52
大広間は、あらゆる光に溢れている。
天井から下がるシャンデリア、大きな窓に反射する燭台の光、貴婦人が身に着ける宝石に、天井画を縁取る金の枠、そして、酒杯に揺れる金や紫の光たち。
夜には涼しさを増してきたこの頃だが、大広間は来場者の熱気や、出来たての料理の温度で、暖炉に火を熾さずとも過ごしやすかった。
ふと左手を脇腹にやると、声がかけられる。
「傷は痛まないか?」
先程から心配そうに度々尋ねてくるのは、リオネルだ。
アベルは微笑しながら答える。
「大丈夫です」
するともう一方からも声が上がった。
「普通の食事をとっても平気なのかい?」
気遣ってくれるのは、アルノルト王子の遺児であり、アベルにとっては友人であるジークベルト。
再びアベルは小さく笑って、同じ回答をする。けれど、アベルの両脇に立つ若者同士は、一度も視線を交わさなかった。
「両脇を固めて、二人はまるでアベルの用心棒だね。あれではアベルに一歩も近づけないよ」
苦笑まじりにつぶやいたのは、その様子を遠巻きに眺めるディルクである。
「ディルク様、なにを呑気なことを――貴方もアベル殿の隣へ行くのです」
苦笑を深くして、ディルクは傍らのマチアスを見やった。
「いったい我々はなにを競っているんだ?」
「アベル殿の隣に立つ権利です」
「……マチアス、おまえフリートヘルムの変態ぶりに洗脳されたのか?」
「おかしなことをおっしゃらないでください」
「おかしいのは、おまえのほうだ」
一方的に決めつけたところで、ディルクの地獄耳にレオンの独り言が飛び込んでくる。
「……それにしても、いったい、どうやったのだろう」
葡萄酒を片手にぶつぶつとつぶやいているのは、レオンである。恰好の酒の肴を見つけたとばかりに近づき、ディルクは尋ねた。
「なんのことだ?」
やや警戒するようにレオンは一歩後退してから、相手がディルクと知ると、「なんだ。おまえか」と安堵の色を浮かべる。
「だれだと思ったんだ?」
からかう笑みを口端に浮かべてディルクが問うと、
「だれでもない」
とレオンはぶっきらぼうに言い放った。
「安心しろ、公の場でフリートヘルム王が、おまえに言い寄ることはないだろうから」
「そのようなことは心配していない」
「じゃあ、どうして動揺していたんだ?」
詰め寄るディルクに、
「そのあたりにしておくのです、ディルク様」
とマチアスがたしなめる。従者に諌められたディルクは、しかたなしに話題をもとに戻した。
「で? なにをひとりでぶつぶつ言っていたんだ?」
「……おまえの品位の欠如にも呆れるが、その地獄耳にも閉口する」
「品がないとは失礼だな。まあ、おかげで変態に言い寄られなくてすんだけど」
ディルク様、とマチアスが再び注意すると、片眉を上げただけでディルクは口をつぐむ。
そんなディルクを、レオンはちらと見やってから、二人の高貴な騎士に囲まれたアベルへ視線を移した。
「アベルがどうやって手首の拘束を解いたのか、未だに疑問なのだ」
「旧館裏の地下牢で?」
「あのときアベルは、ほとんど食事をとっておらず、衰弱しきっていた。両手は縄でしっかりと拘束されていたし、どうやってそれをほどいて監視者へ攻撃を仕掛けたのか、おれにはわからないのだ」
「どうして本人に聞かないんだ?」
「あれこれと忙しく、なかなか落ち着いて見舞いに行けなかったのだ。気がつけばアベルは寝台から起きて動けるようになっていたが――もっと見舞いに行きたかった」
「フリートヘルム王の誘いから逃れるので手一杯だったんだから、しかたないさ。アベルもちゃんと理解しているよ」
「…………」
あえて言葉にしなかったことをディルクが口にしたので、レオンは閉口した。
その様子に笑ってから、ディルクはアベルを指さす。
「本人に聞いてみればいいじゃないか」
「なんだか、あの雰囲気に入りにくくてな」
「たしかにね」
アベルの両脇を固める二人の美男子と、さらに彼らの背後に控える仏頂面のベルトランがまた、独特な空気を作りだしている。
会場に集ったローブルグ貴族らは、踊りや談笑に興じながらも、アベル、リオネル、ジークベルト、そしてベルトランという組み合わせの四人を、ちらちらと見やって手元を隠しながらなにかささやいていた。そのなかには、ジークベルトの素性を知っている者も、そうではない者も含まれているだろう。
すると、その異様な雰囲気を遠慮なく崩した強者がいた。
壇上のフリートヘルムが、ジークベルトを手招きしたのだ。
王に招かれてはしかたがない。ジークベルトはアベルに断り、その場をあとにした。最後に、リオネルと一瞬だけ静かな火花を散らして。
「お、今なら行けるんじゃないか?」
ディルクに促されてレオンは一歩踏み出すが、たちまちその足は止まってしまう。
