50
「フリートヘルム陛下――」
リオネルを筆頭に皆が床に膝をついて頭を垂れる。
自らも寝台から降りようとするアベルを、リオネルはちらと振り返り、首を横に振った。降りなくてもいいという合図だ。
――が、ローブルグ王の前で寝ている姿をさらすわけにはいかない。アベルは怪我の痛みをおして、身体を動かそうとする。
最終的にアベルの動きを止めさせたのは、フリートヘルムのひと声だった。
「そのままでいい」
アベルは脚を地面に下ろす途中だったので、結果的に、寝台に座るような形になる。
指示通りそのままでいるアベルを見やって、フリートヘルムは目元を笑ませた。それからゆっくりと寝台に近づき、アベルの目前で立ち止まる。
「この度はご迷惑をおかけしました」
寝台に座ったまま頭を下げようとするアベルの顎を、フリートヘルムは指先ですっと上向かせた。
「ああ、こうしてみると思っていたより美しいな」
美しい……。
フリートヘルムから向けられた台詞に、一拍置いてから、
「ジークベルトも陛下も、冗談が得意なのですね」
とアベルは笑みを添えて聞き流した。
「冗談か……」
ちらとフリートヘルムは甥であるジークベルトを振り返る。二人の視線が交差したのは一瞬のことで、フリートヘルムはすぐに視線をアベルへ戻した。
アベルへ向けられるフリートヘルムの眼差しは優しい。
煙突から幾度も現れ、主人との面会を願い出たシャルムの使者に、フリートヘルムは少なからず親しみを抱いていた。
「今回はひどい目に遭ったようだな」
アベルの痩せた頬や、負傷した脚を見下ろしてフリートヘルムはつぶやく。
「痛々しいものだ――この王宮で養生するといい」
「ありがとうございます」
礼を述べたうえで、アベルは言葉を続けた。
「厚かましいとは承知のうえで、陛下にいまひとつお願いしたいことがございます」
「――願いとは?」
フリートヘルムは優しい表情のまま尋ねた。
「ここにいるのが、ご承知のとおりリオネル・ベルリオーズ様と、今回わたしと共に囚われ、助け出されたシャルム王国第二王子レオン殿下です。わたしたちは、シャルム国王の命で、貴国と交渉を成立させるために陛下のもとへ参りました。どうか話をする機会をいただけないでしょうか」
「アベル」
小さくリオネルが声を発したのは、交渉のことなど今は気にしなくてよいという意味である。だが、アベルは真剣な眼差しでフリートヘルムを見上げていた。
フリートヘルムは無言でアベルの瞳を見返す。
表情からは、彼の考えが読めない。長い沈黙が流れる。やはり交渉については受け入れるつもりがないのかと、皆が思ったとき。
――フリートヘルムは声を上げて笑いだした。
「抜け目がないな。このような状態になっても、考えるのはそのことか」
「わたし自身のことは、どうでもよいのです」
「なるほど――きみの主人が同じように考えているかどうかは、わからないが」
そう言いながらフリートヘルムは、心配げにアベルを見守るリオネルを一瞥する。
「だが、以前そなたにも言ったとおり、私は政治に関心がない。ジークベルトが玉座に就くというなら、それを補佐するのはやぶさかではないが」
「叔父上、話の趣旨がすりかわっています」
鋭いジークベルトの指摘に、フリートヘルムは小さく笑った。
「――ということだ。そなたが説得すべきは、私ではない」
「けれど、この国の王はあなたです」
微笑して、フリートヘルムは優しい手つきでアベルの肩に手を置く。
相手が去ろうとしていることは、アベルにもすぐにわかった。懇願するような眼差しでアベルがフリートヘルムを見上げると、彼はやや困った面持ちになった。
「では、身体を治してから私の部屋へ再び来なさい。今は自分の身体のことだけを考えるべきときだ」
「――ですが」
言い募ろうとするアベルを、ディルクが軽く首を振って制する。言葉を収めたアベルの代わりに、リオネルが声を発した。
「陛下、アベルが体力を取り戻したら、我々は自国に戻りたいと考えております」
「自由にすればいい」
「つきましては、それまでに貴国と同盟を結びたく存じます」
