第五部最終回 55
なだらかな丘は、幾重にも果てしなく連なっている。
ところどころに森や林が広がり、草原では牛や羊の群れが草を食み、午睡していた。秋めいた空に、白雲は低く流れるように浮かんでいる。
すでに九月も後半に差しかかるころ。
穏やかな秋の景色のなかに嵐の気配はなく、夏が過ぎ去ったことを感じさせた。
馬を駆けているのは、六人の若者。
先頭を走るのはリオネルとベルトラン。そのすぐ後ろで、フードの隙間から眩い金糸の髪をのぞかせているのはアベルである。
さらに後方では、ディルクとレオン、そして最後尾にマチアスの馬があった。
馬を駆りながら、アベルはエーヴェルバイン王宮を去った日の朝のことを思い出す。
『ジークベルトはすでにここを離れた』
と、挨拶へ出向いたリオネルらに、フリートヘルムは諦めとも苦笑ともつかぬ表情で告げたのだ。リオネルらが旅立つ前夜に、ジークベルトはすでにエーヴェルバイン王宮から去っていた。
『書き置きがあった』
――かつてジークベルトが王宮を去ったときと同じように。
フリートヘルムがリオネルらに渡した一枚の紙には、次の文章だけが記されていた。
〝叔父上がよぼよぼになられたら、玉座をお預かりすることも考慮します。それまで頑張ってください〟
と。
フリートヘルムは、「またしてもやられた」とつぶやいていたが、それほど驚いた様子でもない。概ね予想していたことだったようだ。
『それにしても、まさかそなたらの出立より先にいなくなるとはな』
一同を見渡してから、フリートヘルムは視線をレオンのうえで止める。レオンは軽く眉を寄せた。
『ジークベルト殿と最後にご挨拶できなかったことは残念ですが、我々は予定通り今日シャルムへ向けて発ちます。アベルもこうして回復しましたし、陛下及び王宮の方々には感謝しております』
リオネルが挨拶を述べると、フリートヘルムは名残惜しそうに目を細めた。
『近いうちにまた会えることを願っている』
むろんフリートヘルムが再会を願って、視線を向け直した相手はレオンである。レオンは眉間の皺を深くして、沈黙を貫いた。
けれど、そのようなささやかな抵抗は、恋の只中にいる者に通用するはずもない。充分に大人であるフリートヘルムは、巧みな恋の進め方を知っているのだ。
『レオン王子、ベネデットの哲学書のうちで気に入ったものがあれば貸そう。次に会うときに返してくれればいい』
そう言われれば、レオンとて心が動かされなくはない。貴重なベネデットの蔵書は、ぜひとも熟読したい。
『借りてもいいのか?』
『何冊でも』
笑顔で返され、レオンは複雑な表情になる。その脇で、ディルクが笑いをかみ殺していた。
『アベル、そなたにも会えてよかった。そなたに会えていなければ、ジークベルトに再会することも、レオン王子に会うこともなかっただろう。煙突から出てきた黒い少年は、天からの使いだ。回復したとは聞いたが、身体を大事にしなさい』
アベルが恐縮して頭を下げると、フリートヘルムは付け加える。
『あまり主人に心配をかけぬようにとの、姉上からの伝言だ』
こうして六人は朝にエーヴェルバイン王宮を発ち、今は、人の行き交う主要な街道を進んでいた。
長閑な風景をこうして駆けていると、同盟が成立したという深い感慨と、これでジルを救うことができるという安堵が込み上げる。
使命をまっとうすれば、リオネルが「恐怖の塔」に入れられることもない。北の脅威にも、ローブルグとシャルム、そしてリヴァロの同盟をもってすれば対抗しうるだろう。
すべては順調にいっている。
けれど一点、アベルの心を曇らせているものがあった。
それは、リオネルの身体のことだ。
負傷してから二ヶ月近く経つというのに、左腕が動かせない。その事実は、口にはしないものの、だれにとっても気がかりなことだった。医者の指摘したように、二度と動かせなくなるなどということがあるのだろうか。
