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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第五部 ~敵国の都は、夏の雨にけぶる~
312/513

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「フリートヘルム陛下――」


 リオネルを筆頭に皆が床に膝をついて頭を垂れる。

 自らも寝台から降りようとするアベルを、リオネルはちらと振り返り、首を横に振った。降りなくてもいいという合図だ。


 ――が、ローブルグ王の前で寝ている姿をさらすわけにはいかない。アベルは怪我の痛みをおして、身体を動かそうとする。

 最終的にアベルの動きを止めさせたのは、フリートヘルムのひと声だった。


「そのままでいい」


 アベルは脚を地面に下ろす途中だったので、結果的に、寝台に座るような形になる。


 指示通りそのままでいるアベルを見やって、フリートヘルムは目元を笑ませた。それからゆっくりと寝台に近づき、アベルの目前で立ち止まる。


「この度はご迷惑をおかけしました」


 寝台に座ったまま頭を下げようとするアベルの顎を、フリートヘルムは指先ですっと上向かせた。


「ああ、こうしてみると思っていたより美しいな」


 美しい……。

 フリートヘルムから向けられた台詞に、一拍置いてから、


「ジークベルトも陛下も、冗談が得意なのですね」


 とアベルは笑みを添えて聞き流した。


「冗談か……」


 ちらとフリートヘルムは甥であるジークベルトを振り返る。二人の視線が交差したのは一瞬のことで、フリートヘルムはすぐに視線をアベルへ戻した。


 アベルへ向けられるフリートヘルムの眼差しは優しい。

 煙突から幾度も現れ、主人との面会を願い出たシャルムの使者に、フリートヘルムは少なからず親しみを抱いていた。


「今回はひどい目に遭ったようだな」


 アベルの痩せた頬や、負傷した脚を見下ろしてフリートヘルムはつぶやく。


「痛々しいものだ――この王宮で養生するといい」

「ありがとうございます」


 礼を述べたうえで、アベルは言葉を続けた。


「厚かましいとは承知のうえで、陛下にいまひとつお願いしたいことがございます」

「――願いとは?」


 フリートヘルムは優しい表情のまま尋ねた。


「ここにいるのが、ご承知のとおりリオネル・ベルリオーズ様と、今回わたしと共に囚われ、助け出されたシャルム王国第二王子レオン殿下です。わたしたちは、シャルム国王の命で、貴国と交渉を成立させるために陛下のもとへ参りました。どうか話をする機会をいただけないでしょうか」

