54
ハーブ園には、ローズマリーが花を咲かせている。真昼は夏の名残漂う空も、黄昏時には夏の色を失い、すでに秋空に変わっていた。
シャルム王宮の一角。
驚きの声が上がったのは、従騎士になったばかりの少年の部屋だった。
「それは本当ですか」
「もちろんだよ、トゥーサン!」
元気よく答えたのは、ノエルの従騎士カミーユである。
「叔父上に聞いたんだから、間違いない。同盟交渉は成功したんだ、これでユスターとローブルグが手を組んでシャルムに攻め込んでくることはない。コンスタンが聞いたら、どれほど喜ぶだろう」
「本当に、ジェルヴェーズ殿下が成し遂げられたのですか」
意外そうにトゥーサンが確認したのも当然のこと――交渉はリオネルやレオンではなく、ジェルヴェーズが赴いたことになっている。ジェルヴェーズの気性はだれもが知るところだった。
「さあ、王子様が直接話したのかわからないけど……そういうことなんだろうね」
「あのローブルグ王を説き伏せるとは」
「この際だれが成功させたのでもかまわない。ローブルグとシャルムが同盟を組むなんて、こんなことがあるんだね、トゥーサン」
交渉成立の有無のみに気をとられているカミーユとは違い、トゥーサンはその先のことまで見抜いていた。
「交渉の成功が事実なら、これは大きな出来事ですよ、カミーユ様。デュノア家はもうローブルグの脅威に怯えなくてすむことになります。伯爵様が、お喜びになられるでしょう」
カミーユの実家であるデュノア領は、ローブルグとの国境沿いにある。敵国と領地を接していたため、長いことデュノア領は緊張感のなかにあった。
「本当だね、これで領民も安心できるかもしれない」
「それに、ジェルヴェーズ殿下の支持がこれまでより高まるかもしれません。むろん、交渉に同行したフィデール様の評価も上がるでしょう」
「それは嬉しいね、従兄弟が名誉あることを成し遂げたんだから。デュノア家にとっても歓迎すべきことだ」
……より正確には、〝ベアトリスにとって〟というべきかもしれないが。
国王派であるブレーズ家出身のベアトリスにとって――ひいては彼女の嫁ぎ先であり、ローブルグとの国境沿いに位置するデュノア家にとって、今回のことはあらゆる意味でよい知らせといえる。
「ですが、次期国王にリオネル様をと推す者にとっては、良い知らせとはいえません」
「ディルクにとっても、ということ?」
しばし間を置いてから、トゥーサンは答えた。
「そういうことです」
「……しかたがないよ。ローブルグとの同盟は、シャルムにとって必要なことだから。きっとディルクたちもわかっていると思う」
「むろん、王弟派とは関わりがない私たちにとっては純粋に喜ばしいことです」
「トゥーサンは本当にそう思う? ぼくはディルクや、リオネル様のことが好きだよ」
ディルクやリオネルと親しくつきあうことに対して、トゥーサンはいつもいい顔をしない。そのトゥーサンが、王弟派の話を持ち出したので、カミーユはやや複雑な面持ちになった。
「好きとか嫌いとかの問題ではなく、ブレーズ家と関わりの深い者としての自覚を、カミーユ様には持っていただきたいと思っています。けれど……」
言い淀んでから、トゥーサンは続ける。
「……この国をどなたが治めるべきかという問題については、私はなにも答えることができません」
はっきりとは言わなかったが、つまりトゥーサンは、ブレーズ家の立場を尊重しつつも、やはりジェルヴェーズがこの国の頂に立つことには、不安を抱いているということだ。それは、ジェルヴェーズがカミーユの命を幾度も奪おうとした経緯から生じた感情でもある。
シャンティを追い詰めたディルクのことは、好きになれない。立場としても、王弟派ではなく国王派に立つべきだ。
けれど、ジェルヴェーズが王位に就くことは歓迎できない。
――といったところだろう。
「トゥーサンは大人だね」
乳兄弟の葛藤を笑顔で流して、カミーユは踵を返し扉へ向かう。戻ってきたばかりだというのに部屋を出て行こうとする主人を、トゥーサンは呼びとめた。
「カミーユ様、どちらへ?」
振り返ってカミーユは明るく答える。
「コンスタンにも知らせに行くんだよ。ユスターとローブルグを相手に戦争が始まることを彼はとても恐れていたから。これでロルムは挟み打ちになんて遭わない。戦いさえ起こらないかもしれないんだ。きっと喜ぶだろう?」
「……そうですね」
