7
扉を叩く音がある。いささか性急な響きがあった。
アベルとエレンは顔を見合わせる。それから立ちあがろうとするエレンを引きとめ、アベルが扉を開けにいった。
警戒しつつ、わずかに開いた扉の隙間から、アベルは意外な顔を見た。
「ジュストさん」
「ここにいると思った。いったいなにをしているんだ、こんな大変なときに」
ジュストの声には隠せぬ苛立ちが滲む。
だが、イシャスは眠っている。用件がなんであれ、今ここでジュストに騒ぎたててほしくない。
しっ、とアベルは口に人差し指を添えた。
「イシャスが寝ています」
「わかった、静かに話そう」
扉を閉めさせまいとするように、ジュストは隙間に身体を滑り込ませた。
「晩餐会に出席するはずじゃなかったのか、いざとなれば一人でも味方がほしい状況だ」
「……するつもりでした」
声の調子を落としてアベルが答えると、会話を聞いていたエレンがすかさず口を挟む。
「まだ髪が染まっていないからです。一度淡い赤毛になってしまったら、なかなか色がつかなくなってしまって」
ちらとエレンを見やってから、ジュストは怪訝な面持ちでアベルへ視線を戻す。
「なんのために髪を染めているんだ」
「リオネル様に命じられたからです」
「嘘だろう? なぜ髪を染める必要がある?」
「嘘では――」
「そんなことはどうでもいいから、早く来い。リオネル様やフェリシエ様が大変な目に遭われている」
え、とアベルは瞳を見開く。エレンも、はっとして腰を浮かした。
「なにがあったのですか」
声を硬くしてアベルは尋ねる。ジュストは晩餐会の様子を苦々しげに語った。
「このままだとジェルヴェーズ殿下を抑えられない。踊り子や遊び女を呼べと仰られ、代わりに酌をさせられているフェリシエ様は、ひどく怯えておられる。リオネル様も退席させられ、殿下を止められる者がいない」
「…………」
「リオネル様がいないあいだだけでも、我々がディルク様やフェリシエ様をお守りしなければならないんじゃないか?」
悔しいがそのとおりだ。アベルは黙ってうなずく。
「本当にどんくさいな」
むっとした表情になったのはアベルではなくエレンだが、相手はオードラン家の子弟である。ジュストを睨んだものの、エレンが言葉を発することはなかった。
「早く来い」
急かされたが、アベルは「ちょっと待ってください」とジュストを呼び止める。
困惑の表情が返ってきた。
「この期に及んで、まだ行かないつもりなのか」
「わたしたちがこのまま行っても殿下を止めることはできません」
「命を張ってでも、おれたちは主人を守るべきだ」
「ええ、ですから待っていてほしいんです。少しだけ時間をください、部屋の外にいてくれませんか」
「いったいなんのために」
苦い表情で、アベルはジュストを見返す。それから、
「おいしいお酒を用意してください」
と言った。
「酒ならもう散々出している」
「いいんです。同じくらい上等なものを持ってきてください」
しばらくアベルを見据えていたが、ジュストは大きく息を吐き出し、「わかった」と了承する。
「なにか考えがあるんだな」
「はい」
「今回ばかりは失敗したら、〝ごめんなさい〟では済まされないんだぞ」
「もちろんです」
訝るようにアベルを一瞥してから、ジュストは部屋を去っていく。
「どうするつもり?」
ジュストがいなくなるとすぐに、エレンが不安そうに尋ねる。
「ちょうど、綺麗な赤毛に染まっています」
「だから?」
「地味な衣装の代わりに、とびきり綺麗なドレスを持ってきてくれませんか」
「ドレス?」
エレンは眉をひそめた。
「なるべく薄い生地がいいです」
「あなた、なにをする気?」
「たいしたことではないです」
「たいしたことじゃないって……」
怪訝な表情になったエレンだが、はっとなにかに思い至ったらしく、アベルの肩を両手で掴む。
「――殿下のまえへ出るつもり?」
「そんな大袈裟なことではありません」
「危険よ、やめなさい。あなたって人は――」
「大丈夫です、踊り子を演じるだけです」
「だめよ、ぜったいにだめ。そんなことさせられないわ。もしリオネル様が知ったら……」
