32
日が暮れるまでに、水を汲み終わらなければ、店の主人に怒られる。アベルは、それをわかっていたので、二人を外に待たせて、一人、閉店間際の店内に戻った。
「遅くなって、申しわけございません」
店に客はいない。
アベルが水桶を玄関に置くと、案の定ヤニクの父親が怒鳴り散らした。
「いつまでかかってるんだ!」
アベルの頬に平手が降りかかってきたそのとき、白金の光を放ち飛んできたなにかが、主人の右手に鋭く当たり、床に落ちる。
主人が痛みに腕を押さえて視線を落とすと、繊細な紋章が施された短剣の鞘が落ちていた。
「な……なんだっ」
アベルがはっとして振り返ると、戸口には濃茶色の髪の青年。
「だれだ……? なにしやがる!」
肉屋の主人は怪訝な顔で青年を見つつ、手を上げた現場を見られたことに居心地の悪さを隠しきれない様子だった。
「投げたのが鞘のほうだったというだけでも感謝してほしい」
冷ややかな声音で、濃茶色の髪の青年リオネルは言い放つ。
「抵抗しない相手に暴力を振るって楽しいか?」
リオネルは二人の近くまで歩むと鞘を拾い上げ、アベルの手を取った。
「大丈夫か? ……帰ろう、アベル」
優しくアベルに言いつつ、リオネルは肉屋の主人を振り返り、その顔を一瞥してから戸口に向かった。 突然現れた身なりのよい青年に、男は圧倒されている。
店を出ようとする二人を呼びとめたのは、肉屋の主人ではなくその息子だ。
「待てよ」
アベルとリオネルは振り返った。
ヤニクが腕を組みながら壁に寄りかかり、リオネルに視線を向けている。
「お金持ちのお兄さん、あんた、アベルのなに?」
リオネルは目を眇めて若者を見やった。
「アベルを連れていってもらうと困るんだよ。路上でうずくまっていたのを助けたのは、おれだぜ? 返せよ」
「これだけひどい扱いをしておいて、よくそんなことが言える」
「働くところを探していたから、仕事を与えてやったんだよ。なのに仕事ができないんだから、仕置きするのはあたりまえだろう」
「どんな仕事だ? アベルになにをさせた?」
「…………」
「言えないほどの仕事をやらせて、できなかったら暴力で従わせるのは、当然のことか?」
リオネルは深い紫色の瞳で相手を射すくめながら、ヤニクの前まで歩み寄る。
なにも言えないでいるヤニクの襟首をリオネルは掴み上げた。
「おれを殴るのか」
ヤニクは瞳にわずかな畏怖を宿しつつ、それでも虚勢を張っている。
「……どんなふうに扱ったにせよ、アベルがここで世話になったことは確かだ」
リオネルは牽制しただけで、そのまま突き放すようにヤニクの襟首を離した。
「そのことは感謝する。けれどアベルにしたこと、許しはしない。もう二度とおまえたちとは関わらせはしない」
「そうか、あんたはそのつもりでも――おれはそうでもないぜ!」
そう言ってヤニクは右手の拳をリオネルに向かって振りおろした。
リオネルがとっさにそれを避けると、ヤニクはリオネルの襟首をつかもうとして飛びかかる。だがそれも軽々とよけたリオネルは、左肘でヤニクのみぞおちを突いた。それは半分ほど入ったが、ヤニクは飛びずさり、台の上にあった肉用の包丁を手に取ってリオネルへ投げつける。リオネルはその刃先を、鞘に入ったままの短剣で弾き返した。
肉包丁は宙を舞い、ヤニクの髪を一房切りとってから、室内の壁に突き刺さる。
一拍後れて、ヤニクの左の頬から一筋血が流れた。
肩で息をしながら睨み上げてくるヤニクに、髪の毛一本乱さぬままリオネルが言う。
「気が済んだか?」
「…………」
踵を返したリオネルは、戸口で佇んでいたアベルに視線を向けた。