どこまでも優しい少年だとトゥーサンは思う。
やはり姉のシャンティと根本的なところでよく似ている。
――だからこそ、トゥーサンは怖くなる。
シャンティが過酷な運命を背負ったように、そのまっすぐな性格と優しさが、やがてカミーユの身を滅ぼすのではないかと。
「すぐに戻るよ、トゥーサン」
そう言って出ていくカミーユの後ろ姿に、
「ご友人とゆっくりと過ごされてください」
とトゥーサンは言葉をかける。
コンスタンのもとへカミーユは走っていった。
同じ王宮の一角。
この国で最も豪奢な部屋に、ひとりの訪問者があった。
国王エルネストの書斎に現れたのは、王妃グレースである。
グレースは王の侍従がすすめた椅子を断り、立ったままでいた。長居はしないつもりらしい。肘掛け椅子にゆったりと腰かけたままエルネストは、グレースを見やった。
「なにか急な用でも?」
「報が届いたと聞き及びました」
グレースはいつもどおりの穏やかな口調。
一方、エルネストは調子をやや低くした。
「そなたの耳にも伝わったか」
「素晴らしい報です。ローブルグとの同盟締結は、シャルムだけではなく、大陸においても歴史的な出来事になりましょう」
エルネストは黙っている。沈黙の理由をグレースは知っていた。しばらくのち、グレースは声を発する。
「ジェルヴェーズではなく、リオネル様が達成なされたのですね」
「……それを言いにきたのか」
再び会話が途切れると、沈黙が流れる。気まずい沈黙だった。
ローブルグとの同盟締結は、今のシャルムにとって朗報である。けれど、それを成し遂げた者が、交渉に向かったはずの王子ジェルヴェーズではなく、ベルリオーズ領で静養していたはずのリオネルだったのだ。むろんレオンも同行したが、使節の代表はリオネルである。
現王家にとっては、クレティアンの一人息子が成し遂げた成功を歓迎すべきかどうか、難しいところだった。
真面目で素直な性格のグレースと、玉座を異母弟から奪ったほどの野心を持つエルネストとは、まったく違った意見を持つことだろう。
浅く溜息をつきながら、エルネストはしぶしぶ口を開く。
「対外的には、ジェルヴェーズが成したことにする。明日にも公表するつもりだ」
「…………」
グレースの沈黙は、少なからず抗議の色を含んでいる。そのことに気づいて、エルネストは不愉快げな面持ちになった。
「ジェルヴェーズが交渉に赴けなかったのは、ベルリオーズ家の家臣による裏切りのためだ。もしリオネル・ベルリオーズ殿が交渉にあたったことを公表すれば、ナタン・ビューレルの所業も明るみになる。そうなれば、ベルリオーズ家は責任を問われることになるだろう」
「ベルリオーズ家のためと、おっしゃるのですか?」
字面を追えば責めるようなグレースの台詞だが、その声は穏やかで、糾弾する響きは感じられない。だからこそ、エルネストはかろうじて声を荒げなかった。
「ならば、すべてを明るみにすることを、ベルリオーズ家の者が望んでいるとそなたは思うか?」
「話しあうべきと存じます」
控えめにグレースは進言する。けれど、エルネストは表情さえ動かさずに断言した。
「話しあったところで、ジェルヴェーズではなく、リオネル・ベルリオーズが赴いたなどとは公表できぬ」
「すでにリオネル様が赴いたという噂は、密かに王宮内で広がりつつあります」
「根拠のない噂を広めた者は厳しく罰する。そうすれば、つまらぬ噂などそのうち収束するだろう」
不都合なものは力で押さえつける。それが、常にエルネストの最終的な手段のようだった。
「けれど、ローブルグ側からも真実は広まるでしょう」
「そなたは、だれの味方なのだ?」
エルネストはグレースを見据える。
「ジェルヴェーズが交渉を成立させたことにすれば、支持者が増える。それは、親である我々が望むところではないか」
「ですが、真実ではありません」
「真実にこだわっている場合ではない」
交渉する余地もないエルネストの態度に、グレースは黙りこんだ。
むろん、息子の立場を確かなものにできれば嬉しい。けれど、それでいいのだろうか。
それが、ジェルヴェーズのためになるのか。
ジェルヴェーズにナタン・ビューレルが斬りかかかったこと、その真相も徹底的に調査したうえで、公表すべきだとグレースは考えていた。あとから様々なことが噂され、陰でささやかれるようになったら、それこそ危険なことだ。
けれど、聞き入れられないとなれば、グレースが夫に言えることはひとつだけだった。
