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「今夜は、皆に話しておきたいことがある。よく聞いてほしい。表沙汰にはしていなかったことだが、皆既知のとおり、今は亡き我が兄には子がひとりいた」
静寂のなかにも、わずかな空気の変化が生じる。来場者は、ローブルグきっての貴族たちだ。王の切り出した話題の重さは、充分に承知している。
「市井の者とのあいだにできた子であるがゆえに、先王により認められず、名を伏せられ養子に出されていた。先王亡きあと、私は彼を密かに王宮に呼び戻したが、突如行方知れずとなった。――しかし、ついに見つけることが叶った」
玉座のフリートヘルムは傍らに立つジークベルトを見上げて、前へ出るように促す。ジークベルトは叔父の顔をしばし見つめていたが、ややあって諦めたように一歩前へ進み出た。
会場の視線がジークベルトに集中する。
一方フリートヘルムは、甥から会場へ視線を戻してあらためて告げる。
「――アル、と呼ぶ者もあったようだが、真の名をジークベルトという」
穴が空くのではないかというほど注目を浴びるジークベルトだが、その態度は落ち着いている。
「我が甥にして、亡きアルノルト第一王子の実子。そして、ローブルグの次期国王だ」
フリートヘルムがそう言い終えると、小波のように低いざわめきが広がった。
つまり、フリートヘルムは自らの子を成さず、もしくは成したとしても、王位継承権は甥であるジークベルトに譲ると宣言したわけである。
人々のあいだに生じたざわめきに、フリートヘルムは苦笑した。
「正統な王位継承者に玉座が戻るだけのこと、驚くことはあるまい」
――といっても、公の場で発表されたのだから、それは特別な意味合いを持つ。
この場で、次期国王が正式に決定した。
「ついては皆よく聞け。シュトライト公爵は王族への暗殺を企てた罪で、牢に繋がれている。我が妻であったマティルデも同罪だが、彼女は現在行方がわからぬ。我が甥ジークベルトに危害を加えようとする者は、いかなる立場であれ、容赦なく断罪する。よいな」
再び低いささやきが広がる。シュトライト公爵の逮捕を知らなかった者は、この会場にはひとりもいないだろうが、その罪状までは明らかにされていなかったようだ。
ジークベルトへ、もとの位置に戻るようにと命じると、フリートヘルムは再び会場を見渡す。
「そして、いまひとつ知らせることがある」
ざわめきは、一瞬で静寂に変わった。
「レオン王子、リオネル・ベルリオーズ殿、及び供の者はここへ」
呼ばれた面々は一瞬のうちに視線を交わしあうと、ローブルグ王の面前へ進み出る。
恭しく膝をつく六人を見下ろし、フリートヘルムは告げた。
「シャルムから敵国である我が国の王都へよく来たものだ。怖れも、ためらいもないそなたらの行動には、感服すると同時に、呆れもする」
最後の台詞を言う声が笑っていたような気がして、ふと視線を上げたアベルの目に、フリートヘルムの愉しげな眼差しが映る。アベルにかすかな笑みを返してから、フリートヘルムは表情をあらため、真剣な口調で告げた。
「そなたらの願い出を受け入れよう。――ローブルグは貴国と同盟を結ぶ」
アベルは大きく瞳を見開く。目前で、リオネルとディルクがちらと顔を見合わせた。
降り落ちた束の間の静寂。
それから、驚くシャルム使節らの背後で、これまでにない大きなざわめきが広がった。
歴史的な敵国同士であるシャルムとローブルグが手を組むなど、だれにとっても信じられないことだ。
近頃は両国のあいだに大きな戦いが生じていなかったとはいえ、未だに敵同士であるという認識は両者のあいだに深く根付いている。
ひときわ渋い表情だったのは、玉座にほど近い位置に立つ、肩幅の広い騎士だった。三十代前半と思われるその騎士は、いかにも武人らしい風情だ。
ざわめきを遮ってフリートヘルムは告げた。
「これは、私とジークベルトが話し合って出した結果だ。北の脅威に対抗するために必要な同盟であるとともに、これまでの両国の関係を変えていく転換点になるとも考えている」
