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十月を間近にした夕暮れ時の空気はひんやりとし、乾燥している。
乾いた地面を、砂埃を舞わせて六騎が軽快に駆けていく。彼らの向かう先には、すでに大所領を収めるベルリオーズ家の館の尖塔が見えていた。
「ようやく戻ってきた気がするな」
目を細めて尖塔を見つめ、ベルトランがつぶやく。
旅の長さよりも、異国――それもシャルムにとってはかつて最大の敵国であった地へと赴いていた緊張感が、彼にそう思わせたのかもしれない。
「そろそろローブルグ料理が懐かしくなってきたんじゃないのか?」
冗談めかしてベルトランに尋ねたのは、珍しいことにディルクではなくリオネルだった。
館に戻れるという喜びが、リオネルの様子からも感じられる。
「あと三カ月後には恋しくなっているかもな」
さらりとベルトランが答えると、レオンは「おれは一生恋しくなどならない」と苦い表情だ。
「相手は恋しくてしかたがないだろうに、レオンも薄情な王子様だね」
茶化すのはむろんディルクだ。レオンは馬上で悪友を振り返り、忌々しげに言い放つ。
「ベルリオーズ邸に着いたら、おまえの舌を引き抜いてやる。そのほうが世のため人のためになるだろう」
「怖いなあ。次期アベラール家当主としては、舌を抜かれるのは困る。――マチアス、レオンに襲われたときは助けてくれ」
助けを求められた従者は、冷然とディルクを見返す。
「一度レオン殿下に、そうしていただいたらいかがです? 少しは心静かに過ごせるのでは」
「なに? それでもおまえはおれの従者か」
「心から貴方にお仕えしているからこそ、申しているのですよ」
二人の会話を聞いていたレオンが、笑いをかみ殺すどころか、いたく感心した様子でうなずいていた。
「すごいな、マチアスは。恐ろしいほど主人思いの従者だ」
「どこがだよ」
ディルクが顔を引きつらせる。
「わたしもマチアスさんを見習います」
アベルは冗談で言ったはずなのに、ディルクとリオネルが同時に顔色を変えた。
「悪いこと言わないから、やめておいたほうがいいよ」
とディルク。
「今のままでいいかな……」
つぶやいたのはリオネルだ。
口々にディルクとリオネルがいう傍らでマチアスが、
「どういう意味でしょう?」
と低く尋ねる。どちらかがなにか答えるより先に、一行は正面から駆けてくる一騎の姿に気づき、そちらへ注意を向けた。
馬の速度を落とすと、相手は慌てた様子で馬を寄せてくる。近くで見れば、よく知る顔だった。
「ダミアン」
不思議そうにリオネルは名を呼ぶ。
「無事のご帰還、心よりお喜び申し上げます」
ベルリオーズ家に仕える若手騎士ダミアンは、さっと馬から降りると地面に片膝をついた。
「どうした?」
わざわざ出迎えに来たわけでもないだろう、とリオネルが穏やかに尋ねると、ダミアンは頭を深く垂れる。
「公爵さまからのご伝言です」
「父上から?」
途端にリオネルの表情が曇る。その周囲で、皆が顔を見合わせた。
再び視線が集中するなか、ダミアンは告げた。
「ジェルヴェーズ殿下が二日前に到着され、館に滞在されております。つきましては、リオネル様におかれましてはご帰還を遅らせるようにとの、公爵さまからのご指示です」
驚くべき報告に、だれもがすぐには声を発することができない。
――ジェルヴェーズが、ベルリオーズ邸に滞在している。
なぜ、なんのために。
さっと顔色を変えたのは、実の弟であるレオンだ。兄が今度はなにを企んでいるのか、気が気ではない。
アベルはリオネルの横顔を見上げた。不安そうな顔をしていたのだろう、リオネルがちらとアベルを見返す。深い紫色の瞳は、大丈夫だ、と伝えているようだ。
「館はどうなっている?」
「は――」
リオネルから質問を受けて、ダミアンは言葉に詰まる。逡巡している様子だ。
けっして楽観できる状態ではないことは明らかだった。
