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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第五部 ~敵国の都は、夏の雨にけぶる~
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 痛い。

 ……なにが痛いのだろう。

 頭か、それとも、喉か、右脚か、脇腹か――いや、もっと意識の奥底で鈍い痛みが生じている気がする。


 倦怠感に意識を支配される。

 その感覚に耐えきれなくなって、アベルは目を開いた。


 眠っていたのか、それとも覚醒していたのか、意識の境界線は曖昧だった。

 開いた瞳に沁みたのは、窓枠に切りとられた空の蒼さ。


 昼間の太陽が、大気を蒼白く輝かせている。

 ――きれいだ。


 長いこと、このような空をアベルは見ていなかった。空の美しさに、身体を支配する倦怠感と痛みを忘れ、アベルは手を伸ばす。

 どうして空の蒼さがこれほど懐かしく感じられるのだろう。

 手を伸ばしたらその蒼さに触れられる気がした。


 けれど、薄いシーツのなかからゆるゆると伸ばした手は、細かく震えていて、自分のものとは思えないほど弱々しい。


 ――届かない。


 こんな手では、なにも掴めない――そう思ったとき。

 強くあたたかな温度に包まれる。


 驚いて目を見開くと、空とは違う――別の色がアベルの瞳に映りこんだ。この世のものとは思われないほど美しい紫。


 あ、という形に口を開いたものの、アベルの喉から声は出なかった。

 その様子に、紫色の瞳が心配そうな色を称える。


「なにを取ろうとしていた? 水か」


 わけがわからないという表情でいると、紫色の瞳はかすかに笑った。


「なにかほしいものがあって、手を伸ばしたのではなかったのか?」


 目のまえでほほえんでいる相手をじっと見つめて、アベルは胸に痛みを覚える。

 ずっと――とても長いあいだ、暗い場所にいたような気がする。この人から離れた、とても暗い場所に……。


 けれど、ここは明るい。

 そして、リオネルがいる。


 水差しから、硝子の杯に水を注ぎ入れて手渡そうとするリオネルの手を、アベルはおずおずと止めた。


「アベル?」

「……喉は、乾いていません」

「なにか飲んだほうがいい。きみは二日間ものあいだ飲まず食わずだったのだから」


 リオネルに助けられながら半身を起こし、そっと水を口に含む。――冷たい。そして、甘い。水分が、身体の隅々に沁みわたるようだ。

 水が喉を通る感覚に、涙がこぼれそうになる。


「アベル」


 真剣な面持ちでリオネルは目を細めた。


「これまでのこと、覚えてないのか?」

「…………」


 暗く、遠い場所にいた。そこは、硬くて、冷たくて。

 リオネルを見つめていると、アベルの胸には込み上げるものがある。ほどけて乱れたアベルの髪をそっと耳にかけてから、リオネルは再びアベルの手をとった。


「――覚えてないなら、思い出さなくていい。辛いことなど、ひとつ残らず忘れ去ってしまえばいい」


 今度は、先程よりも強い力で手を握られる。

 逞しい手に包まれる安心感に、アベルは目を閉じた。

 ほぼ同時に、記憶が脳裏をかけめぐる。リオネルに手を触れられたままなら、苦しまずに思い出せる気がした。


「レオン殿下は……」


 アベルのひと言に、リオネルの手がかすかに揺れる。

 安心させるようにほほえんで見せてから、ここがエーヴェルバイン王宮の一室であること、そしてレオンが無事であることをリオネルは告げた。


「……どうして王宮に?」

「いろいろあってね。元気になったら話すよ。とにかく、今は心配せずに身体を休めるんだ。レオンは手足に軽い擦り傷があるだけで、あとはディルクも、マチアスも、ジークベルトも皆無事だし……ベルトランもこのとおりだ」


 リオネルが視線を向けた先――暖炉のわきの壁際に、なんともいえぬ表情のベルトランが立っていた。


 アベルの視線を受けたベルトランは、かすかに口元に笑みを浮かべ、顎をしゃくってみせる。ベルトランなりの挨拶であり、二人の雰囲気を壊さぬための気遣いでもあった。


「よかった――」


 息を吐きだしてアベルは力を抜く。

 皆が無事だったことだけが、アベルの心を軽くした。けれど、リオネルはやや違うようである。


「……おれは、少しもよくない」


 驚いてアベルがリオネルを見やると、苦い表情が見返してくる。


「アベル、きみはしばらく寝台で休んでいなければならない」

「え?」

「皆は無事だった。けれどきみは衰弱しているうえに怪我をしている。そのことを思えば、おれは食事も喉を通らない。頼むから、少なくともあと二日は寝台から動かずに大人しくしていてくれ」