「アベル」


 小さくリオネルが声を発したのは、交渉のことなど今は気にしなくてよいという意味である。だが、アベルは真剣な眼差しでフリートヘルムを見上げていた。


 フリートヘルムは無言でアベルの瞳を見返す。


 表情からは、彼の考えが読めない。長い沈黙が流れる。やはり交渉については受け入れるつもりがないのかと、皆が思ったとき。


 ――フリートヘルムは声を上げて笑いだした。


「抜け目がないな。このような状態になっても、考えるのはそのことか」

「わたし自身のことは、どうでもよいのです」

「なるほど――きみの主人が同じように考えているかどうかは、わからないが」


 そう言いながらフリートヘルムは、心配げにアベルを見守るリオネルを一瞥する。


「だが、以前そなたにも言ったとおり、私は政治に関心がない。ジークベルトが玉座に就くというなら、それを補佐するのはやぶさかではないが」

「叔父上、話の趣旨がすりかわっています」


 鋭いジークベルトの指摘に、フリートヘルムは小さく笑った。


「――ということだ。そなたが説得すべきは、私ではない」

「けれど、この国の王はあなたです」


 微笑して、フリートヘルムは優しい手つきでアベルの肩に手を置く。


 相手が去ろうとしていることは、アベルにもすぐにわかった。懇願するような眼差しでアベルがフリートヘルムを見上げると、彼はやや困った面持ちになった。


「では、身体を治してから私の部屋へ再び来なさい。今は自分の身体のことだけを考えるべきときだ」

「――ですが」


 言い募ろうとするアベルを、ディルクが軽く首を振って制する。言葉を収めたアベルの代わりに、リオネルが声を発した。


「陛下、アベルが体力を取り戻したら、我々は自国に戻りたいと考えております」

「自由にすればいい」

「つきましては、それまでに貴国と同盟を結びたく存じます」

「同盟……」


 短くつぶやいてから、フリートヘルムは目を細めてリオネルを見下ろす。


「今ここで、その話を始めようというのか?」

「このままでは、私の大切な家臣が養生に専念できそうにないので」

「この子のためというわけか、なるほど」


 フリートヘルムは小さく笑った。けれどリオネルは真剣そのものである。


「陛下、どうかシャルムと同盟を結ぶ旨、ご承諾いただけませんか」


 リオネルの態度をまえにして、フリートヘルムもまた笑みを収め、ふと真面目な面持ちなった。


「リオネル・ベルリオーズ殿。そなたは同盟と気安く言うが、我々は長年の敵国同士――壮絶な戦いをこれまでに幾度も重ねてきた。仮にそなたや私がよくとも、肉親を殺され、恨みを抱いている者は互いに数知れず、今なお国境では小競り合いが続いている。今更、ローブルグとシャルムが手を組めると真剣に思っているのか」


 フリートヘルムの台詞を聞きながら、ヒュッターは固い表情でうつむいた。現実の厳しさは、だれもが理解している。


 けれど、リオネルは顔を上げたまま、フリートヘルムへひたと紫色の瞳を向けている。


「たしかに長き歴史を振り返れば、貴国とシャルムのあいだには様々な対立がありました。陛下の言われるとおり、今もなお国境において続く争いもあります。けれど、ひとつ明確であるのは、今、それに小休止を入れる――もしくは終止符を打つべき時がきているということです」

「その理由は?」

「陛下もおわかりのはずです」

「私に答えさせるのか」

「なにを成すべきか、陛下が一番よくご存じであるとお見受けします」


 なおも言い募るリオネルに、フリートヘルムは苦笑した。


「ならば、我が国はユスターと手を組んでもいいはずだ」

「今は西方諸国内で争っている場合ではありません」

「ユスターと手を組むと、西方で争いが起こると?」

「ユスターはアルテアガに加え、貴国と同盟を結んだ暁には、我が国に攻め入るでしょう。そうなれば、ユスター、アルテアガ、ローブルグ同盟と、シャルム、リヴァロ同盟の大戦が生じます。周辺諸国を巻き込んで西方の地が戦火に呑まれたとき、北方の脅威が我々すべてを支配し尽します」


 リヴァロはシャルムの左翼、ローブルグの北東部と国境を接する大国である。シャルムの同盟国であるため、有事にはシャルムに味方することは間違いない。


「理路整然としたそなたの話を聞いていると、本当にそのような気がしてくるものだな」

「おそれながら、『気がする』のではなく、事実そうなるでしょう」


 鋭いリオネルの指摘に、フリートヘルムは口端を吊り上げた。


「では聞こう。我が国と貴国が手を結んだら、いったいなにが変わるというのだ?」

「ローブルグ、シャルム、リヴァロはそれぞれ大国です。この三国が同盟を組めば、ユスター、アルテアガ同盟も三国へ手を出すことはできなくなり、さらには北方に対抗する強大な勢力となりえます」

