5
「イシャスを?」
目を丸めたのは、アベルとエレンの双方だった。
「なぜジェルヴェーズ殿下が、イシャスを?」
「わからないわ」
アベルの問いに答えるフェリシエは困惑する様子ながらも、わずかに冷ややかさを感じさせる。けれどその些細な感情を読み取れるほど二人とも冷静ではない。
ジェルヴェーズがイシャスを呼びだす理由について心当たりがあるアベルはなおさらに。
「イシャスをジェルヴェーズ殿下のまえに出すのは不安です」
「けれど、これは殿下のご命令です」
「リオネル様はこのことを?」
フェリシエは困惑の色を深める。
「ええ、わたくしはリオネル様からイシャスを連れて来るようにと頼まれています。リオネル様はなにも心配いらないとおっしゃっていました。早くイシャスを連れていかなければ、リオネル様は殿下に殺されてしまいます」
殺されるという言葉に、アベルは息を呑む。ジェルヴェーズがどれほど本気でイシャスと名乗った自分を探しているのかがわかる。けれどいったいなぜ。
煙突掃除の少年が死んでいないと知ったからなのか。……本当に、それだけなのか。
「大丈夫よ、アベル。リオネル様はなにも心配いらないとおっしゃっていたのだから」
唇を噛むアベルに、エレンはイシャスの手をしっかりと握りしめながら、深くうなずいた。
「心配いらないわ、リオネル様がいらっしゃるのだから。それに、わたしの同行が許されているのだもの。イシャスのことはわたしたちに任せて」
エレンのいうとおり、リオネルがいるならイシャスの身に危険が及ぶとは考えにくい。
今は彼を信じるしかない。
かくしてイシャスはジェルヴェーズのまえに引き出されたわけだが、部屋に連れてこられた幼子を見下ろし、ジェルヴェーズは微妙な面持ちになった。
「これがイシャスか」
はい、と震える声で答えたのはエレンだ。
慣れぬ場所へ連れてこられて、イシャスはきょろきょろと周囲を見回している。リオネルの姿を認めると、嬉しそうに「リオネルサマ!」と叫んだ。
「あそんで」
空気を読まぬイシャスの発言にリオネルは微笑し、
「あとでね」
と答える。
ジェルヴェーズの顔には深い落胆の色が浮かんでいた。幼い子供のもとへ近づき、高い位置から見下ろす。
「そなたの名は?」
大きな青灰色の瞳がジェルヴェーズを見上げ、そして屈託なく笑った。
「イシャス!」
「…………」
口端を歪めて、ジェルヴェーズは自嘲的な笑みを浮かべる。三歳にもならぬ子供が、かくも迷いなく偽りを述べるはずがなかった。
「いっしょにあそんでくれるの?」
ジェルヴェーズは頬を引きつらせる。子供から遊んでほしいと言われるのは生まれて初めての経験だ。
「あそんでくれないの?」
「――そなたの母親はどこだ」
すぐにイシャスはエレンを指差した。
ジェルヴェーズはエレンへ視線を移して尋ねる。
「そなたが母親か。他に子供は?」
「いません」
エレンの口から出たのは、かすれて震える小さな声だった。
「本当だな」
こくりとエレンはうなずく。ジェルヴェーズは興味を失ったように、手ぶりだけで出ていくようにと指示した。けれど。
遊んでくれないのかな、とイシャスがエレンに問いながら退出する途中、
「待て」
とジェルヴェーズは二人を呼び止めた。
皆が息を呑む。
「もう一度、顔を見せろ」
再び王子のまえに引き出されたイシャスは、不思議そうにジェルヴェーズを見つめている。青みがかった灰色の瞳は、まっすぐにジェルヴェーズだけを映している。
「やっぱり、あそぶの?」
「どこかで見たことがある」
重い沈黙が流れた。
緊張の糸が張りつめる。
「その瞳の色」
静寂を破って、突然ジェルヴェーズは場違いな笑声を発した。
これには皆、驚かずにおれない。
「兄上、どうされたのです?」
不気味なものをまえにしたかのように、レオンはジェルヴェーズから一歩あとずさりする。
「気が触れられましたか?」
「……わかった。わかったぞ。そうか、これはおもしろい」
あからさまにリオネルは眉をひそめた。
「母親には似ていないということは、父親に似たのか? 父親はどこにいる」
「――この子の父親はすでに死んでいます。ですから母親が働きながら育てることができるよう、ここに住まわせています」
