51
陽光に輝く風が、かすかな秋の香りを含んでいる。
すでに九月、季節は刻々と変化していた。
束の間の夏は過ぎ去り、秋の気配が漂う。青々としていた木の葉は黄色に色づき、一枚ずつ枝を離れて地を埋めようとしていた。
報告へ赴く青年の足取りは重い。
正門側の厩舎に探す相手がいると聞いたジュストは、玄関を出て中庭を通り、さらに内門をくぐって騎馬像のまえへさしかかった。
……と、笑い声が聞こえた気がして、ジュストは正門へ続く道の脇に広がる前庭へ視線を向ける。
木製の手押し車を玩具にして遊んでいるのは、アベルの弟イシャスだ。
そばにはエレン以外にもう一名、若い女中の姿がある。ひとりの子供に、母親ではない世話係の女性が二人も付くなど、まるで貴族の子弟のようだ。たかが拾ってきた子供に、なんという厚遇だろうとジュストは思う。
今、彼らのそばに、ベルリオーズ公爵クレティアンの姿はない。
久しく体調がすぐれないクレティアンだが、先ほどまで彼もイシャスとともに過ごしていたことを、ジュストは知っていた。ここへ来る途中、自室へ戻るクレティアンとすれ違っていたからだ。
『戻っていたのか、ジュスト』
『公爵様、ご報告が遅れて申しわけございません。ご挨拶に伺ってよいものか判じかねているところでした』
すれ違った際、丁寧にジュストは挨拶した。
クレティアンは、ジュストが任せられている仕事をよく理解しており、挨拶が遅れたことについて咎めたりはせず、労いの言葉だけをかけた。
ジュストは恐縮するとともに、「お加減はいかがですか」と、クレティアンの体調を気遣う。すると、
『今しがたまで、イシャスと遊んでいたのだ。私は元気だ。心配には及ばない』
とクレティアンは答えた。
公爵が、ときおり外へ出てイシャスと遊ぶのは、自身の楽しみ以外にも、皆を安心させるためであることを、聡いジュストはすぐに察した。
アベルの弟をクレティアンがかわいがっていることは、ジュストにとって甚だおもしろくないことではあったが、今のベルリオーズ邸の状況を考えれば、文句の言葉も喉の奥で消えていく。
なにか明るい話題がなければ、ベルリオーズ邸は重苦しい空気に完全に呑みこまれてしまいそうだった。
イシャスの笑い声を遠くに聞きながら、ジュストは厩舎へ向かう。これから師匠クロードに報告すべき、ラクロワでの出来事を思い出しながら。
門番レオポルト・コシェの所在が判明したとの報告があったのは、ジュストがジャン・バトンの自死した現場を検証にいった日の夕方だった。
レオポルトが見つかったのは、ナタンの従者ジャン・バトンの遺体が発見された森のすぐ近くである。
小川の畔にある樵の小屋へジュストが駆けつけたとき、レオポルト・コシェは深手を負って寝台に寝たきりになっていた。
ジャン・バトンが発見された森と、レオポルト・コシェがいた場所は、崖と小川を隔ててつながっているが、崖の上にあるこちら側の森のほうが木々の密度が濃く、普段からあまり人の立ち入らぬ様子だった。
木々に囲まれた薄暗い場所、人里から隠れるかのように――あるいは時代の流れから取り残されたかのように、樵の家はひっそりと建っていた。樵の住処は、家というよりは掘立小屋のようだった。
小川の流れる音が絶えず聞こえるこの小屋の一角で、レオポルト・コシェは怪我を負った身体を横たえていた。
彼が横たわっていたのは、床に板を敷いただけの粗末な寝台である。
『レオポルト・コシェ殿ですか?』
ジュストが尋ねると、わずかにレオポルトは身体を揺らした。が、言葉は出ない。
『私は、ベルリオーズ家本邸から派遣されたジュスト・オードランです』
名乗っても、返ってくるのは虚ろな視線ばかり。
歳は二十七と聞いていたが、横たわるレオポルトは痩せこけて骨と皮だけになり、実際の年齢よりもはるかに老けて見える。
灰色に変色した髪、蒼白い顔のなかで、うっすらと開かれた青緑色の瞳だけが、たしかな色彩を有していた。
どうやら意識も混濁しているようである。
レオポルト・コシェの死が間近に迫っていることを、ジュストは即座に察した。
『レオポルト殿は、喋れないのか?』
だれにともなく尋ねると、レオポルトを世話していたらしい樵が恐縮した様子で答える。
『お助けしてから、お声を聴いたのは一度か二度ほどで』
『レオポルト殿を助けたときは、どのような状態だったのだ?』