「三国が手を組めばたしかに、エストラダが西方へ侵入するのを防ぐことはできるだろうが、さてユスターやアルテアガが北方に寝返れば、我々は敵国に挟まれることになる」

「たとえそうなったとしても、西方諸国間で争うよりは希望が残ります」

「……今ここで、どちらかの道を選べということか」

「選ばないという道もあります。けれど、もし互いに手を結ばずにいれば、いずれエストラダによって各国が攻め落とされる日がきます」

「我が国やシャルムのような大国もそうなると?」

「エストラダは北方の国々を攻め滅ぼし、力を強めています。大国とて、単独で対峙することになれば破られる可能性はあるでしょう」

「我々が手を携えれば、エストラダに打ち勝てると」

「単独で戦うよりもはるかに勝ち目があります。ただし、陛下のおっしゃられたとおり、後方に潜む敵には注意しなければなりませんが」

「ユスターか」


 口元を笑ませたが、フリートヘルムの目は笑っていない。


「何卒、ご英断を」


 頭を下げるリオネルを見下ろし、フリートヘルムはしばし沈黙する。


「陛下」


 ヒュッターに促されたが、フリートヘルムは黙ったままだった。ジークベルトがなにか言おうと、口を開きかけたときである。


「陛下」


 突如、発言したのは、これまで黙って成り行きを見守っていたディルクである。


「もし、陛下がご自身の立場の正当性に、疑問をお持ちであるなら――」


 いきなりローブルグ王に対して「立場の正統性に疑問」などという物騒な言葉をディルクが口にしたものだから、マチアスが彼らしくない動揺を示した。

 ――といっても、ぱっと顔を上げて、主人を見やっただけではあるが。


 マチアスの気も知らず、ディルクは続けた。


「――ここにいるレオン王子も同じです」

「は?」


 前触れもなく名を出されて、レオンが慌ててディルクへ顔を向ける。


「なんの話だ」

「レオン王子の父親は、リオネル・ベルリオーズの父であり前国王夫妻の嫡子であるクレティアン様から、卑劣にも玉座を奪い、現シャルム王の座に就きました。レオンは人のよい性格なので、自分の立場というものに疑問を抱いています。ですが、それでも王子という立場を重く考え、こうして頭の上がらない相手――リオネル・ベルリオーズと共に陛下のもとへ参じたのです」

