石をたくさんいただいたと……」
「贈り物?」
片手でアベルを抱きしめたまま、リオネルは怪訝な声音で言った。
「それはありえない。おれがこれまで宝石を買ったのは一度だけ――アベルに贈った首飾りだけだ」
アベルは今も首にかけている首飾りを意識した。リオネルが語っていることは真実なのか。それとも都合のいい嘘をつかれているのだろうか。いや、リオネルがこのような嘘をつくはずない。
だとしたら、フェリシエが「蒼の森」で落としたという金剛石の指輪はいったい……?
「彼女がなぜそう言ったのかはわからないが、贈り物などひとつもしていないことは事実だ。おれは彼女を愛していない。アベル以外の女性を望んだことは、一度もない」
複雑な感情がからみあい、それらが大きな塊となってアベルの胸へと落ちてくる。
ずっとリオネルはフェリシエを愛しているのだと信じていた。けれど、真に彼が愛しているのは他でもない自分だという。
こんな現実がありうるのだろうか。
もしこれが現実なのだとすれば、それはどういう運命のいたずらだろう。
リオネルがだれにでも愛をささやくような種の人間でないことは、最もそばにいるアベルがよく知っていた。
混乱しすぎているせいだろうか、ベルリオーズ公爵がアベルへ向ける困惑したような眼差し、そしてディルクの明るい笑顔や、ラザールをはじめとしたベルリオーズ家の騎士らの顔が思い浮かび、最後に優しげなリオネルの笑みが脳裏にひらめく。
その瞬間、胸の奥に氷のような冷たさをアベルは感じた。
それは思い過ごしなどではなく、本当に心臓の奥が冷たく凍ってしまったかのような感覚だ。
先程まで早鐘を打っていた鼓動は、燃え尽きて灰になってしまったかのように感じられた。
ああそうか、とアベルは思う。これは、「現実であるかどうか」ということが問題なのではない。そんなことは考える余地もないことだった。これは、「現実にあってはならない」ことだ。
かつてローブルグで起きた悲劇が、ここシャルムに――二人の立つこの場所にある。
リオネルはベルリオーズ家の嫡男で、素晴らしい才覚に溢れ、輝かしい未来のある青年だ。周囲の者も、家臣も、皆がリオネルに期待している。彼はベルリオーズの宝なのだ。いや、この国の宝といってもいい。
それなのに、自分はどうだろう。シャルムの片田舎にある小領主の娘に生まれ、見知らぬ男とのあいだに子供をもうけて家を追放され、乞食同然となって彷徨っていたところをリオネルに救われた。
すでにアベルは貴族でもなんでもない。
リオネルが本気ならば、すべてを受け入れてくれるかもしれない。
立場など関係ないと……イシャスの父親になるとさえ、言ってくれるかもしれない。
けれど、それでいいのか。
このような自分のために、リオネルの地位も立場も貶めることが許されるのだろうか。
リオネルはベルリオーズ家の嫡男だ。周囲も認めないだろう。子供を持つ、身元の知れぬ少女を好いているなどと噂が立てば、リオネル自身だけではなくベルリオーズ家としての醜聞となる。
また仮に、アベルがデュノア家の娘という立場だったとしても、問題の大きさに代わりはない。いや、むしろ厳しかっただろう。
……アベルはディルクの婚約者だった。
さらには、アベルの母親はベルリオーズ家と敵対するブレーズ家の娘だ。
いったいどう生きたとしても、アベルとリオネルは生まれてからけっして結ばれぬ――結ばれてはならない運命にあるかのようだった。市井の娘を愛したローブルグの王子アルノルトのような結末を、リオネルは迎えることになるかもしれない。
リオネルの告白によって、この瞬間からアベルの運命は定まってしまったのだ。
彼を命にかけても守ると、アベルは誓ったのだから。
強く――けれど優しくアベルを包むリオネルの身体を、逞しい胸板を押し返すことで引き離す。軽い力だけで、リオネルの腕はすぐに離れた。
代わりに軽く見開かれた紫色の瞳が、こちらを見返す。
「本当……なのですか?」
「誓って真実の気持ちだ」
アベルは泣きたい気持ちになる。
実際に、リオネルの目にアベルは泣きそうに見えたかもしれない。けれどアベルは泣かなかった。代わりに力ない声で告げる。
「わたしには身に余るお言葉です」
「…………」
「あなたとわたしでは釣り合いません」
「アベル」
