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ひなげしの花咲く丘で  作者: yuuHi
第一部 ~婚約破棄された伯爵令嬢は、男装して旅に出る~
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 こうして、アベルは、宿屋を兼ねた肉屋で働くことになった。


 アベルにあてがわれた寝場所は、住家のなかではなく、肉屋の店舗内の通路。それでも薄い布団を一枚と、残って堅くなったパンや、乾いた肉などは与えられた。

 家畜小屋でなにも食べるものなく過ごすよりはましだし、ベルリオーズ邸で身分不相応な待遇を受けるより落ち着く。


 けれど仕事はきつかった。

 早朝に通路で寝ているアベルは、ヤニクの父親に乱暴に起こされ、まず水汲みをさせられる。戻ってくると、宿で使われた布団や、布、一家の服などを再び川へ洗濯をしに行き、午後は宿の客室の掃除。夕方には再び水を汲みにいき、夜は肉屋の店の床掃除だ。

 アベルにこなせる内容ではなく、水汲みには時間がかかり、汲んでくる水の量も少なく、客室の掃除は間に合わず、店の掃除は行き届かなかった。弱った身体では当然のことだ。

 仕事で失敗するたび、店の主からはきつく叱られた。



 こうして、アベルが働き出して五日が過ぎた。

 アベルの手は水仕事であかぎれになり、体中は痣や傷だらけだ。激しい労働と、過酷な住環境で、体力は回復せず、ますます仕事ができなくなってきていた。

 そんなアベルを見て、ヤニクはへらへらと笑った。


「おまえが居てくれるおかげで、おれは遊んでいられるよ。本当に助かってるんだ、やめないでくれよ」


 仕事をやめてここを出て、他に行くあてなんてない。望むと望まざるとにかかわらず、アベルはここで働くしか、生きていく道はなかった。

 そう、生きていくためには、である。




 アベルは、夕方の水汲みをしていた。

 サン・オーヴァンの街から、デュエルフォンの森に入ってすぐのところに川は流れている。川幅の割に流れの強いこの川は、もう少し下ればシャルム王国で最長のアンテーズ川に合流する。