「同盟……」
短くつぶやいてから、フリートヘルムは目を細めてリオネルを見下ろす。
「今ここで、その話を始めようというのか?」
「このままでは、私の大切な家臣が養生に専念できそうにないので」
「この子のためというわけか、なるほど」
フリートヘルムは小さく笑った。けれどリオネルは真剣そのものである。
「陛下、どうかシャルムと同盟を結ぶ旨、ご承諾いただけませんか」
リオネルの態度をまえにして、フリートヘルムもまた笑みを収め、ふと真面目な面持ちなった。
「リオネル・ベルリオーズ殿。そなたは同盟と気安く言うが、我々は長年の敵国同士――壮絶な戦いをこれまでに幾度も重ねてきた。仮にそなたや私がよくとも、肉親を殺され、恨みを抱いている者は互いに数知れず、今なお国境では小競り合いが続いている。今更、ローブルグとシャルムが手を組めると真剣に思っているのか」
フリートヘルムの台詞を聞きながら、ヒュッターは固い表情でうつむいた。現実の厳しさは、だれもが理解している。
けれど、リオネルは顔を上げたまま、フリートヘルムへひたと紫色の瞳を向けている。
「たしかに長き歴史を振り返れば、貴国とシャルムのあいだには様々な対立がありました。陛下の言われるとおり、今もなお国境において続く争いもあります。けれど、ひとつ明確であるのは、今、それに小休止を入れる――もしくは終止符を打つべき時がきているということです」
「その理由は?」
「陛下もおわかりのはずです」
「私に答えさせるのか」
「なにを成すべきか、陛下が一番よくご存じであるとお見受けします」
なおも言い募るリオネルに、フリートヘルムは苦笑した。
「ならば、我が国はユスターと手を組んでもいいはずだ」
「今は西方諸国内で争っている場合ではありません」
「ユスターと手を組むと、西方で争いが起こると?」
「ユスターはアルテアガに加え、貴国と同盟を結んだ暁には、我が国に攻め入るでしょう。そうなれば、ユスター、アルテアガ、ローブルグ同盟と、シャルム、リヴァロ同盟の大戦が生じます。周辺諸国を巻き込んで西方の地が戦火に呑まれたとき、北方の脅威が我々すべてを支配し尽します」
リヴァロはシャルムの左翼、ローブルグの北東部と国境を接する大国である。シャルムの同盟国であるため、有事にはシャルムに味方することは間違いない。
「理路整然としたそなたの話を聞いていると、本当にそのような気がしてくるものだな」
「おそれながら、『気がする』のではなく、事実そうなるでしょう」
鋭いリオネルの指摘に、フリートヘルムは口端を吊り上げた。
「では聞こう。我が国と貴国が手を結んだら、いったいなにが変わるというのだ?」
「ローブルグ、シャルム、リヴァロはそれぞれ大国です。この三国が同盟を組めば、ユスター、アルテアガ同盟も三国へ手を出すことはできなくなり、さらには北方に対抗する強大な勢力となりえます」
「三国が手を組めばたしかに、エストラダが西方へ侵入するのを防ぐことはできるだろうが、さてユスターやアルテアガが北方に寝返れば、我々は敵国に挟まれることになる」
「たとえそうなったとしても、西方諸国間で争うよりは希望が残ります」
「……今ここで、どちらかの道を選べということか」
「選ばないという道もあります。けれど、もし互いに手を結ばずにいれば、いずれエストラダによって各国が攻め落とされる日がきます」
「我が国やシャルムのような大国もそうなると?」
「エストラダは北方の国々を攻め滅ぼし、力を強めています。大国とて、単独で対峙することになれば破られる可能性はあるでしょう」
「我々が手を携えれば、エストラダに打ち勝てると」
「単独で戦うよりもはるかに勝ち目があります。ただし、陛下のおっしゃられたとおり、後方に潜む敵には注意しなければなりませんが」
「ユスターか」
口元を笑ませたが、フリートヘルムの目は笑っていない。
「何卒、ご英断を」
頭を下げるリオネルを見下ろし、フリートヘルムはしばし沈黙する。
「陛下」