 リオネルの台詞に、アベルはしばし無言になる。相手の両目を交互に見つめてから、けれどアベルはふと笑う。


「なにか、おかしかったか?」


 戸惑いの感じられる声で問われて、アベルは小さく首を横に振った。


「……いいえ。笑ってごめんなさい」


 謝罪を受け、今度はリオネルが困ったような面持ちになる。


「謝らなくてもいいけど」


 優しい瞳を見つめながら、アベルは安らかな心地で告げる。


「リオネル様が心配してくださっているぶんだけ、わたしは早く元気になれる気がします」


 よくわからないというリオネルの顔。アベルは続けた。


「世界でたったひとりでも心から自分のことを考えてくれている人がいれば、それだけで人は幸せでしょう? リオネル様の優しさのなかで、わたしは生かされています」


 アベルの言葉を黙って聞いていたリオネルは、アベルの手を引き寄せ、包み込む。


「――そう言ってくれるアベルを、おれは、心配するばかりで助け出すことができなかった」


 手の甲にリオネルの温度を感じて、胸が跳ねる。

 なぜだろう。こうして間近にリオネルを感じると、言葉にならない想いにアベルは囚われる。


「リオネル様は、わたしたちを救いにきてくださいました」

「おれが行ったとき、きみたちはすでに自分で拘束を断ち切っていた」

「リオネル様が、皆様といっしょにわたしたちを探してくださっていたこと、よく知っています」


 むろん見てきたわけではない。けれど、友人や家臣を大切にする心優しいリオネルのことだ。探してくれていたのは疑う余地のないことだった。


「なぜ、もう少し早く救いに行けなかったのだろうかと、悔やまれてならない。――それに、おれは、きみにひどい言葉を突きつけてしまった」

「ひどい言葉?」

「勝手にすればいいなどと……」


 それは、アベルが宿屋を出るまえにリオネルと交わした会話。ジークベルトを説得に行こうとするアベルに、リオネルが激しく反対したのだ。


「あれは――」


 あれは、前日の約束があったからだった。今回の旅の目的を遂行するためには必要な行動だったが、交わした約束のことを思えば彼の発言は仕方ないこと。

 そう言いかけようとするアベルを、リオネルが遮る。


「勝手にすればいいなど言って、きみを失ったらだれよりも後悔するのはおれ自身だというのに――その結果きみをこんな目に遭わせてしまった」


 アベルの右手を握り、目をつむるリオネルに、アベルはそっと左手を伸ばす。そして、リオネルの頬を手のひらで包んだ。


 驚いたように開かれた紫色の瞳が、こちらへ向けられる。

 その色に、アベルは胸を突かれる。


「アベル?」

「こうして再びリオネル様のもとに戻ることができたのです。あとのことはもういいではありませんか」

「よくない。……長いこときみを苦しめることになってしまった。きみをこんな目に遭わせたくなかった」

「レオン殿下をお救いし、あなたのもとへ戻ることだけを考えていました。あっという間でしたよ」

「今も身体は痛むはずだ」

「リオネル様がいらっしゃれば、痛みはとても遠い場所に行ってしまいます」

「ならば……」


 ――ならば、おれはずっとアベルのそばにいる。


 軽く体重を預けるように、アベルの手のひらにリオネルは頬を寄せる。そして、祈るように目を閉じた。


「アベルが回復するまで――ずっとだ」


 瞳を閉じたリオネルの顔が、思いのほか、あどけない。だれよりも強く頼れる主人だが、寝台に寄りそうリオネルの表情は、アベルの胸をきゅっと締めつけた。

 リオネルのうちに少年の面影を見るのが、これほどまで切なく、愛おしいとは。


 想いは言葉にならず、アベルは空いたほうの手で相手の濃い茶色の髪に触れる。

 落ちこむカミーユをなだめているような懐かしい感覚が、アベルのうちに蘇った。相手はリオネルだというのに。


 リオネルは、アベルに髪を撫でられるままにしていた。

 表情は安らかだ。


 その様子を遠くから見守っていたベルトランが、軽く目を細める。

 こんなふうにリオネルの髪に触れることができるのは、アベル以外にはいない。それほどまでに、リオネルはアベルに心を許していた。

 と同時に、だれにも頼ろうとしないリオネルでさえ、心を預けたくなるような優しさと包容力が、アベルにはある。

 普段は元来の負けん気の強さや、無鉄砲なほど真っ直ぐな性格に隠れて気づきにくいが、アベルはたしかに優しい。おそらく、場合によってはリオネルを軽く超えてしまうほどに。


「――心地よくて、現実に戻れなくなりそうだ」


 不意にリオネルは、髪を撫でるアベルの手を止める。

 視線がぶつかりあって、アベルは白い頬をほのかに染めた。リオネルの髪を撫でていたことが、今更ながらに恥ずかしい。


「……ご、ごめんなさい」


 アベルの手を握ったまま、リオネルはほほえむ。

 それから、軽くアベルの手を持ち上げ、表へ返して手のひらへ口づけを落とした。


 アベルは絶句した。

 貴婦人への挨拶は手の甲への口づけだが、手のひらにするなんて、まるで恋人同士だ。

 手の甲よりも、手のひらに口づけられるほうが、より強く相手の温度を感じられる。


 咄嗟に引っ込めた手を、もう片方で包みこむ。手のひらに残るリオネルの口づけた感覚に、アベルは眩暈めまいを覚えた。


「皆も心配していた。気分がよくなったら、会ってやってくれないか」

「気分は……もう平気です」

「平気なわけがないだろう。きみをあの場所から連れ出したのは、今朝のことだ。あれから半日しか経っていない」

「……本当に、もう大丈夫です」

「食事をとったほうがいい。用意するから、待っていてくれ」


 アベルの発言を無視してリオネルはベルトランを振り返る。ベルトランは軽くうなずき、扉口へ向かった。

 ベルトランが、取手に手をかけて扉を開けた瞬間。


 廊下の先から賑やかな話し声が聞えてきた。










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