『へえ、腹部にひどい怪我を負っていらっしゃいまして……ですが、息はしているようでしたので、家へ連れて帰って手当てをいたしました。お食事もご用意しましたが、ほとんど召し上がれないようで』
『医者は?』
ジュストの問いに、樵は委縮したように『そのような余裕は……』とつぶやいた。
『いや、責めるつもりはない。助けたことを感謝している』
そう断っておいてからジュストは、話のできぬレオポルトの代わりに樵へ質問を投げかける。樵は、五十歳は過ぎているだろうが、逞しい腕と、長い巻き毛が印象的な偉丈夫だった。
『レオポルトの腹を刺したのはだれか知っているか?』
『いいえ、周りにはすでにだれもおりませんでした』
『レオポルト自身でやったということは?』
ジャン・バトンが自死した経緯もあるので、ジュストは確認した。
『いいえ、殿方はなにも持っておられませんでした』
『レオポルトは一度か二度声を発したということだが、なにを言ったのだ?』
『へえ、「ナタン様」だとか、「ジャン殿」だとかつぶやいておられました』
『…………』
やはり、レオポルトは例の一件に関わりがあるらしい。が、レオポルトがこのような状態では、事件に関してなにか知っていたとしても、有益な話が聞き出せるかどうか。
医師を呼ぼうにも、レオポルトは今にも目前で息を引き取ろうとしているようだった。
と、そのとき、ジュストを見つめるレオポルトの瞳が正気の色を帯び、口が動いた。
『なんですか?』
レオポルトがなにか言おうとしたことに気づき、ジュストは彼のそばに寄る。
『なにを言おうとしたのですか?』
すると、しゃがれた声が、ようやく聞き取れるほどの音で発せられた。
『……ああ……待って、いた』
『私を?』
『話さなければならないと……ずっと、このときを待っていた』
『聞かせてください』
もしレオポルトから話を聞くことができるとすれば、これが最後の機会だろう。彼の身体は、あとどれだけもつかわからない。
最後の力を振り絞るように、レオポルトは喉を震わせた。
『……とんでもないことを、してしまった』
『とんでもないこととは?』
『……ジャン殿にも、ナタン殿にも、シャサーヌにおられるご領主様にも、私はとんでもないことを……』
『なんのことですか』
ジュストの催促に、レオポルトはようやく重い口を開いた。
『……手紙だ――金貨三十枚と引き換えに、私は一通の手紙を受け取った……』
虚ろな口ぶりだった。
『だれから? 手紙とは、どのような?』
『……内容は、知らなかったんだ……本当だ。相手も知らない……ただ、ジェルヴェーズ王子が到着なされるころ、門に黒服の男が現れ……その手紙を火急のものとして、ジャン殿に手渡せば、金貨をくれると言われた……。私はその取引に応じた……金のために、応じてしまった……』
『…………』
レオポルトが、娼館通いや賭け事で借金を重ねていたことは、調査によって判明している。金が欲しかったはずだ。そして、借金を返すために、レオポルトは手紙を受け取った。
『……約束通り、私はジャン殿に手紙を渡した……火急の知らせだと言って……。その直後だ……ナタン様が、到着なされたばかりのジェルヴェーズ殿下に、斬りかかったのは……』
金貨と引き換えに受け取ったその手紙が、すべての元凶だったのか。
『……頭が真っ白になった。ジャン殿はナタン様の従者……関連性があるように、思えてしかたがなかった。ナタン様が亡くなり……リオネル様が訪れ、ジル様が囚われ……現実とは思えないことが次々と起こり……そして、ジャン殿が私のもとへ訪れた』
『手紙のことで、ですか?』
『……ジャン殿は、なぜ偽の手紙を渡したのかと、私に詰め寄った……』
『手紙にはなんと書かれていたのですか?』
『……ジャン殿によれば、手紙には、クレティアン様が亡くなられたと……ジェルヴェーズ殿下から贈られた葡萄酒に毒が混ぜられていて、リオネル様も公爵様と共にお倒れになった旨が……書かれていたと……』
ジュストは絶句する。
そのような偽りの手紙を、だれが、なんのためにレオポルトに託したのか。
『……手紙を読まれたナタン様は、ジェルヴェーズ殿下に斬りかかられた……お気持ちを察すれば、当然のこと……』
『私も同じことをしたかもしれません』
ジュストのつぶやきに、レオポルトは青緑色の瞳をわずかに細めた。
『貴方は、ジャン殿になんとお答えになったのですか?』
