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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第六部 ~一夜の踊り子は誰がために~
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第一章 第一王子の来訪と、一夜の踊り子 1







 木の根もとに積もりはじめた落ち葉が、風の吹くたびに転がりまわる。

 それを追いかけては拾いあげ、空へ放り投げて遊ぶのは、もうすぐ二歳半になるイシャスだ。

 青空のもとで金糸の髪はますます眩しく、顔立ちも母親であるアベルによく似ている。ただ瞳の色だけは母親とは異なり、灰色かかった淡い青だった。


「葉っぱ、いっぱいだよ」


 落ち葉を追いつつも、時折思い出したように養母であるエレンを振り返り、大きな瞳を向ける。


「本当ね、イシャス。葉っぱがいっぱいね」


 深い笑みをエレンはイシャスへ返した。


「ママ、葉っぱ、ころころ」

「……風が吹くと転がるのよ。ほら、待て待て」


 イシャスといっしょになってエレンは落ち葉を追いかける。イシャスは、はしゃいだ笑い声を上げてエレンのあとを追いかけた。


 ――ママ。

 そう呼ばれることが、エレンにとっては嬉しくも、切なく、そして少しばかり後ろめたくもあった。


 自分はイシャスの本当の母親ではない。主人から養育を任されているというだけの、使用人にすぎない。けれども、イシャスがはじめて自分を「ママ」と呼んだ日、エレンは深く感動した。嬉しくて、訂正もしなかった。


 けれど二歳半になるイシャスは、多くのことを理解しはじめている。本当の母親がだれなのか、いつかは教えてやらなければならない。いや、はじめからきちんと教えておくべきだったのだ。母親がいないならばともかく、すぐ近くにいるのだから。

 真の母親はアベルであって、自分は養い親なのだと。


 それを告げてこなかったのは、やはりイシャスがかわいかったから。そしてもうひとつ、養育をエレンに任せているというアベルの、その負い目を知っていたからかもしれない。


 ふと、思う。

 あの子は、どんな気持ちでいるのだろう、と。

 イシャスの実母は、まだ十六歳の少女である。さらに、女としての生き方を捨て、男として――従騎士として、主リオネル・ベルリオーズに仕えている。今はリオネルと共にローブルグへ交渉のため赴いており、ここにはいない。


「ママ、ママ、ほら、つかまえた!」


 手を高く上げて、イシャスは掴んだ落ち葉をエレンに見せようとする。


「あら、上手ね」


 ……もう少しだけ、このままでいてはいけないだろうか。

 ふとエレンが瞳を細めたとき、イシャスがその表情を読み取ったかのように、落ち葉を掴んだまま寂しげな表情になる。


「ね、アベルはいつもどるの」


 はっとしてエレンはイシャスを見つめた。


「アベル、ずっといないね」

「……そうね、きっとすぐに戻るわ」

「リオネルサマといっしょなの?」

「そうよ、いっしょに戻ってくるわ」


 イシャスはこくんとうなずく。


「アベルがいないと寂しい?」


 問われて、イシャスは即座に首を横に振る。


 ――そ、そうか。寂しくないのか。

 それはそれでエレンも複雑な気持ちになる。あまりにもアベルが不憫だ。


「でも、戻ってきてほしいのでしょ?」

「うん。だってアベルは、パパだから」

「…………」


 そういうことだったのか、とエレンは納得した。アベルはいつも従騎士の姿で、男の格好でいる。

 アベルを男として認識していたならば、たしかに父親と勘違いするかもしれない。


「……一応、アベルはあなたのお兄さんということになっているのよ」


 エレンが小声で諭すと、イシャスはきょとんとした表情になる。もう一度同じ言葉を繰りかえそうとすると、イシャスがなにか納得したように、「うん」と大きくうなずいた。


「おにいさん!」

「…………」


 思わずエレンは黙してしまう。またも真実を告げる機会を逸してしまった。

 と、そのとき、正門の方角が突如騒がしくなる。

 はっとして顔を向ければ、木立の向こうに馬車の到着するのが見えた。イシャスが無言で指をさす。それからエレンを見上げ、


「アベル?」


 と聞いてきた。


「……違うと思うわ」


 優美な馬車の周囲には毅然と馬に跨る兵士らがおり、厳重に警戒している様子が見て取れる。物々しささえ感じられるほどに。

 ベルリオーズ家の使用人らは、やけに慌てているようだった。


「アベル? アベル?」


 イシャスが繰り返す傍らでエレンが眉をひそめたとき、馬車の扉が開いた。現れたのは、ひとりの若者。

 遠目ながらも、鳶色の髪と、すっと背筋のとおった姿勢の正しさ、そして優雅でありながらきびきびとした身のこなしから、高貴な者であることがわかる。


「いったい――」


 ――いったい、だれだろうか。


 どうやらアベルではないと納得したらしいイシャスは、じっとそちらを見つめている。


 正門へ集まってきた使用人も騎士らも、深く礼の姿勢を取り、まるでベルリオーズ公爵かリオネルを大広間の儀式において仰ぐときのようだ。


 前庭の脇に位置する木立のあいまからその様子を見守る二人の耳に、報告に走る兵士の、戸惑いに満ちた声が届いた。





 ジェルヴェーズ殿下がご来訪なされた――、と。





「ジェルヴェーズ、殿下……?」


 小さくその名を繰り返す。


 シャルム第一王子ジェルヴェーズ。

 ……現在は、王位継承順位、第一位にいる人物である。


 先代国王の正統な血筋を受け継ぐリオネルとは、けっして相容れぬ仲であるはずのその人が、なぜここベルリオーズ邸を訪れたのか。それも、ナタン・ビューレルによる暗殺事件があって間もないこのときに。