怯えきっているエレンに代わり答えたのはリオネルだった。
「なるほど……父親に会ってみたかったものだ。なかなかの男前だっただろう」
リオネルが紫色の瞳を細める。
「もういい、下がらせろ」
命じられて、エレンはイシャスを連れて今度こそ部屋を出た。
ジェルヴェーズは納得したのだろうか。イシャスが解放されたことで、張りつめた空気がわずかにゆるむ。
レオンの顔にも、リオネルの瞳にも安堵の色が差していた。けれど、それも一瞬のこと。すぐにジェルヴェーズは立ちすくんでいるフェリシエの腕をとった。
「煙突掃除の少年のことは、いったん置いておこう。いずれこの館の扉という扉を開けて探し出してやる。――今夜は宴を催すぞ。そなたも参加せよ」
去り際にリオネルを一瞥し、ジェルヴェーズは部屋を出ていったのだった。
+++
晩餐会が始まるまでのあいだ、リオネル、ベルトラン、ディルク、マチアス、そしてレオンは一室に集まっていた。
「まさかこんなことになるとはね」
ディルクがつぶやく。ローブルグから戻ったら、ジェルヴェーズがベルリオーズ邸に滞在しているなど、予想もしていなかったことだ。
酒も飲まずに話し合う若者らの表情は、一様に晴れない。
「わざわざアベルを探しだすためにここへ来たのかな」
ディルクの疑問にリオネルが軽く首を傾げる。
「さあ、わからない」
――わかりたくもない、といったところだ。
「レオンは、なにかわかるか?」
ジェルヴェーズの実弟レオンに尋ねると、苦い表情が返ってきた。
「どうせろくなことではないことはたしかだ」
「それくらい、おれにだってわかるさ」
「……兄上のそばにフィデールがいないのは珍しい。いざとなったら制御がきかないのが怖い」
「むしろあの男がいないほうが、まだ救いようがある気がおれはするんだけど」
「それも一理あるが……けれど最終的に兄上を抑えられるのは、おそらくいまのところ父上や母上以外にはフィデールしかいないのではないだろうか」
ふうん、とディルクが浅くうなずく。
「とすればさ、殿下はフェリシエにご執心のようだったけど、いいのか、リオネル?」
抑えがきかないとなれば、ジェルヴェーズがフェリシエに手を出そうとしたなら、止められないということだ。
「とりあえず彼女のことは守るつもりだ」
「侍女のライラ殿だったっけ? かなり心配しているようだったぞ」
「今、婚約者候補殿はどこにいるのだ?」
レオンに問われてディルクは客室の方角を、軽く親指で差す。
「あれだよ、晩餐会に向けて化けているところだ」
「その言い方はどうかと思われますよ、ディルク様。女性からは反感を買います」
指摘するマチアスを一瞥してから、「でもさ」とディルクは続ける。
「執心しているふりをして、実のところリオネルから恋人を奪いたいだけなんじゃないか?」
従者の忠告は完全に無視したようだ。
「兄上なら充分にありうる」
レオンがうなずく。
疲れた表情でリオネルは頭に手をやった。
「まさか」
「……まあ、まさかとは思うが」
小声でレオンは訂正した。
いくらなんでも、ベルリオーズ家嫡男の婚約者候補を奪えば騒ぎになるだろう。いや、けれど少しばかり騒がれたところで気にする男でもない。レオンは頭を抱えた。
「とりあえず、気をつけたほうがいいかもね」
「気をつけるべきことはたくさんあります」
主人の台詞を受けてマチアスが発言する。
「フェリシエ様のこと、ジル殿のこと、公爵様のご容体、そして、アベル殿のことです。今名を挙げた方々については常に目を配っている必要があるでしょう。あとは、ベルリオーズ家の騎士や使用人に暴力を振るわないか懸念されます」
「煙突掃除の少年のことは、もう探すのを諦めたんだろう?」
その場にいなかったディルクには、ひととおり先程の出来事を説明してある。
リオネルとレオンは顔を見合わせた。
「いったんは諦めたはずだ。けれど、完全に探すことをやめたわけではないだろう」
リオネルの説明に、ディルクはうなずく。
「そうか、じゃあ気をつけてあげなきゃね。――役割を決めようよ」
提案するディルクに視線が集まる。
