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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第六部 ~一夜の踊り子は誰がために~
324/513







 洗い終えたアベルの髪を見て、エレンは難しい顔つきになる。


「染まりが悪いわね」


 それもそのはずだ。まだ染めてからあまり時間が経っていない。

 ジェルヴェーズに呼び出されて、イシャスを連れて出て行き、そして戻ってきたときにはエレンはひとりでは立てぬような状態だった。


「緊張しすぎて……」


 とエレンは言ったきり、アベルに支えられて寝台まで歩み、そのあとしばらく寝込んでいた。アベルを〝目立たなくする〟作業は遅れに遅れた。急いで染めた髪が、染まりきっているはずがない。


「染め直さなきゃ」

「必要ですか?」

「ええ、これじゃ目立つわ。明るい金色が少し橙がかっただけだもの。綺麗な赤毛だけど、充分に目を引くから」

「晩餐会はもうじき始まります」

「それはわかってるけど」


 断固とした口調でエレンは言った。


「でも、目立たなくなるまで、部屋を出てはいけないと言われたのでしょう? リオネル様の言いつけを守らなきゃ。さあ、もう一度染めるわよ」

「…………」


 寝込んでいたエレンのせいで用意が遅れた。けれど彼女を責めることはできない。ジェルヴェーズのまえに出ただけでも緊張しただろうに、イシャスを守ろうと気を張っていたのだ。


「二回目だからすぐに染まるわ」


 エレンは染料の準備を始める。


「ああ、地味な服も用意するのだったわね。染めているあいだに、衣装庫へ行ってくるから」

「すみません、いろいろと」

「いいのよ、わたしだってリオネル様のことが心配だわ。わたしたちのかわりにリオネル様を守ってくれているあなたに感謝しているし、頼りにしているけど、だからこそ気をつけてほしいのよ」


 はしゃいで遊びまわっていたイシャスは、いつのまにかエレンの寝台でうとうとしはじめていた。









 繊細な彫りの施された扉が、音を立てずに開く。

 部屋は時が止まったかのように静かだ。――階下の物音はまったく響いてこない。


 そっと入室したのはダミアンだ。

 寝台に向けて一礼する。それから、部屋で控えていたラザールと目が合うと軽くうなずき、そのすぐ隣に立った。


 寝台で横になっているのはクレティアンである。起きているのかどうかは、わからない。

 夕方から咳が出はじめ、医師の診察を受けたところ、肺の病気であるかもしれないということだった。熱もある。このところ具合が悪かったのは、身体が病気と戦っていたせいかもしれないと医師は語った。


「身体に病魔が侵入しても、丈夫な身体では症状が出にくいものです。ですが体力が弱ったときや、疲労したときに発症します」


 医師はクレティアンに薬を処方し、とにかく寝台で安静にしているよう指示した。

 室内があまりにも静かなので、階下で晩餐会が催されているなど想像できない。ラザールが姿勢を崩さずにダミアンに確認した。


「もう宴ははじまっているのか?」

「ええ、そのようです」


 両者とも、互いに聞きとりうるぎりぎりの小声である。


「どんな感じだ?」

「使用人らは緊張しきった様子でしたよ」

「それは、そうだろうなあ。かわいそうに」


 第一王子に対して粗相があれば、首を刎ねられても使用人の立場では文句も言えない。


「なにかあれば皆で守るでしょう」

「あたりまえだ。……王子やリオネル様のご様子はどうだ」

「私も部屋の外から見ただけですが、ジェルヴェーズ殿下はかなりお酒を召されているようでした。機嫌はよくわかりませんが、気分屋という噂ですので……」

「気性が激しいらしいな」

「リオネル様やディルク様は普段と変わらず落ち着いておられます」

「そうか」


 なにもなければいいのだが、とラザールはつぶやく。


「心配なら、ラザール殿も階下へ降りられてはどうですか?」

「いや、おれたちの仕事は公爵様をお守りすることだ。おれはここから一歩も離れない」

「そうですね」


 クレティアンの部屋のまえにはクロードがいる。ジェルヴェーズの気難しさは、皆が伝え聞いているところだ。リオネルが来るまでになにかあったときには、この三人でクレティアンを守らねばならなかった。






+++






 華やかなシャンデリアが光を反射させている。リュートやフィドルによって軽やかな楽曲が奏でられる広間では、晩餐会が催されていた。


 上段の食卓にはジェルヴェーズを含め高貴な面々が座している。

 ジェルヴェーズの右隣りにはレオン、左隣はリオネル、それから、ディルクとフェリシエ。広間の両脇に並んだ長机では、同席の許された高位の騎士と、彼らのうち既婚者はその妻が食事を囲んでいる。