「行こう」
リオネルの立ち回りの鮮やかさに呆気にとられていたが、自分に向けられた穏やかな声音に、アベルは我に返る。うなずきつつ思った。
リオネルは、強い――。
かつてアベルはリオネルの腰に下がる剣を抜き、彼の首に切っ先を向けたことがあった。
あのときリオネルはまったく抵抗しなかったが、その気になればアベルなど容易に打ち負かすことができたはずだ。けれどそうせず、自らの手を傷つけてまでリオネルはアベルをかばった。
その事実にアベルはようやく気がついて我に返る。
リオネルはずっと――初めてサン・オーヴァンの街で出会ったときから――アベルを助け、守り続けてくれていた。
二人が店を出ると、ベルトランが扉のまえで立っている。
「手を出したら、悪いと思ってな」
ベルトランが言うと、リオネルはかすかに笑った。
「さあ、みんなで帰ろう」
馬は二頭しかなかったので、アベルは、リオネルの馬の前鞍に乗せられ、その腕にすっぽり包まれるようにして、ベルリオーズ家別邸に戻った。
時折、首筋にかかるリオネルの吐息が、くすぐったかった。
館に戻ると、エレンが泣きながらアベルに抱きついてきた。
「アベル……無事でよかったわ……本当に」
わずかに戸惑いつつも、アベルはエレンの背中をそっと抱きしめ返す。
「ごめんなさい……」
「リオネル様が、どれほどご心配されていたか」
そう言われてアベルはリオネルを振り返った。
苦笑した青年は、二人を部屋へうながした。
ジェルマンの一礼に見送られて四人は大階段を上る。
書斎の隣の部屋にたどり着くと、エレンが扉を開けてなかに入った。アベルもそれに続く。
そこにはドニ。そして、彼の腕のなかには赤ん坊がいた。
アベルは立ちすくむ。
そこにいるのは、初めて対面する我が子だった。
ドニは赤ん坊を抱えて、アベルに近づく。
「アベル、赤ん坊は愛ですよ」
「…………」
「貴女が赤ん坊を愛する以上に、赤ん坊は、貴女を愛します。それは、ただひたすらに、まっすぐな愛です。この子の母親は世界でたった一人、貴女しかいないのですから」
「――――」
アベルは、なにも言えなかった。
指先が震えた。
「アベル」
呼ばれて振り返ると、深い紫色の瞳がアベルをとらえていた。
リオネルはドニの手からそっと赤ん坊を抱き上げ、ほほえむ。
「この子の名前、考えたんだ」
「え――――」
「〝イシャス〟……どうかな?」
アベルは大きく目を見開く。
「もし気に入ってくれたら、この名前を彼に」
「…………」
「もちろん気がすすまないならいいよ。……アベル?」
見開かれたアベルの瞳から、涙が零れ落ちた。
この日、涙を流すのは何度目のことだろう。これまで泣くことができずに溜め込んできた哀しみを、すべて洗い流そうとしているようだった。
雫は溢れて止まらない。
アベルの肩にのしかかる重圧を、リオネルは半分引き受けてくれた。
リオネルもこの赤ん坊の人生の一端を担ってくれたのだ。
アベルはけっして独りではない。
「気に……入らない?」
リオネルが遠慮がちに尋ねてくると、アベルは目をつむって首を横に振った。そして呟く。
「〝イシャス〟――――」
「イシャス、いい名前ね!」
明るく言ったのはエレンだ。
「イシャス……イシャス……」
口のなかでアベルは何度もその名を繰り返した。
リオネルがそっとアベルに赤ん坊を差し出す。
その小さな身体に触れた。
抱き上げると、軽いはずなのに、とても重く感じられる。
「ありがとうございます……リオネル様」
赤ん坊を抱きしめ、アベルはぎゅっと双眸を閉じた。
その身体は小さくて、柔らかくて、……温かかった。