「父上おひとりに任せるわけにはいかない」
馬首を巡らせ館に向かおうとするリオネルを、ダミアンが大声で呼び止める。
「フェリシエ様がいらしております!」
ダミアンの声に、リオネルは手綱を引いて振り返った。
フェリシエ・エルヴィユは、ベルリオーズ公爵クレティアンが選んだリオネルの婚約者候補である。別の女性に心を寄せているリオネルは、幾度もこの縁談を断ってきたが、クレティアンの理解は得られていない。
「フェリシエ様は館へ昨日ご到着されました。リオネル様が館に到着されたら、フェリシエ様はご領地へお戻りになれなくなるでしょう。どうかフェリシエ様にエルヴィユ邸へ向かっていただくためにも、ご帰還を遅らせ、フェリシエ様もジェルヴェーズ殿下も去られたのちに、館へお戻りください」
「フェリシエ殿は、なぜすぐに戻らない?」
「それは……」
言い淀むダミアンを、リオネルは馬上から静かに見下ろした。
ジェルヴェーズ王子の気性の荒さ、素行の悪さは、皆が噂に聞くところである。フェリシエはすぐに帰れるような状況にはいないのだ。
つまり、ベルリオーズ邸ではすでにジェルヴェーズの影響力が強く及んでいるということである。
「なおさら行かなければならない」
リオネルの決意をまえに、ダミアンは覚悟する面持ちになる。
「ならば、リオネル様。館へ戻られるまえにお伝えしておくことがございます」
「それは?」
「――公爵様は体調を崩されております」
ダミアンのひと言に、リオネルのみならず皆が言葉を失う。
「父上が体調を崩しておられるとは――」
「原因はわかっておりませんが、疲労ではないかと噂されています」
ダミアンが言い終えぬうちに、リオネルは馬の腹を蹴っていた。止める間もなく馬が駆けだす。
「おまえもすぐに来い」
そうダミアンへ告げながら、ベルトランがリオネルのあとを追う。遅れずにアベル、ディルク、マチアス、そしてレオンが続いた。
馬を駆けながら、リオネルがアベルを振り向く。
「アベル、約束を覚えているね」
水色の瞳をアベルは見開く。
約束。
それは、エーヴェルバインへ発つまえに交わしたもの。
――ジェルヴェーズ殿下がいる場所では、なるべくリオネルから離れていること、殿下に近づかないこと、他の騎士たちに紛れていること、目立つ行動はしないこと、発言を控えること、危険なことがあればすぐに大声で助けを呼ぶこと、そして、この金色の髪を染めること……。
これを守らなければ、アベルは書庫の整理をしてなければならない、という約束だ。
ジェルヴェーズは五月祭の一件以降、〝煙突掃除の少年〟を探している。それがアベルだと知られれば、どうなるかわからないからだ。
「覚えています」
アベルが答えると、リオネルは無言でうなずき、さらに馬を速める。
「リオネル、すまない」
追いついてきたレオンが馬上で低くつぶやく。リオネルは傍らを振り返り、柔らかい表情で首を横に振ってみせた。
+++
門番が知らせに走るより先に、リオネルは正門から内門、そして玄関の前まで駆け抜け、馬から降りると館のなかへ入る。
むろんリオネルの到着を知らせる術などなかったので、出迎える者もない。リオネルらの姿をみとめた使用人や家臣らは、一様に驚きの表情になった。
「父上は」
短く尋ねるリオネルに、女中は恐縮の体で、クレティアンが寝室で休んでいることを告げる。
リオネルはすぐさま階段を駆け上る。――が、突如足を止めて背後を振り返った。
振り返ったリオネルの視線は、廊下へ向かおうとするアベルへ向けられている。
「アベル」
呼び止められて、アベルは足を止めた。
「服は普段よりも地味なものに着替えて。すぐにエレンに髪を染めてもらうんだ。それまでは、けっして部屋から出てはならない。身支度が整ったら、部屋から出てもかまわない。けれど、おれや殿下のそばに近寄ることは堅く禁じる。晩餐時も広間へは来てはいけない」
