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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第六部 ~一夜の踊り子は誰がために~
327/513







 裸足の踊り子が舞う。曲は短かった。奏者が気を効かせたのかもしれない。


 踊りが終わると、皮肉めいた笑みで楽団の面々を見やってから、ジェルヴェーズはアベルへ手招きをした。自分のもとへ来いという意味だろう。


 ジェルヴェーズは今のところ、アベルを煙突掃除の少年とは疑っていないようだ。それに、幸か不幸か気に入ってもらえているようでもある。

 けれど、わかっていても、足がすくんだ。


「殿下、踊り子の衣装を着替えさせてきます」


 すかさずジュストが申し出たが、ジェルヴェーズはそれを「必要ない」と一蹴した。


「こちらへ来い」


 アベルは一礼する。それからジュストに目配せをすると、ジュストがうなずき、そばにあった酒の器をアベルに手渡した。

 それを持ってアベルはジェルヴェーズのもとへ向かう。


「なんだそれは」


 曖昧にほほえみ、アベルは手に持つものをかざして見せた。


「酒か」


 アベルはうなずいた。それからジェルヴェーズの杯へ中身を注ぎ入れる。

 すっとジェルヴェーズの背後の影が動き、近衛兵が杯の中身を確かめようとする。ジェルヴェーズはそれを止めて、アベルへ杯を向けた。


「おまえが飲め」

「兄上、女性に酒を強いるのはいかがなものかと」


 諌めるレオンをジェルヴェーズは振り向きもしない。ここまでくれば、アベルの腹も幾分か座っていた。

 もう引き返すことはできない。

 最後まで演じきるしかないのだ。


 アベルは笑顔で杯を受けとった。そして、それを一気に飲み干す。レオンが呆気にとられた顔になった。


「いい飲みぶりだ」


 さらにアベルが杯に酒を注ぐと、今度はジェルヴェーズがそれを飲み干す。


「殿下」


 咎めるような声は近衛兵だが、ジェルヴェーズは気に留めなかった。空になった杯に、さらにアベルは酒を注ぎ足す。


「美味い酒だ」


 無言でアベルはうなずく。

 杯に口をつけながら、ジェルヴェーズはアベルの顔を見つめた。


「本当に美しいな。いくつだ」


 アベルは軽くうつむく。なるべく声を発したくなかった。レオンに気づかれるかもしれないからだ。


「十六、七というあたりか」


 問われて、アベルはうなずいておいた。酒を注ごうとする手を取られ、強引に引っ張られる。ジェルヴェーズに肩を抱かれて、アベルは身を縮めた。


 注いだばかりの酒を、ジェルヴェーズはあおる。かなりの酒豪と見受けられた。


「ローブルグ人か」


 レナーテという名は、シャルム人にはない。ローブルグやユスターなどに多い名だが、あえてジェルヴェーズがローブルグ人と言ったのは、ディンケルの『クラウディア』を選んだからかもしれない。加えて、明るい髪色はローブルグ人に多い。


 アベルはジェルヴェーズの問いにうなずく。

 続いて、ささやくように小声で答えた。


「エーヴェルバインからこの街を訪れていたのです。殿下がおられると聞いて、ここへ参りました」


 アベルが注ぎ足した酒を、ジェルヴェーズは無言でこちらへ向ける。飲めという意味だろう。アベルは杯を受けとると、両目を閉ざし、ひと息に干す。美味しい酒のはずが、なんの味も感じられない。

 杯を置くより先に、強く身体を引き寄せられる。

 酒の香りが絡まった。


「兄上」


 レオンの声にジェルヴェーズが眉を顰める。踊り子の身体を抱いたまま、不機嫌に言い放った。


「なんだ、レオン」

「お戯れはそれくらいに」

「おまえは部屋に戻っていろ」

「……その娘を床へ連れ込む気ですか?」


 問われたジェルヴェーズは、呆れた眼差しを弟へ向ける。


「おまえはベネデットの哲学書でも読んで、後生大事に童貞を守っていればいい」


 こうなってしまえば、自分にはどうしようもないことくらいレオンは知っていた。再び憐れむ眼差しで若い踊り子を見やる。すぐにアベルは瞼を伏せた。


「床の準備をしろ」


 ジェルヴェーズが命じると、背後で家臣らが慌ただしく動き出す。アベルのなめらかな頬に手を添えて、ジェルヴェーズは耳飾りを弄んだ。


「安っぽい飾りだ」


 耳飾りはエレンに借りたものだ。彼女が持っているなかで、もっとも見栄えのするものを選んでもらった。高価なものを見慣れているジェルヴェーズからすれば、たしかに粗末なものかもしれない。