 ジェルヴェーズは馳走に手をつけず、代わりに最高級の葡萄酒を水のごとく飲んでいた。


「料理を下げろ、邪魔だ」


 はじめは豊富な酒の種類と量に満足し、機嫌よく飲んでいたように見えたジェルヴェーズだが、時間が経つにつれてそれにも徐々に変化の兆しが現れはじめていた。

 楽団が曲を奏でており、それにあわせて出席者の踊る姿もある。が、ジェルヴェーズの満足いく余興ではなかった。


「演奏をやめろ。他に愉快なものはないのか」


 派手な風習はもともとベルリオーズ家になく、突然催された晩餐会に、名のある歌姫や踊り子、あるいは周辺の貴族が出席できるはずもない。


「退屈ですか」


 静かにリオネルが尋ねた。


「ああ、退屈だ」


 無造作に言い捨ててジェルヴェーズは杯をあおる。これではジルを解放するよう話を切り出すわけにもいかない。下手をすれば、よけいに話がこじれるだろう。


「王宮の宴はどのような雰囲気ですか?」

「ここよりはましだ」

「普段はどのように退屈をしのがれているのでしょう」

「どうすれば私を退屈させないか、そなたが考えろ」


 酒に酔ったジェルヴェーズの口調には苛立ちが滲んでいる。悪い予感をだれもが抱かずにはおれない。

 このまま酔いが進めば、どうなるか。


「兄上、酒はそれくらいにしておいてはいかがですか」


 レオンが諌めるが、ジェルヴェーズは「黙れ」と一蹴する。尊大なジェルヴェーズの態度をまえにしても、表情ひとつ変えずにリオネルは提案した。


「曲を変えましょうか」

「曲を変えても同じことだ」

「道化師はいかがですか」

「道化には飽きた」

「では、宴を早めに切り上げましょう。床の準備をさせておきます」


 ディルクやレオンが、リオネルをちらと見やる。リオネルが晩餐会を早めに終わらせる方向へ会話を導いたことに気づいたからだ。

 ジェルヴェーズは皮肉めいた笑みを浮かべる。


「そうではない」


 どういう意味か、とリオネルはかすかに首を傾げた。


「女を呼べ。今夜は踊り子がいい。ベルリオーズじゅうで最も美しく、踊りの上手い女だ。私が満足すれば、彼女を抱くための床の準備をさせてやる」

「…………」


 閉口したリオネルに、ジェルヴェーズが真顔で尋ねる。


「リオネル殿、そなたは女を抱いたことがあるか」


 フェリシエの視線が、リオネルへ向けられる。


「ありません」

「女はいいぞ、抱いているあいだだけは、すべてを忘れられる」


 再びリオネルが沈黙しなければならなかったのは、経験者であるらしいジェルヴェーズの言葉に賛同できなかったからだ。


 リオネルとて男であるから、欲望がないといえば嘘になる。けれど、「すべてを忘れるため」に抱きたいとは思わない。

 リオネルが想いを寄せる相手は、この世で唯一無二の最愛の人であり、腕に抱きたいと願うのはひとえに愛おしさからだ。相手の幸福あってこそ得られる充足感であることは、経験がなくともわかる。ジェルヴェーズのように自分自身のためだけに相手を利用するなど、リオネルには考えられない。


「それに早く子供を残しておいたほうが、正統な王家の血筋を絶やさずにすむのではないか?」


 だれも触れてこなかった――触れてはならないはずの話題を持ち出したのは、他でもないジェルヴェーズ自身だった。食卓の空気が凍りつく。


「そなた、涼しげな顔をして、内心では自分こそが正しい身分だと考えているのだろう」

「考えてはおりません」


 やはり穏やかにリオネルは答えた。


「父親を裏切った国王を蔑み、後継者である私を憎んでいるのだろう?」

「そのようなこと」

「いや、それだけではない。国王亡きあとは、王弟派連中を集めて王都へ攻め上り、私を廃して自らが玉座に就くつもりだな」

「兄上、酔ったのではありませんか? 会はお開きにしましょう」

「黙れ、レオン――我が一族の裏切り者め。そなたは喋るな」


 裏切り者と誹られたレオンは、複雑な面持ちになった。リオネルがレオンをかばう。


「レオン殿下は国王陛下とこのシャルムのため、先の山賊討伐や、今回のローブルグとの交渉などにあたってくださいました。シャルムや陛下に対する気持ちは、レオン殿下も私も同じです」