『……私は本当のことを伝えられなかった……金欲しさに、手紙を受け取ったなど……』
『ジャン殿は?』
『……その場では、ジャン殿は引き下がった。私は恐ろしくて……手元にある金貨が悪魔のように見えて……それを一刻も早く処理するため……博打場へ、行った……』
――だれにも見つからないように、暗い森を通って。
語るレオポルトは呼吸が乱れ、言葉も途切れ途切れである。
レオポルトはもう助からない。
最後まで話し終えることができるかどうか。
『借金を返すためですね』
話を促す。レオポルトは呻くように答えた。
『……だが、その途中、ジャン殿に見つかった……あとをつけられていた。この金貨はどこで手に入れたのかと……詰め寄られた。本当のことを話せば、すべてを赦すと言われ、私は……金と引き換えに手紙を渡したことを、白状した……』
苦しげに一呼吸おいて、レオポルトはジュストから視線を外す。
『……ジャン殿が、私を許すはずがなかったのだ……当然のことだ……私のせいで、ジャン殿は、敬愛するナタン様を陥れる結果になってしまったのだから……』
『その傷は、ジャン殿が?』
『……よくも、よくも……と叫びながら、ジャン殿は私を……』
ジュストは目をつむる。
真面目で誠実な従者であったジャン・バトン。
彼は、計らずも己の主人を死に至らしめ、そして、仲間であったはずのレオポルト・コシェをも自らの手で刺さねばならぬ運命をたどった。
――残酷な結末だ。
自ら死を選んだジャンの気持ちを、ジュストは推し量ることができた。
『けれど』
ジュストは言った。
『けれど、ジャン殿は貴方に致命傷を与えなかった』
自らの息を一刺しで止めることができたジャンであるから、相手に致命傷を与えることは可能だったはず。けれどそれをしなかったのは……。
ジャンの最期の言葉。
レオポルトはついに呼吸が難しくなり、ひゅーひゅーという音の合間に声を発する。
『……ジャン殿は、私をこの小屋のそばまで運んでくださった……』
『ジャン殿は亡くなられました』
レオポルト・コシェの瞳が、はじめてなにか強烈な感情をたたえた。
『まさか……』
『ご自害なされました。おそらくあなたを刺してここへ運んだ後でしょう』
『…………』
沈黙の後、レオポルトの瞳が呆然と天井を見上げ、涙を流した。
『……なんてことだ……』
レオポルトの呼吸が浅い。
喉からか、それとも、もっと身体の奥のほうからか、空気の漏れる苦しげな音が絶えず聞こえる。
『……ナタン様だけではなく、ジャン殿もすでに天に召されたのか……』
『神の御許で、今はきっと安らかに過ごされています』
『……だが、私は天国へはいけない……』
つうっと、レオポルトのこめかみを、涙が流れ落ちる。
『……ナタン様やジャン殿には会えないが――――ああ、これでよかった……』
ジュストはかける言葉を探すことができなかった。
夢を見るような表情で、レオポルトはかすれた声を紡ぐ。
『ただ……あと少しでも生きることが許されるなら……せめてベルリオーズ家の繁栄と、公爵様、リオネル様、そしてジル様のご無事を、祈りたい……それだけが望みだ……』
指先が震える。最後に、なにかを掴もうとするように。
『……祈る時間を、神は与えてくださるだろうか――』
ナタンを死に追いやったレオポルトに対し、ジュストのうちに憤りがないわけではない。だが、レオポルトとて、このような事態になるとは思っていなかったはずだった。
最悪の結果を生み出したのは、レオポルトのほんの出来心と、すべてを企んだ首謀者だ。
偽の手紙を用意し、それを金貨三十枚と引き換えにレオポルトに持たせた首謀者――。
レオポルトが犯した罪は、神の前では、いったいどれほどの重さなのか。ジュストにもわからない。
やり切れぬ思いで、ジュストは答える。
『大丈夫です。神はきっと、貴方に祈ることを許してくださいます』
『……そうか……ありがたい』
声にはならなかったが、レオポルトの口は確かにそう動いた。そして、ゆっくりと閉ざされたレオポルトの双眸が、再び開かれることはなかった。
知らず、ジュストは瞳の奥から熱いものがこみあげる。
レオポルトの遺体をまえに、ジュストは静かに両手を組み合わせて、死者の魂がせめて安らかであることを祈った。
やわらかい草の香りが、ふと動物特有の匂いに変わる。