「そなたは、宝石も服もまとわないほうが美しいだろう」

「…………」

「あるいは、そなたのためだけに、この国で最も腕のいい職人に宝飾品を作らせてもいい。そなたなら、ベルリオーズだけではなく、シャルムじゅうで最も美しい宝石が似合うだろう」


 なんと答えていいのかわからない。ただ、ジェルヴェーズが自分のことを気に入ったのだということくらいは、鈍いアベルでもわかった。


「今宵、そなたが私の腕のなかでどのように乱れ咲くのか楽しみだ」


 不意にジェルヴェーズは立ちあがり、アベルの背中と腿の裏に手を回し抱き上げる。逞しい腕に身体の動きを封じられると、アベルは蒼ざめた。酒に混入させた眠り薬の効き目が現れるまえに寝台へ運ばれたら――。


 けれど、もはやどうしようもない。ここで抗えばジェルヴェーズは暴力的になるだろう。薬が効いてくることを願うしかなかった。


 レオンの咎める眼差しを、ジェルヴェーズは冷ややかな微笑で受け流した。






+++






 浴室から出たばかりのリオネルの髪からは、雫が滴っている。葡萄酒の匂いが取れるまで、幾度か髪を洗い流さなければならなかった。


「さっきここへマチアスが来たぞ」


 すぐに着替えはじめたリオネルに、ベルトランは告げる。


「マチアスが?」


 リオネルは表情を曇らせる。彼はディルクと共に大広間でジェルヴェーズの対応をしていたはずだ。なにか悪い知らせがあったのか。


「彼はなんて?」

「おれたちが去ってから、王子はかなりフェリシエ殿にからんだそうだ。止めようとして、レオン王子が殴られ、ディルクとマチアスは斬られかけ、会場は乱闘になる寸前だったらしい」


 眉を寄せてから、「それでどうなったんだ」とリオネルは続きを促す。


「そのとき、折り良くジュストが踊り子を連れてきたそうだ」

「踊り子?」


 リオネルは怪訝な表情になった。


「おかげでディルクはフェリシエ殿を会場から連れだすことができたらしい」

「…………」


 ディルクたちが無事と聞いて、安堵の色を浮かべながらも、リオネルは腑に落ちぬ顔つきである。


「フェリシエ殿はひどく怯えているらしく、今はディルクとマチアスがそばについているということだ」


 ベルトランはフェリシエの状況を説明したが、リオネルは彼女の話ではなく、踊り子のほうへ関心を示した。


「……踊り子は、どこから連れてきたのだろう」

「さあ、そこまでは聞いていない。おそらくマチアスも知らないだろう」


 しばし黙りこんだのち、リオネルは着替えの手を再開させる。手早く着替え終えると、髪も乾かぬままリオネルは扉へ向かった。


「どこへいく?」

「会場の様子が気になる」

「行くな、危険だ」

「今、殿下のそばにはレオンしかいないのだろう?」

「おまえが行っても、状況は変わらない」


 むしろ悪化すると伝えたかったのかもしれないが、さすがにベルトランはそこまで言うことを控えた。


「レオンひとりに押しつけるわけにはいかない。それに、踊り子のことも気になる」

「実の弟を手にかけることはないだろう」

「踊り子は?」

「しかたがない」

「犠牲になっても、しかたがないと?」


 わずかにリオネルの声が曇った。


「踊り子だってベルリオーズの領民だ。おれには守る義務がある」

「領民かどうかは、わからない。それに、さすがに殺されはしないだろう。踊り子なら床の相手くらい心得ているはずだ」

「相手はジェルヴェーズ王子だ」


 ベルトランの表情に苦渋の色が滲む。


「リオネル、なにひとつ犠牲を払わずにすべてを守り切れるなどと思うな」

「だとしても力を尽くすべきではないのか」

「それによって、おまえの命が危険にさらされる。――冷静になれ。リオネル・ベルリオーズの命はおまえひとりのものではない。このベルリオーズ領にいるすべての領民と、ベルリオーズ家に仕える騎士たちのものでもあるんだ。それを守るために、皆命をかけている。迂闊な行動をとれば、皆が命を投げ打っておまえを守ろうとするんだぞ」