 川の水面を夕陽の欠片が飛び跳ねている。

 桶いっぱいに汲まないと叱られるので、アベルは並々と水をたたえた桶を両手で抱えた。

 けれどそのとき手から力が抜けて、桶が水とともに地面に転がる。

 汲んだばかりの水が、土に吸い込まれていった。


 視界が揺れている。

 川の水が流れる音が、奇妙に大きく聞こえてきた。

 鬱蒼とした木々の葉の隙間から、黄昏時の空がまるで燃えているように映る。

 頭中に川音が鳴り響き、視界の全てを歪んだ光と闇の螺旋が埋め尽くした。

 それはまるで夢のなかのようだった。

 限界だった。


 アベルは、ふと思う。

 もう、終わりにしてもいいのではないか。

 アベルはもうボロボロだ。充分生きた。

 デュノアの館を出てから、耐えうる以上にひたすら努力してきた。

 もう充分すぎるほどに頑張ったのではないか。

 アベルが――シャンティ・デュノアが――この世界に別れを告げることを、神さまは、そろそろ許してくれる気がした。


 カミーユやトゥーサンの笑顔。

 皆で囲んだ食卓。

 はじけるような青い芝生の上の、笑い声。

 嵐の日からの、毎日。

 全ては、幻だ。

 死ねば、なにもかも、消えてなくなる幻。

 シャンティなどという娘も、アベルなどという少年もいない世界へ行きたいと願った。

 涙がひと粒、瞳からこぼれて落ちた。


 アベルは、生えはじめの雑草や野花を踏みしだき、川べりまで歩む。

 水面を覗くが、川の流れは激しく、そこにはだれの面影も映らなかった。

 そっと足先を水面に浸す。

 冷たい流れが、長靴を通して伝わった。

 ゆっくり川中まで足を進める。

 強い流れに足をとられそうだ。

 アベルの目にはもう周りの景色なんて、見えていなかった。

 そこにあったのは黒い水だけ。

 まぶたに浮かぶのは、デュノア邸でカミーユと見た遠い空。


「……さようなら……」


 もうひと一筋、アベルは涙を流した。

 アベルの身体が川の勢いに流され、傾きかけた、そのとき。






「――アベル!」






 アベルの身体を、強く抱きすくめた腕がある。


「――――」


 アベルは大きく目を見開いて、宙をみつめた。

 なにが起こったのか、わからない。


「アベル、どうして……! こんなところへ入ってはだめだ」

「カミー……ユ……?」


 アベルは、ぽつりと呟いた。

 身体が押し流されそうになった瞬間、カミーユの声が聞こえたような気がしたから。


 自分を抱きすくめる青年へと視線を向ける。


「……リオネル……さま」


 信じられない思いで、アベルは間近の深い紫色を見た。

 強く抱きしめられていることに、このときはじめてアベルは気がつく。


 リオネルは目を伏せ、沈痛な面持ちでアベルの金髪の頭ごと、腕のなかにしっかりと抱いていた。

 二人とも身じろぎひとつしない。

 時が止まったようだった。

 川が流れる音だけが、たしかな時間の経過を告げている。


 しばらくそうしていたけれど、不意になにかを決心したように、リオネルは両目をつむり、アベルの耳元で声を絞りだすようにささやいた。


「帰ろう」


 抱きしめる腕に力を込めて繰り返す。


「アベル、帰ろう」


 なにを言われているのか、アベルはわからなかった。

 帰るといっても、アベルに帰る場所なんてない。


「エレンや……ドニ、きみの赤ん坊も、みんな待っている」

「わたしに、帰る場所なんて……」

「これからは、おれが――きみの赤ん坊がいるところが、きみの家だ」

「あなたのことも――だれのことも、信じられない……」

「信じなくていい。だから、お願いだ……――死なないで」

「……死にたいわけじゃない……」

「?」

「生きているのが、辛いだけ」

「…………」

「……苦しくて、苦しくてしかたがない……」


 アベルの目から、涙がこぼれおちた。

 涙色の瞳から、思いが溶けていくように次々と雫がこぼれて頬を伝う。

 デュノア邸を出てから、流すことのできなかった涙が、このときようやくアベルの心を濡らした。


 ――――ずっと、声のかぎりに叫びたかった。


 苦しいと。

 心から血があふれるように、苦しい。

 だれか、だれか助けて。

 胸が、張り裂けそうに――ちぎれそうに、痛い。

 息も吸えないほどに、哀しい。

 伸ばした手は、だれにも届かない。

 死にたいんじゃない。

 生きることの苦しみに耐えられない……、と。


 アベルは声を上げて泣いた。リオネルの腕に抱きとめられて。

 ……かつてカミーユがディルクの腕のなかで泣いたように。



 泣きじゃくるアベルの髪を優しく撫でながら、リオネルはその全てを受け止めたいと感じていた。

 一度でも受容すれば、二度と突き離すことができないことを、リオネルは知っている。もし、受け入れたにもかかわらず、アベルの心を見放すことがあれば、彼女の心は永遠に失われるだろう。

 その責任は重い。

 それでもリオネルは、アベルの苦しみを全て受け止めたいと願った。


 泣き疲れ、腕のなかでおとなしくなったアベルに、リオネルは静かな口調で告げる。


「そのままでいいから――そのままのアベルで、帰っておいで」

「…………」

「人を信じられないのも、苦しい思いも、全部受け止めるよ」


 アベルの指先が、リオネルの背中で、さまようように揺れた。


「生きるのが辛いなら、生きなくてもいい」

「…………」

「でも、死なないでいて」


 アベルの瞳から、再び一粒の涙がこぼれた。


「おれのいるところが、きみの帰る場所だよ。だから――……帰っておいで」


 アベルは、リオネルの腕のなかで、かすかにうなずいた。







 川の流れのなかから、リオネルに抱えられるようにしてアベルは川岸に上がる。

 寒さと、連日の疲労で、身体が震えていた。


「ごめんね、すぐに川岸に上げてあげればよかった」


 リオネルが、声を曇らせて言う。

 アベルは首を横に振った。

 目の前の青年は優しい。

 かつては怖かったその優しさが、今はアベルの凍った心を、少しずつ溶かそうとしている。


 川岸に控えていたらしいベルトランが、上着をアベルにかけようとするのを、アベルは断わろうとした。


「かけたほうがいい、きみは弱りきってる」


 腕のなかで抱きしめたアベルの細さに、リオネルは少なからず不安を覚えていた。


「……桶に、水を汲んで運ばなければならないんです」

「桶?」

「世話になっているところで、与えられている仕事なんです」

「……これか?」


 ベルトランがかたわらに落ちていた桶を見つける。

 アベルがうなずくと、二人は眉をひそめた。アベルの小さな身体で水を汲んで運べるような大きさではなかったからだ。


「おれがやろう」

「……そういうわけには――」

「この傷は?」


 桶を持とうと、手を伸ばしたアベルの腕の痣を、リオネルがめざとく見つけた。


「これは……転びました」


 咄嗟に引っ込めようとするアベルの腕を掴み、袖を捲くる。

 そこには、無数のあざや切り傷。

 傷があるのは腕だけではないのだとひと目で察せられる。

 リオネルは、アベルの置かれている状況を悟り低く呟いた。


「ひどいことをする」

「わたしがちゃんと仕事をしなかったからです」


 アベルは腕を引き、袖をもとに戻しながら答えた。


「桶はおれが運ぶ」

「……リオネル様にそんなことをさせられません」

「こんな大きさの桶、きみに持てるわけがない」

「持てます」


 水色と紫色の瞳が視線をぶつかりあわせる。

 二人とも水桶をしっかり握ったまま、しばらく睨みあっていたが、アベルが先に力を抜いてふっと笑う。


 それはリオネルが初めて見たアベルの笑顔だった。


「子供の喧嘩みたいですね」


 雪のように白く痩せたアベルの顔に、笑顔が広がっている。

 それはまるで、長く冷たい冬を耐えしのび、ようやく綻んだ一輪の花。


「――――」


 リオネルの心臓が痛いほど跳ね、それから全身をなにかが駆けぬけた。

 それは、髪の毛の一本一本から指の先まで、甘い痺れに埋め尽くされていくような感覚。


 ――後戻りできない。


 この瞬間リオネルは、自分の心のなかに、たしかにアベルが深く、それは深く、入りこんでいることに気がついた。


 この子の笑顔が、見たかった。

 この笑顔を――目のまえにいる少女を、自分が守ることができたなら。

 十六歳の青年の胸に、静かな、けれど燃えるような一つの小さな光が芽生える。


「では店の前まで……今日だけはお言葉に甘えます」


 アベルの言葉に、リオネルはようやくうなずくことができた。

 青年の鼓動はまだ普段の早さを取り戻していない。

 初めてだった……こんなにも、自分の心臓の在処を意識するのは。


「リオネル、おれが持つ」


 ベルトランがそう言うのを、


「これくらい平気だよ」


 と、リオネルは断り、重い桶を持ち上げる。心を落ち着かせるように、そちらへ意識を集中させた。

 三人は川べりから離れ、夕陽の沈んだサン・オーヴァンの街に戻った。






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