10
リオネルが扉を開け放つと、会場は静まり返っていた。手持無沙汰な楽団の面々と、部屋の奥でひとり疲れた様子で腰掛けるレオンの姿があるのみだ。
レオンは天井を仰ぎ見たまま、寝ているのだろうか、こちらを見ようともしない。
突然現れたリオネルの姿に驚き、楽団の者がいっせいに立ち上がった。彼らのまえを走り抜け、リオネルとベルトランはレオンのもとへ向かう。
「レオン!」
リオネルの声に、レオンが文字通り飛び起きる。
「ああ、リオネル。それに用心棒殿」
顔つきはしっかりしているので、寝ていたわけではなさそうだ。さっぱりと着替えたリオネルの姿を見やって、「すまなかった」とレオンは兄の代わりに謝罪する。
が、それには答えず、リオネルは性急に尋ねた。
「殿下は――、なぜ出席者の姿がない」
レオンは肩をすくめる。
「教えてくれ、踊り子は来なかったか」
「来たよ、とびきり綺麗で踊りの上手い子が。出席者は、踊り子が舞うまえに退場させられた。兄上はいたく彼女を気に入って、その子を連れて用意された寝所へ向かっ――」
「どの部屋だ!」
リオネルの剣幕に、レオンは気圧される。
「し、知らない、ジュストが用意していたようだが」
言い終わらぬうちにリオネルは扉へ駆けだしている。
「……なんだ?」
夏の嵐のように突然来て去っていく従兄弟の後ろ姿を、レオンは呆然と眺めていた。けれど突如、はっとして立ちあがる。
「リオネル! 楽しみの最中に邪魔をすれば、兄上に殺されるぞ!」
レオンの叫び声がまるで聞えていないかのように、リオネルとベルトランは扉の向こうへと消えた。
廊下を駆け抜けながら、ジュストはどこだと聞いてまわるリオネルに、家臣らは目を丸くする。普段は穏やかそのもののリオネルが、このような剣幕で館内を走る姿など、だれも目にしたことがない。
館内は騒然とした雰囲気になった。
「ジュストなら殿下のために部屋を用意していたはずです」
騎士のひとりが緊張した様子で進み出て答える。
「どこだ」
「三階ですれ違いました。中庭に面した西の客間へ向かったはずです」
「西の客間……」
つぶやきながらリオネルは踵を返す。風のように廊下を駆けて階段へ。
三階に位置する西の客間には、「からくり」がある。
あるいはジュストはそれを承知のうえで、ジェルヴェーズを案内したのかもしれない。だとすれば、ジュストは踊り子の正体を知っているということになる。
――いったいどういうつもりなのか。
大階段ではなく、人気のない螺旋階段を駆け登り二階で曲がろうとしたとき、ちょうど真正面から足早に降りて来るジュストと遭遇する。
「ジュスト!」
厳しい声音をリオネルが発する。雷に打たれたように、はっとしてジュストが立ち止まった。
「リオネル様――」
「なぜこんなことをした――いや、話はあとだ。殿下と踊り子は西の客間にいるのか」
「はい」
「いつからだ」
「つい先程です」
リオネルの勢いに気圧されながらも、ジュストは焦る口調で答える。
「今から行きます。そして、どうにかして助け出します」
「わかっているのか」
――なにを、とは明言しない。けれどジュストはうなずく。
「はい」
「なぜこんなことをした」
「…………」
「おれが行く。ジュストはクロードのもとへ向かえ」
「なりません、リオネル様が行かれるなど。もしなにかあれば――」
「二度も言わせるな」
短く――けれど厳しい口調でリオネルが言うと、ジュストは口をつぐんだ。
リオネルは螺旋階段を三階まで行かずに、二階で曲がっていく。ちらとジュストを一瞥してからベルトランがそのあとを追った。
ジュストも二階で曲がるつもりだったのだろう。三階の西の客間と二階にある使用人部屋は上下で繋がっている。すなわち、二つの部屋はいざというときに行き来できるよう設計されているのだ。それが西の客間の「からくり」である。
ジュストはいつまでも二人の去ったほうを見つめていた。
一方、使用人部屋に辿りついたリオネルは、すぐに奥の隠し扉を押し開き、梯子を上る。ベルトランが「待て」と呼びとめた。
「慎重に行け。アベルを守るつもりなら、王子の気を不必要に害するな。間違っても、斬りかかるなよ」
「…………」
リオネルは答えなかった。
もし彼女の細い身体を寝台に押し倒していたら。もしジェルヴェーズがアベルに触れていたら――。
間違いなく前も後ろもわからなくなるだろう。