そんなことを思っていると、前方を走っていたリオネルがふと振り返って、目が合った。
知らず、アベルはリオネルの背中を見つめていたらしい。
目が合うと、リオネルは柔らかくほほえみ、アベルはなんとなく恥ずかしくなって顔を赤らめる。咄嗟に瞼を伏せると、リオネルが軽く手綱を引いて、アベルのもとへ馬を寄せてきた。
「アベル」
名を呼ばれてアベルは空色の瞳をリオネルに再び向ける。
「はい」
「気持ちのいい陽気だね」
他愛のない話題を投げかけられて、アベルはほっとする。
「気がつけば秋ですね」
「シャサーヌに戻ったら、イシャスが大きくなっているかもしれない」
「館を発ってからまだ一ヶ月ほどですよ。そんなに大きくなっているはずありません」
アベルは笑う。リオネルも笑みをたたえながら、けれど真剣な口調で言った。
「イシャスはどうしているかなと思って」
イシャスのことは、エーヴェルバインに滞在中アベル自身もしばしば思い出していた。リオネルも同じように彼のことを思っていてくれたことが、アベルにとっては驚きであり、嬉しくもある。
「きっと元気です。話せる言葉が増えているかもしれませんね」
「久しぶりに会うのが楽しみだ」
「迷惑をおかけしていなければいいのですが」
「そんなことは心配しなくてもいい」
そう言いながら、リオネルはアベルの顔を覗きこむ。
「きみは、きみなりの方法でイシャスをきちんと守っているのだから」
リオネルの言葉に、アベルは不覚にもこのようなときに目頭が熱くなった。気づかれぬように、リオネルから顔を背ける。なんと答えたらいいのか、わからなかった。
そんなアベルを見守るリオネルの表情は、見守られている本人は気づいていないものの、なにか言いたげである。実際、リオネルはなにかを言いかけた。
「昨夜は――」
なんのことかとアベルが顔を傾けると、今度はリオネルが顔を背ける。
「――いや……」
珍しく言い淀んでいるので、アベルは「なんでしょう」と促した。けれど、リオネルは首を横に振って、
「いや、なんでもない」
と答える。このような調子のリオネルなど滅多にお目にかかることはないので、ついおかしくなって、アベルは笑った。
「不思議なリオネル様」
そうつぶやきながら、ふと「昨夜」という言葉でアベルは思い出す。
まさかリオネルは、昨夜の出来事を知っているのだろうか。
いや、考えてみれば、アベルの寝室はリオネルの隣だった。いつなにがあっても互いに助けられるように、そうしてあるのだ。つまり、昨夜の彼の訪問を、リオネルは気づいていたかもしれない。下手をすれば、会話の内容まで――。
昨夜の出来事を、アベルはあらためて思い返した。
アベルの寝室にジークベルトが訪れたのは、めいめい就寝の挨拶を交わして別れたあとのことだった。
ジークベルトは、挨拶もなしに一足先に出発していたわけだが、実のところ、アベルにだけは密かに別れを告げにきていた。
思いも寄らぬ突然の訪問者に、アベルは瞳を大きく見開く。
髪をほどき、薄手の夜着に上着を一枚羽織った姿のアベルを見て、ジークベルトはかすかに躊躇うような面持ちで、『遅くにごめん』と来訪を詫びた。
アベルは上着のまえを合わせながら、笑顔で首を横に振る。
『どうかしたのですか?』
『その……』
ジークベルトは扉口に立ったまま、なにか言いづらそうにしていた。
『なかへ入りますか?』
アベルがそう尋ねると、驚いたような、呆れたような顔をしてから、ジークベルトは苦笑する。
『夜に、男を部屋に入れるのは危険だよ』
『わたしも男ですから』
そう答えたアベルをしばし見つめたあと、ジークベルトはやや声を低めて言った。
『きみは男じゃない。女の子だ』
『……なんのことでしょう?』
動揺を押し隠し、平静を装ってアベルは尋ねる。けれど、ジークベルトの表情はまったく動かなかった。
『叔父があんなふうだからね。あの人に似て、男か女か見分けるのは得意なんだ』
