8
開かれた扉から、ひとりの少女が進み出る。低くざわめいていた会場が静まり返った。
少女は淡い色のドレスをまとっている。
腰や胸元を覆うコール・バレネも、ドレスの下に重ねるジュップも見につけておらず、柔らかな絹を透かして身体の線がはっきりとわかる。
まだ成熟してはおらず、幼さを残している。けれど細く締まった腰や、長くしなやかな足は、充分に異性を魅了する色香を漂わせていた。
顔は、薄紫色のヴェールで隠されていて見えない。
会場の視線は娘に注がれた。
疲れたようにレオンは深く椅子に腰かけ、布巾を口元と頬に当てた。ジェルヴェーズに殴られたところが痛んでいるのだ。
その隣、机の中央に位置する椅子に座りながら、ジェルヴェーズは腕を組んで踊り子を見下ろしている。
少女は裸足だ。
涼やかな水色のドレスの裾から、白く頼りない素足が見え隠れする。
大広間の中央まで音もなく歩むと、踊り子が軽く腰を折る。ジェルヴェーズが顔を見せるようにと命じると、進み出たジュストが告げた。
「殿下にしか顔を見せぬとのことです」
ジェルヴェーズは小馬鹿にしたように小さく笑う。それから顎をしゃくった。出て行けという合図である。出席者らが戸惑いながらも立ち上がり退室しはじめた。
「近衛とレオンはいいだろう」
娘は無言だった。
やがて楽団を除くすべての人々が去り、扉が閉ざされる。
「踊れ」
命じられてもしばらくは動かなかった娘だが、不意にほっそりとした指先でヴェールを避ける。それからゆっくりと顔を上向けた。
少女の顔を確認して、ジェルヴェーズはかすかに目を細めた。
澄んだ水色の瞳がまっすぐに上段のジェルヴェーズへ向けられている。長い睫毛がなめらかな頬に影を落とし、瞬きするたびに儚く揺れた。
肌は白い。緊張のためなのか、それとも生まれついてなのか、白すぎるほどだ。
高い位置で無造作に束ねられた橙色の髪は、不思議なほど会場の照明を弾き、光の加減によって金色にも見える。唇は鮮やかな真紅で、涼やかな目元にも淡い紫色が施されていた。
化粧のせいか、身体つきから想像するよりもはるかに大人びて見える。
「これは……美しいな」
独り言なのか、弟に語りかけたのか、ジェルヴェーズは娘を見下ろしながらつぶやく。
「綺麗ですが、まだ子供のようですよ」
疲労のなかに呆れを滲ませた声で、レオンは言った。
「躍らせたら、親元に帰らせるべきです」
「黙っていろ」
言われたとおり、レオンはひとまず押し黙る。それから同情の眼差しで踊り子を見やった。レオンはわずかな疑念も抱いていないようであるが、むろん踊り子の正体はアベルである。
それもそのはず、これほど女性らしく魅惑的な少女を、あの素朴な従騎士アベルと同一の者であると見破ることのできる者などいないだろう。
楽曲がはじまり、少女は舞いはじめた。
+++
時は少しばかり遡る。
扉のまえで待つジュストが苛立っていることを、アベルは知っていた。急いで部屋を出て行こうとすると、エレンに呼びとめられる。
「本当に行くの?」
「ええ」
不安と心配の混ざりあった視線を受けて、アベルはかろうじて笑って見せる。
「大丈夫ですよ、心配しないでください」
「どうやって心配せずにいられるというのよ」
エレンの心配はわかる。だが、だれよりも不安なのはアベル自身だった。ジェルヴェーズに対する恐怖は、なによりも暴力をこの身に受けたアベル自身が覚えている。
――けれど。
「リオネル様や仲間を守るためだけではないんです」
「では、なに?」
エレンは問い詰める口調になった。アベルは眉を下げる。
「自分のためなんです。なにかをしていなければ、落ち着かないのです。だれかの役に立っていると感じていなければ、わたしは生きている価値を見い出せないのです」