すると、渋い表情だった騎士が、進み出て発言の許可を求める。想定していたかのように、フリートヘルムは微笑した。
アベルらはまだ知らなかったが、王の面前に進み出たこの男こそが、ローブルグ正騎士隊隊長のエーリヒ・ハイゼンだった。
「エーリヒ、そなたの意見を聞こう」
「おそれながら、率直に申しあげます。同盟を組むならば、シャルムよりもユスターのほうが望ましいかと存じます」
フリートヘルムは軽く目を細める。
「理由は?」
「ユスターの使者も同盟交渉のために我が王宮を訪れました。我が国を守るためであるなら、積年の敵国と手を組まずともよいはず」
「なるほど、そなたの言いたいことはわかる。だがユスターの使節らは、ジークベルトを害そうと企んでいたシュトライト公爵と、裏で組んでいたのだ。シャルムの使節を捕らえて、交渉を有利に進めようともしていた。このような卑劣な真似をする者たちと、話をする余地などない」
「それは使節の罪であって、そのことだけをもってして外交上の判断を下すのは性急です。どうしてもユスターとは難しいということなら、他にも手を組める国はあります」
「シャルムでは問題が?」
「我が祖父をはじめ、私は多くの親族を戦いにおいてシャルム人に殺されております。兵士らも皆同様。今更、シャルム人と手を携えることなどできませぬ」
「それはシャルム人のほうも同様であろう」
「ではなおさら――」
言い募るエーリヒに、フリートヘルムは落ち着き払った口調で告げた。
「エーリヒ・ハイゼン、感情的なものに捕らわれたまま隣国同士でいがみあっていては、やがて己が身を滅ぼす日がくる。そなたもわかっているはずだ。北の脅威に対抗するためには、意地を張っている場合ではないことを。過去ではなく、未来に目を向けよ」
およそフリートヘルムらしからぬ発言である。だれよりも過去に囚われていたのは、フリートヘルムのはずだったというのに。
皆が目を丸くするかたわら、ディルクが小声でレオンにささやいた。
「恋は人を変えるというけど、本当らしいね」
「その口を針で縫い付けてやる」
「おお、怖い」
会話を聞いていたマチアスが、主人の足を踏みつける。
先程レオンに踏まれたのとは別の足を踏まれ、ディルクは無言で身もだえた。どうにかマチアスを睨みつけたものの、素知らぬ表情が返ってきただけだった。
「とはいうものの、シャルムとの同盟に関しては、皆に相談なく決定したことをすまなくも思っている」
押し黙るエーリヒ・ハイゼンを見やりながら、フリートヘルムは告げる。
「意見があるなら、機会を設けて聞こう。話し合いの場も持つつもりだ。エーリヒ以外にも、納得しておらぬ者はいるはず。決定を曲げるつもりはないが、意見を排除するつもりもない。反対者に対して、私なりに応えるつもりだ」
いったん言葉を切ってから、「それと、話は変わるが――」と、フリートヘルムはあらためて話を打ちだす。
「あらかじめこの場で言っておくが、私はジークベルトの婚姻に関して一切の口出しはしない。また、他の者にも同様に王妃の身分へ意見することを固く禁ずる。たとえジークベルトが市井の者を妻に迎えても、ローブルグはその者を王妃として戴くのだ」
「…………」
恐ろしいほどの沈黙が舞踏会場を覆った。
反対の声は上がらないが、この静寂の深さは――。
だれもがフリートヘルムの言葉の理由を解していた。市井の娘を娶った末に、前王に反対され死に追いやられた第一王子アルノルト。その悲惨な過去を繰り返さぬためであることを。
すると、静寂のなかからひとりの声が上がった。けっして若くはない声だった。
「時期国王陛下の婚姻に関して、一切の口出しを禁じられると仰せであれば、今の時点で陛下にひとつだけ申し上げたきことがあります」
進み出たのは、どうやら保守的な年配者である。
「マルク・ケスマン、聞こう」
「市井の者と結ばれることに関しては、なにも申しあげますまい。けれども、なにも王妃としなくともよいではありませぬか」