 さらに、だ。

 あることに思い至って、エレンは表情を曇らせる。


 リオネルは幸か不幸か、ローブルグから戻ってきておらず、この館にはいない。

 けれど、ベルリオーズ公爵は容体が依然として優れぬままだ。今のベルリオーズ邸で、ジェルヴェーズ王子を迎えることのできる者はない。

 折り悪くも、リオネルの婚約者候補であるエルヴィユ家の令嬢フェリシエが、リオネルの帰還にあわせて、こちらへ向かっているとも聞く。


 なんのために第一王子はここを訪れたのだろう。

 フェリシエの来訪や、リオネルの帰還より先に、ジェルヴェーズはここを発つのだろうか。

 それとも――。


「あれは……」


 優美な馬車の後方に、鉄格子のはめられた馬車が一台、影のように停車している。

 ジェルヴェーズがそちらを振り返り、なにか合図すると、兵士のひとりが鉄格子の施錠を解く。ゆっくりと持ちあがる鉄格子の向こうから引きずり出されたのは――。



 ラクロワ地方の官吏を任されているベルリオーズ家の騎士、ジル・ビューレルだった。






+++






 プーラの街に到着したのは、陽が沈みきるよりまえのことである。街を囲う城壁は、ベルトランの髪のごとき鮮やかな朱色に染まり、ベルリオーズ領シャサーヌへ帰還する途中の六人を迎え入れた。


 往路では時間の問題もあって通過した街である。街への出入口である塔の下で、門番に通行証を見せて街へ入ると六人は宿を探した。


「賑やかな街ですね」


 家屋の窓からは明るい光が漏れ、方々から笑い声や歌声が聞こえる。

 大通りを走る馬車は慌ただしく行き交い、そぞろ歩きをする旅人の姿や、彼らを引きこもうとする客引きが数多く見受けられた。


「本当だね」


 アベルのつぶやきに優しく答えたのはリオネルである。


「ここはエーヴェルバインから、シャサーヌやサン・オーヴァンに至る途中の宿場町だから、人が大勢集まる」

「お店もたくさんありそうです」

「ローブルグ国境にも近いから、あちらの料理を出す店も多いみたいだね」

「今夜も豚の腸詰めを食べますか?」


 いたずらっぽくアベルが尋ねると、リオネルは「かまわないよ」と笑う。

 ローブルグ領内では、食べ収めだといって皆で散々ローブルグ料理を頼んできたが、リオネルはまだ飽きないらしい。


「アベルが食べたいなら」


 問われてアベルは首を傾げる。案外まだ食べられそうだ。


「やっぱり無理かな?」

「いえ、ローブルグ料理は好きなんです」


 故郷であるデュノア領がローブルグ国境に接していたせいだろう。幼いころからローブルグ料理を口にする機会は多く、今でも飽きない味だった。

 けれど、すぐ前を歩いていた赤毛の騎士から苦情が出る。


「また食べるのか? おれはいい加減に飽きた」


 リオネルの用心棒、ベルトラン・ルブローだ。


「豚の腸詰めは気に入ったんじゃなかったのか?」


 アベラール家嫡男ディルクに問われて、ベルトランは顔を顰めた。


「これだけ続けば、もうしばらくはいい」

「同感だ」


 すかさず同意したのは、シャルム王国の第二王子レオンである。


「しばらく豚の腸詰めのことは忘れていたい」


 国境寄りの地域で生まれ育ったアベル、リオネル、そしてディルクらとは異なり、南東部に位置するルブロー領を故郷とするベルトランや、王都サン・オーヴァンの王宮で育ったレオンは、ローブルグの味にいささか飽きているようだ。


「レオンは、豚の腸詰めのことだけではなく、ローブルグのことそれ自体を忘れていたいんだろう」


 ディルクに茶化されて、レオンはあからさまに嫌な顔をする。


「レオンが忘れていたくとも、きっと月に一度はローブルグ国王からの恋文が届くぞ」


 にやにや顔でからかうディルクに、レオンは「だれのせいでこうなったと思っている」と責める口調だ。


 リオネル、ベルトラン、ディルク、マチアス、レオン、そしてアベルの六人は、ユスターの陰謀を妨げるために、ローブルグと同盟を結ぶべくその王都エーヴェルバインへ赴いた。無事にローブルグ王と同盟の約束と取り付けた今、彼らはその帰途にある。