「公爵様をお守りするのは、リオネル、おまえが適任だろう。だからリオネルとベルトランは公爵様を最優先に行動して、フェリシエのことはまあ小さいころいじめた負い目もあるから、おれとマチアスで守るよ。あとレオンはとにかく兄の素行を見張っていてくれ」
「アベルは」
「今は部屋にいるけど、今後出てきたら、マチアス、おまえに任せる。これでどうかな?」
考え込む顔が多いなかで、ベルトランはまっ先に賛同する。次にレオンもそれが一番いいのだろうな、とつぶやいた。
「リオネルは?」
ディルクの問いに、リオネルは静かに応える。
「異存はないよ」
客観的に考えればディルクの提案は納得できるものだ。
そもそもリオネルは宴会に長く参加しないほうがよい。それは明らかだ。
ジェルヴェーズが最終的に望むことは、ベルリオーズ家の失墜と、リオネルの死である。
もしリオネルが宴会の席で常にそばにいたなら、ジェルヴェーズはいかなる所業に出るか、あるいは罠をしかけてくるかわからない。とすれば、リオネルは父クレティアンのそばで容体を見守り、ジェルヴェーズの来訪によってこれ以上負担をかけぬように気を配るべきなのだ。
「じゃあ、決まりだね。そういうことだから皆よろしく」
リオネルは浅く溜息をついた。
+++
「食事の用意は整っているそうです」
「会場は?」
「準備できています」
「そうか、ご苦労だった」
クロードの指示のもと、てきぱきと働くのは従騎士のジュストである。
「ほかの騎士たちはどうしてる?」
「皆、殺気立っています。不安がるどころか、リオネル様や公爵様に害を成すようであれば、命を投げ打ってでも剣を握る覚悟の者ばかりです」
「まずいな」
ジュストの説明に、クロードは考え込む面持ちになる。
「もしそのようなことが再び起これば、ベルリオーズ家はただではすまされない」
「はい」
ベルリオーズ領ラクロワを管理する騎士ジル・ビューレルの弟ナタンが、ジェルヴェーズに斬りかかり命を奪おうとしたのは、一カ月ほどまえの出来事である。
その件については、リオネルがローブルグとの交渉を成功させたことから、どうにか大事にはならずにすんでいる。けれどまたしても同じようなことが起きたなら、公爵やリオネルの立場、そしてベルリオーズ家はどうなるかわからない。
「ジュスト」
「はい」
「騎士たちにつまらぬ行動にでないよう諭しなさい」
「私から、ですか?」
従騎士であり、アベルの次に若いジュストに、高貴で矜持の高い騎士たちを説得できるだろうか。ジュストの不安を察してクロードは言った。
「むろん、私からの言葉として伝えるのだ。ナタン殿にもいっしょに説得にあってもらえるよう、頼んでおこう。年長者の彼の言葉なら皆聞き入れるだろう」
「かしこまりました」
「あとラザール殿とダミアンを呼んできなさい――彼らには公爵様の護衛を任せるから」
「承知しました。あと……」
言いづらそうにジュストは口を開く。
「なんだ?」
「アベルはどこにいるのでしょう?」
思わぬ事態に直面して、ジュストは大忙しである。このようなときに、同じ従騎士であるアベルはいったいどこへ行ってしまったのか。
「さあ、おれにもよくわからない。ただ、リオネル様はジェルヴェーズ殿下にアベルを会わせたくないようだ。もしかしたら王都でなにかあったのかもしれないな」
「…………」
「ジュストにばかり多くを任せてしまって、申しわけなく思っている」
「とんでもありません」
慌ててジュストは頭を下げる。
「よくこなしてくれて助かっている。頼りにしている」
「もったいないお言葉です」
ジュストは心からそう答えた。
「殿下は大変気性の荒い方だという。皆にもよく伝えてくれ、けっして殿下の機嫌を損ねないようにと。――今は忍ぶときだ。皆悔しいかもしれないが、こちらが先に牙を剥けば相手の思う壺だ。ジュスト、おまえもそのことを忘れないように」
クロードと別れるとジュストは指示どおりに行動した。今は非常事態である。騎士らは皆殺気だっているし、従姉妹のライラはフェリシエのことで頭がいっぱいだ。
あの気の強い従姉妹でも、ジェルヴェーズ王子にはおいそれと立ち向かえないだろう。むろん、立ち向かうことが賢い行動ではないということを、聡い彼女はよくわかっているはずだ。
ジュストは騎士館から本館へ続く道を歩みながら、考えを巡らせた。