この状況であれこれと言ってくるリオネルに、アベルはやや呆れる。
「あの、わたしのことは大丈夫なので、公爵様のところへ……」
アベルの返答を受けて、わずかな躊躇いを見せたものの、リオネルは再び階段を駆け上がる。ベルトラン、ディルク、そしてマチアスが続いた。
レオンだけが彼らとは別のほうへ駆けていったのは、ひと足先に兄に会っておきたかったからかもしれない。
突然皆がいなくなって、アベルはかすかな違和感を覚えた。
この違和感はどこから生じるのだろうか。
小さく身震いすると、アベルはエレンの部屋へと向かった。
二度ほど軽く扉を叩くと、すぐに「どなたさま」という声がする。緊張感のある声だった。この状況において、エレンなりに気を張っていることがわかる。
「わたしです」
アベルが小声で答えると、扉はすぐに開いた。
「アベル!」
喜びのにじむ声とともに、輝くようなエレンの笑顔が飛び込んできた。後ろ手に扉を閉めると、アベルも笑みを返す。
「エレン、久しぶりですね」
すると、部屋の奥で「あ!」という幼い声が上がる。イシャスだ。
「イシャスも」
視線を向けて笑いかければ、イシャスが嬉しそうに駆け寄ってくる。
「アベル! おにいさん!」
その呼び方に、アベルは再び笑みをこぼした。飛びついて来た両腕でしっかりとイシャスを抱きしめれば、小さくて温かい身体に溜息がこぼれる。
不思議と疲れた心が溶けていく気がした。
「元気そうでよかった――イシャスも、エレンも」
「とても元気よ。それよりあなたは? 怪我を負ったと聞いたわ」
「このとおり平気です。軽い怪我だったから」
イシャスを抱きしめながら、アベルは笑ってみせる。けれどエレンは険しい表情だ。
「あなたは、いつもいつも無茶ばかりして身体を大切にしないんだから。あなたを待っているイシャスのことも考えてあげて」
「わかっています」
「本当に大丈夫なの?」
「傷跡もわからないくらいです。とても腕のいい医師に診てもらえたので」
「そう……」
安堵する様子ながらも、エレンはまだ表情を曇らせている。
「あなたが戻っているということは、リオネル様も?」
「はい」
エレンは沈黙した。彼女の不安はわかっている。
「心配には及びません。リオネル様には、ベルトランやディルク様がついています。今回はレオン殿下もいらっしゃいますし」
「公爵様がお倒れになったことは知っているわね」
「はい」
「フェリシエ様もいらしているわ」
「知っています」
わずかに開いた窓の隙間から、冷たい風が吹き込んでくる。エレンは窓辺へ寄って、窓をきっちりと閉めた。それから室内を振り返って言った。
「――怖いのよ」
「…………」
「なにかが起きる気がしてならない」
「なにかあれば、わたしがリオネル様を必ずお助けします」
「それでも怖いのよ」
アベルが顔を上げると、エレンは首を横に振る。
「リオネル様も、あなたも……なんというか、すべてが不安で」
「リオネル様もわたしも、というのは?」
エレンは黙っていた。
じゃれつくイシャスの相手をしながら、アベルはエレンを見やる。
「ここには多くの優秀な騎士がいます。なにが起きたとしても、皆が全力でリオネル様や公爵様をお守りします。なにも心配しなくても平気ですよ」
「……わかっているわ。わかっているのだけれど」
「そういえば、リオネル様からいろいろ言いつけられているのです」
エレンは首を傾げた。
「髪を染めるようにとか、地味な服にするようにとか……。普段から目立たない服装なのに、これ以上どうやって地味にすればいいのかわかりません」
アベルがそう言うと、かすかにエレンが笑う。ようやくエレンの笑顔が見られて、アベルは安堵した。
「手伝ってもらえませんか?」
「とびきり地味にしてあげるわ」
「お願いします」
「リオネル様でさえ、あなたかどうかわからないくらいにね」
アベルが笑う。二人の笑顔を見て、イシャスも楽しげに声を上げた。