「なにを言うの。あなたは生きているだけで、それだけでいいのよ。リオネル様がそれ以上のことをあなたに望んだことがあった? あなたがそばにいるだけでいいと思っているはずよ。わたしだって、イシャスだって――なにもないあなたを愛しているわ」
アベルは笑顔を作り、軽くうつむく。泣いてしまいそうだ。
「エレンの言葉はとても嬉しいです」
「なら……」
「けれど、だめなんです」
「どうして」
「わたしは宝石にはなれません」
よくわからないという顔をエレンはした。
「なんの役に立たなくても、それだけで価値があるのが宝石でしょう? わたしは、がらくたでなければならないんです。なにかの役に立って、はじめてそこに在ることを許される者なのです」
「…………」
「イシャスにとっての宝石が、エレンでよかったと思っています」
「なにを言うのよ、アベル」
答えずにアベルは扉の取手に手をかける。
「待って」
呼びとめられてアベルは振り返った。呼びとめたものの、エレンは黙ってアベルを見つめている。なんと言っていいかわからないようだった。
「行ってきます」
アベルが言うと、エレンが追いかけてきて手を掴んだ。
「アベル」
「はい」
「とても綺麗よ――信じられないくらいに」
大袈裟な言葉にアベルは小さく笑う。けれどエレンの口調は真剣だった。
「気をつけるのよ」
「ありがとうございます」
扉を開く。何気なく振り返ったジュストの瞳が、大きく開かれた。あ、という形に口を開けたまま、言葉を発しない。
「――すみません」
自らの服を見下ろし、アベルは苦笑する。
「それでも、ほんの少しでも殿下の気を紛らわすことができれば、それでいいと思っています」
「…………」
「もし殿下の機嫌を損ねてしまったとしても、そのときにはジュストさんが用意してくださったお酒が役に立つはずです」
なおも黙って突っ立っているジュストへアベルは怪訝な視線を向け、「行きましょうか」と声をかけた。
「あ、ああ」
ようやくジュストはまばたきする。歩きだしたアベルの後ろに、わずかに遅れて彼は続いた。
「アベル」
呼び止められる。
振り返ると、ジュストが再び足をとめ、困惑の眼差しをこちらへ向けていた。
「……その」
黙ってアベルはジュストを見返す。ジュストはバツの悪い顔になった。
「おまえ――は、えっと、つまり…………女……いや、そんなはず――、けれど……」
ぶつぶつ言うジュストに、アベルはおかしそうに笑って見せる。
「もちろん男ですよ」
ジュストは押し黙った。
「女みたいに貧弱な身体が、役に立ったみたいです」
「……手が震えている」
指摘されて、アベルは咄嗟に右手でもう片方の手を掴む。その動作を見つめながら、ジュストは表情を曇らせた。
「行かないほうがいい」
「なぜですか? どんなことをしてでも主君を守るのが、わたしたちの務めではありませんか」
「――男だというならなおさら危険だ。今のおまえは女性にしか見えない。殿下がその気になってから抵抗すれば殺されるぞ」
「そのまえに殿下は薬が効いてぐっすり眠っています。それよりも、絶対にこのことはリオネル様をはじめ、だれにも告げないでください。お願いします。騎士が女性の衣装を着るなんて、格好悪いですから」
笑ってみせたが、ジュストは真剣な面持ちで再び口をつぐむ。いつもは毒舌で嫌みたらしいジュストが、先程からどうも調子が異なる。少なからぬ違和感をアベルは覚えた。
「どうしたのですか?」
「いや……」
そう答えたきりジュストが動かないので、アベルのほうが再び歩きはじめる。重い足取りでジュストがあとからついてくる。無言の戸惑いが、足取りからは感じられた。