ヒュッターに促されたが、フリートヘルムは黙ったままだった。ジークベルトがなにか言おうと、口を開きかけたときである。
「陛下」
突如、発言したのは、これまで黙って成り行きを見守っていたディルクである。
「もし、陛下がご自身の立場の正当性に、疑問をお持ちであるなら――」
いきなりローブルグ王に対して「立場の正統性に疑問」などという物騒な言葉をディルクが口にしたものだから、マチアスが彼らしくない動揺を示した。
――といっても、ぱっと顔を上げて、主人を見やっただけではあるが。
マチアスの気も知らず、ディルクは続けた。
「――ここにいるレオン王子も同じです」
「は?」
前触れもなく名を出されて、レオンが慌ててディルクへ顔を向ける。
「なんの話だ」
「レオン王子の父親は、リオネル・ベルリオーズの父であり前国王夫妻の嫡子であるクレティアン様から、卑劣にも玉座を奪い、現シャルム王の座に就きました。レオンは人のよい性格なので、自分の立場というものに疑問を抱いています。ですが、それでも王子という立場を重く考え、こうして頭の上がらない相手――リオネル・ベルリオーズと共に陛下のもとへ参じたのです」
「…………」
「正統性も大事ですが、彼のように、自らの立場で成すべきことを行うこともまた、大事なことだと思われませんか」
「おい、やめろ」
なにかを消そうとするように、レオンは片手を宙でしきりに動かした。恥ずかしかったのか、いたたまれなかったのか、顔は赤い。
マチアスはというと、言葉もなく片手に深く顔をうずめていた。
フリートヘルムの驚いたような視線が、顔を上げたレオンへ注がれる。フリートヘルムがはじめてレオンの存在を認識した瞬間だっただろう。
「な……なんだかよくわからないことを、この男はのたまっているが、忘れてほしい」
弁解するようにレオンはフリートヘルムへ告げる。すると、フリートヘルムの好奇心に溢れた声が、レオンへ向けられた。
「そなたが、レオン王子か」
ちらと視線を上げて、レオンはフリートヘルムを見返す。
――得体の知れない、嫌な予感とともに。
「……そうだが」
「もっとよく顔を見せてくれ」
レオンは無言だったが、ジークベルトは笑いを噛み殺しているようだった。
「顔など、よく見てもらわなくてけっこうだ」
引き気味に言うレオンにかまわず、フリートヘルムはジークベルトやリオネルのあいだをかいくぐってレオンのそばへ寄る。そして、まじまじとレオンの顔を覗きこんだ。
そして、ひと言。
「――地味だ」
すかさずレオンが微妙な面持ちで「悪かったな、地味で」と言い返す。
だが、気にするそぶりもなくフリートヘルムは目を輝かせていた。
「地味だが、端正で良い顔立ちだ」
「それは、どうも……」
「読書が好きだろう?」
「……それがなにか」
「どんなものを読むんだ?」
「ベネデットとか」
なにを納得しているのか、フリートヘルムはひとり幾度もうなずいている。
その様子を見守るヒュッターは、諦めたような表情だ。
「近いうちに、王宮の図書館を案内しよう」
フリートヘルムの誘いに、レオンは表情を一変させて顔を輝かせる。
「本当か?」
すぐそばで、ディルクがなにかつぶやいたが、レオンには聞こえていなかった。
「本当だ。ベネデットの本なら山のようにある。心ゆくまで読むといい」
「それはありがたい」
「読むときは、私の部屋を使いなさい。快適な長椅子があるから」
「ああ、どうも」
このあたりまでは、レオンの反応は普段通りだった。――が。
「寝るときは、私の寝台を使ってもかまわない。私が寝るときは、そなたを起こさないように気をつけよう」
「…………」
さすがになにかおかしいと悟ったのか、レオンが口をつぐんだ。
そしてまじまじとフリートヘルムの顔を見つめたあと、はっとなにかを思い出した面持ちになって、こともあろうに一国の王を指差す。
「な……ッ!」
「どうかしたか?」
「――だれが、男の寝台になど入るか!」
「なにか不都合でも?」
「なにか不都合でも? ――ではないだろう! 男同士でひとつの寝台に寝るなど、気持ち悪いことができるか!」
「私は幸福だが」