『…………』
アベルは押し黙るしかない。難しい表情になったアベルに、ジークベルトはほほえんだ。
『そんな顔もかわいいね』
とひと言。
無言のままアベルはジークベルトの腕を掴み、部屋から追い出そうとする。ジークベルトはやや慌てた。
『ごめん、怒らせるつもりはなかったんだ』
『女とわかっているなら、夜に部屋へ来ないでください!』
『きみに言いたいことがあった』
『明るいうちに言えばいいではありませんか』
『もう時間がない』
追い返そうとするアベルの腕を、優しい力で押さえつけ、ジークベルトはアベルの顔を覗き込む。
『今夜、ぼくはここを発つ』
ようやくアベルはジークベルトを部屋から追い出そうとするのをやめた。
『え?』
『もう一度、旅に出ようと思うんだ』
驚くアベルに、ジークベルトはかすかに笑って見せた。
『少しだけ話してもいいかい?』
困惑した面持ちのまま、けれどアベルは小さくうなずく。安心したようにジークベルトはアベルの腕を掴む手から力を抜いた。
一歩室内に入ると、ジークベルトは後ろ手に扉を閉じる。わずかな隙間を残して。
『ぼくはね、アベル』
ジークベルトの澄んだ蒼い瞳が、蝋燭の灯りに美しく輝く。
『この世界を、もっと自由に生きたい』
蒼い瞳をじっと見つめ返すアベルに、ジークベルトは切なげな眼差しで言葉を紡ぐ。
『父アルノルトの記憶はないけど――』
その口調は、いつもの冗談めかしたジークベルトの調子とは違う。アベルは話に聞き入った。
『――父が母と出会って抱いた気持ちについては、想像ができる』
『出会ったときの、気持ち?』
『そう。世継ぎの王子として生まれ、周囲に期待されて、王宮に閉じこめられるようにして育ったアルノルトは、ある日、どうしても王宮を飛び出したくなって街へ出て、そして市井の娘と恋に落ちた』
叙事詩のように耽美な話であるが、現実には残酷なことである。
『アルノルトは、すべてを投げ打ってでも、その娘と共に暮らす自由を手にしたいと考えるようになったんだ』
ひとつアベルはうなずきを返す。
『父は、この世界を羽ばたく大きな翼を持っていたのだと思う。きっと王宮の生活だけに収まりきらないくらいの大きな翼を』
再びアベルはうなずいた。
『ぼくは父の代わりに、この世界を見たい。自由に生きて、父の夢を叶えたい。それからローブルグの国のために生きても遅くはないだろう?』
確認するように尋ねるジークベルトは、どこか不安げにも見える。
なぜこんな顔をするのだろうか。
自由で奔放に生きるジークベルトのうちにも、きっと小さな揺らぎがあるのだ。
――その小さな揺らぎを、ときに、だれかに肯定してもらいたいときがあるに違いない。
『――きっとそうですね。アルノルト殿下は、あなたの瞳を通してこの広い世界を見ているかもしれません』
ほほえみながらアベルは答える。ジークベルトは照れたようにうつむき、笑った。
『アベルにそう言ってもらえると、嬉しい』
『行くのですね?』
『ああ、でもきみが必要としたときには必ず飛んでいって力になるよ。アベルがぼくを必要としてくれるなら、ぼくは父がそうしたように、なにもかもを投げ打ってアベルのもとへいく』
またジークベルトの得意な冗談だと思って、アベルは笑った。
『ありがとうございます』
『ぼくは本気だよ?』
『ええ、わかっています』
にこにこしているアベルをまえに、ジークベルトは複雑な表情でつぶやく。
『やれやれ、ぼくもリオネル殿も望みが薄いわけだ』
『え?』
『なんでもないよ。それをいえば、門で会ったヴィートくんもか』
『なんの話ですか?』
『いいかい、これからも男には充分に気をつけるんだよ。どんなに優しい顔をしていても、所詮、男は飢えた獣だ。ぼくだって、扉を閉めていたらどうなっていたかわからない』
アベルの質問を流して、不穏なことを言いはじめるジークベルトに、アベルは眉をひそめた。