「…………」

「正統性も大事ですが、彼のように、自らの立場で成すべきことを行うこともまた、大事なことだと思われませんか」

「おい、やめろ」


 なにかを消そうとするように、レオンは片手を宙でしきりに動かした。恥ずかしかったのか、いたたまれなかったのか、顔は赤い。

 マチアスはというと、言葉もなく片手に深く顔をうずめていた。


 フリートヘルムの驚いたような視線が、顔を上げたレオンへ注がれる。フリートヘルムがはじめてレオンの存在を認識した瞬間だっただろう。


「な……なんだかよくわからないことを、この男はのたまっているが、忘れてほしい」


 弁解するようにレオンはフリートヘルムへ告げる。すると、フリートヘルムの好奇心に溢れた声が、レオンへ向けられた。


「そなたが、レオン王子か」


 ちらと視線を上げて、レオンはフリートヘルムを見返す。

 ――得体の知れない、嫌な予感とともに。


「……そうだが」

「もっとよく顔を見せてくれ」


 レオンは無言だったが、ジークベルトは笑いを噛み殺しているようだった。


「顔など、よく見てもらわなくてけっこうだ」


 引き気味に言うレオンにかまわず、フリートヘルムはジークベルトやリオネルのあいだをかいくぐってレオンのそばへ寄る。そして、まじまじとレオンの顔を覗きこんだ。

 そして、ひと言。


「――地味だ」


 すかさずレオンが微妙な面持ちで「悪かったな、地味で」と言い返す。

 だが、気にするそぶりもなくフリートヘルムは目を輝かせていた。


「地味だが、端正で良い顔立ちだ」

「それは、どうも……」

「読書が好きだろう?」

「……それがなにか」

「どんなものを読むんだ?」

「ベネデットとか」


 なにを納得しているのか、フリートヘルムはひとり幾度もうなずいている。

 その様子を見守るヒュッターは、諦めたような表情だ。


「近いうちに、王宮の図書館を案内しよう」


 フリートヘルムの誘いに、レオンは表情を一変させて顔を輝かせる。


「本当か?」


 すぐそばで、ディルクがなにかつぶやいたが、レオンには聞こえていなかった。


「本当だ。ベネデットの本なら山のようにある。心ゆくまで読むといい」

「それはありがたい」

「読むときは、私の部屋を使いなさい。快適な長椅子があるから」

「ああ、どうも」


 このあたりまでは、レオンの反応は普段通りだった。――が。


「寝るときは、私の寝台を使ってもかまわない。私が寝るときは、そなたを起こさないように気をつけよう」

「…………」


 さすがになにかおかしいと悟ったのか、レオンが口をつぐんだ。

 そしてまじまじとフリートヘルムの顔を見つめたあと、はっとなにかを思い出した面持ちになって、こともあろうに一国の王を指差す。


「な……ッ!」

「どうかしたか?」

「――だれが、男の寝台になど入るか!」

「なにか不都合でも?」

「なにか不都合でも? ――ではないだろう! 男同士でひとつの寝台に寝るなど、気持ち悪いことができるか!」

「私は幸福だが」


 いたってフリートヘルムは淡々としている。


「ディルク! おまえのせいだ。変なところでおれの名前を出すから」

「最初から、おまえの運命は決まっていたんだよ、レオン」


 皮肉めいた笑みを浮かべて、ディルクは平然と言い放つ。マチアスは言葉もないといった様子だ。


「おまえ、初めからそのつもりでおれの名前を出したな」

「どう聞いても、陛下の好みはおまえだったからね」

「ディルク、貴様――」

「いいじゃないか、レオン。どんな形であれリオネルの役に立てるなら、本望だろう?」

「本望なものか!」


 言いあっている二人を意に介することなく、フリートヘルムはレオンの手を取り、強く握りしめた。

 レオンの表情が固まる。


「これまで私は運命というものを感じたことがなかった」

「そうか、そのほうがいい。これからも感じないでいてくれ」

「そなたと出会えたのは運命だ」

「こういうのを、人は不運と呼ぶのだ」

「やはり、暖炉から現れた従騎士は、水色の瞳の天使だった」

「意味がわからない」

「アベルに感謝しよう」

「なんの感謝だ?」

「我々の出会いに、祝福を」

「祝福などいるものか」


 やはりローブルグ王フリートヘルムは変態だった――と、レオンは自由になる片手で頭を抱えた。

 フリートヘルムがまともそうに見えたのは、リオネルと北方の脅威について議論していたほんの一瞬のこと。


「私と似た立場でありながら、前向きに生きるそなたを見習い、同盟の件は私なりに熟慮しよう」


 うんざりしていたレオンは、フリートヘルムの言葉に、はっと表情を変えた。同時に、その場にいた皆の表情も一変する。


「本当か?」

「受け入れると決めたわけではない。――が一度、真剣に考えてみようという気持ちにはなった。むろん、ジークベルトと相談のうえでだが」

「ぜひそうしてくれ」


 レオンの嘆願に、フリートヘルムは微笑してうなずいた。


「私の部屋にも遊びにきてくれたら嬉しい」


 黙りこんだレオンの背中を、ディルクがぽんと押す。


「行ってこいよ。おまえの肩に、リオネルとシャルムの命運はかかってる。童貞なんて、後生大事に守るもんじゃないだろ」


 腰の長剣に手を添えたレオンを、


「殿下、どうか主人の無礼をお許しください。お怒りはすべて私がお受けいたします」


 とマチアスが押しとどめた。


「シャルム人は、噂に聞くとおり愉快だな」


 喧嘩の元凶であるフリートヘルムは、他所事よそごとを眺めるていでつぶやき、きびすを返す。


「アベル、一刻も早くそなたが回復することを願っている。ジークベルト、そなたは折を見て私のもとへ来なさい」


 そう言い置いて、大変態王フリートヘルムはヒュッターと共に部屋を去っていったのだった。


 残された部屋に流れたのは深い沈黙で……。


 直後にベルトランがアベルの食事と共に戻ると、ただレオンが自らの剣の柄に手を触れたまま呆然と立ちすくみ、同情のこもった視線を集めていた。


「いったいなにがあったんだ?」


 ベルトランの疑問だけが、静かな部屋に響きわたった。









 ――シュトライト邸を、ローブルグ正規軍が取り囲んだのは、その日の午後だった。


 門の周囲で激しい剣の撃ち合いが生じたものの、圧倒的な数の差で正規軍がシュトライト軍を押さえこみ、館になだれ込んだ。

 シュトライト公爵は兵士らに捕らえられたが、王妃マティルデの姿はすでにそこにはなく、捜索が続けられたがまだ見つかっていない。二人の罪状は、ジークベルトの暗殺未遂及びシャルム王族の誘拐監禁である。


 他方、ほぼ同時期にエーヴェルバインの高級宿では、ユスターの使節であるモーリッツが拘束された。

 ユスターの使節らは、エーヴェルバイン王宮の監獄に繋がれたのち、罪人として本国へ送還されることとなった。シュトライト公爵に関しては、宮廷裁判にかけられることが決定した。


 レオンとアベルが閉じこめられていた旧館裏の地下牢は、数百年前のローブルグの暗い歴史を物語る遺物であり、フリートヘルムの命により取り壊されることとなった。










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