「おれがなにもしなくとも、結果は同じだったと思うけど」


 レオンは舌打ちを堪える表情で、黙りこむ。

 交渉に赴いたエーヴェルバインにおいて、レオンは男色家と名高いローブルグ王にいたく気に入られたのだ。


「ディルク様」


 見かねた従者マチアスに諌められ、ディルクは口を閉ざす。が、まだなにか言いたげだ。レオンをからかうことは、ディルクにとってなにより愉快なことらしい。


 会話が途切れると、リオネルが一同を見回して言った。


「どこかでアベルの誕生祝いをしたいと思っている」


 この夏にアベルは十六歳になった。デュノア領を追い出されてから三年近くが経つ。

 三年。たったこれだけの時間しか経過していないとは。

 様々なことがあったせいだろうか、アベルにはもっと長く感じられた。


「賛成!」


 まっ先に手を上げたのはディルク。


「食べきれないくらいのご馳走で、お祝いしよう。アベルの好きな蜂蜜酒の美味しい店がいいね」

「おれも賛成だ」


 レオンまで同意するのでアベルは慌てた。


「いえ、いいんです。わたしなんかのために、もったいないです」

「もったいない? どうして?」


 ディルクが不思議そうに見返してくる。アベルは口ごもった。


「……わたしはただの家臣で、それも従騎士の身分ですし……」

「ベルトランやマチアスの誕生日にも、ささやかながら皆で祝ってるじゃないか」

「皆さまは身分も高く、立派な騎士様でいらっしゃいますから」

「身分のことなんて今更持ちだすのか? アベルだって、おれたちの大事な仲間だ」


 真っ直ぐな言葉をディルクから投げかけられ、アベルは言葉に詰まる。


「そういうことだよ」


 優しい声がして顔を上げれば、リオネルがほほえんでいた。


「皆、きみのことが大好きなんだ」


 かすかにアベルは頬を染めた。そんなこと、端正な顔に笑みを添えて言わないでほしい。どんな顔をすればいいかわからないではないか。


「シャサーヌに戻ればまた忙しくなる。六人で集まって祝えるのは、きっと今くらいしかない」


 ベルトランは真面目な口調だ。


「けれど、まだ多くの問題が残っているのですから、わたしの誕生祝いなんて――」

「私たちからの、ささやかな気持ちですよ」


 穏やかに笑いかけてきたのは、ディルクの従者マチアスだった。

 ついにアベルはうつむく。


 ――皆、どうしてこんなに優しいのだろう。


 温かい気持ちになると同時に、怖くもなる。いつか、この温かい場所を失うことが、ひどく怖い。幸福の隣には、いつも恐怖が居座っていることを、アベルは知っている。

 幸福は儚い。けれど。

 いつか失う恐怖に怯えて生きるよりは、今を愛したい。


「ありがとうございます。とても……」


 ――とても嬉しいです。


 アベルが顔を上げてほほえむと、皆が嬉しそうな表情になる。六人を包む空気がふわりと温かいものになった。


「やったね、飛びきり豪華な誕生日会にしよう」

「おまえの奢りか?」


 張りきるディルクに、レオンが意地悪く言う。けれどディルクは気にする素振りもなく、


「いいよ。全部おれが払ってもかまわないよ」


 と言い切った。


「ディルク様の小遣い分から、という意味ですね」

「ああ、そうとも」


 マチアスの言葉に、ディルクは片眉を吊り上げて従者を見やった。


「そんな、やめてください。会を開いていただけるだけで充分です。そのへんのパンでもかまいませんから」

「そうはいかないよ」


 真っ先に否定したのはリオネルだ。


「今夜は飛びきり豪華な食事にしよう。もちろんおれが払うから」


 リオネルは柔らかい表情である。


「なに? おれが払うって言ったじゃないか」

「ディルクはおれのときに払ってくれ。アベルの誕生日はおれが払う」

「なんか、ずるいなあ」

「では、皆で割りましょう」


 マチアスの提案に、アベルは手をポンと叩いた。


「それいいですね! わたしも払います」

「だめです」


 アベルの提案は、直ちにマチアスによって退けられる。


「貴女は銅貨一枚も払ってはいけません」

「そうだよ、アベル」

「…………」


 リオネルにまで諭され、アベルは黙りこんだ。


「さあ、今日はお祝いだ。ご馳走だ。早いところ宿を探して、街へ繰り出すぞ!」


 盛り上がるディルクを見守りながら、マチアスが微笑する。


「楽しみですね」

「それで、今夜はローブルグ料理なのか?」


 微妙な面持ちで尋ねるレオンに、リオネルが笑いかけた。


「すべてはアベル次第だよ」

「ああ、ときにおまえがひどく意地悪く見える」

「そうかな?」

「今頃気づいたのか、レオン?」


 振り返ったディルクに問われ、レオンは首を傾げる。


「あまり意地悪いと思ったことはないが……」

「大丈夫です、レオン殿下。今日はシャルム料理にしましょう」


 アベルの言葉を聞いて、レオンは肩を撫で下ろした。

 ――ようやく豚の腸詰めから解放される、と。









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