すぐにだれかが彼らのそばに近づいたからだ。いや、正確に言えば、相手はリオネルのほうに用事があったようである。
リオネルのそばへ歩み寄ったのは、透けるレース編みのヴェールで顔の上半分を覆った女性だった。
「あいつもなかなかやるなあ、かなりの美女じゃないか」
つぶやいたのはディルクだったが、
「どうも様子が違うぞ」
とレオンが訝る。なぜなら貴婦人は数人の侍女を伴っており、さらにリオネルが丁寧に一礼して、恭しく手の甲へ口づけを落としたからである。
リオネルの様子からして、よほど高貴な女性を相手にしているようだった。
「どなただろう?」
ヴェールの女性はローブルグ人のようだ。
「……ローブルグにおいて、リオネルの知っている高貴な貴婦人といえば?」
ディルクとレオンは顔を見合わせる。
二人が思い当たる人物は、ただひとりだった。
リオネルに続いてアベルやベルトランも深く腰を折る。相手との身分が違いすぎるため、アベルはその手に触れることも許されない。
三人のまえに現れたのは、フリートヘルム王の姉カロリーネだった。
場内が先程よりも静かになったのは、カロリーネの動向を皆が見守っているからだろうか。
「リオネル・ベルリオーズ様、またお会いできましたね」
「先日は、ご無礼を」
「無礼など、なにもありませんでしたよ」
事の成り行きを知らぬアベルは、なんのことだろうと心中で首を傾げる。
「探していた相手が見つかったと聞き及んでいます」
カロリーネは優美な笑みをリオネルへ向けた。
「おかげさまで、救い出すことができました。フリートヘルム陛下やカロリーネ様はじめ、皆様のご助力の賜物です」
礼の姿勢をとったまま告げるリオネルに、カロリーネは顔を上げるよう命じる。
「ジークベルトも捜索にあたったとか」
「二人が捕らわれていた場所を探しあてることができたのは、ジークベルト殿の助言によるものです」
ふっと口元をゆるめて、
「捕らわれていた二人は、あの子の友人であったと聞きましたが……」
とひとりつぶやいてから、リオネルの後方に控えるアベルとベルトランをちらと見やった。
「見つかった二人はどこに?」
「ひとりはあちらにおられるレオン殿下、いまひとりはここにいる従騎士アベルです」
紹介されたアベルは、緊張しながら礼の姿勢を深くする。
「このような幼い者だったのですね。怪我を負ったとか」
「ようやく動けるようになったところです」
説明したのは、アベルではなくリオネルだ。
レオンとアベルが地下牢から助けだされて十日。幸い怪我は軽傷で、栄養のある食事と休息によって、アベルはすでに動ける身体になっていた。
「このような場に出席しても、大丈夫なのですか?」
この日は、エーヴェルバイン王宮で舞踏会が催され、リオネルらも招待されている。
部屋で休んでいるようにと諭すリオネルに対し、大丈夫だとアベルは言い、ついにはリオネルのほうが折れて舞踏会の出席を許可されることとなった。……その背景には、
「部屋にひとりで寝かせておくよりも、おまえのそばに置いておいたほうがむしろ安全かもしれないぞ」
というベルトランのひと言があったわけだが、むろんアベルは知らない。
「頑固な性格でして」
ひとことでリオネルが答えると、まあ、とカロリーネは笑った。
アベルは一瞬むっとするが、カロリーネの面前なので言葉を控える。そんなアベルを、カロリーネはじっと見つめていた。
視線を感じて、アベルはどぎまぎする。
フリートヘルムをまえにしたときにはまったく平気だったというのに、どうしてカロリーネ相手には緊張するのだろう。彼女が大人の雰囲気と、妖艶な美しさを纏っているからだろうか。
「リオネル様はあなたがたがいなくなって、とても心配されていましたよ」
優しい口調でカロリーネはアベルに告げた。
「蒼白な顔でわたしの城へ来て、二人が監禁されている可能性はないかと尋ねられました」
そのようなことがあったのかとアベルは驚く。カロリーネの城にまで探しにいったとは、まったく知らなかった。
そこまでリオネルたちは探してくれていたとは。
「あまりご主人様に心配をかけさせてはいけませんよ」
「……申しわけございません」
「あら、謝るのはわたしではなく、リオネル様に対してですよ。もっとも、心配するほうも好きで心配しているのでしょうけれど」
アベルはなんと答えてよいかわからず困惑の表情でいると、カロリーネはくすくすと笑った。
「本当にかわいらしい子」
「あまりからかわないであげてください」
リオネルが言うと、「あなたのために申したのですよ」とカロリーネはいたずらっぽい微笑を返す。今度はリオネルが困ったような顔になる番だった。
二人の表情を交互に見比べて再び笑うと、カロリーネはちらとレオンを振り返り、