『なんですか、急に?』
『あと、身体を大事にしないといけないよ』
『……リオネル様のようなことを言うのですね』
あの男といっしょにしないでほしい――とジークベルトは内心で思ったのかもしれないが、口には出さなかった。
『皆がきみのことを心配しているってことだ』
『ありがとうございます。ジークベルトも元気で――』
寂しげにほほえむアベルを、ジークベルはかすかに苦しげな表情で見つめる。そして、左手でアベルの柔らかい髪に触れると、そのまま軽く引き寄せた。
『ジークベルト?』
驚いてアベルは名を呼ぶ。頬が、ジークベルトの鎖骨のあたりに触れていて、どうしていいかわからない。
すると、ジークベルトの声がすぐ頭上から響いた。
『また、きみに会いたい。もう会えないなんて絶対にいやだ』
ジークベルトの声は真剣だ。
どうしてこんな声で、このようなことを言うのだろう。どう反応をすればいいのか、わからなくなってしまうではないか。
戸惑いながらも、アベルは答える。
『……いつでも会えます、ジークベルト』
『アベルに会うために、またシャサーヌへ行ってもかまわないか?』
『もちろんです』
そう答えると、ジークベルトは『ありがとう』とつぶやき、しばらくアベルをそのまま引き寄せていた。
わずかに開いた扉の隙間から、廊下にある燭台の灯りが漏れ光る。
――それが、ジークベルトとの別れだった。
どうやらジークベルトのことをあまり気に入っていないらしきリオネルが、昨夜のことをすべて知っていたらと考えると、アベルは落ち着かない気持ちになった。
けれど、リオネルは「なんでもない」と答えたあと、特になにも言う気配はない。
ほっとしたところへ、リオネルがひとつ咳払いをした。
「その……だな、アベル」
やや緊張しながらアベルは、「はい」と返事をする。
わずかに考えこんでから、リオネルは言った。
「たとえ相手が、きみを女性ではないと信じていたとしても――」
ある予感が胸をよぎり、アベルはどきりとする。
「――夜に男が来たら、寝室で二人きりになってはいけないよ」
「…………」
やはりリオネルは知っているのだ、昨夜の出来事をすべて。
「……ジークベルトのことですか?」
おそるおそる尋ねると、リオネルが落ち着いた口調で答えた。
「彼に限ったことではないけれど……きみのことを女性と知るなら、なおさら気をつけてほしい」
「本当に心配性なんですね」
よくわからない気まずさもあり、アベルはごまかすように言う。リオネルは困ったような面持ちになった。
「ああ、おれはきみのことが心配でたまらない」
「それほど頼りない存在ですか? もう子供ではありませんよ」
子供ではない、というのはアベルのいつもの口癖だ。
「けれど、十五歳の女の子だ」
声を低めてリオネルが言うと、アベルは小さく首を横に振った。
「十六歳になりました」
リオネルが驚いた顔でアベルを見つめる。
「いつ?」
「夏ごろです」
「…………」
リオネルは黙りこんだ。
いつもアベルは、自分の誕生日をはっきりとは告げない。告げれば、シャンティ・デュノアの生まれた日と同じであることが知られてしまうかもしれないからだ。
しばしの沈黙の後に、リオネルは嬉しそうにつぶやいた。
「そうか……アベルは十六歳になったのか」
二人が出会ったのは、アベルが十三歳のころ。あれから三年経つ。
「お祝いしなければね」
「恥ずかしいので、いいです」
そう答えるかたわらで、すでにリオネルは前方を走るベルトランに声をかけていた。そして、アベルが十六歳になっていたことを告げた。
すぐにベルトランが馬を寄せてきて、
「アベルが十六歳になったとは知らなかった。では、あと一年で騎士に叙勲だな」
とアベルに告げる。アベルは慌ててかぶりを振った。
「わたしはまだまだ未熟です。皆さまより長めに従騎士として修業をさせてください」