梯子を上りきり、小さな扉を開けると、そこは客間の衣装部屋になっている。さらに衣裳部屋の扉を押し開こうとして、ベルトランに腕を掴まれる。自分が先に行くという意味のようだったが、リオネルはそれを無視して客間に足を踏み入れた。
開ける視界。
――そこには。
「リオネル!」
ベルトランの制止する声も届かない。
すっと紫色の瞳を眇めたリオネルが、次の瞬間にはアベルの上に被さるジェルヴェーズの肩を掴み上げ、放すと同時に同じ手で拳を振り上げたのだった。
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ジュストの用意した寝室が西の客間だとわかったとき、アベルはすぐにその意図を察した。ジェルヴェーズに抱きかかえられたまま部屋に連れていかれると、すぐに近衛兵らによって扉は閉ざされた。
天蓋のついた広い寝台に下ろされると、言葉を発するまもなくジェルヴェーズはアベルの上に覆いかぶさり、激しく唇を重ねてきた。
酒に入れた催眠薬は効いていないのだろうか、ジェルヴェーズは眠りそうにもない。それも、かなり酒精分の多い葡萄酒を何杯も飲んだはずなのに。
……酒に強いのか、薬に耐性があるのか、それとも単に体力があるのか。
舌を絡め取られ、執拗に口内を蹂躙される。
恐怖と後悔に襲われた。
怖い。
ジェルヴェーズの手が服に伸び、無造作に引き下ろされる。
――いや、もう終わっているのだ。
アベルはされるがままになりながら、どこか冷静な思考のなかで思った。
自分の人生はすでに三年前に終わっているのだから、今更なにをされようがいいではないか。こうして耐えれば少なくともジェルヴェーズの怒りを鎮めることはできる。そして、リオネルや、ディルクとマチアス、レオンも救うことができる。
ならば。
……ああ、それでも。
どうしてだろう、リオネルの優しい眼差しが思い起こされる。
もっと自分を大切にしてほしいと幾度、言われたことか。
実際にリオネルはいつだってアベルに優しい。まるで壊れやすいものに接するかのように、大切にしてくれる。そんなふうにされれば、嬉しい以上に不安になった。
失うことに怯えるくらいなら、いっそ初めからなにもいらない。
リオネルの優しさが怖かった。
そうしてアベルは今、あれほど大切にしてほしいと言われた自分自身――リオネルが大切にしてくれる身体を、粗末にしている。
約束を守れない。いつだって、約束を守ってこなかった。大切にするほどの身ではない。大切になどした瞬間に、「アベル」という存在は崩壊する。
それでもリオネルのことが頭から離れない。
なぜだろう、こんなにも切ない。
「震えているのか」
ジェルヴェーズが顔を上げてアベルを見た。
「――泣いているのか」
アベルは答えなかった。答える言葉などない。犯すなら犯せばいい。殺すなら、殺せばいい。この身体にも、使い道があるならそれでいい。彼の役に立つなら、なんだっていい。
答えない踊り子に、ジェルヴェーズは砂色の瞳を向ける。アベルはそれを見返す気にもなれず視線を逸らした。途端に、ジェルヴェーズの身体が重くのしかかる。
急に重みを増したので息が詰まった。
あまりの苦しさに身じろぎするが、びくともしない。
そのうえ、ジェルヴェーズは少しも動かなかった。なにをしているのだろう、と思った瞬間、大きな足音が響く。
――足音?
おかしい、と思ったそのとき、ふと身体が軽くなる。
同時に、室内に大きな声が響き渡った。リオネルを呼びとめるベルトランの声だ。
突然広がった視界に映ったのは、泥酔したジェルヴェーズを掴み上げるリオネルの姿。
彼は右手しか使えないため、いったんは掴んだジェルヴェーズの肩を放しながら、同じ右手で硬く握った拳を振り上げる。が、拳を下ろすより先に、ジェルヴェーズの身体がゆらりと寝台に倒れる。
すでにジェルヴェーズは完全に意識を失っていたのだ。
リオネルの拳をベルトランが押さえた。
「眠っている相手を、わざわざ殴って目覚めさせる必要はない」
ベルトランはリオネルを説得している。その光景を、アベルは現実のものとは思えずに見つめていた。
ベルトランの手を手荒に振り払うと、リオネルはすぐに寝台に駆け寄り、自らの上着をアベルに被せる。リオネルの表情はひどく強ばっている。
信じられない思いでアベルはリオネルを見上げた。
どうして。
なぜリオネルがここに?