「あくまで交渉はジェルヴェーズが赴いたことにするのですね」
「ローブルグ側にも、その旨を了承してもらう」
「では、ベルリオーズ家のご家臣がジェルヴェーズへ斬りかかったことは、一切、水に流されるのですね」
「…………」
「シュザン様にも、お約束なされたのではありませんか?」
「シュザンと約束したのは、帰還後のリオネルの身の安全だけだ。ベルリオーズ家への罰に関してはなにも話していない」
「――陛下」
沈黙が流れる。
「どうかご自身に恥じぬご判断を」
穏やかながら、強い意思の込められたグレースの声だった。是と非とも答えられぬエルネストは、苛立ちを押し殺した声で言い放つ。
「考えておく」
普段は政治に口出ししないグレースだからこそ、こうして珍しく進言してくれば、エルネストも邪険にはできない。不機嫌にはなっても、完全に跳ね除けることはできなかった。
そもそも、グレースに対しては、アンリエットに浮気心――いや、本気で惚れた負い目もある。
「そなたの考えは尊重する。安心して戻りなさい」
そう言って妻を追い返し、ひとりになると、エルネストは深い溜息をついた。
+
王都サン・オーヴァンの遥か西方。
ブレーズ領の中心都市ル・ルジェに位置する館に、数名が集っていた。うちひとりは王族である。
――第一王子ジェルヴェーズは、苛立つふうでもなく、淡々とつぶやいた。
「同盟は成立したか」
絹のカーテンや、調度品の品々は目を見張るほど上等であるが、木目を基調とした部屋は、落ち着いた雰囲気だ。
――ブレーズ邸。
この一室に集っているのは、ジェルヴェーズのほかには、フィデールと側近エフセイのみである。
しばしばフィデールのそばにいる異国人――エフセイについて、ジェルヴェーズは、妙な家臣を引き連れているものだと心の隅で思っているのかもしれないが、特別な関心は示さなかった。
杯を傾けながら、ジェルヴェーズは腹心に語りかける。
「変わり者の王を説き伏せるのは容易ではなかっただろう。私の代わりにリオネル・ベルリオーズやレオンが骨を折ったと思えば、なかなか気分がいいではないか」
「同盟の成立とほぼ同時に、王妃や、その実父であるシュトライト公爵が罪に問われたことも興味深いですね」
「ローブルグで、なにが起こっているのだ」
問われて、フィデールはかすかに首を傾げる。
「なにやらアルノルト王子の死が絡んでいるようではありますが、子細はわかりかねます」
「アルノルト王子……下賤の娘と恋に落ち、随分まえに死んだ王子ではないか」
「追い詰めたのが、シュトライト公爵という話です」
「復讐を果たしたということか」
「二十年を経て――あるいは、二十年のあいだ、フリートヘルム王は復讐の機会をうかがっていたのかもしれません」
もしそうだとすれば、随分と狡猾な王だ。男色家で、政治感覚に欠ける無能な国王という噂であるが、ともすれば侮れぬ存在かもしれない。
「他国の内輪揉めなど、どうでもいい」
長椅子にゆったりと腰かけ、ジェルヴェーズは上等な葡萄酒をあおる。
「敵国の王に腰を折ることもなく、父上の命を果たすことができた。フィデール、そなたの知恵のおかげだ」
「恐れ入ります」
「このあとの筋書きを聞こうか? 牢に繋いであるジル・ビューレルの首を刎ね、戻ってきたリオネルを落胆させるというところか」
愉しげに話すジェルヴェーズの目はまったく笑っておらず、あながち冗談を言っているようでもない。
「いいえ、殿下。ジルを殺すなら、首を刎ねるのではなく、毒殺すべきです。そして、獄中で病死したとリオネル殿には伝えるのです」
あまりに冷淡かつ賢いやりくちに、さしものジェルヴェーズも舌を巻く。
「おまえは悪魔か、フィデール」
「もしジルを殺すなら――の話です、殿下」
「殺さぬつもりか」
「ナタンに次ぎ、命懸けで敵国へ赴き救おうとしたジルまでをも殺せば、リオネル殿は黙っていますまい」
「私や父上に盾突くと?」
「今回、ローブルグと同盟を組んだのは、良くも悪くもリオネル殿です。もしリオネル殿が、ベルリオーズ家をはじめ王弟派の貴族をまとめて軍を組織し、ローブルグと結託して王都へ攻め上るような事態になれば厄介です」
フィデールの指摘に、ジェルヴェーズは舌打ちする。
「我々は、今回の成功の裏で、同時に弱みも握ったということか」
忌々しげな様子のジェルヴェーズに、フィデールは青みがかった灰色の瞳を笑ませた。