自分のような未熟な者が、騎士に叙勲されるなど、アベルは畏れ多い気がしてならない。騎士というのは、剣の腕だけではなく、精神的にも一人前になってはじめてなれるものだ。
「騎士になってからでも、鍛えてやるぞ」
「ですが、わたしは従騎士時代に学ぶべきことをまだ何も習得していません」
軍営の炊事や、武器の管理をはじめとした細かな雑用、そのほか兵学の勉強なども、リオネルに従ってあちこち飛び回っているアベルには習得する時間がない。
「たしかに、アベルの叙勲はジュストの叙勲が終わってからだから、かなり先になるかもしれないね」
しきりに恐縮するアベルを見かねて、リオネルが口を挟む。
ベルトランがなにかに思い至る顔になったのは、リオネルが口にしたことが重要な事実だったからだ。
そう、ジュストはもうすぐ十七歳になるというのに、リオネルらが山賊討伐や、五月祭、先日の事故などで落ち着く間がなかったために叙勲の準備に至っていない。
「そうか、そういえばジュストの叙勲が先だな」
「わたしが一人前になってから、騎士の叙勲の時期についてはご検討いただければ幸いです」
アベルの懇願に、リオネルがほほえんだ。
「じゃあ、お祝いだけしよう」
「ですから、お祝いなんてわたしにはもったいないです」
「去年も一昨年も、きみは誕生日を教えてくれなかったから、きちんと祝ってあげられなかった。ずっとそのことが気になっていたんだ」
「今年もいいです」
「なにか欲しいものはないか」
遠慮するアベルの意見を聞き流して、リオネルは尋ねる。
自分のための祝いなど、身に余るものだ。けれど、リオネルが嬉しそうに尋ねてくるので、アベルはくすぐったいような気持ちにもなる。
「わたしの望みは、リオネル様の左腕が治ることだけです」
「それ以外には?」
アベルは首を横に振った。
「リオネル様にいただいた首飾りを、一生分の贈りものとして大事にします」
驚いた表情でリオネルがアベルを見つめる。
「……まだ身につけていてくれているのか?」
「あたりまえです。リオネル様にいただいたものですから」
笑顔でアベルが答えると、リオネルは切なげに目を細め、「ありがとう」と言った。
と、そのとき、背後から馬の寄る気配がする。
「首飾りがどうしたって?」
アベルとリオネルの馬のあいだに自らの馬を割り込ませ、質問してきたのは、地獄耳のディルクだ。
「なんでもないよ、ディルク」
微笑で答える親友に、ディルクはつまらなそうな顔をした。
「また隠しごとか?」
「また? おれはなにも隠してないけれど」
「フェリシエへの贈り物でも話しあっていたのか?」
「ここで彼女の名を出すな」
「照れるなよ、リオネル」
急に不機嫌な顔になったリオネルに、ディルクは重ねて冷やかす。
「そういえば、フリートヘルム王の姉君に気に入られていたみたいだけど? フェリシエが聞いたら大騒ぎするんじゃないか?」
リオネルがディルクの悪ふざけを無視すると、アベルが驚きの声を上げた。
「そうなんですか?」
「雰囲気を見ていればわかるじゃないか」
むろん男女の意味合いではなかったが、たしかにカロリーネはリオネルをひとりの人間として気に入っていたようだった。
けれど、ディルクの台詞でなにか勘違いしたアベルは目を大きく開いて、ディルクとリオネルを交互に見やる。
「まったく気づきませんでした」
「本当? おれはすぐにわかったよ」
「おい、ディルク――」
ぺらぺらと話すディルクをリオネルは制したが、一度された勘違いは、すぐには修正できない。
「大丈夫です、リオネル様」
大きくアベルが瞳を見開いてそう言った瞬間、リオネルは嫌な予感がした。愛しい少女に向けて、おそるおそる問い返す。
「……なにが?」
「カロリーネ様のことは、絶対にフェリシエ様には言いませんから。安心してください。ディルク様もどうか秘密に」
「もちろんだよ。なっ、リオネル」