いたってフリートヘルムは淡々としている。
「ディルク! おまえのせいだ。変なところでおれの名前を出すから」
「最初から、おまえの運命は決まっていたんだよ、レオン」
皮肉めいた笑みを浮かべて、ディルクは平然と言い放つ。マチアスは言葉もないといった様子だ。
「おまえ、初めからそのつもりでおれの名前を出したな」
「どう聞いても、陛下の好みはおまえだったからね」
「ディルク、貴様――」
「いいじゃないか、レオン。どんな形であれリオネルの役に立てるなら、本望だろう?」
「本望なものか!」
言いあっている二人を意に介することなく、フリートヘルムはレオンの手を取り、強く握りしめた。
レオンの表情が固まる。
「これまで私は運命というものを感じたことがなかった」
「そうか、そのほうがいい。これからも感じないでいてくれ」
「そなたと出会えたのは運命だ」
「こういうのを、人は不運と呼ぶのだ」
「やはり、暖炉から現れた従騎士は、水色の瞳の天使だった」
「意味がわからない」
「アベルに感謝しよう」
「なんの感謝だ?」
「我々の出会いに、祝福を」
「祝福などいるものか」
やはりローブルグ王フリートヘルムは変態だった――と、レオンは自由になる片手で頭を抱えた。
フリートヘルムがまともそうに見えたのは、リオネルと北方の脅威について議論していたほんの一瞬のこと。
「私と似た立場でありながら、前向きに生きるそなたを見習い、同盟の件は私なりに熟慮しよう」
うんざりしていたレオンは、フリートヘルムの言葉に、はっと表情を変えた。同時に、その場にいた皆の表情も一変する。
「本当か?」
「受け入れると決めたわけではない。――が一度、真剣に考えてみようという気持ちにはなった。むろん、ジークベルトと相談のうえでだが」
「ぜひそうしてくれ」
レオンの嘆願に、フリートヘルムは微笑してうなずいた。
「私の部屋にも遊びにきてくれたら嬉しい」
黙りこんだレオンの背中を、ディルクがぽんと押す。
「行ってこいよ。おまえの肩に、リオネルとシャルムの命運はかかってる。童貞なんて、後生大事に守るもんじゃないだろ」
腰の長剣に手を添えたレオンを、
「殿下、どうか主人の無礼をお許しください。お怒りはすべて私がお受けいたします」
とマチアスが押しとどめた。
「シャルム人は、噂に聞くとおり愉快だな」
喧嘩の元凶であるフリートヘルムは、他所事を眺める体でつぶやき、踵を返す。
「アベル、一刻も早くそなたが回復することを願っている。ジークベルト、そなたは折を見て私のもとへ来なさい」
そう言い置いて、大変態王フリートヘルムはヒュッターと共に部屋を去っていったのだった。
残された部屋に流れたのは深い沈黙で……。
直後にベルトランがアベルの食事と共に戻ると、ただレオンが自らの剣の柄に手を触れたまま呆然と立ちすくみ、同情のこもった視線を集めていた。
「いったいなにがあったんだ?」
ベルトランの疑問だけが、静かな部屋に響きわたった。
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――シュトライト邸を、ローブルグ正規軍が取り囲んだのは、その日の午後だった。
門の周囲で激しい剣の撃ち合いが生じたものの、圧倒的な数の差で正規軍がシュトライト軍を押さえこみ、館になだれ込んだ。
シュトライト公爵は兵士らに捕らえられたが、王妃マティルデの姿はすでにそこにはなく、捜索が続けられたがまだ見つかっていない。二人の罪状は、ジークベルトの暗殺未遂及びシャルム王族の誘拐監禁である。
他方、ほぼ同時期にエーヴェルバインの高級宿では、ユスターの使節であるモーリッツが拘束された。
ユスターの使節らは、エーヴェルバイン王宮の監獄に繋がれたのち、罪人として本国へ送還されることとなった。シュトライト公爵に関しては、宮廷裁判にかけられることが決定した。
レオンとアベルが閉じこめられていた旧館裏の地下牢は、数百年前のローブルグの暗い歴史を物語る遺物であり、フリートヘルムの命により取り壊されることとなった。