「そうでもありません」
「どういうことだ」
「リオネル殿も、王都に攻め上るようなことはしたくないはずです。あの人物は、シャルム人同士が血を流しあうことを嫌うでしょうから。ゆえに、逆鱗に触れぬ程度にうまく手の上で転がし、我々の役に立ってもらえばよいのです。まだまだ利用価値はあります。片腕だけとなっても、使えるうちは使わせていただきましょう」
「使い終えたら、そのあとはどうする?」
フィデールは肩をすくめた。ややわざとらしい仕草で。
「滅ぼす方法はいくらでもあります。そのなかから最も残酷な方法を選べばよいのでは」
声を立ててジェルヴェーズは笑った。
「そなたといると飽きないな」
「……お褒めに預かり光栄です」
そう言うフィデールも笑っている。むろんこの台詞は半ば冗談である。
「そういえば、ラクロワの従者と門番は共に死んだようです」
わずかな間をおいて、再びジェルヴェーズは笑い声を上げる。
「そなたの見立てたとおりになったではないか」
「ええ」
「ここまで筋書きに忠実に事が運ぶとは」
「運がよかったのです」
「二人が死んでは、あちらはなんの真実も知り得ないだろう」
一瞬フィデールが黙したのは、果たしてそこまでうまくいったのかという疑念が残っていたからだ。
門番レオポルト・コシェに、金貨と引き換えに手紙を渡させたのは、フィデールの配下の者である。レオポルトがその手紙をだれに渡そうが、かまわなかった。最終的には、ベルリオーズ家の直臣に伝わり、ジェルヴェーズに斬りかかればよかったのだ。
そして、それは計画通りになった。その結果、主人に偽りの手紙を渡した者―――今回はジャン・バトンであるが――が、自責の念から門番レオポルト・コシェを殺害し、自殺することまでもフィデールはおおよそ予測していた。
けれど、まさかここまで計画通りに進むとは。
手紙は直後にフィデールがナタンから取り上げて燃やした。だが、二人は、周囲になにも語らずに死んだのだろうか。
フィデールの疑念をよそに、ジェルヴェーズは上機嫌だった。
「首を刎ねることができないとなれば、近いうちにジルの身柄をベルリオーズ家に届けにいくとしよう」
「殿下御自らですか?」
驚いた様子で、フィデールは尋ねる。
「ああ、そうだ」
「ベルリオーズ家には、私の配下を遣わせば――」
「いや、私が行く」
台詞を遮ってジェルヴェーズは言った。
「ベルリオーズ邸へ行き、しばし羽根を伸ばそうではないか。西の都と謳われるシャサーヌの領主邸には、美女も美酒もそろっていることだろう」
「…………」
フィデールが押し黙ったのは、ジェルヴェーズの真意が他にもあることに気づいたからだ。ひたと視線を向けられ、ジェルヴェーズは皮肉めいた笑みを浮かべる。
「リオネル・ベルリオーズの婚約者はなかなかの美女という噂だ。やつの帰還に際して婚約者も館を訪れるかもしれぬ。少し遊んでやろうと思ってな」
「訪れぬ可能性もあります」
「そのときには、呼びつければいい」
「……なるほど」
「それから、煙突掃除夫に扮していたイシャスとやらを探し出し、やつの目のまえで切り刻んでやろう」
ジェルヴェーズの考えていることを、フィデールはおおよそ理解する。
「リオネル殿の大切なものを、ひとつ残さず奪っていくおつもりですか」
「それとわからぬように――もしくは抵抗できぬ形でな。おまえと長く時間を過ごすうちに、つまらぬ知恵がつくようになってきた」
「おもしろいかもしれませんね」
「最高の余興が見られるだろう」
「私は残念ながら、その余興を直接拝見することができませんが」
「ベルリオーズへは来ないのか」
「我々ブレーズ家の者は、ベルリオーズ家を殊のほか憎んでおります。シャサーヌへ行くのは気が進まないのです。どうかここに留まることをお許しください」
ジェルヴェーズは口端を吊り上げて笑った。
「まあ、いい。私も適当な頃合いで王宮へ戻る。そのときにおまえも戻るのだろうな?」
「むろんです」
「ならば、おもしろい土産話を聞かせてやろう」
「楽しみにしています」
掲げられた葡萄酒の杯に応えて、フィデールは己の杯を持ち上げる。
「シャルムの繁栄と、ベルリオーズ家の不運に」
ジェルヴェーズが言うと、
「殿下のご健勝と、リオネル殿の災厄をお祈りして」
とフィデールは冗談めかして返し、二人は笑いながら同時に杯を干した。
次回で第五部最終話です。明日更新予定です。