つまり、この場では明言しないものの、市井の娘は愛人にし、王妃は格式ある家からもらえばいい――ということだ。
意見を述べたマルク・ケスマンを、フリートヘルムは冷静な眼差しで射抜く。これまで「本気」を見せなかったフリートヘルムとは、やはりどこか違った。
「私の妻は、正しい家柄であったが、この顛末だ」
マルクが押し黙ったのは、シュトライト公爵の娘マティルデが、ジークベルト殺害計画に加担して罪人となったことを今しがた知ったからだ。
「互いに支え合える相手であること以外に、王妃に求める条件はない」
言い終えると、ふっと微笑をたたえてフリートヘルムはレオンへ視線を向ける。
互いに支え合える相手であること以外に求める者はない――という言葉には、まるで異性でなくとも構わないという響きさえ含まれているかのようで。
迷惑げな面持ちでレオンは眉を寄せて、咳払いをした。
王の話が終わると、楽曲が再開され、会場はもとの賑やかさを取りもどす。
めいめいに談笑しているようにみえる貴族らは、けれど、今しがた王の口から出た発言の数々を未だに消化しきれぬ様子である。おそらく会がお開きになったあとの帰り道では、様々な意見が飛び交うことだろう。
シャルム使節であるリオネルらも、王の面前から退く。
退いた直後、アベルはリオネルのそばへ駆け寄る。
「本当に――本当によかったです」
と言葉をかけながら。
目の奥からは熱い雫がこみあげ、アベルの空色の瞳を潤ませていた。
そんなアベルの髪に右手で軽く触れ、リオネルは静かな笑みを浮かべる。
「アベルをはじめ、皆のおかげだ」
「だれよりもご苦労されたのはリオネル様です」
曖昧にほほえんでリオネルは首を振った。
「おれは皆に助けられてばかりだ」
「すべての責任を負われているリオネル様が、最も重圧のなかにいるはずです。それでも、普段と変わらない様子で過ごされていました。それがどれほど大変なことか、皆様は充分ご承知です」
「まえにも言ったと思うけど、おれはアベルがそばにいてくれるだけで、いくらでもがんばれるんだ。それだけのことだよ。今回は、きみが突然いなくなって、正直どうかなってしまいそうだったけれど」
「……多分なお言葉です」
どこまで本気で言っているのか測りかねたものの、アベルは素直にリオネルの言葉を受けとった。
「本気にしていないだろう?」
見透かしたようにリオネルが言う。
小さく笑ってから、アベルは答えた。
「――どちらでもかまわないのです。その言葉だけで充分ですから」
「どちらでもかまわなくなんてない」
視線がからみあったが、アベルの笑顔につられるようにしてリオネルもほほえむ。
それからリオネルはふと真顔に戻った。
「だが、すべてはこれからだ。シャルムに戻り、ジル・ビューレルを救い出し、同盟締結のいきさつを陛下に報告し……」
「違いますよ」
途中でアベルに打ち消されたので、リオネルが軽く首を傾げる。
「あとのことは、周囲の方々に任せてください」
「そういうわけにはいかない、おれには最後までやり遂げる責任がある」
「シャルムに戻ったら、リオネル様は左腕を動かせるようになるまで、ゆっくりと養生するのです」
「それを言うなら、アベルこそ充分に休んで身体を治すんだ」
「わたしはもう平気です」
「きみの言う『平気』は、けっして平気じゃない」
「リオネル様こそ、ご自身の身に起きていることの重大性を認識してください」
頑固者同士で視線をぶつけ合ってから、ふっと二人は破顔する。そして、声を立てて笑った。
二人の周囲では、ディルクとレオンがつまらない口喧嘩の続きをしており、マチアスとベルトランが無言でその様子を見守っている。
――どこへ行っても、変わらぬ風景だった。
煌びやかな舞踏会が催されたその夜。
日付が変わらぬうちに、ローブルグとの同盟成立の報を知らせる使者が先だってシャルムへ向けて旅立った。
舞踏会の出席者の口から同盟成立の噂は波紋のように広がり、かくして、長年の敵国であるシャルムとローブルグの同盟締結の報は、またたくまに大陸西方に広まっていったのだった。