「うまくまとめたものだな」


 不機嫌にジェルヴェーズは杯をあおる。酌取りが酒を注ぎ足そうとすると、ジェルヴェーズは手で杯に蓋をする。


「酌はフェリシエ殿にやってもらいたい」


 それまでひと言も発していなかったフェリシエが、さっと顔色を変えた。


「フェリシエ殿は、エルヴィユ家のご令嬢です」


 ――貴族の息女に酌をさせてはならないと、暗にリオネルが諌める。

 するとジェルヴェーズは、


「そのようなことは、知っている」


 と口端を歪めた。


「ただ酒を注ぐようにと言っているのだ。このようなむさ苦しい男に注がれていては、せっかくの酒もまずくなる」


 熟練の酌取りは、無言で引き下がる。丁寧に整えられた髪や身なりで、長年ベルリオーズ家で働いている洗練された物腰の男だった。


「遊び女も踊り子もいないなら、せめてフェリシエ殿に酌をしてもらおう」

「彼女は酌婦ではありません」

「酌婦ではないだと? だが、そなたの恋人でもないのだろう。ならば、いらぬ口出しをするな」

「大切な友人です」

「何度も言わせるな。酒を注がせろ。できないなら、私を満足させるだけの器量を備えた娘を、今すぐここへ連れてこさせろ」


 黙りこんだリオネルの耳に、そばに控えていたベルトランが近づき、なにかささやく。リオネルは考えこむ顔になった。


「……考えている余裕はないぞ、リオネル」


 ベルトランに急かされ、リオネルは眉をひそめる。

 シャサーヌにある売春宿から、何人かを呼び寄せるべきだ、とベルトランは提案したのだ。けれど、ジェルヴェーズはひどい酔い方をしている。たとえ商売女であっても、荒れ狂う獣のまえでは恐怖を抱くだろう。彼女らを、むざむざ獣の生贄にするのと同じことだ。

 リオネルはベルトランの提案を、すぐに了承することができなかった。


「フェリシエ殿、早くこちらへ」


 直接声をかけられて、フェリシエはおそるおそる立ちあがり、ジェルヴェーズのもとへ歩む。


「そうだ、素直に従えばいい」


 ジェルヴェーズは酌取りから葡萄酒を奪い、フェリシエに持たせる。

 フェリシエは震える手で、ジェルヴェーズの杯に酒を注ぎ入れた。


「殿下、戯れが過ぎます」


 リオネルが立ちあがる。


「座れ」

「フェリシエ殿、席に戻ってください」

「そなたが座るのだ、リオネル殿」

「彼女が席に戻るのが先です」


 そう言ってリオネルはジェルヴェーズの脇に立つフェリシエのもとへ歩み寄る。フェリシエの腕をとって、席へ促そうとした――そのとき。


 リオネルが顔を背ける。


 焦げ茶色のつややかな髪、端正な顔立ち、そして美しい衣装を、赤紫色の液体が濡らしていた。髪から、顔から、服から、雫が滴っている。

 フェリシエが両手で口を覆う。会場内は鎮まり返っていた。


「ああ、いい眺めだ」


 葡萄酒を浴びせられたリオネルを見やって、ジェルヴェーズは悠然と笑む。


「水も滴る――だな。男前が上がったではないか」

「…………」

「私に刃向かうな。これ以上つまらぬことを言うなら、葡萄酒ではなく、そなたの血がこの床に散るぞ」


 なにかリオネルが言うより先に、ディルクが立ち上がり、リオネルの肩を引く。


「リオネル、服を変えてくるんだ」


 小声で告げる。リオネルは眉を寄せた。


「そういうわけにはいかない」

「あれこれ言っている場合か、ひどい状態だ」

「……ここを、このままにしては行けない」

「大丈夫だ、フェリシエのことはおれとレオンで守るし、殿下の機嫌を損ねないようにする。必ずだ。いざとなったらマチアスだっている。彼なら、なにかいい案を考えてくれるだろう」


 本気なのか冗談なのか、最後はマチアスに丸投げするというディルクの発言に、リオネルは困惑の表情になった。


「ともかく、おまえは着替えてこい。これじゃあベルリオーズ家の騎士たちがいつ剣を抜くかわからない」


 黙ってリオネルは視線をジェルヴェーズとフェリシエのほうへ向ける。それから、ぴりぴりと肌を刺すごとく緊迫した空気を、騎士たちのいる会場のほうから背中に感じ取った。

 この姿のままリオネルが留まれば、緊張状態は深まるばかりだ。


 ベルトランがリオネルの腕を引く。

 ゆるやかに息を吸い込みながら、リオネルはディルクにうなずいた。


「すぐに戻るから」


 ディルクがリオネルの動かぬ左腕を軽く叩いた。「心配するな」という意味だったのかもしれない。あるいは、「しばらく休んでこい」という意味だったのか。

 どちらにせよ、一礼して退室するリオネルの背中には、拭いきれぬ懸念が張り付いている。


 リオネルとベルトランが部屋を出た直後、部屋の隅に控えていたジュストが素早く会場を後にした。










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