報告に行くとき、いつもクロードは厩舎にいる――などとぼんやり思いつつ、ジュストは扉を開いた。
高い位置にある丸い窓からは、燦々と光が差し込んでいる。
馬たちは気持ちよさそうに陽の光を浴びていた。
「クロード様」
クレティアンの愛馬の様子を確認する長身の若者をみとめて、ジュストは駆け寄る。
振り返ったクロードは、柔らかい笑顔でジュストを迎えた。
「そろそろかと思っていたところだ、ジュスト。ご苦労だった」
先日まで、クロードもまたラクロワへ調査のため赴いていた。けれど事態が大きく動いたのは、クロードがシャサーヌへ戻ってからのことだ。
ジュストは頭を下げる。それから、ラクロワにおける事件に関して、おおよその事実が判明したことを告げた。
「ジャン・バトンの死についてはすでに報告を受けている。レオポルト・コシェはどうだった?」
「会うことができました」
「連れてきたのか?」
「いいえ……私は、レオポルト殿の最期を看取ってきました」
「最期?」
今しがた思い返していたラクロワでの出来事を、ジュストは余すことなくクロードに語った。語り終えると、クロードは考えを整理するかのように、クレティアンの愛馬を見つめていた。ただひと言、
「偽りの手紙――、か」
とつぶやいて。
「ジャンが、『嘘をついた』と書き残したのは……」
黙り込んだクロードへジュストは告げる。クロードがジュストを振り向いた。
「……ナタン殿に渡した、偽りの手紙のことではないような気がするのです」
「というと?」
「あくまで憶測ですが」
前置きしてから、静かな口調でジュストは続ける。
「ジャンはレオポルトに対し、『本当のことを言えば赦す』と言ったのに、結局は感情が昂ぶって相手を刺してしまいました。正直なジャンがついてしまった、最初で最後の嘘――そのことを言っているような気がします」
ジュストの意見を聞いたクロードはうなずいた。
「そうかもしれないな」
「あるいは、どちらも含んでいたのかもしれませんが」
「結局は、姦計だということは判明したが、黒幕はわからず――ということか」
レオポルトに金を渡して手紙を託した犯人は、だれなのか。
ナタンを陥れるようなことを、ベルリオーズ家の者がするはずがない。ならば、やはりジェルヴェーズ側、もしくは国王派の仕業か。けれど、それを証明するものはなにもない。
――巧妙な奸計だ。
「もしナタン殿が受け取った手紙を見つけ出すことができたなら、それを調べてみよう。なにかわかるかもしれない」
「かしこまりました」
うなずいた後、ジュストはふと気になって頭を上げる。それに気づいたクロードが、視線だけで質問を促した。
「クロード様、うかがってもよろしいでしょうか」
「なんなりと」
「今回ラクロワで判明したことを、ありのままに公爵様にお伝えするのですか?」
「むろん、それが私の役目だ」
「…………」
ジュストはうつむき押し黙る。
軽はずみで身勝手だったとはいえ、このような事態を導くまでの悪意はなかったレオポルトの行動。
死ななくてよかったはずの、若きナタンの死。
ジャン・バトンの苦しみと自殺。
最後のレオポルトの願い……。
病床のクレティアンに伝えるには、あまりに救いのない話だった。
けれど、消沈したジュストの耳に、クロードの声が響く。
「――だが、伝えるのはリオネル様が帰還なされたあとにしよう」
はっとジュストは顔を上げた。
「変えることのできない過去の話なら、喜ばしいことと同時に伝えたほうが痛みも少しは和らぐはずだ」
それに……、とクロードは続ける。
「リオネル様やベルトランがいれば、痛みを分かちあうこともできる」
拳を握りしめて、ジュストは一礼した。
「ありがとうございます」
「今回は、ジュストばかりに辛い思いをさせたな。直接現場に行ったり、話を聞いたりするのは、大変なことだっただろう――その死に立ち会うのも」
クロードの声は気遣いに満ちている。ジュストは思わず胸が熱くなって、握る拳の力を強めた。
「いいえ、けっしてそのようなことは」
「ラクロワとシャサーヌとの行き来を繰り返して疲れたはずだ。しばらくは館で休むといい」
「ですが、手紙の調査が……」
「まずは手紙の所在を確かめてからだ。見つかったという報告がラクロワからあったら、そのときは、またきみにラクロワへ赴いてもらいたい」
クロードの言葉に、深々とジュストは頭を下げた。