無言でリオネルはアベルの手を引き、寝台から降りるのを手助けする。けれど、床に足をつこうとすれば、アベルは膝から力が抜けて立つことができなかった。
酒に入れた催眠薬のせいだろうか。けれど、アベルは二杯しか飲んでいないはずだ。
へなへなと床に膝をつくアベルの身体を、すぐにリオネルが支える。気がつけば、ひどく身体が震えていた。いつからこんなに震えていたのだろうと、アベルは他人のことのように思った。
アベルを引き受けようとするベルトランに、リオネルは小さく首を振る。けれど、片腕しか使えないリオネルにずっと支えられているわけにもいかない。
「……自分で、歩けます」
発した声はひどくかすれていた。
「扉から出ないと、近衛兵に怪しまれます。わたしは扉から……」
「そんなことはいい」
早くここを出るべきだ、と衣装部屋へ促したのはベルトランである。
梯子を降りるときも、リオネルは相変わらず無言だった。彼が何を考えているのか、アベルにはわからない。ただ、ひどく怒っているのだろうと思った。
ジェルヴェーズに近づいてはならないと、あれだけ言われていたのに、守らなかったのだから。
自分を大切にしてほしいと幾度も言われ続けて、こうして破ったのだから。
二階の使用人部屋へ下り、ひとりで歩こうとしたものの、やはり膝から力が抜けて床に崩れてしまう。再びリオネルがアベルの身体を支えた。
「――アベル、ここで休んだほうがいい」
はじめてリオネルが声を発した。
ここ、ということは使用人部屋で休めということだろうか。
リオネルに導かれて、アベルは寝台に座らされた。
あらためて我が身を振り返れば、ひどい格好だ。貧弱な身体の線がわかる薄絹のドレスは、ジェルヴェーズによってあちらこちらに乱されている。リオネルの上着がかけられていることがせめてものの救いだ。
こうして危機から逃れれば、身体を触れられる嫌な感覚が思い出されて、アベルはリオネルの被せてくれた服をきゅっと引き寄せる。止めようとするのに、どうしたことか身体の震えは収まらない。
「大丈夫か」
怒りや不安――だけではない、様々な感情の入り混じったリオネルの声音が、尋ねてくる。わずかにリオネルの声もかすれているようだった。アベルはうなずいた。
片膝をついてしゃがんだリオネルが、アベルの顔を覗きこむ。
「殿下にひどいことをされなかったか」
再びアベルはうなずく。
「本当に?」
「……口づけ、だけです……殿下は眠ってしまいましたから」
わずかにリオネルがうつむく。けれどすぐに顔を上げて、こちらへ視線を向けた。ひどく苦しげな視線だ。
「口づけだってまがうことなく暴力だ」
「…………」
「なぜ、こんなことをした」
押し殺したような声が、降り注ぐ。怒っている。いったん安堵すると、今度のリオネルは激しい怒りの色を露わにした。彼の怒りの度合いは、手に取るようにわかる。
ジェルヴェーズの暴虐からリオネルを守りたかった。仲間であるディルクやマチアスの命を、救いたかった。
けれど、そのような言葉をリオネルは聞きたくないだろう。
うつむいていると、リオネルが口調を強める。
「アベル、答えてくれ。なぜこのようなことをした」
彼の怒りに触れて、アベルは委縮する。けれど、答えなければけっしてリオネルが納得しないことを、アベルは知っていた。
だからひと息に告げる。
「……あなたやディルク様、マチアスさん、レオン殿下、それにフェリシエ様や騎士たちをお守りするためです」
「きみを犠牲にしてディルクやフェリシエ殿が助かれば、おれが喜ぶとでも思ったのか」
「ディルク様はリオネル様のご友人ですし、フェリシエ様はあなたの婚約者候補です」
「……おれのためにやったというのか」
どうにか顔を上げ、アベルは泣きそうになるのを堪えてリオネルを見返した。
「リオネル様のためなら、わたしはどうなってもかまいません」
涙がこぼれてしまいそうだ。
動かすことのできる右手でリオネルが拳を握る。それからリオネルは視線を落とした。
リオネルは下を向いたまま、拳を強く握っている。
「……リオネル様?」
不安になってアベルが呼びかけると、リオネルは握った拳をわずかに上げる。そして、ゆっくりと開くと、アベルの左手に被せた。
暖かいリオネルの手が、冷たく震えるアベルの手に被さる。
「――耐えられない」
息を吐き出すようにリオネルは言った。
「あの男がきみを欲望の対象として見たことも、きみの身体や唇に触れたことも、すべて許せない」
わずかにアベルは瞳を大きくする。言葉の意味を理解しようとするより先に、台詞の続きが紡ぎだされる。
「彼はきみを抱こうと寝台に押し倒した。――たとえなにもなかったとしても、ただそれだけであいつを殺したいと思う。口づけをしたなら、なおさらだ」
なんと答えたらいいのか、アベルには見当もつかない。なぜそんなことをリオネルは言うのか。それに一国の王子であるジェルヴェーズを、「あいつ」だなんて。
「――ジェルヴェーズ王子のまえにこんな格好で現れるなど、頼むからやめてくれ。いや、あの男のまえだけじゃない。危険なことをしないでほしいと何度も伝えたはずだ」
「わたしは、リオネル様と、リオネル様が愛する人たちを守りたいと思っています」
揺れる声で告げると、リオネルが顔を上げる。苦しげな瞳と視線がぶつかった。
「おれの愛する人を守る? ならばきみは、おれが真に愛している相手を知っているのか」
「わかりきっています」
「では言ってみて」
「……ディルク様、公爵様、それにこの館の騎士たちやフェリシエ様です」
「違う」
あまりにもあっさり否定されたので、アベルは言葉を呑んだ。
「違う、彼らは皆大切な人たちだが、おれがこの世界で最も愛しているのは別の人だ」
リオネルが世界で一番愛している相手とは、だれなのか。探しあてようとすれば、わけもなくアベルは不安に駆られる。
「だれかわかるか」
見当も、つかない。
「――わからないのか」
これほどまでにリオネルに愛される相手とは、いったいだれなのだろう。
そう思った瞬間に耳に飛び込んできた言葉は、けっして現実として受け取ることのできぬものだった。
「アベル、きみだ」