リオネルはやや強い口調だったが、アベルはそれを遮って続ける。
「それだけではありません。わたしは、リオネル様をだれよりも尊敬しています。けれどリオネル様を異性として愛することはできません」
「……わかっている」
「男として生きる道を選んだからではありません」
アベルの言葉に、リオネルは怪訝な面持ちになる。唇を軽く噛んでから、躊躇を捨ててアベルはひと息で告げた。
「好きな人がいるのです」
こちらへ向けられた紫の瞳が、驚きの色を帯びる。影のように黙って控えていたベルトランでさえ、わずかに動揺したようだった。
「それは――」
アベルはうつむく。偽りを告げなければならない唇は、震が止まらない。
「……それはイシャスの父親か?」
痛みをはらんだ声音で尋ねるリオネルへ、アベルは小さくうなずきを返した。
胸が引きちぎられるような感覚に苦しくなる。喉の奥からせり上がってくる感情はなんなのか。けれど、引き返すわけにはいかない。
リオネルを守らなければならないはずの自分が、彼をどこよりも険しい道へ導いてしまうまえに、断ち切らなければ。この茨の道を、断ち切らなければ。
リオネルは黙っていた。
彼の瞳を直視できなくて、視線を逸らす。
……いったい自分はなにをやっているのだろう。どうしてこの優しい人に嘘をつかなければならないのか。
運命は気まぐれだ。
気まぐれで、残酷だ。
だれかが今すぐ短剣でこの心臓を深く突き刺してくれたら、と思う。そうしたら、もうこんな思いをしなくてすむのに。――この人に、こんなことを言わなくてすむのに。この人にこんな顔をさせなくていいのに。
「わたしのようなつまらぬ者へ気持ちを傾けることは、どうか、もうおしまいにしてください」
アベルの唇は震えた。なぜ震えるのか、自分でもわからない。
右手でリオネルは拳を握る。それから、かすれた声で尋ねた。
「イシャスの父親は、死んだのか」
と。
問われても答えられるはずがない。イシャスの父親のことなど、はじめから知らないのだから。
回答から逃れるように顔ごとリオネルから背けて、アベルはつぶやく。
「……ごめんなさい」
ひとりにしていただけますか、とようやく告げれば、リオネルが視線を落とす。
ここで、水宝玉の首飾りをリオネルへ返すことができたらよかったのかもしれない。けれど、どうしてもそれだけはアベルにはできなかった。この先、アベルにとって、唯一の――そして最後の心の拠り所になるだろうから。
「わかった」
拳を握ったままリオネルは立ちあがる。
「すまなかった、一方的に想いを押しつけて」
深くうつむく。顔を上げることができない。自分は今、どんな顔をしているだろうか。
もしかしたら、すでに涙はこぼれていて、とめどなく頬を濡らしているかもしれない。リオネルにはけっして見せられない。
そして同じくらい、リオネルの顔を見るのが怖かった。
「……医師をこの部屋へ呼ぶから、きちんと診てもらってほしい。あとでエレンに服を届けてもらうように頼んでおく。診察と着替えが終わったらすぐに自分の部屋に戻るんだ。この部屋の存在に殿下が気づくことはないだろうけど、なるべく離れていたほうが安心だから」
顔を背けたまま、アベルはうなずく。
まだなにか言いたいことがあったのだろうか、それともなにか聞こうとしたのだろうか、しばらく立ったままでいたが、ややあってリオネルは背を向けて歩き出す。
ベルトランの物言いたげな視線がこちらへ注がれている気配を感じたが、アベルは顔を上げなかった。
二人が部屋を出ていく。
アベルは瞳を閉ざした。
寝台に両手をつき、硬く、硬く目を閉ざす。
喉の奥からこみ上げてくるなにかを抑えきれなくなり、アベルは嗚咽をもらした。あのような嘘をついておいて、なにを自分は泣いているのだろう。泣く資格さえ自分にはない。けれど涙は止まらない。哀しくて、哀しくてしかたがなかった。
アベルは声を上げて泣いた。
堰を切ったように涙は溢れ、嗚咽と共になにもかもを吐きだそうとするのに、涙を流せば流すほど哀しみが募る。
――どうしてこんな自分を愛しているなどと、リオネルは言ったのだろう。
なぜ。
どうして。
真実であったとしても、そうでなかったとしても、言わないでくれていたらずっといっしょにいられたのに。つまらぬ嘘をつかずにすんだのに。
ひとりきりの部屋でアベルは泣き続けた。