「王子殿下にも挨拶にうかがわないとなりませんね。陛下がずいぶんと気に入っておられるようですから」
と意味ありげな言葉を残して、レオンらのほうへ向かう。
礼の姿勢でカロリーネを見送ると、リオネルとアベルは顔を上げて視線を交わした。しばらく互いを見つめてから、二人は小さく笑いあった。
さて、カロリーネが近づいてきたことに気づいたレオンは、一瞬ひるんだ表情をみせる。
「逃げるなよ、レオン」
ディルクに念を押されて、
「逃げるものか」
とレオンは答えた。
彼がややひるんだのは、面倒事はフリートヘルムだけで充分だったからだ。
あの変態王の姉ならば、どんなにか癖のある人物かわからない。落ち着き払った態度の、妖しげな美貌を持つカロリーネは、レオンにとって苦手な種の相手だった。
レオンのまえまで来ると、カロリーネは軽く腰を落とす。
「シャルム王国のレオン王子殿下でいらっしゃいますね。わたくしは、フリートヘルム王の姉、カロリーネです」
丁寧な挨拶を受けて、レオンもまた内心の感情を微塵も感じさせぬ優雅な仕草で、カロリーネの手をとり口づけた。
その身分ゆえにレオンが貴婦人の手に口づける姿など、滅多にみられるものではない。が、なかなか様になっているのだから、さすがは一国の王子である。
「カロリーネ殿には、お会いできて光栄です」
あらためて向き合うと、カロリーネはレオンをまじまじと見つめる。そして、形の良い唇にくすりと笑みをひらめかせた。
その仕種一つで、レオンは相手の考えを察して、うんざりした気分になる。
「念のため、申しておきますが――」
と、レオンが言いかけると、カロリーネが笑顔でそれを遮った。
「いいのです、わかっておりますから」
「…………」
「けれど陛下は、あのように優柔不断でのんびりしているように見えて、実はとても真面目で純粋なのです。……きっと、あなたと似ているのでしょう」
変態王に似ていると言われるのは、心外である。レオンの心情を見透かしたのか、カロリーネは複雑な面持ちになった。
「今日、久しぶりにお会いした陛下は、とても活き活きとしておられます」
フリートヘルムは、大広間の最奥にある壇上の玉座に腰かけている。先程から目を合わさないようにしているので、彼が本当に活き活きしているのかどうか、レオンにはわからない。
「どうか、噂などに流されず、陛下と人間同士の付き合いをしていただけないでしょうか」
「人間同士の付き合いなら、むろんこちらとしても歓迎しますが」
「陛下が望んでいるのは、それ以上でもそれ以下でもございません。どうか陛下のよい友になってください。陛下には、心からわかりあえるご友人が必要なのです」
微妙な表情ながらも、レオンは小さくうなずく。
うなずいてしまった。
うなずかされてしまったのだ。
人間同士の付き合いだというならば、拒絶する理由はない。――けれど、本当にそれだけだろうか。
結局は、この展開だ。友人となることを承諾してしまった。
だからカロリーネと話すのは嫌だったのだと、レオンは攻めるような眼差しをちらとディルクへ向けた。
むろん、カロリーネが話しにきたのも、このような流れになったのもディルクのせいではない。この場合、ディルクに対する感情は、レオンの一方的な逆恨みである。
けれど、ディルクがおもしろがっているのは間違いないことだった。にこにこと笑いながら、
「お二人がよき友になれるよう、私も願っております」
などとディルクはカロリーネに語っていた。
舞踏会が終わったら、やはりこの男を叩き切ってやろうかと、レオンは密かに思う。
カロリーネが立ち去ると、叩き斬る代わりに、レオンはディルクの足を踏みつけた。
「いてッ! なにするんだよ、この暴力王子」
片足で跳びあがりながら、ディルクはレオンを糾弾した。が、痛がるディルクを見るレオンは冷ややかである。
「これでも、手加減したほうだ」
「おれがいったいなにをしたって言うんだ」
「なにが、『お二人がよき友になれるよう……』だ、人の気も知らずに」
「だってそうじゃないか。おれたちは同盟を申し込みに来ているんだから、両国の親睦は必要不可欠だろう?」
真面目な台詞を発しているはずのディルクの口元は、かすかに笑っている。レオンがもう一度足を踏みつけてやろうかと思ったとき、広間に鈴が鳴り響いた。
静粛を求める合図である。
たちまち会場内が水を打ったように静まり返ると、続いてよく通る声が響く。
「これより、国王陛下よりお話があります。静粛に」
先程までいがみあっていたはずのディルクとレオンは、無言で顔を見合わせる。いったいなんの話だろうか。
会場内の視線が、壇上へ集まる。壇上の玉座にはフリートヘルム、そしてそのすぐ脇にはカロリーネとジークベルトが立っていた。ゆっくりと来場者の面々を見渡してから、フリートヘルムは口を開いた。