エレンは片手で頭を押さえる。
「リオネル様やベルリオーズ家の方々をお守りするためです」
「あなたはどうなるの」
「だから、おいしいお酒を用意するんですよ」
「…………」
言葉もないといったふうに、エレンはアベルを見つめた。
+++
リオネルが退出したあとの会場は、さらに手のつけられぬ有様になっていた。
歯止めを失ったジェルヴェーズが、酌をするフェリシエの腰に腕をまわし、強引に口説いている。酔っているのだろう。あるいは酔ったふりをして、好き勝手に振る舞っているのかもしれない。
「リオネル殿はそなたを友人と言っていたぞ」
フェリシエは無言でうつむいていた。
「兄上、それは言葉のあやですよ。本人も恥ずかしいのでしょう。他人の婚約者候補に気安く触れるものではありません」
「黙れ、裏切り者」
「私はなにも裏切ってなど……」
レオンの言い訳を流して、ジェルヴェーズはフェリシエへ視線を向ける。
「あのように薄情な男ではなく、私のものにならないか。将来の王妃にしてやるぞ」
かすかにフェリシエの表情が動く。けれど、小さな声でフェリシエは次のように答えた。
「わたくしはエルヴィユ家の者です……」
エルヴィユ家、すなわち生粋の王弟派だと。
「よく言った」
フェリシエの顎を掴み上げて、ジェルヴェーズは自らの唇を寄せる。フェリシエが抵抗する。けれど、抗う手をジェルヴェーズは容易く封じた。
「王弟派の分際で、随分と生意気だな」
唇が触れあうまえに、両者の顔のあいだになにかが入りこむ。ジェルヴェーズの唇は、女性の甘い唇ではなく、なにか弾力のあるもの触れた。
無言で顔を上げたジェルヴェーズはディルクを睨み上げる。
二人の顔のあいだに差しこまれていたのは、フォークに刺された肉だった。つまり、ジェルヴェーズは肉に接吻したことになる。
フォークを持っていたのはディルクだ。
「貴様、なにをしたかわかっているのか」
「フェリシエ殿の唇に塵がついていたのです。殿下のお口を汚すわけにはいかないので」
そう言ってディルクは小さな糸屑をつまんで見せる。
ジェルヴェーズは無言になった。
肉にソースがかかっていたら余計に腹が立ったかもしれないが、肉にはなにもかかっていなかったので、ジェルヴェーズの唇が汚れることはなかった。
無言のままジェルヴェーズは、再びフェリシエの顔を引き寄せる。
肉の効き目もこれほど持続しないとなれば、いくら阻止しても埒が明かない。ジェルヴェーズは自らを抑えようともしていない。強引でいて、我慢が効かない。
すでに会場は先程から静まり返っており、戸惑いと怒りの空気に満ちていた。
フェリシエに被さろうとするジェルヴェーズに、ディルクは「殿下!」と呼びかける。
またか、とジェルヴェーズの不機嫌な瞳がディルクへ向けられた。
「つまらぬ小細工はやめろ、ディルク・アベラール」
「フェリシエ殿は、かつて太っていたのです。それでもいいのですか?」
さっとフェリシエが顔を赤らめる。その表情からディルクの言葉が真実であるということは察せられる。ジェルヴェーズは、低く笑った。
「一度抱けば、リオネルに返してやる」
「……やめてください!」
先程よりも激しくフェリシエが抵抗した。腰にまわるジェルヴェーズの腕から逃れようともがく。その手がジェルヴェーズの頬をかすめる。避けなければ、手はジェルヴェーズの頬を打っていたことだろう。
束の間動きを止めたジェルヴェーズの瞳に、激しい怒りの色が灯った。
大きく右手を振り上げる。その腕を、レオンが咄嗟に背後から捕らえた。
「兄上、このようなところで暴力はおやめください」
「おまえは、出しゃばるな!」
腕を掴まれているので、ジェルヴェーズは右脚を上げてレオンの腹を蹴りつける。身体が離れたところで、振り上げた拳をそのままレオンの顔に叩きつけた。
レオンが倒れる。起きあがろうとして口を拭ったレオンの手に、鮮やかな血が付着する。
間髪を入れずレオンに殴りかかろうとするジェルヴェーズのまえに、ディルクが飛び出た。
「ここは殿下の叔父上であり、現国王の弟君であるベルリオーズ公爵様の館です! お怒りを鎮めてください」