「…………」


 沈黙してリオネルはベルトランを見返した。立場のことを引き合いに出されれば、リオネルは常に反論の余地を奪われる。

 実のところ、そのことをベルトランはよく知っていた。言うなれば、ベルトランはリオネルの行動を制御したいときに、この話を持ち出すのだ。それが卑怯なことであるとベルトラン自身も知っている。

 沈黙したリオネルからわずかに視線を外して、ベルトランは言った。


「気になるなら、だれかを大広間へ向かわせよう。おまえが行くことはない」


 扉へ向かったベルトランが、取手を掴んで開くと、向こう側から小さな悲鳴が上がる。一方ベルトランのほうは驚く素振りもない。気づいていたのだ。


「エレン」

「あ……」


 気まずそうにエレンは口を押さえた。


「ごめんなさい、急に扉が開いたものだから」

「いや、慣れている」


 なにに慣れているのか。エレンは微妙な面持ちになる。


「どうした」

「その……」


 遠慮がちにエレンは扉のなかへ視線を向ける。視線に気づいたリオネルが、エレンへゆっくりと歩み寄る。


「ごめんなさい、すぐにイシャスのところへ戻ります」


 イシャスを守るのが自らの役目であることを、エレンはよく心得ているはずだ。それでもここを訪れたのには、おそらくなにか重大な理由があるのだろう。


 なにか思い至る様子で、すっとリオネルは表情を強張らせた。


「アベルは今どうしてる」

「――それが」


 エレンが表情を歪めた。リオネルの顔色が一変する。


「なにがあった」


 咄嗟にリオネルは右手でエレンの腕を掴む。


「アベルは」

「リオネル様にはけっして伝えないようにと、あの子からは言われたのです。――でも」

「彼女は今どこにいる」

「踊り子として、ジェルヴェーズ王子殿下のもとへ」


 ひと息に告げられた台詞が、リオネルの瞳を大きく見開かせる。さしものベルトランも言葉を失う様子だ。


 声が発せられぬままエレンを見つめていたのも束の間、リオネルは壁にたてかけてあった長剣を掴んだ。


「リオネル!」


 ベルトランが叫ぶ。けれどリオネルは振り返らない。


「落ちつけ」


 リオネルはエレンの脇をすり抜けていく。ベルトランが猛烈な勢いで後を追いかけ、リオネルの腕を掴んだ。


「落ちつけと言っている!」

「落ちついていられるか!」


 激しくベルトランの腕を振り払いながら、リオネルは叫んだ。声を荒げるなど珍しいことだ。エレンが身を縮める。

 燃えるような怒りと焦りが、リオネルの瞳の奥に燃える。


「話などしていないで、すぐに向かうべきだった」

「おまえが取り乱せば、アベルがおまえにとってどれほど大切な存在かということが王子に知られる。取り返しのつかないことになるぞ」

「取り返しがつかないのは、アベルになにかあったときだ」


 これ以上話す時間はないとリオネルは駆けだす。遅れずにベルトランも後を追う。


「感情を露わにすれば、おまえだけではなくアベルも危険に晒されるんだ」

「今以上の危険がどこにある」


 廊下を駆けながらリオネルは言い放った。


「とにかく一度、冷静になれ」


 なおも説得しようとするベルトランに、リオネルは突如足を止めて向きなおる。そして態度から察せられるよりもはるかに平静な声で言った。


「アベルを、ジェルヴェーズ王子に触れさせたくない。指一本でも、だ」

「…………」

「彼だけじゃない。どの男にも触れさせたくない。あの子を、欲望の対象として見られるだけでもおれは耐えられない。一瞬たりとも」


 ベルトランは言い返さなかった。言い返さずにただ見返すベルトランから視線を外し、リオネルは再び走りだす。ベルトランは無言で従った。


 ――リオネルは本気だ。

 自分がいかに無謀なことをしようとしていたか、ベルトランは悟る。

 リオネルは心底アベルに惚れている。そして今、リオネルは自らの想いを貫こうとしている。本気でアベルに惚れたリオネルを、止めることなどできるはずない。


 とすれば、死ぬ気で二人を守るしかないのだと、――アベルが危険を冒して守ったこの状況を、どうにかして最後まで切り抜けるしかないのだと、ベルトランは寸時に判断した。








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