このようにして大広間に到着し、先程の緊迫した場面に遭遇したのだった。
+++
広間の中央に、一輪の花が咲いている。
まだ蕾のように瑞々しく、けれど凛として艶やかな花。
はじめは興味がなさそうにしていたレオンも、いつしか踊りに見入っている。
ジェルヴェーズは腕を組み、無表情にアベルを眺めていた。
曲はローブルグ人作曲家ディンケルが作曲した歌劇『クラウディア』の一節である。曲に合わせた舞はまるで蝶が戯れるようであり、水が流れるようであり、また光が弾けるようでもある。
「これは素晴らしいですね」
素直にレオンが感嘆の言葉をもらす。ジェルヴェーズは黙っていた。
曲が終わると、アベルは再び広間の中央で一礼した。
ジェルヴェーズがどのような反応をするか予測できない。気に入らなければ、すぐに退室を命じるはずだ。逆に満足したなら、もう一曲踊るよう命じるかもしれない。
ジェルヴェーズが立ちあがった。なにか言うかと思いきや、そのまま降りてくる。踊り子のほうへ来るつもりのようだ。レオンの眼差しが、ジェルヴェーズの背中を追う。
こちらへジェルヴェーズが近づくにつれて、アベルは鼓動が早まり、身体から血の気が引いていくのが自分でもよくわかった。
緊張している。
もしかしたらジェルヴェーズは、アベルが煙突掃除の少年であることに気づいたのかもしれない。
――いや、まさか。
これだけ姿が違うのだ。そんなはずないと言い聞かせる。
軽く腰を折るアベルのまえでジェルヴェーズが立ち止まると、十歩ほど離れたところにいるジュストが、わずかに身構えたのがわかった。
ジェルヴェーズの手が、アベルの顎に触れる。
そして顔を持ち上げられる。
上向かされれば、間近に砂色の冷たい双眸があった。
ジェルヴェーズは無言でアベルの顔を見つめ、それから口を開いた。
「名は」
「殿下の御耳に入れるほどの名ではありません」
ジェルヴェーズがようやく聞きとれる程度の小声で、アベルは答える。ジェルヴェーズが眉をひそめた。
「名前を聞いているのだ」
「……レナーテ」
答えるとジェルヴェーズが声を立てずに笑う。
「悪魔に身を売る女、か」
レナーテとは、歌劇『クラウディア』の登場人物のひとりで、クラウディアを愛する騎士アドルフに片恋し、彼の心を得るために悪魔に魂と身体を引き渡す娘である。
アドルフの愛を勝ち取ったはずのレナーテは、そのときはじめて手に入れたものの虚しさと哀しさを知り、自ら破滅の道を選ぶ。
「そなたがレナーテなら、私は悪魔か。おもしろい――それもいいだろう」
ジェルヴェーズはさらにアベルの顎を上向かせる。その距離の近さに、ジュストがこちらへ来ようとしているのが見えた。
けれど次の瞬間、アベルは解放される。安堵する間もなくジェルヴェーズが平坦な声を放った。
「踊れ」
「…………」
「もう一度、満足いく余興を見せろ」
緊張のためにわずかにふらつく足を、どうにか踏みとどまらせてアベルは軽く頭を下げた。
「……かしこまりました」
カツカツと硬い足音を響かせてジェルヴェーズが席へ戻っていく。同情の眼差しでレオンがこちらを見ていた。けれどアベルには、正体を気づかれないか心配するほどの心の余裕もない。
「兄上、幼い娘を遅い時間まで引き留め、何度も躍らせるのはどうかと思われます」
ちらと弟を見やっただけで、ジェルヴェーズはなにも言わない。
レオンはぎょっとした顔になった。兄の機嫌がいいと知ったからだ。
躊躇いがちに演奏が始まる。
「――大丈夫か」
そばに寄ったジュストに声をかけられて、アベルは小さくうなずいた。いつもと様子の違うジュストが、なんだかおかしい。
「無理をするな」
「大丈夫です」
そしてアベルは再び舞いはじめた。