けれどなおもジェルヴェーズは、立ちあがってもいないレオンの襟を掴み上げる。拳を振り上げるジェルヴェーズの腕を、ディルクは右手で捕らえた。こうするしかなかった。
振り返ったジェルヴェーズの瞳は、残忍な色に光っている。
ゆっくりと彼の手が腰の長剣に伸びる。
次々とベルリオーズ家の騎士らが腰を浮かせた。そのなかには、アベラール家の騎士、バルナベの姿もある。ディルクを斬るというなら、彼らは王子にさえ剣を向けるかもしれない。
この会場にいる者のうちのたったのひとりでもジェルヴェーズに刃を向ければ、もはやどう足搔いても取り返しのつかぬ事態に陥る。
控えていたマチアスが、ジェルヴェーズの傍らにひざまずいた。
「殿下、主人ディルク・アベラールの無礼は、従者である私が贖います。どうか私をお斬りください」
「マチアス!」
ディルクが声を上げる。
「おまえは下がれ、マチアス」
主人の声を無視してマチアスは続けた。
「――殿下、どうか私の命をもって主人の罪をお赦しください」
色を失うディルクを見やって、ジェルヴェーズは頬を歪める。
「では、望みどおりそなたを斬ってやる」
ジェルヴェーズの長剣が引き抜かれる。
と、会場からカチリと音が響いた。騎士のひとりが剣を抜こうとしている。ディルクの手も、すでに剣の柄にかけられていた。
ディルクが剣を引き抜けばどうなるか。
第一王子付きの近衛兵らが一挙に剣を鞘走らせた。
危うく保たれていた均衡が、まさに崩れ去ろうとした――そのとき。
「お待ちください!」
少年らしさを残す声が、緊張感のぴんと張り詰めた会場に響きわたる。その声があと一瞬でも遅ければ、会場は血に染まり、ここにいた者だけではなく、シャルムという大国の運命は大きく変わっていただろう。
すべての視線が扉口へ集まる。
息を切らして立っていたのはジュストだった。息が切れていたのは、緊張からか、それとも声のかぎりに叫んだからか。
「踊り子を呼んでまいりました」
水を打ったような静寂が、空間を支配する。
――踊り子。
これまでの緊張状態から、だれもこの状況を即座に理解することができない。
ただし、ディルクだけは他の者とは反応が違った。さっとフェリシエの腕を掴むと、「行くぞ」と引っぱる。
「殿下、申しわけございません。フェリシエ殿の具合が悪いようなので、医者に診せます。もしかしたら恐ろしい流行病かもしれません。殿下に移ってしまっては一大事ですから」
止める間もなくディルクは、足元のおぼつかないフェリシエを引きずるようにして退出する。人を食ったディルクの態度だが、それには相手を呆れさせ、ものを言う気をなくさせる威力があるようだった。
ジェルヴェーズは口を開いたものの言葉は発しない。
「レオン殿下、ご一緒に」
マチアスがレオンを促す。けれどレオンは首を横に振った。
「おれはいい」
「殿下はお怪我されています」
「たいしたことない。――だれかがここに残らなければ」
「では私が残ります」
「いいからマチアス、おまえも行ってくれ。ここで命の保証があるのはおれだけなのだ。おまえはディルクのそばへ行け」
わずかに眉を寄せてから、マチアスはレオンに一礼して主人らのあとを追う。
フェリシエ、ディルク、そしてマチアスが退室したので、会場にはかすかに安堵の空気が漂った。ジュストのひと言で、彼らは危機をまぬがれたのだ。
上段からジェルヴェーズは会場を見下ろしている。多量の酒のせいで酔っているはずだが、顔色は普段とほとんど変わらず、目には正気の気配がある。
すでに彼の関心は、ディルクやフェリシエにはないようだった。
「そなたが申したことは本当だな」
ジュストに向けてジェルヴェーズは平らな声を放った。
「はい」
「領内で最も美しい娘か」
「……私が見たかぎりでは、そのように思われます」
「その言葉を違えたなら、そなたも、その娘も殺すぞ」
「もとより私は覚悟のうえです。けれど娘のほうは、どうか命は――」
「その娘、踊ったあとは――わかっているのだろうな」
わずかに言葉に詰まってから、ジュストは「はい」と声を低めて答える。ジェルヴェーズの瞳は、冷やかさを増した。