両目を閉ざして、リオネルは深く眉間を寄せる。
――リオネルの恋路は、茨の道だった。
彼の心情を知らぬ呑気な人々は、談笑を続けている。
「ああ、アベル。そういえば、どうやって腕の縄を切ったかレオンが気にしてたよ」
「縄? 地下牢でのことですか?」
「そうそう」
手招きされて、レオンもアベルのそばへ馬を寄せる。当初は整然としていた並びが、もはや滅茶苦茶だ。
「あれは、食事に出された乾燥肉で切ったのです」
レオンに向けて、アベルは答えた。
「肉? 敵に突き刺したあれか」
レオンが驚きの表情になる。
「ええ、食べられなかったので、ほかの用途を思いついたのです」
「すごいな。敵の嫌がらせを、とことん活用したということか」
「さすが」
感嘆の声を上げてから、ディルクは先程より前方へ馬を進めたリオネルに声をかける。
「リオネル! おまえの家臣は賢いね」
ちらとディルクを振り返って、リオネルはかすかに笑う。それから、
「だれにも渡さないぞ」
と釘をさした。そんなリオネルをディルクがからかう。
「将来的には、アベルを我がアベラール家の家臣にするというのはどうだ?」
「断る」
「けちな男だな」
「わたしなんかより、マチアスさんのほうがよほど優秀ではありませんか」
アベルの指摘に、ディルクは顔を顰めた。
「優秀は優秀だけど、口うるさいところがある。たまには、アベルのように癒される家臣がいいよ」
「なにかおっしゃいましたか?」
最後尾で馬を駆けていたはずのマチアスが、声だけをディルクの背中に投げかける。主人以上に、マチアスは耳がいいようだった。
「なんでもないよ」
とディルクが肩をすくめる。
「ディルク様はお幸せですね」
「どこがだ?」
しらけた表情のディルクのまえで、リオネルが振り返りながら言った。
「おれはアベルといっしょに旅ができて幸せだ」
「はいはい、そうですか」
新婚夫婦のような台詞を吐くリオネルに、ついにディルクは呆れ声を返す。
「どこまで本気かわからない惚気発言は、その左肩を治してからにしてくれ」
「厳しいね」
リオネルが苦笑すると、アベルもディルクに賛同した。
「冗談は、左肩を治してからおっしゃってください」
「……冗談ではないんだけど」
まあいいか、というリオネルのつぶやきは、風に乗ってベルトランの耳にだけ届き、そのまま秋空の輝きのなかへ消えていく。
今回は大きな危機を乗り越えたが、シャルムに戻れば再び苦難が待ち受けていることだろう。けれど乗り越えられないと思われるような困難も、六人がそろえば乗り越えられる――。
皆、同じ思いでいるに違いない。
「シャルムに戻ったら、久しぶりにおいしい鴨肉料理が食べられるね」
ディルクのひと言に、
「だが、豚の腸詰めもなかなか美味かった」
とベルトランがつぶやく。
「一番ローブルグ料理を嫌がっていたのはだれだったっけ?」
「知らん」
にやにやと笑いながら指摘するディルクに、ベルトランがぶっきらぼうに答えると、皆が声を立てて笑った。
長閑な昼下がり。
近づく嵐はけっして小さなものではない。
六人のあいだを、柔らかい秋風がすり抜けていった。
〈第五部 完〉
いつもお読みくださっている読者様、ありがとうございます。
また、拍手メッセージもお返事ができないことを心苦しく思いつつ、いつもとても嬉しく拝読させていただいております。とても励みになっています。
長いお話ですが、おつきあいくださり感謝です。
今回、シャルムの長年の敵国ローブルグを舞台にした第五部が終了いたしました。
第六部の舞台はシャルムに戻ります。
またアベルやリオネルたちの冒険にお付き合いいただけましたら心より幸いです。
最後になりましたが、新型コロナの影響が大きくなっています。どうぞ皆様におかれましては、お身体くれぐれもご自愛下さいね。皆様の健康と生活の安定をお祈りしています。
たくさんの感謝の気持ちを込めて。 yuuHi